表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神に見放されし天秤  作者: 春海
第 1 章 辺境揺籃編:運命の始まり

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/17

間話 「愛の名のもとに 其二」

 新神暦6870年。


 二十四歳になったハクは、一日の仕事を終えると待ちきれずに荷物をまとめ、神殿へと向かった。


 神殿の前では、金色の長い髪をした少女が掃除をしている。 ハクは歩み寄って声をかけた。


 「エヴァリンさん、ベサニさんはいらっしゃいますか? エインのことでお聞きしたいことがあるんですが……」


 エヴァリンは振り返り、澄んだ目で来訪者を見て微笑んだ。


 「ハクさんですね。 また来られたんですか」


 彼女は箒を置き、丁寧に挨拶を返す。


 「ベサニさんなら確か中にいらっしゃいますよ。 お取り次ぎしましょうか?」


 「はい、お願いします。 ありがとうございます、エヴァリンさん」


 「そんなにかしこまらないでください」


 エヴァリンは優しく微笑んだ。


 「私もここに来たばかりで、雑用をさせてもらってるだけですから。 見習い神官にもなれてません。 皆さんのお役に立てて、ベサニさんの仕事を少しでも分担できれば、それが私の幸せですから」


 「はは、そんなことないですよ。 謙遜しすぎです」


 エヴァリンは軽やかな足取りで神殿の中へ入っていった。


 彼女はよく自ら進んで神殿の前で掃除をし、ついでに村人たちのちょっとした用事を手伝っている。 そうすることで、ベサニが少しでも神殿の中で休めるように、という心遣いからだ。


 まもなく彼女が出てきた。 足取りは先ほどのように軽くなく、表情もどこか重い。


 「すみません、ハクさん」


 彼女はハクの前に歩み寄り、さっきまでのような明るさはなかった。


 「あなたの弟さんのエインさん……やはり連絡はありません。 ただ、向こうで良い仕事が見つかったとは聞いています。 もしかしたら忙しすぎるのかもしれません。 あまり気にされないほうが……」


 「はは、大丈夫です。 もう慣れましたから」


 ハクは笑って手を振り、この優しい少女に気を遣わせまいとした。


 「あなたのせいじゃないですから、謝らないでください。 むしろ、今回もまたお世話になってしまって、申し訳ないくらいで」


 彼は一歩下がった。


 「じゃあ、俺はこれで。 飯作らないといけないんで。 また」


 エヴァリンは、一見明るく振る舞うその背中を見送った。 今、彼がどれだけ心を重くしているかわかっていたが、ただ黙って手を振り、何も言わなかった。


 家に帰っても、ハクはいつものように食事の支度をしなかった。


 重い足取りで自分の部屋へ向かう。 たった一人きりの大きな家に、孤独な足音だけが虚しく響く。


 ベッドに横たわると、ひどく疲れていることに気づいた。 仕事で筋肉が痛むような疲れじゃない。 心の奥底に溜まる、言葉にできない重さだった。


 枕の下から七通の手紙を取り出す。


 エインが去ってから最初の二年間に届いたものだ。 ほとんどは簡単な近況報告だったが、ハクにとっては何よりの宝物だった。 あの頃は、毎日仕事が終わると村へ手紙がないか確認しに行ったものだ。 その一言一句が、彼の心の唯一の慰めだった。


 (でも……)


 (もう三年も連絡がない。 無事だって一言だけでもいいのに……どういうことだ? まさか外で悪い仲間とでもつるんでるのか?)


 手にした手紙を見つめながら、様々な思いが頭を巡る。 空腹さえ忘れてしまっていた。


 (でもベサニさんの話だと、向こうの神殿からの情報では、学校でも成績優秀で、就職してからも地元の人たちにすごく良くしてもらってるって……そんなの、完全に優等生じゃないか。)


 (……)


 (でも、なぜ突然連絡が途絶えたんだ? この前ベサニさんに伝言を頼んだ時も、はぐらかされたし……)


