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あなたを追いかけて

 翌日、夜通しよく眠れないまま朝を迎え、雅也と営業部長と共に、昼イチに得意先の大手製菓会社へとやってきた。今日のこのコンペを勝ち取れば、売上は一千万円以上になる。最初にこの数字を聞いたときは驚いた。

たった一社との取引で一千万……?

売上の規模も、営業部からの期待もひとしおだ。ゆえに、雅也だけでなく営業部長も同行することになったのだ。

「山名さん。きみの腕は確かだと日比谷課長からも聞いている。今日は頼んだぞ」

「は、はい」

 営業部長はきりっとしたまなざしで、私を見つめながら言った。「期待」という二文字が重くのしかかる。

「あゆり、大丈夫? 緊張してない?」

 部長が聞いていないところで、雅也がこっそり耳元でささやく。

「緊張しまくり……昨日もよく眠れなくて……。でもこんなチャンス滅多にないし、みんなの期待に応えられるように頑張るわ」

 昨日眠れなかったのはコンペの件もあるけれど、それ以上に湊とすれ違ってしまったせいだった。今朝も、部屋の中に湊の姿はなかった。成仏したというわけではないことくらい分かっている。湊はあえて私の前から姿を消しているのだ。

「うん、あまりプレッシャーはかけたくないけど、とにかく最後まで一緒に頑張ろう」

 雅也の心強いひとことに、凝り固まっていた身体がちょっとだけほぐれた。


 得意先の受付で社名と名前を名乗り、商談室へと案内される。

 扉を開けると、いつも商談で目にしている担当の女性と、相手の商品開発部長の男性が立っていた。商品開発部長の年齢はおそらく五十代前半といったところだろう。自分よりもうんと年上で人生経験豊富な方を相手にプレゼンをするのはかなり気が引ける。が、ここで負けてはいられない。私たちの後には、同じようにデザインを提案する会社が四社控えている。はっきりと比べられるのだ。逃げ腰になっていてはいけない。

「お世話になっております。本日はどうぞ、よろしくお願いします」

 雅也の挨拶につられて、私と営業部長も頭を下げる。

 このチームのリーダーは雅也だ。

 彼がプレゼン資料を取り出したのを見て、私もぐっと表情を引き締めるのだった。


 三十分後。

 無事に我が社からのプレゼンが終わった。

 得意先からの質疑応答にも、雅也は澱みなく答えていく。デザインに関する部分で専門的なところだけ、私が答えた。

 コンペの結果は来週の頭ごろまでに電話で連絡をいただけるらしい。私たちは得意先のオフィスを出て、どっと息を吐いた。

「いや〜宗岡くん、よくやってくれたよ」

「ありがとうございます、部長」

「山名さんも、初めての大仕事でプレッシャーだったと思うけど、かなり頑張っていたね。いい結果になることを祈ろう」

「ありがとうございます……!」

 正直、商談中は雅也に任せきりで、私はほとんど何もしていない。大事な局面では部長が威厳を持って説明をしてくれたし、本当に今日は座っているだけだった。

「あゆりがいたから今日この日を迎えられたんだよ。本当に感謝してる」

 帰社してすぐ、休憩に席を立った先で雅也と鉢合わせした。彼もコーヒーを買いに来ていたらしく、自販機の前でにっこりと笑いかける。

「こちらこそ、まさか自分がこんな大きな仕事を任されるなんて夢にも思ってなかったけど、いい経験になったよ。あとは結果だね。ふ〜ドキドキするっ!」

 今日、この後の仕事は緊張で何も手につかなそうだ。

 それに、コンペは終わったけれど、私にはまだ気にしなくちゃいけないことがあるんだし……。

「あゆり、あのさ。この間言ってたお疲れ様デートだけど。あゆりの家に行ってもいい?」

「えっ?」

 まさか今、デートの話を持ちかけられるとは思ってもいなかったので、廊下とはいえオフィスで素っ頓狂な声を上げてしまう。

「い、家……? 私の?」

「うん。だめかな?」

「いや、だめじゃない、よ」

 良い歳した大人のデートでお家デートをしないなんて、そんなこと誰も考えるはずがない。一人暮らしだし、断る理由だってない。付き合う前も付き合ってからもまだ一度も雅也を家に呼んだことはなかった。本来ならいつでも来ていいよと言うところだったのに、今の私が答えに渋るのはもちろん、湊の存在があるからだ。

 湊ってうちから出られないんだよね……。

 姿を消すことはできても、私の家から出ることはできない。となれば、雅也が家に来たときにも必然的に湊が居合わせることになってしまう。

 それってなんだか……すごく、二人に後ろめたい気持ちにならない?

