本当のこと
「……り。あゆり。大丈夫?」
二人だけの会議室で、私の名前を呼ぶ雅也の声が響いてはたと視線を上げる。
真っ白な壁に囲まれた部屋には、真ん中に長机が三つ並んでいる。それほど広くはないこの部屋は、社員が予約制で自由に使うことができる。
長机の席に並んで座って仕事をしていた私と雅也。私の目の前のパソコンの画面には、例のコンペで提出するパッケージのデザイン案が、雅也のパソコンには当日にプレゼンで使う資料が映し出されていた。
「ぼうっとしてたけど、考え事?」
「ごめん。ちょっと疲れてるみたい」
私たち以外誰もいない空間では、雅也私のことを「あゆり」と名前で呼んでくれる。会社の中で名前を呼び分けるのは大変だが、二人きりの時まで「山名さん」「宗岡くん」と苗字でよそよそしく呼ぶのは嫌だった。
「そっか。最近思い詰めてるみたいだね。デザイン、まだ納得できてない感じ?」
「ううん、そんなことないよ。割と納得のいくものに仕上がってきた」
そう。一週間前のあの日から、私はなんとかコンペ用のデザインをいくつか作り上げ、今、最終確認の段階に入っていた。商談に行くのは三日後だ。デザインは完成したので、あとは雅也と当日の発表の流れを入念に打ち合わせするだけだった。
「それならよかった。でも毎日遅くまで仕事してるんでしょ」
「それは、まあ……」
チクリ、と胸に針が刺されたような小さな痛みが走る。
確かにここ最近仕事を家に持ち帰って遅くまで働いているのは事実だ。でも、自宅では湊が私に明るく話しかけ、不覚にも励まされている自分がいた。一人で悶々と悩んでいた先週に比べると、かなり前向きに仕事ができていた。だからこそ、雅也に心配されることに罪悪感が募る。
「最近デートも行けてないしね……。今週発表が終わったら行こうよ。お疲れ様デート」
雅也の表情が柔らかく緩んで、目元が細められる。
「お疲れ様デート……」
デート、という響きからつい、湊の顔を思い浮かべてしまう。
湊ともう一度デートしたいな、なんて。最低なことを思ってしまう。
そんな私の心中などつゆも知らないであろう雅也が、「どう?」と純粋な瞳で問いかけてくる。
「……うん。いいね、デート。私もしたいな」
「おお、そうこなくっちゃ。どんなことしたいとかある?」
「ちょっと、咄嗟には出てこないかな。雅也が考えてよ」
「おっけー。じゃあ、考えておくよ。日程は次の日曜日でいい?」
「うん、大丈夫」
私が思考停止して「考えて」と投げても、雅也は嫌な顔ひとつせずに引き受けてくれる。しかも、全然嫌味なく。むしろ「任せて」と言わんばかりの勢いにただただ脱帽するばかりだ。それが彼の優しさなのだ。雅也は、年下だけどしっかり者でとても優しい。実は女の子と交際するのは私で二人目だそうで、しかも年上と付き合うのは初めてとのこと。だから不慣れなところが多くてごめん、と謝られるけど、私としてはまったく不慣れなようには見えない。
私と雅也はちょっとだけ似た者同士かもしれない。
お互い真面目で、色々と考えすぎてしまうところがある。
私と湊は正反対の性格をしていたから、雅也との交際は、私にとっては新しいことの連続になりそうだ。
その後、無事に打ち合わせが終わり、いよいよ本番を迎えるだけになった。
商談前日の夜、私は緊張と不安で、自宅でビールを飲みながらついパソコンの画面を真っ赤な目をして見つめていた。
「どうしたのあゆり。こんな時間に、また仕事? 真面目だな〜目が血走ってっけど」
私を背中から覗き込む、湊の声。この一週間、私が家で仕事をしていると必ずと言っていいほど、「頑張りすぎじゃね?」「てか仕事は会社でするものでしょ」と、励ましているのか皮肉なのか、声をかけてくる。彼のそのひょうきんな態度に、救われもするし、焦っているときはちょっとイライラさせられる。
「そりゃ、明日が本番だからさ。色々と気になるよ」
「本番って、例のコンペの? 入社して間もないのに大変だね」
「それは……上司から、信頼してもらってる証拠でもあるから」