 ハクにはさっぱりわからなかった。 たとえ学業や仕事が忙しくても、家族をここまで心配させるなんて、あっていいはずがない。


 彼は急に体を起こした。


 「このままじゃダメだ。 明日、会いに行こう」


 決意した。 兄として、弟の現状をこの目で確かめ、しっかりと教え導くべきだ。


 荷物をまとめ始める。 一通りの準備を終えて食事にありついた頃には、もう深夜だった。


 早朝、ハクは荷物をまとめ終え、帝都へ向けて出発する準備を整えた。


 出発前に、村の皆に挨拶をしに行く。


 「そうか? いいよいいよ、心配すんな! 仕事のことはこっちで何とかしとくから、安心して行ってこい。 お前の席はいつでも空けておくからな」


 「うん、わかるよ。 エインの仕事場ははっきりしてるんだろ? こっちの知り合いに連絡取らせてもいいけど……いらない? そっか。 まあ、旅の無事を祈ってるよ」


 「一人は危なすぎる。 何人か護衛につけよう」


 「お前に迷惑かけたくない? 何言ってんだ! 長い付き合いだろ、遠慮すんなって。 ……どうしても一人がいい? わかった、でも何かあったらすぐ連絡しろよ。 無理すんな」


 「商人隊と一緒に行くのも手だな。 ベンジャミンに頼んで、途中まで護衛してもらうか? ……もう話してある? そっか」


 「せめて旅費くらいは出させてくれよ。 ……絶対ダメか?」


 「こればっかりは遠慮すんなよ。 みんなお前の無事を願ってるんだ。 商人隊にはこっちから話しとくから、ちょっと待っててくれ。 もう断るなよ、言うこと聞け」


 ハクは順番に、仕事場、神殿、辺境の詰所を訪ね、一人ひとりに別れを告げた。 最後に村の中心へ行くと、村長や村人たちが強く申し出て、商人隊に掛け合い、この旅の費用を負担してくれた。


 皆に見送られ、ハクは弟を探す旅路へと足を踏み出した。


***


 一ヶ月後。


 辺境を離れて間もなく、何度か魔物に遭遇したが、何とか無事に切り抜けた。 その後は帝国領内に入り、いくつもの都市や村を通過していった。 商人隊が時折立ち止まって交易をする以外は、特に大きなトラブルもなかった。


 ハクは無事、ノーレン帝国の帝都に到着した。


 「これが帝都か!」


 ハクは道を歩きながら、好奇の目で周囲を見渡した。 目の前に広がる光景は、彼が二十年以上暮らしてきた辺境の村とは全く違っていた。


 道幅は馬車が四台も並んで進めるほど広く、路面には磨かれた滑らかな石板が敷き詰められ、隙間さえもほとんど目立たない。 道端には数歩おきに銅製の街灯が立っており、その柱には絡みつく蔦の模様が彫刻されている——今はまだ夕方ではないが、夜になれば街中が灯りで彩られる光景が容易に想像できた。


 通り沿いの店々はさらに立派だ。 朱塗りの木製の扉、窓枠には透明なガラスが嵌められ、中には色とりどりの商品が並んでいる。 行き交う人々の服装は、ハクの言葉を借りれば、まさに「華麗」の一言だった。


 時折、立派な馬に乗った兵士たちが通り過ぎる。 彼らは銀色に輝く鎧をまとい、甲冑の擦れる澄んだ音を響かせ、腰の剣の鞘には宝石が嵌め込まれている。 その一挙手一投足には、帝国軍の威厳が漂っていた。


 彼らと比べれば、粗い布のマントを羽織った自分は、まるで……


 ハクは少し羨ましく思い、同時に劣等感も覚えた。


 彼は深く息を吸い込んだ。


 (まずは宿を探して落ち着こう。 それから弟を探しに行く)


 以前神殿で聞いた弟の勤め先のおおよその場所を頼りに、その辺りで一番安そうな、目立たない宿を選んだ。 故郷から持ってきた土産物を整えて、弟にサプライズをしようと考えていたのだ。


