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甘々な日々

 そして、翌朝。

「おはようあゆり! ちゃんと疲れとれた?」

 ずごーん。

 もしここが漫画の世界なら、そんな効果音が流れてもおかしくない。目を覚ましてすぐに、私を見下ろす湊の顔が視界いっぱいに見えて、思わず両目を擦った。

「えっと……夢?」

「いや、今起きたんだから夢じゃないでしょ〜。あゆりってば天然だな」

「はあ」

 こちとら状況を理解するので精一杯で、呑気に「天然」だと言われても何も響かない。

「昨日の夜からずっといたの?」

「当たり前じゃん」

「じゃあ聞くけど、どこで寝たの?」

「う〜ん、どこだろ。ここの床?」

  人差し指でベッドの下のほうを指差す湊。どうやら湊の中でも記憶が曖昧らしく、「そういえば俺、どこで寝てたんだろ」と不思議そうな目つきでつぶやく。

「はあ……まあ、どこでもいいよ。とにかくまだうちにいるのね」

「まだって、あゆり、つれないなあ。腐っても婚約者だよ? 俺を不審者か何かだと思ってない?」

「いや、さすがにそこまでは……ごめんって」

「へこむわぁ」

 湊はがっくりと肩を落とし、本気でちょっと傷ついたそぶりを見せる。

 生きていた頃、彼がこんなふうに凹んでいる姿を見たことがないので、ずきりと胸が痛んだ。

彼が自分が死んでいることを知らない以上、ありのままの事実を伝えるわけにもいかないし……。

だから私は、あたかも彼とずっと同棲していたかのように装おうしかないのだそう。それが、湊を傷つけないための唯一の方法だった。

「ほんとにごめん。やっぱりまだ昨日の疲れが抜けないみたい。湊、朝ごはん食べる?」

 気を取り直して、というように明るい声でそっと尋ねると、彼が瞳をぱっと輝かせて「食べる!」と威勢よく答えた。その顔が、私のよく知っている湊の少年のような素直なものだったから、自然と心が和んだのは秘密だ。


 かくして、私は幽霊である元婚約者の湊と暮らすことになった。

 どうしてこうなったのかは正直分からない。

 幽霊湊と過ごすうちに、なんとなく彼の幽霊としての存在ルールのようなものはわかってきた。

 まず、湊は自分が幽霊であることを知らない。

 ずっと私と同棲してきたと思っている。

 彼が亡くなってから起きた出来事は、知らない間に彼の記憶に流れ込んでいるようだ。だから私が転職したことを知っていたが、どうして知っているかというところまで考えると、よく分からなくなるらしい。

 そして彼は、幽霊なのにモノに触れることができる。ちゃんと体温もあって温かい。

「なあなあ俺、この家から出られないみたいだ」

 湊が家の玄関から出ようとしたところで、「これ以上進めないよー」と嘆いていた。

 彼はこの家から出ることができない。湊が出てきてから誰も家に呼んでいないので試したことはないが、おそらく私以外のひとには見えないと思われる。

 想像していた“幽霊像”とはだいぶ違った幽霊だ。なんだか本当に生きた人間のよう。だけど、この家から出られないし、夜、暗くなった窓の前に立っても彼は窓に映らない。本人は気づいていないようだけど、私はしっかり確認済みだった。

 幽霊だけど、幽霊じゃない。

 そんな中途半端な幽霊のなりそこないのような存在である湊と、どうやって過ごしていけばいいか——湊が現れて一週間経った今でも、分からない。


「いってきます」

「いってらっしゃ〜い」

 朝、会社へ行く私を明るく送り出してくれる湊。

 大体、自分は会社に行けないどころかこの家から出られない事実を、彼はどう認識しているのだろうか。怖くて直接聞くことはできなかった。

「あ、あゆりちょっと待って」

 玄関扉を開けようとしたところで、呼び止められる。

「なに?」

「今日も一日頑張ってな」

 彼が、私の顎をくいと持ち上げて、そのまま顔を近づけてくる。

も、もしかして、キス……!? 

反射的に頭に浮かんだのは、もちろん雅也の顔だ。咄嗟にぎゅっと目を瞑る。湊の唇は、私の口ではなく頬に触れていた。

「朝だからね。これぐらいでちょうどいいでしょ」

 ニヤリとからかうように笑う湊に、かぁぁっと耳まで熱くなる私。

「もう、いじわる〜!」

 むっとしながらも、心の中ではドクドクと心音が高鳴っていることに気づいていた。

 おかしい。

 私には雅也という素敵な恋人がいるのに。

 なんで……ほっぺにキスされたぐらいで、ときめいてしまうの。

 こんなの変だ。異常だ。だめだよ。

 頭ではそう思うのに、心のどこかでは嬉しくて温かい気持ちがじわりと広がっていることに気づいた。馬鹿みたいに明るくて私のことが好きな湊。仕事でうまくいかなくて悶々としている私の心を、ありえない速さで溶かしていく。

「今度こそ、いってきます」

「うん、いってらっしゃい」

 もう湊の顔を直視することができなかった。こんな朝が一週間も続いている。湊に会うたびに、湊と話すたびに、明日はもっと上手く仕事ができると思わされる。と同時に、胸に甘やかなときめきと切なさがどんどん広がっていく。

「雅也……」

 自宅から一歩踏み出して、大事なひとの名前をつぶやいてみる。

 だけど、どういうわけか、込み上げてくるのは愛しさよりも申し訳ないという気持ちだった。

 だめだよ私。

 私の彼氏は雅也だ。これ以上、湊に近づいてはいけない。第一、あんな感じだけど彼は幽霊だ。ずっと一緒にいたら、きっと私の身によくないことが起きる——。

 そう言い聞かせることでしか、湊と離れる未来を想像することができなくて、また慌てて首を振って歩き出した。



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