「あゆりはやっぱり頑張り屋さんだな」
よしよし、と彼がまた私の頭を撫でる。今日で何度目だろう。一日一回以上、こうして湊から誉めてもらっている気がする。その度に、胸が鈴を転がすみたいに鳴ると同時に、確かな罪悪感を覚えた。
「でもさー、たまには……したいんだけど」
先ほどまで歯切れのよかった彼の声が、一部分だけくぐもったように聞こえて、思わず聞き返す。
「したいって……なにを?」
「デートに決まってんだろ。ぜんっぜん、できてないんですけど!」
デート、という単語を聞いて、思わずそっちか、とため息を吐く。
「デートって、湊と?」
「他に誰がいるんだよ」
「それは……」
これ以上、なんと答えたら良いか分からなくなって、押し黙る。
私はいつまで……いつまで湊と、こうして“恋人ごっこ”をしているのだろう。
湊は自分が死んだことを知らなくて。私に新しい恋人がいることも知らない。
だから、湊にとっては今も私が歴とした恋人であり、デートができないというのは確かに不満だろう。
私が返答に困っているのを見かねたのか、湊はいつになく険しい顔つきになった。
「俺、思ってたんだけどさ。最近のあゆり、なんか隠し事してない?」
「隠し事……」
そりゃあ、してる。してるに決まってる。
だって、今の状況を正直に伝えたら、湊を混乱させてしまう。それどころか絶望して、彼を傷つけてしまう。
……ああ、そうか。
私、湊のことを傷つけるのが嫌なんだ。
時計の秒針が立てるかすかな音が、いやに耳障りだ。
湊が生きていた頃と変わらないリビング、キッチン、寝室、トイレ。
見た目はすべて同じなのに、そのどこにも、彼が纏っていた清潔な石鹸のような香りはない。いつのまにか消えてしまっていた。私の胸からあなたは消えないのに、あなたがいた痕跡だけが、少しずつなくなっていく。過去から未来へと、時計の針はどんどん進んでいく。抗いようのない事実から目を背けたくて、湊にも、核心的なことには触れられずに一週間が経った。
……でも。
「ほら、そうやって都合の悪いこと聞かれると黙り込むでしょ。何隠してるの? 怒らないから教えて。あ、でも浮気とかだったら嫌だけど」
浮気なんか絶対にするはずない。
だって私は、息ができなくなるほどあなたのことが好きなんだから。
死んでしまったから新しい恋人ができた——これが浮気でなくて、彼への裏切りではなくて、一体なんだというのだろう。
「あのね」
アルコールが全身に回って、ちょっと気持ち悪い。頭にどんどん血が昇っていく。気を抜いたらふらふらと倒れ込んでしまいそうになる。私は、なんとか椅子から立ち上がり、湊と向き合った。
「湊は半年前に、死んでるんだよ」
死という言葉を口にするとき、いくばくか胸が痛んだ。
だって、私が一番受け入れられてないのだ。湊が死んだこと。湊がもう、生身の人間として生きることがないこと。私の隣にいられないこと。未来に彼がいないこと。
冷静に考えたら心がどうにかなりそうだから、考えないようにしていた。これ以上、痛みで胸が抉られないように。心が壊れてしまわないように。自分を守るために、湊がいなくなってしまった現実に、蓋をして見えないようにしていた。
でもだめだ。
だって幽霊になった彼を前にすると、こんなにも正気でいられなくなるもの。
触れられたら嬉しくて、胸がときめいて、たまらなくなる。恋焦がれてこの身が焼けていく。考えないようにしたって、どこにいたって、私の気持ちは湊に一直線に向かってしまうんだ。
「死……? はは、なに言って」
まさか、と最初は私がドッキリで嘘をついていることを疑わないまなざしで、へへと笑っていた湊。でも、私が湊を真剣に見つめて目を逸らさないから、いよいよ本当だと悟ったらしい。額に汗が滲んでいくのが見えた。幽霊でも汗が流れるのか——なんてぼんやりと考えて、後からくる衝撃から思考を逸らそうとした。
「本当に……?」
湊の瞳がふるりと揺れる。私は彼の目から一瞬でも視線を離さないまま、ゆっくりと頷く。