 日が次第に傾き、街灯が次々と灯り始める。 大通りはまだまだ賑わっている。


 ハクは人の流れを縫うように進み、路地へ曲がり、宿の前に到着した。 この路地は大通りほど人通りは多くないが、それでも時折人が行き交う。


 古びた木の扉を押し開けると、ドアベルがチリンチリンと鳴った。


 それと呼応するかのように、ベルと同じく澄んでいて、なおかつ活力に満ちた声が響いた。


 「いらっしゃい!」


 十八歳くらいの少女が、酒瓶を手にテーブルとテーブルの間を忙しなく行き来している。 彼女は艶やかな茶色の髪をなびかせ、笑顔は太陽のように明るい。


 「あの、一泊……いや、二泊で一人部屋を頼みたいんですが、いいでしょうか?」


 人見知りなハクは入り口に立ち、日除けのマントを脱いで、自分の希望を伝えた。 彼は相手を驚かせてしまうのが怖かった。 断られる覚悟もできていた。 村ではあまり差別を受けたことはなかったが、自分が他の人とは違うこと——生まれつき魔力の吸収に障害があり、肌も髪も病的なまでに白いこと——を、幼い頃から自覚していたからだ。


 少女は、そんな気恥ずかしそうな客を見ても、相変わらず太陽のような笑顔を絶やさない。 手元の仕事をひとまず片付けると、彼をフロントへ案内した。


 「お客さん、こちらのフロントの方で手続きをお願いしますね。 私はまだ仕事がありますから、何かあればいつでも呼んでください」


 「あ、どうも……ありがとうございます」


 彼女の案内で、ハクは金を払い、鍵を受け取り、無事に部屋へと入ることができた。


 階段を上りながら、彼の頭の中はあの少女の笑顔でいっぱいだった。


 (今度、名前を聞いてみよう……可愛いな……それに、彼女は変な目で俺を見なかった……)


 (いやいや、土産物を整理して、早く寝よう。 明日、エインのことを聞き出して、彼が仕事から帰る夜にでも会いに行こう)


 明日への期待を胸に、ハクは早々に床に就いた。


 ――


 翌日の夕方。


 ハクは地元の神殿でエインのことを聞き出し、これから彼の住まいへ行ってサプライズをしようとしていた。


 神官の話では、エインは頻繁に神殿を訪れ、彼らにベサニさんへ連絡を取ってもらい、村にいる自分宛てにいくらかのお金を託していたという。 しかしその度に、自分の身元は明かさないようにと固く口止めしていたそうだ。


 ハクはようやく合点がいった。 なぜベサニが頻繁に自分の仕事場へ来ては同僚と話し込んでいたのか、なぜ時々給料が多めに入っていたのか——それはエインがこんな形で自分を気遣ってくれていたからだ。


 しかし、それならなぜ、こんな回りくどいことをするのか? この疑問は、直接会って確かめなければならない。


 神官に教えられた方角へ向かい、西地区の高台の辻まで辿り着いた。 そこには様々な形の石造りの邸宅が立ち並んでいる。 道端で一休みしようとしている年老いた庭師に尋ねた。


 「すみません、おじいさん。 この辺りにエインって人が住んでるって聞いたんですが、どの家でしょうか?」


 老人は体を起こし、袖で汗を拭い、全身をすっぽり覆ったこの男を見た。


 「おや、フェルローズ家のエイン坊ちゃんのことかい?」


 老人はにっこり笑い、この風変わりな男に対して少しの警戒心も見せなかった。


 「あの子は数年前にここに落ち着いてね、この辺りじゃ有名なんだよ」


 「なんでも、ここの貴族の旦那様に恩義があってね、旦那様がその屋敷を譲ってくれたんだそうだ。 学校も途中でやめて、ここに腰を据えてやっていくことにしたらしい」


 「今では元の旦那様の仕事を引き継いでね、我々みたいな者にもすごく良くしてくれるんだ……もちろん、前の旦那様が悪かったってわけじゃないよ。 今度の若様もまた良い方だってことだね……」


 「コホン、コホン!」


 ハクは老人の昔話に付き合うのは嫌いじゃない。 もう慣れっこだ。 だが、空はもうすぐ暗くなる。 仕方なく軽く咳払いをして、話を遮った。


 「ははは、こりゃ失敬」


 老人は自分の頭をポンポンと叩いた。


 「いやね、この口がまた。 一度話し出すと止まらなくなっちまう。 この石畳の道をずっと行きついて、右に曲がるんだ。 そうすりゃ、立派な建物が見えるよ」


 「ありがとうございました!」


 ハクは教えられた通りに進むと、確かに彫刻を施した鉄の柵で囲まれた屋敷が見えてきた。


 中を覗くと、家自体は故郷の屋敷ほど大きくはないが、貴族の風格は感じられた。 ハクは感慨に浸る。


 (エインはやったんだな。 さすがは俺の弟だ。 フェルローズ家再興も夢じゃない!)


