ノイズキャンセリング
その年、街じゅうがノイズキャンセリング・イヤホンを着けはじめた。
「聞きたくない音を、聞かなくていい自由を」という広告のとおり、装着すると世界は嘘のように静かになった。隣人の生活音も、子どもの泣き声も、駅の雑踏も、すべて消える。私も買った。誰もが買った。
朝の満員電車が、こんなにも静かで快適だとは知らなかった。誰も話さず、誰も聞かず、みなが自分だけの静寂の中にいた。目が合っても、会釈すらいらない。すばらしい発明だ、と誰もが言った。争いも、苦情も、街から消えていった。当然だ。誰も、何も、聞いていないのだから。
その夜、私は駅からの帰り道を歩いていた。静けさの中を、快適に。
ふと、視界の隅で、何かが動いた。
街灯の下、道端で、ひとりの女がうずくまっていた。口を大きく開けて、何かを叫んでいた。顔は蒼白で、必死に、こちらへ手を伸ばしていた。いや——伸ばした指は、私の、すぐ背後の暗がりを、差しているようにも見えた。けれど私は、助けを求めているのだと思った。そう思うほうが、簡単だったからだ。
だが、私には何も聞こえなかった。
女のまわりを、何人もの通行人が過ぎていく。誰ひとり、足を止めない。全員が、耳に同じイヤホンを着けていたからだ。彼女の声は、この街の誰の耳にも、もう届かない。悲鳴という悲鳴が、届かない街になっていた。
私は、イヤホンを外そうとして——外さなかった。
外せば、聞こえてしまう。聞こえてしまえば、関わらねばならない。面倒なことに、巻き込まれてしまう。この心地よい静けさを、手放さなければならない。
私は、指をイヤホンから離した。女から目を逸らし、静寂の中を、そのまま歩き続けた。周りの誰もが、そうしていた。誰も、悪くなかった。ただ、聞かなかっただけだ。
角を曲がったところで、背後に、気配がした。足音は、聞こえない。当然だ。私は、耳を塞いでいるのだから。
振り返る間もなく、後ろから、口を塞がれた。
私は叫んだ。ありったけの声で、助けを求めて叫んだ。すぐそばを、イヤホンをした通行人が、何人も通り過ぎていく。誰ひとり、足を止めない。私の声は、この街の誰の耳にも、届かなかった。
薄れていく意識の隅で、ようやく分かった。あの女は、助けを求めていたのではない。私の背後を指さして、警告していたのだ。声の届かなくなったこの街を、こういうものが、静かに歩いていることを。それを狙って、こういうものが、獲物を選んでいることを。
誰も、悪くない。みんな、ただ、聞かなかっただけだ。
静かだ。世界は、こんなにも静かで、平和だ。