「マジ? え、なんで? 俺、何かした? 病気とかじゃなかったよな。交通事故……? いや、轢かれた記憶もないな……。じゃあなんで」
混乱する彼の姿が、いやでも目に焼きついていく。
本当は彼のこんな姿を見たくなんてなかった。
……愛するひとが、とことん傷つく姿なんか。
「……雷に打たれてしまったの。会社から帰る途中に」
あの日のことは、忘れたくてもずっと忘れられずにいる。
同じ会社に勤めていた私と湊は、毎日一緒に帰宅していた。湊は営業部、私は総務部だったから、湊のほうが忙しく、残業が続いていた。私も湊の仕事に合わせて、残業した。でもその日は——年末が近づいているということもあり、いつになく湊は忙しそうだった。
『ごめん、今日はいつ終わるか分かんねえから先帰ってて』
申し訳なさそうに彼が総務部まで顔を出しにきた。仕事が溜まっているのなら仕方ない。私は、『分かった。雨が激しくなるみたいだからできるだけ早く帰ってね』と伝えた。
私が外に出たとき、雨は降り始めたばかりだった。だけど、湊は傘を持っているからたいしたことはないと、特に気にも留めなかった。
それから三時間後。
夜十時を超える前に、湊は会社を出た——らしい。
自宅で彼の帰りを待っていた私は、早く帰ってこないかな、と首を長くして待っていた。
でも……。
彼はその日、家に帰ってこなかった。
代わりに運ばれた病院で、雷に打たれて命を失ったことを知った。
悔やんでも悔やみきれない。
もし私が、強引にでも彼と一緒に帰っていたら。湊は雷に打たれて死んでしまうようなことなんてなかったんじゃないだろうか。
後悔したって意味はないのに。だってこれは神様が決めたこと。神様が、湊の命を奪おうって決めてしまった。神様なんて大嫌いだ。昔から感じていた気持ちがいよいよはち切れんばかりに膨らんで、弾けた。
一生分の涙が枯れるぐらい泣いた。
左手の薬指にはめていた婚約指輪を握り締めて、わんわん泣いた。
神様、どうして?
どうして私から愛するひとを奪ったの?
私が何をしたっていうの?
湊が何をしたっていうのよ……!
誰にぶつけたら良いのか分からない怒りに押しつぶされそうになった。
交通事故とか、殺人事件とか、そういう類のものだったらまだマシだったかもしれない。犯人に怒りをぶつければいいから。でも雷は……神様が悪いとしかいいようがないじゃん。
『運が悪かったのね……』
湊の訃報を受けて、会社ではヒソヒソとそんな噂話が聞こえてきた。
運が悪かった。
本当にその通りだ。
でも、どうして“運”なんて、そんな軽い言葉ひとつで、みんなは湊の死を受け入れられるのだろう。
私はこんなにも深く憤っているのに——。
抜け殻のような日々を過ごし、暗澹とした気分のまま年が明け、そのまま辞表を出した。
湊と過ごした会社にはいられない。彼と出会って、大切な思い出があるあの場所にいると、心ごと押しつぶされそうになるから。だから辞めた。同期や先輩たちからは止められたけれど、誰の言葉も耳に入ってこなかった。
湊が亡くなった時のことを一瞬にして思い出し、息が止まりそうになった。
半年経った今、ようやく彼がいない日常を受け入れつつあったのに……どうして今更。
あなたは私の前に現れたの?
「雷って……まじか……」
両手のひらをグー、パー、と動かしながら、呆けたように自身の死について考えている湊。そんな彼を見ているのが辛くて、思わず目を背けた。
「あ〜そっか〜俺、死んでるのか」
場違いなほど明るい声が部屋に響き渡った。
はっと再び彼の顔を見つめる。湊は、ぽりぽりと頭を掻いて「残念だな」とため息を吐いた。あろうことか、ふふっと軽い笑みさえこぼしている。あまりにもショッキングな話を聞いて頭がおかしくなってしまったんだろうかと思う。
「なんか記憶が曖昧で飛んでるような気がしてたんだよな。あゆりが新しい仕事に就いたこととかさ。身に覚えがないのにどうして知ってるんだろうって自分でも思ってた。どうりで」
納得してすっきり、とでも言うような明るい表情で彼がウンウン頷く。
どういうこと?