 (でも、どうして勝手に学校を辞めたりしたんだ? 学業を終えてこそ、もっと大きな夢を叶えるチャンスが掴めるってもんだ。 会ったらちゃんと言って聞かせなきゃ。 なるべく戻って卒業するように)


 彼が柵の前に立つと、制服を着た門番がすぐに近づいてきて、腰を折って尋ねた。


 「お客様、エイン様にはお約束がおありで? もしなければ、まずは身分を登録していただき、執事が取り次いでからでないと中に入っていただけませんが」


 ハクは名前と用件を伝えた。 門番は中へ入って取り次ぎに行った。


 しばらくして、燕尾服を着た恰幅の良い中年の執事が早足で歩いてきて、鉄柵越しに一礼した。


 「ハク様ですね。 エイン・グレイホル・フェルローズ閣下がお呼びです。 どうぞお付き合いください。 閣下は書斎でお待ちです」


 (……グレイホル? どういうことだ?)


 ハクは疑問で胸がいっぱいだったが、まずは会ってみようと決めた。


 廊下を進む間、ハクは帝都に着いた時のように、好奇の目で手入れの行き届いたこの貴族の屋敷を見渡した。 故郷のあの殺風景な大きな屋敷とは全く違う。


 何より気になったのは、廊下の壁に掛けられた数多くの肖像画だった——エインのものもあれば、見知らぬ人のものもある。 その中でも一番目立つのは、エインと、とても高貴そうな女性が一緒に描かれたもので、額縁には金が施されていた。 エインの表情からは、彼が幸せであることが伝わってくる。


 ハクは立ち止まってじっくり見たかった。 弟のこの数年間の心の軌跡を、一枚一枚確かめるように。 しかし執事はいつも、早く進むように急かすのだった。


 ――


 「エイン様、ハク様をお連れしました」


 「入れ」


 執事が扉を開け、ハクが入るのを待ってから、深々と一礼し、退出して扉を閉めた。


 書斎の机の向こうで、エインが扉に背を向けて椅子に座り、手にした本をゆっくりと眺めている。


 「エイン」


 ハクは数歩近づき、何の気なしに長く会っていなかった弟へ自然に声をかけた。


 「久しぶり。 会いに来たぞ。 お前、やったんだな、すごいじゃないか! でもな、学校を辞めたことについては、ちゃんと言わなきゃならんことがあるんだ……それにお前の名前はどういうことだ……?」


 「もういい!」


 エインが突然鋭く遮った。


 ハクは驚いて足を止める。


 「エイン?」


 「単刀直入に言う」


 エインの声は落ち着きを取り戻していたが、そこには全く感情が感じられなかった。


 「なぜここにいる? ここへ来た目的は何だ?」


 「なぜここにいる?」


 ハクは眉をひそめた。


 「それより、何だその兄に対する口の利き方は? 家を出て数年で、そんな無礼な振る舞いが身についたのか? 俺はそんな風に教えた覚えはないぞ!」


 「黙れ」


 エインの声はさらに冷たくなった。


 「お前の説教を聞く暇はない。 最後に聞く——お前は、なぜここにいる?」


 ハクは言葉を失った。


 どうしていいかわからず、いつものようにエインの至らない点を挙げ始めようとしたが、口を開くたびにエインに遮られた。 頭の中は真っ白になる。


 (……一体、どこで間違えたんだ?)