「本当に大丈夫? 嫌だったら別のプラン考えるから遠慮なく言ってね」

「だ、大丈夫! ちょうど、そろそろうちに呼びたいなって思ってたところだし。夕飯作って待ってるよ」

 つい、心とは裏腹に口が動く。それでも今この場で雅也を傷つけてしまうのが嫌で、お家デートをOKした。

「ありがとう。じゃあ、日曜日の夕方ぐらいに行くね」

「うん」

 なんとか平静を装いつつ、デートの約束を終えた。

 雅也が「先戻るわ」と去っていったところで、ふう、と大きなため息を吐く。

 雅也に対して、本当はこんなふうに本心を隠したくなんかないのに……。

 私のいちばんは、雅也であることに違いない。

 それなのに、どうしてこんなにも胸のざわめきが止まらないんだろう?


 コンペが終わった翌日から、頭の中ではずっと日曜日のお家デートのことがぐるぐると渦巻いていた。やっぱり湊はまだ家の中で姿を現さない。先日、私が湊を怒ったことを、彼はまだ引きずっているのだ。

 せっかく大仕事が終わって一息つきたいのに、コンペに行く前以上に、心に重しが乗っかっているみたいな心地がしていた。



 そして、迎えた約束の日曜日。

 私は雅也が好きだというビーフシチューを作って待っていた。

「やっほー」

 午後五時にやってきた彼は、コンビニで買ってきたのか、お酒の入ったビニール袋を提げていた。

「わざわざありがとう」

 昨日は悶々と自宅で一人で過ごしていたので、こうして雅也と会えて純粋に嬉しい。彼が玄関に上がったことでぴきりと胸にひびが入ったことには気づかないふりをした。

「一人で住むにすごく広いね。それに綺麗だ」

 リビングに入ると、彼が部屋の中をぐるりと見回して言った。

「ありがとう。手狭な部屋よりいいかなと思って……」

 湊と同棲する時に選んだ部屋だから、二人暮らしをするのにちょうど良い広さなんだ。

 そんなこと、間違っても今口にすることはできない。

「うん。部屋が広いと気持ちもおおらかになるよね」

 雅也は出会った頃からそうだが、私の発言を一度も否定することがない。彼が穏やかで優しい性格だということもあるかもしれないが、それ以上に、私のことを大事にしてくれているのがよく伝わってきた。

「ソファ、座ってゆっくりしてて。今ご飯用意するから。ちょっと早めだけどいいかな?」

「もちろん。ありがとう」

 テレビの前のソファに彼が腰掛けたのを確認すると、キッチンに行き、お鍋の蓋を開ける。準備といってもシチューを煮込むだけだ。その間にサラダを用意して、お盆の上に並べた。