なんで湊はそんなに普通なの?
自分の死を知らされて、そんなに冷静でいられるなんて。
どうかしている。
と彼の精神を疑いにかかる。「ん?」と不思議そうに私の顔を覗き込む湊を見て、ああ、そうかと理解した。
湊は、自分が死んだという話を、半分冗談だと思ってるんじゃないだろうか。雷に打たれて死んだことが、自分の身に降りかかったことではないと思い込もうとしてるのではないか。だったら私が、徹底的に教えるしかない。
「ねえ、本当だよ? 湊、本当に死んじゃってるんだよ」
「え、うん。だから納得してるって」
「いや、違うよね。納得なんて全然してないでしょ。受け入れられてないんじゃないの?」
「はあ? なんでそうなるんだよ。俺はちゃんと、自分が死んだって受け入れて——」
「私ね、彼氏がいるの」
ぴたり、と湊の呼吸音が止まったように、この場に静寂が訪れた。いや、実際幽霊なんだからもう息はしていないのだろうけれど、この時の空気感を表現するのにはこれがぴったりだった。
「彼氏……それ、だれ?」
「新しい会社の同僚。一つ下で、真面目で優しいの。二週間前から付き合い始めたばかりよ」
「え、でもさ。この一週間、あゆり、全然彼氏を家に呼んだり電話したりしてなかったじゃん。付き合いたてなのに? 俺たちが付き合い出した頃って、毎日お互いの家を行ったり来たりしてなかった?」
「それはっ……!」
痛いところを突かれて唇を噛み締める。
そうだよ。湊との交際と、雅也との交際に温度差があることなんて、とっくの昔に気づいていた。まだ交際を始めて二週間だけれど、ひしひしと感じるのだ。湊に対する気持ちは真っ赤な炎みたいにメラメラ燃えていたのに、雅也への気持ちはもっと穏やかだ。付き合いたてでベタベタしなくても平気なのも、湊の時より気持ちが乗ってないからだって、気づいて——……。
「だめじゃん。恋人なら、もっと一緒にいないと。今の彼氏ともっと仲良くしなよ」
鼻で笑うように斜め上からアドバイスをしてくる湊に、沸々と怒りが込み上げてきたのはこの時だ。
「誰のせいで……」
「ん?」
「誰のせいでこうなったと思ってるの!」
自分でもびっくりするぐらい鋭い声が喉からこぼれ出た。湊がぽかんと口を開き、呆気に取られた様子で私を見つめ返す
「あ、えっと」
さすがに鈍感な湊でも私がいまどんな気持ちでいるか、分かったんだろう。先ほどまでうっすらと浮かんでいた笑みが、途端に消えた。
「……ごめん」
降り始めた雨のようにぽつりと耳に落ちてきた声に、心臓が鷲掴みにされたような心地悪さを覚えた。
「ごめんな、あゆり」
手のひらから、掬ったさらさらの砂がこぼれ落ちるみたいに、私の中からも、大事なものが滑り落ちる。
湊がくるりと踵を返して、すっと消えてしまった。
「あ、待っ——」
呼び止めたけれど、もう遅かった。
湊がこんなふうに姿を消すことができるなんて知らなかった。彼も、今まで自分が幽霊だなんて知らなかったのだから、こういう力があることも、彼自身いま知ったのではないだろうか。
捨て置かれた猫のように一人きりの部屋に残された私の中に、苦い気持ちが広がっていく。
ああ、また。
またひとりぼっちになっちゃったな……。
原因をつくったのは私なのに、身も心も震えてしまって、恋人である雅也に連絡をしようという考えすら浮かばない。ひとりきりじゃないはずなのに。どうしてこんなにも、虚しくて寂しいんだろう。
テーブルの上で開いたままのノートパソコンの画面をそっと閉じる。
その日はもうそれ以上何も考えられなくて、部屋に戻ってベッドに潜り込んだ。