 「お、俺はな、お前がずっと連絡してこないから、何かあったんじゃないかって心配で、様子を見に来たんだ」


 「そうか」


 エインは本を置いたが、依然として振り向かない。


 「私は元気だ。 帰っていいぞ」


 「待て、エイン!」


 ハクは焦った。 頭の中は混乱していた。


 「話したいことがまだたくさんあるんだ! どうしたっていうんだ? どうしてこんな風になってしまったんだ?」


 エインは窓の外の夕日を見つめ、しばし沈黙した。


 「違う?」


 その声はとても小さかったが、一言一言がはっきりと聞こえた。


 「あの数年、私は必死に学び、お前の期待に応えようと、ずっと自分を抑えてきた。 いつかお前の元から逃げ出すために」


 「逃げる? 何を言ってるんだ?」


 ハクは一歩前に出た。


 「そんなふうに拗ねるな。 兄ちゃんとちゃんと話そう。 私が——」


 「ついに、努力の甲斐あって、私はお前の期待通りの成績を収め、お前の元から逃げ出した」


 エインは遮り、構わずに話し続けた。


 「外の世界に出てからも、私は相変わらず必死に学んだ」


 「お前の影響で、努力すれば報われると思っていた。 しかし、田舎から出てきた者にとって、私の目標を達成するのは、まだまだ遠い道のりだった」


 ハクは言葉を失った。 何か言おうとしたが、何と言っていいかわからない。


 「私は多くの困難に直面した。 努力が報われることは否定しない。 しかし、全てをそれに賭ける者は、挫折を重ねるたびに自分を疑う——」


 「自分の努力が足りないんじゃないか? もっと学ばなければならないんじゃないか? もっと良くやらなければならないんじゃないか? それが、お前の教えだ」


 「俺はそんなつもりじゃ……」


 ハクの声は震えていた。 自分の弟がこんな風になってしまったことが怖かった。


 「お前に良い暮らしをさせてやりたかっただけだ。 何か言いたいことがあれば、兄ちゃんと話し合おう。 そんな風に拗ねるなよ、いいか?」


 「もういい」


 エインの声に、ようやくわずかな感情の起伏が現れた。


 「今はお前を責めているわけじゃない。 お前がいなければ、今の私はなかっただろうからな。 ふん、何て皮肉な運命だ……」


 彼は深く息を吸い込み、感情を落ち着かせた。


 「あの頃、私はひたすら勉強に打ち込んで、確かに多くのことを学んだ。 しかし得たものよりも、失ったものの方が多かった。 自分の能力をどう発揮すればいいのか、ただ答えを紙に書くだけじゃないんだと、教えてくれる者はいなかった。 あの頃の私は、本当に迷っていた」


