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神に見放されし天秤  作者: 春海
第 1 章 辺境揺籃編:運命の始まり

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第五話 「新たな辺境騎士」

 新神暦6885年。


 辺境の村外れに、かつて貴族が住んでいたという大きな屋敷が佇んでいる。


 屋敷の入口で、一人の少女が母親に別れを告げていた。

 

 薄茶色の長い髪を腰までなびかせ、肌は白く、その瞳は優しくもどこか強い意志を宿している。


 「お母様、神殿に勉強に行ってきます」


 「ええ、気をつけて」


 「今日はルシアちゃんは一緒じゃないんですか?」


 「あの子、まだ寝てるのよ。 今日は帝国から騎士様が交代でいらっしゃるそうで、訓練もお休みになったみたい」


 「そうなんですね……じゃあ、アクちゃんもまだ寝てますか?」


 「いいえ、アクちゃんは今日はとても早く起きてね。 新しい騎士様に興味があるみたいで、ご飯を済ませてすぐに出かけちゃったわ」


 「そうなんですね……」


***


 村の外周には、交代式の準備のために駐屯する騎士たちがすでに集まっていた。


 前任の辺境騎士は体格の良い老騎士だ。

 

 今は森へと続く道の前に直立し、前方を見据えている。 霧が濃く、林の中は見通せない。


 「ベンジャミンじいちゃん、帝国から来る騎士様っていつ着くの? 本当に交代しちゃうの?」


 十二歳ほどの少年が、整列する騎士たちの列をすり抜け、老人の背後にぴょこんと顔をのぞかせた。


 アクセルだ。


 ベンジャミンは視線を落とし、厳しかった表情をわずかに緩めた。

 

 そのまま少年の頭に手を伸ばし、そっと撫でる。


 「ああ、そうだ。 前回、村が魔獣や魔王軍に襲われた時、わしも年を感じた。 そろそろ後進に道を譲る時じゃ」


 アクセルの顔に不安が走るのを見て、彼はさらに言葉を続けた。


 「だが、帝国から来られる方は強い。 聖光騎士の第三席だ。 心配はいらん」


 「でも、ベンジャミンじいちゃんもすごく強いよ。 この前だって、みんなをたくさん助けてくれたし……」


 少年の声には、かすかな不満が滲んでいた。


 ベンジャミンは剣を置き、しゃがみ込んで子どもの目線に合わせた。


 「じいちゃんはな、しばらく巡回と訓練ができなくなるだけじゃ。 たぶん村に戻って暮らすことになる。 そしたら、また遊びに来い」


 アクセルは大きく頷き、不安げな表情はすっかり消えていた。


 「じゃあ、その……聖光騎士様って、本当に強いの? あの山や森には、すごく恐ろしい魔物がいっぱいいるんだよ」


 ベンジャミンは再び立ち上がり、霧に閉ざされた山嶺を見据えた。 その目は落ち着いている。


 「強い。 帝国で用を足していた時、一度だけ拝見したことがある」


 それが単なる社交辞令ではないと悟り、アクセルは考え込むように小さく頷いた。

 

 しかしその視線は、いつの間にか遠くへと流れていた。

 

 その瞳の奥で、ほんの一瞬、誰にも気づかれぬ光が走る。


***


 森の奥。


 パーシヴァル・フィッツジェラルドは、今、思いがけない難題に直面していた。


 彼は村の防衛任務を引き継ぐため、帝国よりこの辺境へと派遣されてきた。

 

 が、林の中で迷ってしまったのだ。


 出発前に彼は資料を調べていた。


 この霧――正確には魔霧――は、十一年前に起きたあの異変の後に発生したものだ。

 

 帝国は複数の高位術士を派遣して調査に当たらせたが、誰一人としてその構成を解析することはできなかった。


 結論はこうだ。 この霧に含まれる魔力は、この世界に遍在する通常の魔力とは異質のものである。 払うことも、干渉することも、できない。


 さらに奇妙なことに、この霧にはまるで“意思”があるかのようなのだ。


 村人が薪を拾い、薬草を摘み、狩りに出る時には、霧は彼らを導くように安全に送り届ける。

 