「めちゃくちゃいい匂いじゃん。もしかしてシチュー?」

「うん、正解。よく分かったね」

「この香ばしくて美味しそうな匂いで気づかないはずないよ」

 さらりと料理の腕をほめてもらえたような気がして、頬が火照る。と同時に、胸がチクチクと痛み出す。

 だめよ、余計なことを考えたら。

 今姿が見えないあの人のことを思い浮かべながら、両目はしっかりとリビングにいる雅也のほうを見つめた。私の好きなひと。私を新しい世界へ連れて行ってくれるひとを。

 シチューがほどよく温まったところで器によそう。が、そのとき器を持っていた左手が滑って、床にシチューごとお皿を落とした。

 ガシャーン! バリン! という嫌な音と共に、シチューが床に飛び散り、お皿が砕ける様子がスローモーションで見えた。

「あっ……」

 咄嗟の出来事で、なすすべもなく壊れてしまった器の破片を呆然と見下ろす。

「あゆり、大丈夫!?」

 リビングから駆けつけた雅也が惨状を目にして、急いで私の手をぎゅっと握った。

「怪我してない? どこか痛いところは? 足も大丈夫?」

 額に汗を浮かべながら早口で捲し立てるように訊いてきた。彼の瞳は心配そうに揺れていて、心臓がぎゅっと鷲掴みにされてみたいに痛かった。

「う、うん……大丈夫」

「良かった〜……あゆりが怪我したらと思うと俺、どうしたらいいか分かんなくて」

 ほっと胸を撫で下ろす姿が、記憶の中の湊と重なる。

 湊もこんなふうに……私の身に何かあれば、真っ先に心配して飛んできてくれた。

 ちょっと転んだだけの時とか、生理痛がひどくてうずくまっている時とか。

 とにかく私をいちばん大事にしてくれているんだって分かるぐらい、大袈裟すぎるほどの勢いで労ってくれた。

「うっ……」

 気がつけば口から嗚咽のような情けない声が漏れていた。

 やっぱり私には、忘れるなんて無理だ。

 湊のことを忘れられない自分がいる。だけど同時に、雅也を想う気持ちがどんどん大きく膨らんでいく。水風船みたいに腫れ上がったそれが、湊の時みたいにいつか弾けて破れてしまわないかと思うと、怖くてたまらないの。

「あゆり、何かあった?」

 今度は真剣なまなざしで私を覗き込む雅也。先ほどお皿を落としてしまった時とは違う、もっと確信的な疑いが見えた。

 揺らめく彼の瞳を見つめながら、うんともすんとも言えずに押し黙る。そんな私の反応を見て察したのか、「ちょっとあっちにいこう」と私をリビングまで連れ出した。エプロンに飛び散ったシチューもそのままに、二人でソファに並んで腰掛けた。

「怒らないから正直に話してほしい。最近のあゆり、なんかすごく思い詰めてるようだったから気になって。だから今日、あえてお家デートを提案したんだ。外じゃ話しにくいかなって思って。最初はコンペで緊張してるのかって思ってたけど、コンペが終わってからも変わらないよな。むしろ、どんどん辛そうになってる。ねえ、本当にどうしたの? 話せる? 何を聞いても、俺は絶対にあゆりのこと嫌いなったりしないよ」

 一つ一つの言葉をゆっくりと丁寧に紡ぎ出す雅也に、その優しさの溢れる想いに、背中をトンと押されたような気がした。

 いいのかな……話しても。

 そんなふうに感じていた気持ちも、どこかへ吹き飛んだ。

 息苦しいと思っていたはずなのに、気がつけば肺いっぱいに空気を吸い込んでいた。

 それから彼の目を見つめて、抱えていたものを吐き出す。

「実は私……半年前に、婚約者がいたの。その人の名前は湊っていって、馬鹿みたいに明るくてアホで、だけど太陽みたいにまぶしくて、私にとって彼は……神様だった」

 雅也が隣でごくりと息を飲み込む。

 恋人から元彼の話なんか聞かされて良い気分になるはずがない。それなのに雅也はいったん私の話をすべて聞くとでもいうように、背筋を伸ばしたまま黙って耳を傾けてくれていた。

「私は湊のことが大好きだった。だけど半年前、湊は雷に打たれて死んじゃったんだ。突然のことでパニックにもなった。同じ会社に勤めていたこともあって、思い出すのも辛いから今年の一月に会社も辞めちゃって……。真っ暗なトンネルの中でひたすら停滞しているみたいな時間を過ごして、春にようやく新しい会社に入ろうと思ったの。そして雅也に出会った。雅也に優しくしてもらうたびに、心にぽっかりと空いていた穴が塞がっていく心地がしたんだ。このまま忘れられたらいい。湊のことを忘れて、雅也と幸せになりたいって本気で思った。でも」

 そこで一度、呼吸を整える。ここで真実を話すべきか否か、一瞬迷った。けれど、依然としてまっすぐな視線を私に向ける雅也の息遣いを感じると、話さずにはいられなかった。

「一週間と少し前かな……。家で持ち帰りの仕事をしてた時に、湊の幽霊が……現れたの」

「幽霊?」

 これにはさすがの雅也も耳を疑ったらしく、唖然とした表情で私を見返す。

「うん。信じてもらえないかもしれないけど……確かにいるの。いまも、この家のどこかにいるはず。私以外にはたぶん見えなくて、本人は自分が死んだことに気づいてなかった。でも性格とか全然変わってなくて……それで、私」