 「しかし、私は運命的な人に出会った」


 彼の声が少し柔らかくなった。


 「あの人は私を導き、物事の対処法を教え、自分の能力を活かす術を教えてくれた。 私の取るに足らない悪い癖さえ、根気よく直してくれた」


 「お前よりも、あの人の方がよっぽど、私の父親であり、年長者だ」


 ハクの目は、エインの背中に釘付けだった。 夕日が沈むにつれて、彼の目の光も少しずつ暗くなっていく。


 ついにエインが振り返った。 しかし部屋の中は暗く、ハクには彼の顔がよく見えない。


 「お前に関しては、私にどう生きるべきかを教えたことなど、一度もなかった」


 エインの声は再び平穏を取り戻していた。


 「お前のような人間には、一秒たりとも会いたくない」


 「しかし、言葉を返せば、お前がいなければ私はいない。 だからここ数年、私はずっとお前の恩を返してきた。 家を再興し、お前がずっと言い続けてきた夢を叶えた」


 「だが、覚えておけ——」


 彼は言葉を切った。


 「私は二度と戻らない」


 「本来なら少しずつ返していくつもりだった。 しかしお前が来た以上、一括で返済する。 安心しろ、多めに返すからな」


 彼は声を張り上げた。


 「トム、お客様をお送りしろ!」


 書斎の扉がすぐに開き、執事が入ってきた。


 「待ってくれ、エイン!」


 ハクは完全に慌てふためいた。


 「兄ちゃんが悪かった。 ちゃんと話し合おう、な?」


 「口先だけの謝罪より、自分の問題をよく考えた方がいい」


 エインは再び背を向けた。


 「もちろん、お前が変われるとは思っていない。 三度目は言わない」


 ハクは言葉を失った。


 元々自信がなかった彼は、今や精神的に完全に打ちのめされていた。 自分がなんて不甲斐ない兄だったのか、ようやく理解した。 これ以上何を言っても、何も変わらない。


 ――


 大広間は不気味なほど静まり返っていた。


 ハクは放心したようにソファに座り込んでいた。 頭の中では、先ほどの言葉が繰り返し反響していた。


 「ハク様」


 トム執事は、両手で抱えるほどの高さがある紫檀の箱を恭しく捧げ持ち、そっとテーブルの上に置いた。 箱の表面には銀製のグレイホル家の紋章が嵌め込まれ、角には金メッキが施され、水晶の灯りを受けて温かみがありながらも眩しい輝きを放っている。


 彼が箱を開けた。


 中には深紅のビロードの敷物が敷かれ、その上にぎっしりと品々が整然と並べられていた。 最上段には、暖かな金色の光を放つ金貨が何十枚も並んでいる。 ざっと見ただけでも、下の方には貴重な宝石や工芸品が詰まっている——普通の家庭なら一生安楽に暮らせるどころか、小さな屋敷を一軒購入できるほどの額だ。


 「いや……」


 ハクは首を振った。


 「そんなものはいらない。 何もいらない。 俺は彼の兄だ。 ただ、それだけで……」


 「ハク様」


 トムがそっと遮った。


 「これを安全にお渡しするために、エイン様は七日後のご出発をお手配になりました。 護衛は皆、彼の腹心でございます。 必ずや無事にお送りいたします」


 彼は目の前の落ちぶれた男を見て、少々気の毒に思った。


 「お受け取りになった方がよろしいかと。 今すぐお立ち寄りいただいても結構ですし、こちらで数日お過ごしになってからお帰りになっても、お部屋と食事は手配いたします」


 「いや……結構だ」


 ハクはただ立ち上がった。


 「今すぐ帰る。 お邪魔したな。 ありがとう」


 「お待ちください、ハク様」


 トムが呼び止めた。


 「お急ぎにならずに。 お考えがまとまれば、七日後にお越しください。 お越しいただかなくとも、ご用意は整えておきます。 それまでは——」


 トムは彼を呼び止めると、ずっしりと重い袋を差し出した。


 「これを収めてください。 よくお考えください」


 それは、たっぷりと金貨の詰まった袋だった。


 「ありがとう……私は……」


***


 書斎の外。


 トムがそっとノックする。


 「入れ」


 彼が扉を開けて入ると、書斎には灯りがなく、月明かりだけが窓から差し込み、机や床を照らしていた。


 エインは相変わらず扉に背を向け、窓辺に立っている。


 「ハク様の件は、滞りなく済ませました」


 「そうか」


 エインの声はとても小さかった。


 「わかった。 下がっていい」


 トムは何も言わなかった。 彼は黙って扉を閉め、その場を離れた。


 書斎は静寂に包まれた。


 ただ、月明かりと、音もなく流れ落ちる涙だけがあった。


***


 ハクはぼんやりとしたまま酒場に戻ったが、部屋には帰らず、カウンターに座って酒を頼んだ。


 たくさんの酒を。


 今はただ、自分を麻痺させたかった。


 夜も更けた。 客は次々と帰り、部屋へと戻っていく。 店主も寝てしまった。 酒場に残っているのは、たった二人だけだった。


 「あの……お客さん?」


 少女が心配そうに彼を見つめている。 彼女には理解できなかった。 たった一日前まで希望に満ちていた人が、なぜこんな風になってしまったのか。


 彼女はハクの隣に腰を下ろした。


 「もうたくさん飲まれました。 お休みになったほうが」


 「酒をくれ!」


 ハクは突然テーブルを叩いた。


 「酒をくれ! 俺は……俺は良い兄じゃなかったんだ……」


 突然の大声に、少女は頬を膨らませ、怒ったふりをした。


 「ダ——メ! もう飲んだら体に悪いよ! 何があっても挫けちゃダメ! 私なんて小さい頃から家を出て働いてるけど、今だって元気にやってるんだから! あんた、男のくせに、なんでそんなに落ち込んでんの?」