 他所から訪れる商人たちも、何度か通えば問題なく出入りできるようになる。


 だが、強盗は迷い、魔獣は惑い、魔王軍は閉じ込められる。

 

 あの大規模侵攻の時――魔王軍と魔獣たちが、何らかの手段で強引に突破した例を除いては。


 その事件の後、霧はより一層濃くなった。


 (魔力探知は霧に覆われ、五感すらも普段より鈍っている……)


 パーシヴァルは足を止め、素早く思考を整理した。


 (なるほど、前回の村襲撃の報告にあった魔獣が、異様に手強かったわけだ。 この環境を生き抜く連中は、程度が違う)


 彼は身長が二メートル近くあり、肩幅も厚い。

 

 重厚な甲冑を纏っているが、その動きに鈍重さはない。


 腰に斜めに提げられた両手大剣を、彼は片手で軽々と握る。

 

 銀色に輝く刀身、金めっきの鍔、深い黒の柄頭には淡い青の宝玉が嵌め込まれている。


 今まさに、その剣は鞘から抜かれていた。


 霧の中、巨大な輪郭が静かに彼と対峙している。


 ――ナイトシェイド・イーター。


 希少な闇属性の魔物で、極めて厄介な相手だ。


 パーシヴァルに迷いはなかった。


 霧に感覚を削がれているのは、彼だけではない。 魔物もまた同じ条件下にある。

 

 先に相手を捕捉した方が、先手を取れる。


 彼は身を沈め、疾走した。 剣と人とが、まるで一つに溶け合う。


 魔物が危機を察知したのは、ほんの一拍遅れてからだ。

 

 慌てて口部の触手を盾のように差し出す。


 パーシヴァルは体を捻り、横薙ぎに一閃。

 

 五、六本の触手が、音を立てて地面に落ちた。


 対峙は、始まったばかりだ。


 眼前の魔物は巨狼のような体躯を持つ。

 

 しかしその身は黒霧で構成され、闇に溶けるように消えることができる。


 双眸は血のように赤く、口には歯がなく、代わりに細かな鋸歯がびっしりと生えた触手が幾本も蠢いている。


 背中には黒い鱗がびっしりと並び、仄かな光の下で青みを帯びて鈍く輝く。

 

 一対の蝙蝠のような翼はたたまれ、いつでも光源を遮るべく待機している。


 パーシヴァルは、奴にその機会すら与えるつもりはなかった。


 剣身が淡い青の輝きを帯びる。

 

 下から上へと、斜めに切り上げた――


 空を切った。


 残像が消えると同時に、周囲は突如として漆黒に包まれた。


 ――イート・ダークネス。


 (……厄介だ)


 普段であれば、暗闇に怯えることはない。 この程度の幻惑に惑わされることもない。

 

 だが、今は霧に五感を押さえつけられている。 その異変に、彼はまだ完全には適応できていなかった。


 左側から風を裂く音――鎌状の尾だ。


 パーシヴァルは即座に身を沈め、逆手に剣を振り上げ、尾の先を断ち切ろうとする。


 (――違う、囮だ!)


 背後に殺意が炸裂する。

 

 数本の触手が、彼の背中を貫かんと一直線に迫る。


 「魔力解放――破ッ!」


 体内より迸る雄渾な魔力。

 

 衝撃波が触手を弾き飛ばすと同時、剣を大きく横に払い、尾を覆う鱗と骨の棘を粉砕し、巨尾を根元から断ち切った。


 魔物が天を震わせる咆哮をあげる。


 闇が晴れた。

 

 パーシヴァルの眼前には、五、六体の同じ姿をしたナイトシェイド・イーターたちが、それぞれに傷を負い、苦しげに息を切らせていた。


 風圧が走る。 全ての分身が四方八方へと逃げ散った。


 ナイトシェイド・イーターは、正面からの戦闘を得意としない。


 こいつの真の殺招は、気付かれぬうちに仕掛ける呪いだ。

 