「湊くんのことを、また好きになっちゃった?」

「っ……!」

 核心をつかれて言葉に詰まる。

「私……私は」

「いいんだよ。無理しなくて」

 夜空から星が降ってきたみたいに、すとんと胸に響く彼の優しい言葉。その言葉が、あまりにも痛い。今の私にとって、一番認めたくない気持ちだから。

「納得して別れたわけでもなく、突然の死別だったんだから、気持ちが残っていたとしても不思議じゃないよ。一番最悪なのは、あゆりがその素直な気持ちに蓋をして、無理やり俺のことを一番好きでいなくちゃいけないって思い込むことだよ。俺だって、そんなふうに想われても嬉しくない。むしろ……嫌だ。俺は、あゆりが心の底から俺を一番に選んでほしいと思ってるから」

「雅也……」

 静寂の中に広がる痛みと、切なさが、私の心をがんじがらめにする。

 だけど、雅也の言葉には一切の嘘偽りがなかった。彼は等身大で喋ってくれている。それなのに、恋人である私が、鎧を被ったままでどうするの?

 ごくりと唾を飲み込む。

 先ほど温めていたビーフシチューはもうとっくに冷めているだろうし、床にぶちまけたそれもそのままだ。

 それでも、まだ雅也に話し足りないことがあった。

「雅也、あのね。この間私、湊に『あなたはもう死んでるんだ』って言ってしまったの。それから、雅也という新しい恋人がいることも。そしたら湊、『今の彼氏ともっと仲良くしなよ』って言うの。それがなんだか悔しくて、情けなくて……。湊が本心を偽ってることも分かって、イラッとしちゃって……。『誰のせいでこうなったと思ってるの』って彼に怒ってしまった。それで湊は傷ついて、姿を見せなくなったの。ねえ、私はどうすればいいのかな……?」

 雅也に答えを求めるのは間違っている。

 私は今この瞬間、湊だけでなくきっと、雅也のことも傷つけてしまっている。

 それでも、私が前を向くために必要なことだった。

——あゆりは真面目すぎ、一人で抱え込みすぎ! しんどいどきは誰かに頼れって。もちろん、一番に俺に頼ってな。

 生前湊が何度も言ってくれた言葉を思い出す。

 他人に頼るのが苦手で、仕事では一人で突っ走っていつのまにか自爆することが多かった。真面目な性格が災いする、典型的なダメなパターンの人間だ。

 だから今、私は雅也に初めて自分の身体を預けた。

 雅也は驚いた様子で目を丸くしつつ、それでも「そうだな」としっかりと答えを口にする。

「俺が思うに、湊くんは自分が死んだことに、とっくに気づいてたんじゃないかな。あゆりに指摘される前から」

「え?」

 予想もしない言葉が飛んできて面食らう。

 湊が自分の死を知っていた?

 じゃあ、どうして知らないふりをしていたの。

「気づいていて、わざと気づいていないふりをしていた。それってたぶん、湊くんがあゆりと一人の人間として、もう一度向き合いたいと感じたからだと思う。幽霊になって出てきたのは、あゆりのことが心配だったからだと思うよ。湊くんにもあゆりにも、まだお互いに伝えたいことがあるんじゃないのかな」

 雅也の、落ち着き払ったその声が、私の胸を、頭を熱くした。頭からつま先まで、ビビッと電流が駆け抜けるかのように奮い立たされる。

 時計を見つめる。午後六時過ぎ。六月も終わりを迎えようとしている今日、まだ外は完全に日が落ちていない。

「湊っ」

 たまらなくなって、湊の名前を叫ぶ。

「湊、どこにいるの? 出てきて!」

 湊は私の部屋から出られない。だったら、この会話だって聞こえているはずだ。

「湊……ねえ、湊!」

 カラカラに乾いた喉からこぼれ出てくる自分の声は、最愛のひとを探し求める切実な響きを纏っていた。

「もしかしたら、湊くんはこの家にいないのかも」

 雅也がぽつりと口にする。

「どういうこと? 湊はこの家から出られないはずだよ」

「それって、ちゃんと検証とかした?」

「検証……いや、そこまでは。でも湊が、玄関から出られないって言ってて……」

 その時のことをよく思い返してみる。

 確かに湊が玄関の前で「これ以上進めないよー」と嘆いているのを目にした。でも、実際に彼が見えない結界に跳ね返されたとか、見えない壁にぶち当たってしまったとかそういう場面を見たわけではない。彼が自分の口で(・・・・・)「進めない」と口にしただけだ。