 「酒をくれ……俺に……」


 ハクは顔を上げた。


 目の前の少女、美しい茶色の髪、わざと怒ったふりをしている顔、そしてその奥にある、強い意志と優しさを宿した瞳。


 彼は言葉を失った。


 「あんたはやっぱり良い人だな」


 少女の目が優しくなる。


 「こんなに飲んでも怒ったりしないんだもん。 でもね、人は時には発散も必要だよ。 良かったら、話してみない?」


 その優しい眼差しを見つめながら、ハクの視界は次第に滲んでいった。


 あの夜、自分が何を言ったのか、どれだけ泣いたのか、もう覚えていない。


 ただ、本当にたくさん、たくさん話したことだけは覚えている。


 とても長く、長く泣いたことだけは。


 ――


 七日後。


 立派な屋敷の前で、トム執事は数台の頑丈な馬車と一隊の精鋭護衛を率いて、静かに待っていた。


 早朝から日が暮れるまで。


 あの人が来ようと来まいと、彼らは深夜まで待つつもりだった。


 辻の向こうから、ようやく二人の人影が現れた。


 一人は白髪の男、もう一人は見目麗しい少女だ。 男はたくさんの荷物を背負い、隣の少女と楽しそうに話している。


 トムの口元にかすかな笑みが浮かんだ。 彼は歩み寄り、そっと一礼した。


 「お待ちしておりました、ハク様。 お考えはお決まりですか? いつでも出発できます」


 「ああ、決めたよ」


 ハクは頷き、少し気恥ずかしそうにした。


 「あの……もう一人連れて行ってもいいだろうか? 俺の隣にいる子なんだが。 迷惑じゃないだろうか?」


 少女は丁寧に執事にお辞儀をし、太陽のような笑顔を見せた。


 「全く問題ございません」


 トムは体を横にずらして道を譲った。


 「どうぞお乗りください。 お荷物は私がお運びします」


 「お気遣いなく。 でも、一つお願いがあるんだが」


 「なんでしょう?」


 「この手紙を、彼に渡してもらえないか?」


 ハクは精巧な封筒を差し出した。


 「読むか読まないかは、彼の自由だと伝えてくれ。 それから……すまなかった、と伝えてほしい」


 「承知いたしました。 確かに」


 馬車が遠ざかるのを見送り、トムは最後の仕事を終えようとしていた。


 「エイン様、もう隠れていなくても大丈夫ですよ。 ハク様はお帰りになりました」


 脇の茂みから、エインが這い出してきて、警戒しながらあちこちを見回した。


 (やはり……まだ感情を素直に出せない子供だな)


 「ハク様からお預かりしたお手紙です。 どうぞお納めください」


 「ご苦労、トム」


 エインは手紙を受け取った。


 「君はもう下がっていい。 俺はもう少ししたら中に入る」


 「かしこまりました」


 執事が去った後、エインはゆっくりと手紙を開いた。


 見覚えのある筆跡が目に飛び込んできた。


 ――


エインへ


 エイン、俺にはお前に顔向けできない。 少なくとも今は、図々しくお前に会いに行くつもりはない。


 俺はバカで、言葉足らずだ。 気を悪くしないでほしい。 これから言うことは、お前に何かを押し付けるつもりはない。 お前がこの言葉に惑わされて、自分の道を外れることのないように願っている。


 今の俺は考え直した。 年長者として、俺は本当にダメな兄貴だ。 お前は、昔の情に縛られる必要はない。 戻ってこなくてもいい、兄貴と認めなくてもいい。 お前はお前らしく生きろ。


 俺が幼い頃からお前に言ってきた多くのこと、やってきた多くのことは、必ずしも正しくなかった。 お前が自分で改めることができたこと、本当に嬉しく思う。


 本当に申し訳ない。 もし次に機会があれば、せめてお前に嫌われない兄貴になれるよう努力する。


 今までも、これからも、ずっとお前を誇りに思っている。


永遠に君を愛する家族より

ハク

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