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同居人現る

「ただいま」

 誰もいない自宅に帰り着いたのは、午後八時四十分。あれから二時間残業をして今に至る。

 2LDKの我が家は一人暮らしには持て余す広さで、仕事から帰ってきた私は、いつも物寂しい気分にさせられる。

 半年前まで、この家で暮らしていたもう一人の人物の姿を無意識のうちに探してしまう自分がいて、「いかんいかん」と首を横に振った。

()のことはもう考えないって決めたじゃない。

 頭では分かっている。考えたって仕方のないことなのだ。

 半年前に亡くなった婚約者のことなど——考えるだけ、胸が痛くなるに決まっている。だから今は、目の前の仕事と新たに付き合うことになった雅也のことだけを思っていればいい。

 あのひとのことを頭から振り払うようにして、夕飯をつくる。つくると言っても、疲れて帰ってきた平日はいつも、できあいのお惣菜をチンするか、休日に大量いつくった冷凍おかずを温めるだけだ。今日は帰りにスーパーでおかずを買ってきたから、レトルトのご飯を温めて食卓に並べた。ズボラ飯にもほどがある。でも、今の私にはこれが限界だった。

 味わうこともなく、淡々とおかずを口に運んでいく。心が忙しい時は、ご飯の味がしない。学生の頃からこの現象に見舞われることが多くて、よく()に心配されていた。

——大丈夫? また心配事?

 私のことを本気で気にかけてくれているその双眸は、不安げに揺れていて。その瞳に映る自分の顔は、心配してくれることにほっとしているのが自分でも分かるぐらい、穏やかなものだった。

 ……て、また考えちゃってる。

 今日はいつにも増して彼のことを思い出してしまう自分に辟易としていた。

 せっかく雅也という素敵な彼氏ができたばかりなのに。

 どうしてあのひとのことばかり、考えてしまうんだろう。

 さっきよりも早く、手を動かしてお惣菜をぱくぱくと食べる。今、心配してくれるひとはこの家にいない。自分のことは自分で慰めるしかない。いちばん有効なのはやっぱり忙しくすることだ。

 ばばばっと食事を終えると必要最低限の洗い物をして、ふう、と一息つく間もなく、ダイニングテーブルの上でノートパソコンを開いた。

 仕事の続きをしよう。

 会社でやっていた仕事のデータは常に持ち歩くようにしている。もちろん、紛失しないように細心の注意を払っている。職場と自宅を往復するだけの生活だから、そのあたりはあまり心配していなかった。

 それよりも、滞っている仕事を前に進めるほうが大切だ。

 仕事をしていれば余計なことを考えなくて済む。

 だから家で持ち帰りの仕事があるからと憂鬱になることはなかった。

 上司の期待に応えられないほうがずっと辛い。せっかくやりたい仕事に就くことができたのだ。最初から難しい案件を引き受けて不安な気持ちはあるけれど、私に任せてくれた上司の気持ちを無駄にしたくない。期待に応えたい。

 その一心で、デザインと向き合う。デザインソフトを開き、画面と睨めっこ。雅也との仕事上の過去のメッセージを漁り、どんなデザインがいいのか、ひたすら頭の中で練って、実際に手を動かした。いくつもいくつもアイデアを出し、その度に新しいファイルで違うデザインをつくった。この中のどれかが先方のお気に召してくれたらいいと祈りながら。

 一時間ほど、仕事を向き合っていると、自然と肩が凝っていることに気づく。ふと時計を見ると、時刻は午後十時を過ぎていた。一度コーヒーでも淹れようかと椅子から立ち上がろうとしたときだ。

「疲れてんの? 大丈夫?」

 ひゅっと冷たい風が背中に吹きつけたかのような感覚がして、後ろから誰か(・・)に声をかけられた。

 は……?

 ドクンとひとつ、大きく心臓が跳ねる。振り返ることはおろか、微動だにできずに固まってしまう。

 聞き間違い……よね?