「もしかして湊は嘘をついていたの?」

「その可能性もある。だから、この家じゃない別の場所を探すしかないと思う」

「そんな。別の場所って、外ってこと? 見つかるわけないっ」

 広い屋外で湊がどこにいるかなんて、見つけられっこない。

 だけど雅也は、「大丈夫」と妙に力強い声で私の背中をトンと軽く叩いた。

「あゆりの最愛だったひとでしょ? 見つけられるよ。想いあっている二人が、出会えないはずがない」

「雅也……」

 彼の眉が切なげに下がり、目元はくしゃりと淡く歪んだ。

 雅也は、どんな気持ちでその言葉を口にしたんだろうか。

 悔しさ。悲しさ。寂しさ。

 彼の中で渦巻いている気持ちに、名前をつけることなんてできない。雅也の心を救うためにも、私は今、湊を見つけて彼と向き合う必要があるんだ。

「分かったよ、雅也。私、探してくる。そして、ちゃんと話すよ」

「うん、そうして。後悔だけはもうしないで」

 優しすぎる彼の言葉を真正面から受け止めて、私は雅也を置いて、自宅から飛び出した。


 当ては一つしかなかった。

 湊と行った、一番思い入れのある場所。それは、私の自宅から歩いて十分ぐらいのところにある大きな川に架かる橋だ。

 この橋の真ん中で、私たちはよく「青春ごっこ」だなんて陳腐な名前をつけて、仕事終わりにお酒を片手に語り合った。お酒を飲んでる時点で青春でもなんでもないと思うのだけれど、湊は「仕事終わりには絶対酒! 橋の上で飲む酒なんて青春より最高じゃん」と訳のわからない理屈で強引に私を連れ出した。この場所から、トワイライトの空を眺めるのが好きだった。残業が続く日は、夜空に少しだけ見える星を。都会の空にはほとんど星は見えないけれど、それでもまったく見えないわけではない。一等星を見つけた私たちは、もうそれだけで十分楽しかった。

「湊」

 たどり着いた橋の真ん中に、確かに湊はいた。欄干に肘をかけて、遠くに見えるビルを眺めている。

 背中に声をかけると、湊はゆっくりとこちらを振り返った。

「見つかるかと思ってた」

 淡く、微笑みながら言う。

 彼の背後には橙色から群青色に染まりゆく空が、まだ生きていた頃の二人を見守ってくれているように広がっていた。

「湊と過ごした場所で一番思い入れの深かった場所って、ここだから」

「あゆりの家から出られないって言ったのによく外にいるって分かったね?」

「それは……雅也が、そうじゃないかって教えてくれたの、自分が死んでることにも本当はとっくに気づいてたんじゃないかって」

 湊の前で雅也の名前を口にするのは憚られた。でも、事実を隠して湊と本音で向き合えない。そう思って、ありのままのを話すことにしたのだ。

「……へえ、例の、彼氏さん?」

「うん。さっきまで一緒にいて。湊が私にまだ伝えたいことがあるんじゃないかって背中を押してくれたの」

 そう伝えると、湊の眉がぴくりと持ち上がる。

 まさか、雅也が今の彼女の元彼の幽霊の気持ちを尊重してくれたのだとは思わなかったんだろう。そもそも、幽霊の話を信じてくれたところから驚いているに違いない。私だって、びっくりした。雅也がここまで真剣に私の話に耳を傾けてくれて、湊のところへ送り出してくれたこと。

「いい彼氏さんじゃん。いい人すぎて……きついね」

「え?」

 湊の顔がくしゃりと歪む。彼のそんな切なげな顔を初めて目にした私は、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を覚えた。