 絶対的な耐性か、或いは浄化の手段を持たなければ、呪われた者は幾夜かの悪夢の末に、苦しみ抜いて命を落とす。


 逃げ切れさえすれば、奴の勝ちだ。


 だが、パーシヴァルは逃がすつもりなど、微塵もなかった。


 (本物が見分けられないなら、既に斬った箇所を目印にすればいい)


 幾つかの分身たち――口元と断たれた尾の先端から、青い光が溢れ始めていた。

 

 輝きは増す一方で、今にも限界を迎えようとしている。


 「時間切れだ」


 轟音。


 爆発が魔物を空中から叩き落とした。


 パーシヴァルは、息も絶え絶えの残骸へと歩み寄り、剣を振り下ろした。


***


 森の縁。


 ベンジャミンたちは、遠くから聞こえた爆発音に反応し、様子を見に行こうとした。

 

 だが、その時にはもう霧が急に濃くなり、足元すらも定かではない。


 「ベンジャミンじいちゃん、まだ騎士様、着かないの?」


 アクセルは、ずっと老騎士のそばにいた。

 

 彼はどうやら、この新しい騎士という人物に、よほど興味があるらしい。


 ベンジャミンは顔を上げ、太陽の位置を確認する。 朝の八時頃だ。


 「少し遅れておるが、もうすぐ着くじゃろう」


 さらに数分が過ぎた。


 前方の霧の中に、ぼんやりと人影が浮かび上がった。


 一人の大柄な男が、霧の帳を踏み破って現れた。 その足取りは、揺るぎない。


 彼は、水晶のような青みがかった短髪を持つ。

 

 額にかかる前髪がわずかに眉を覆い、その下から深い藍色の双眸が覗く。

 

 その眼光は剣のように鋭いが、その奥にはほんの少し、気付く者にしか気付かれない憂いを沈めていた。


 甲冑は白く輝く精鋼で鍛えられており、胸甲、肩甲、臂甲、腿甲、戦靴の全てが、可動式の甲板によって構成されている。

 

 継ぎ目には金の装飾が施され、宝藍色のビロードのマントが両肩から垂れ、縁には金の刺繍が施され、歩みに合わせて静かに揺れる。


 最も目を引くのは、甲冑と同色の巨大な剣を収めた鞘だ。 彼の腰に提げられている。


 「元・聖光騎士第三席、称号は『蒼裂の重斬』。 本日より村の主要な守備任務を引き継ぎます。 どうぞよろしくお願い致します」


 パーシヴァルの視線はベンジャミンに向けられ、厳かに挨拶を述べた。


 「貴方が辺境騎士のアシュトン卿でしょうか。 今後、共に任務に当たることになります、パーシヴァル・フィッツジェラルドと申します」


 「ベンジャミンでいい。 堅苦しくするな」


 老騎士は前に出て、彼の肩をぽんと叩いた。


 「これから仕事と村の様子を教える。 その後はわしは補佐に回る。 これからはお前さんが、新しい辺境騎士だ」


 「承知致しました。 よろしくお願い致します、ベンジャミンさん」


 ベンジャミンがさらに話そうとした時、その服の端が二回、軽く引かれた。


 彼は顔を下げる。 アクセルが何か言いたげに見上げていた。


 「失礼、少し」


 ベンジャミンはしゃがみ込み、少年が耳元で何か囁く。

 

 それを聞いた老騎士は、にこりと笑って頷いた。


 「今夜、村で歓迎会を開くそうだ」


 彼は体を起こした。


 「長旅で疲れただろう。 まずは住まいを案内する。 夜は一緒に来なさい」


 「それは……」


 パーシヴァルの顔に、かすかな――ほんの一瞬の――躊躇が走った。 すぐに消え去った。


 「……せっかくのお誘いですので、お言葉に甘えさせていただきます。 ですがその前に、森の中で遭遇した件について、ご報告したいのですが」


 ベンジャミンは他の騎士たちに簡単に指示を出し、パーシヴァルを伴うように促した。


 「歩きながら話そう。 心配せずとも、この村は存外に安全だ。 ちょうどお前に話しておきたいこともある」


 彼は足を止め、隣で何やら考え込むようにしている少年を一瞥した。


 「アクちゃん、お前はもう帰りなさい。 これ以上、うろつくなよ」


 「はーい」


 アクセルの返事は軽やかだった。 機嫌が良さそうだ。

 