「だって、そんなに素敵な彼氏さんと一緒にいたらきっと、あゆりはすぐに俺のことなんて忘れてしまうだろ」

「そんなこと……ないって」

「いや、あるよ。恋は上書き保存って言うじゃん。上書きされるんだよ。そういうふうに人間の心はできてるから仕方がない。きっとあゆりは雅也のことをめちゃくちゃ好きになる。いや、今も好きなんだよな。だから付き合ってるんだもんな。……俺はあゆりの過去だから。忘れて当然だよ。いや、忘れなくちゃいけないと思う」

 湊の声に、じくじくと生傷を抉られるような心地がした。

 違う。違うのに。

 だって私はずっと湊のことを忘れられなかった。 

 雅也と付き合ってからも、そこかしこにあゆれる湊との思い出が離れなくて、上手く歩けなくなっていた。

 ——そう伝えたいのに、言葉が喉元で絡まって、上手く出てこない。

「いいんだ。雅也が言う通り、俺は幽霊だってのとっくに気づいてたんだ。その上で、あゆりの知ってる馬鹿な俺のままでいたくてそばにいたんだ。でも一週間で思い知ったよ。あゆりの胸の中に俺はもういない。いたらいけない存在なんだって。だから、」

「違うよっ!」

 気がつけば悲痛な叫びが喉から漏れていた。

 複雑な気持ちなんて言葉にできない。だけど、湊が勝手な妄想で傷ついていくのをこれ以上見ていられなかった。

 湊に駆け寄って、その身体を抱きしめる。懐かしい彼の香りが鼻腔をくすぐって、途端に涙で視界が滲んだ。匂いが昔の記憶を呼び起こす。湊を大好きだった気持ちが、私を過去へと押し流していく。

「私は、今も昔も湊のことが好きなの……! 湊がいなくなって、私がどれだけ悲しかったと思う? どれだけ絶望して苦しかったと思う? ……ずっとずっと、一緒にいたかったよ。結婚して、子どもが産まれて、おじいちゃんとおばあちゃんになってもずっと。私が添い遂げたかったひとは湊なの。でも……失ってしまったから。無理やり前を向こうとしてた。やっと少しだけ前を向けるようになった。確かに今、私は雅也のことが好きだよ。でも湊を好きな気持ちは永遠に色褪せない。真空パックで保存してるみたいに、ずっと胸の片隅でくすぶってるよ」

 私のこの気持ちは、きっと雅也に対する裏切りだろう。

 受け入れてもらえなかったらもうそれまでだ。

 でも誰がなんと言おうと、湊への愛が消えることはない。湊を好きな自分を押し留めてまで、他の誰かと幸せになりたいとは思わない。

 湊の身体が次第に震え始めるのを感じて、たまらなくなってまたぎゅっと抱きしめる。

 ブウウン、とどこからともなく聞こえてくる車のエンジン音に、今、湊と二人で思い出の場所にいることを思い起こさせてくれた。

「ずっと謝りたかった。あゆりを、幸せにしてあげられなかったこと……」

 私の耳元で湊が本心をつぶやく。胸がぎゅっと締め付けられて、息が止まりそうになる。

「自分が死んだことに気づいて、取り返しのつかないことをしてしまったんだって思った……。あゆりが落ち込んでいる姿を見て、いてもたってもいられなくなった。本当は俺、死んでからずっとあゆりのそばにいたんだ。でも、ずっとあゆりの世界にいるわけじゃなくて、時々あゆりのそばに出てこられた。だから、記憶も曖昧な部分が多くて、あゆりが新しい恋人をつくってることも知らなかった。でさ……なんで自分が亡霊になって漂っているのかって考えたんだ。俺はきっとずっと、後悔していたんだなって。あゆりを幸せにしてあげられなかったことが悔しくて、謝りたくて仕方がなかった。もう一度抱きしめたかったし、好きだといいたかった」

 その言葉と共に、ぎゅっと私を強く抱きしめる湊。

 彼の体温が、肌の柔らかさが、生前の彼と変わらないのに、心音だけがどうしても聞こえない。鼻の奥がツンと痛くて、涙が一筋こぼれ落ちた。

「あゆり、本当にごめん……! 勝手に死んじまって、ごめん。一生幸せにするって誓ったのに、約束破ってごめん。一人にしてごめん。これからもそばにいられなくて、ごめんな」