 どうやら、新しい騎士様に満足したらしい。


***


 夜。


 村の中心部は、灯りで明るく照らし出されていた。

 

 村民たちは、素朴な温かい心遣いで、この新しい一員のための宴を準備した。


 パーシヴァルは私服に着替えていたが、腰には剣を帯びている。

 

 自分が場の空気を冷たくしてしまっている自覚はあったが、どうしてもこの賑わいに溶け込むことができない。


 それは彼自身にもどうしようもない問題だった。


 何度か話しかけられ、会話に誘われるも、その度に彼は婉曲に断った。

 

 幸い、村民たちは無理強いせず、初めて来た者の緊張だろうと受け流してくれた。


 (……この厚意に、応えられない)


 彼は焚き火の端に座り、俯いたまま沈黙していた。


 「すぐに馴染めなくても、ゆっくりやればいいよ。 みんな、そうしてきたんだから」


 少年の声が、すぐ傍でした。


 パーシヴァルが横を向く。 今朝、ベンジャミンさんの隣にいた子だ。


 彼は無理に口元を緩めた。


 「……そうだな。 焦ることはない。 ただ――」


 視線が、揺れる焚き火の炎に向けられた。

 

 その光は彼の瞳に映っているのに、温もりは感じられない。


 声は、とても小さかった。 独り言のように。


 「――もしかしたら、俺は永遠に馴染めないのかもしれない」


 「おじさん、さっき何て言った?」


 「……おじさん?」


 パーシヴァルは我に返った。


 「まだそんなに歳じゃない。 せいぜい、君より十いくつか上だ」


 「あなたの名前はパーシヴァルさんですね」


 少年は、呼び方など全く気にしていない様子だ。


 「僕はアクセル。 アクちゃんって呼んでいいよ」


 彼は宴会の中心を指さした。

 

 長机の上には料理が並び、村民たちがまだ次々と運び込んでいる。


 「もうすぐ始まるよ。 一緒に食べに行こう――デザートは僕の分ね。 さ、行こう」


 手が、取られた。


 パーシヴァルは仕方なく立ち上がり、この少年に最も明るい場所へと引きずられていく。


 長旅の疲れもあり、確かに彼はまともな食事をほとんど取っていなかった。

 

 主役として再三辞退するのも、かえって非情に過ぎるだろう。


 (……まあ、いいか。 明日からまた、しっかりやれば)


 彼は村民たちの笑い声の中、黙々と料理を口に運んだ。

 

 何度も誰かが料理を運んでくる。

 

 そしてデザートは――アクセルの宣言通り――全て彼に奪われていった。


 パーシヴァルは気にしなかった。

 

 むしろ、数人の大人たちがそれを見兼ねてアクセルを「説教」しに来たついでに、パーシヴァルに話しかけてくれた。


 (明日には静かになるだろう)


 宴も終盤、パーシヴァルは壇上に立ち、簡潔な挨拶を述べた。

 

 特に場が白けることもなかったが、あのどこか孤高とした距離感は、やはり拭えない。


 それでも、誰も気にしない様子だった。

 

 拍手と笑顔は、変わらず真摯だった。


 人混みの奥で、アクセルは静かにそれを見ていた。


 翌朝。


 昨夜は就寝が遅くなったが、パーシヴァルは変わらず定刻に目覚めた。


 身だしなみを整え、剣を佩き、警備本部へと向かう。


 しかし、そこで告げられたのは、任務の急な変更――


 本日の第一事項:村の見学。


 彼は宿舎で待機し、案内役を待つように言い渡された。


 パーシヴァルは宿舎へと引き返し、甲冑を外した。

 

 少ない荷物の中から一冊の本を取り出し、窓辺に凭れて頁を開く。


 しばらくして、外から聞き覚えのある声がした。


 「おーい、パーシヴァルおじさん、準備できた?」


 彼は顔を上げた。


 (……この子か?)


 また、あの少年だった。

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