 彼の一生分の後悔が、言葉の粒が、横なぶりの雨のように降り注ぐ。

 湊に「ごめん」と言われるたびに胸が軋んだ。だけど、その言葉の裏側にひしひしと感じたのは、私に対する彼の愛だった。

 こんなにも湊は私のことを愛してくれていたんだ。

 だからこそ、後悔が水溜りのように溜まって、がんじがらめになっていたんだな——……。

 湊からそっと身体を離す。彼の顔をよく見たかったから。すっと離れていく体温を名残惜しく思いながら、それでも彼に伝えたい言葉をゆっくりと口にする。

「湊を好きでいられるだけで、私は幸せだよ」

 湊の顔に驚きと切なさと喜びが混じったかのような色が滲む。

 彼の後ろに見える川面には、きらきらと街明かりがゆらめく。ビルの明りが反射して黒光りする水面を見ていると、かつて二人でここで並んで語らい合った日を思い起こさせた。

「ありがとう……そう言ってもらえるだけで、俺は幸せ者だな。あゆりの元に戻ってきて良かったって思えるよ」

 先ほどまで、沈んでいた気持ちがようやく前を向いたかのように、湊が微笑みながら言った。

「本当に伝えたかったのは『ごめん』じゃなかった。俺、あゆりに感謝を伝えたかったんだ。こんなにも俺を好きになってくれてありがとうって。だからさ……俺、たとえあゆりが俺のことを忘れても、あゆりが幸せならもうそれで十分だって思える。そう思わせてくれたのもあゆりだから。本当にありがとう。それから、幸せになって。俺がいなくても、雅也と一緒に」

 どんな気持ちで彼は私に「幸せなって」と言ったんだろう。

 本当は「一緒に幸せになろう」って言いたかったはずなんだ。

 それでも湊は自分の気持ちを押し殺して、私を前に進ませようとしてくれている。

 その気持ちが胸を焦がして、身体全部が熱く燃え上がりそうだった。

「湊……っ、私、湊に出会えて世界一幸せだったよ!」

 思わず、叫ぶ。

 だって湊の身体が、どんどん透けていっているのが見えるから……。

 湊が消えてしまう前に、ありったけの思いを口にする。

「馬鹿みたいに明るい湊に何度も励まされたし、私の持ってないものをたくさん持ってる湊がまぶしくて、私の神様みたいな存在だったよ! 湊がいなかったらきっとつまらない人間のままだったよ、私。湊の隣にいられて最高に幸せだった! 愛してくれて……本当にありがとう」

 私が橋の真ん中で大声で愛を叫んでいることを意外に思ったんだろう。湊の瞳がみるみるうちに大きく見開かれていく。

 やがて、彼の身体がもうほとんど見えないぐらいに消えかかったとき、彼が最後に口を開いた。

「幸せになれよ、このやろー」

 精一杯の愛が詰まったそのセリフに、思わず頬が綻ぶ。

 もう涙は流さない。

 彼の記憶の中の私が、最後に涙を流しているなんてもったいないから。

 ありったけの笑顔でこう返した。

「当たり前じゃん、ばか」

 薄暗い景色の中に湊が消えてしまったのを確認すると、踵を返した。

 ここで立ち止まっているわけにはいかない。

 私には待ってくれているひとがいるから。

「湊……」

 湊が最後にふっと笑ってくれたことを胸に、新しい一歩を踏み出す。足を踏み出すごとに、寂しさの鈴が鳴るみたいにとくんと心臓の音が聞こえた。


「雅也、ただいま」

 帰ってきた私を、雅也は「おかえり」と優しく迎えてくれた。

「もう大丈夫?」

「うん。ありがとう」

 雅也は私から多くを聞き出そうとはしなかった。その代わり、私の身体を全身で包み込み、「俺は」と耳元で囁く。

「湊くんを好きなあゆりごと全部、好きでいるから。だから安心して」

 その言葉がどれほど温かく、私の胸を焦がしたか。きっとあなたは知らないでしょうね。

 その日の夜、身体を重ね合わせた私たちは甘い口付けをした。この夜のことを私はこの先きっと一生忘れないだろう。わがままな私を赦してくれるこのひとのことを、全身全霊をかけて愛そうと誓った夜だから。


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