 だってこの家にはいま、私しかいない。誰の声も聞こえるはずがない。

 頭では分かっているはずなのに、先ほど聞こえた声が聞き馴染みのある懐かしい声であることに気づいて、どんどん胸の鼓動が速くなるのを感じていた。

 そんな、おかしいよ。

 絶対にありえない。

 今のは、そう。空耳だ。心が無意識のうちに()を求めるあまり、幻聴を聞かせたんだ。そうに決まっている。そうじゃないと、説明がつかない。

 今起きた現象を可能な限り現実的に解釈をして、ゆっくりと振り返ろうとした。だがそのとき、再びうっすらと風が吹いたかと思うと、目の前に青色のワイシャツを着た男がすっと現れて、私の頭に温かい何かが触れた。

「やっぱり疲れてんだな? あゆりは真面目で頑張り屋さんだからな。俺が慰めてあげる。よしよし」

「え、え、え……!?」

 聞き間違いではない。

 この、場違いなほど明るくて調子の良さそうな声。

 私の頭をぽんぽんと撫でる仕草。

 大きくてゴツゴツとしているけれど、温かい手のひらの感触。

 ぜんぶぜんぶ、覚えている。

 いなくなってからもずっと心が全力で求めていた。彼のことを忘れようと必死に働いて、好きな仕事に転職をして。新しい恋人つくって、新たな人生への一歩を踏み出したんだと思っていた……けど。

 本当はこれっぽちも忘れられてなんかいなかった。

「……(みなと)?」

 見上げた顔は、私が大好きだった婚約者の——羽島(はしま)湊に間違いなかった。くっきりとした二重の瞳に前髪がかかっている。新卒で採用された会社で初めて彼と出会ったとき、背中に電撃が走ったかのような衝撃を覚えた。

 格好良いひと……。

 彼は同期で、同期の中でもいちばん明るくて、容姿端麗で、みんなの中心だった。

 初めの仕事で右も左も分からずに日々消耗していく私たちを、「みんな、今日は飲んで明日からまた頑張ろうぜ!」と励ましてくれた。そんな湊の馬鹿みたいに明るい声を聞くと、自然と明日も頑張ろうという気になれるのだ。

 みんなが憧れる湊。

 湊と自分が付き合うことになるなんて、出会った当初は考えもしなかった。私にはきっともったないないひと。そもそも、学生時代から付き合っている彼女がいるのだろうとばかり思っていた。だから、ひっそりと想いを胸に秘めて、同期の仲間として関わっていこうと思っていたんだけれど。

 湊から何度か遊びに誘われて、気づいたら告白されていた。

 入社して半年後の出来事だ。

 湊が私を好きになってくれたなんて信じられなくて、告白された直後も「本当に?」と気持ちを疑ってしまったほどだ。でも、頬を赤めた湊はいつもの明るい彼とは違っていて、私のことを本気で想ってくれているのだと分かった。そうと分かると、途端に嬉しくて、幸せな気持ちが込み上げた。

「なんだよあゆり。そんなに驚いて。幽霊でも見たような顔だな?」

 昔から変わらない、あっけらかんとした口調で私を見下ろす湊。

 「あ、当たり前じゃない……! これ、夢だよね……? だってそうでしょ。夢じゃなきゃおかしいよ」

だって湊は半年前の冬の日に、雷に打たれて死んでしまったのだから。

「はあ? お前、何言ってんだよ。ずっと一緒に住んでんじゃん。寝ぼけてる? 大丈夫?」

 最初に「大丈夫?」と声をかけてくれた時とはまた別の、からかうような気持ちが透けて見えて、私は思わず「はあ?」と声を上げる。

「湊、もしかして……」

 頭の中で思い浮かんだひとつの予感が、少しずつ輪郭を帯びていく。

 そうだ。間違いない。彼はきっと。

 自分が死んだことに、気づいていない。

 でも、なんで?

 この世になにか未練があって幽霊になっているのだとしたら、亡くなった直後から出てきてもおかしくないのに。どうして、半年経ったいま、湊は私の前に現れたんだろう。

「ん? もしかして、なんだ?」

 私が途中で話をやめたから、湊が不思議がって私の顔を覗き込むようにして見つめた。その瞳には、一点の曇りもなくて、生きていた頃の彼と何ら変わりなかった。

 一瞬、彼にもう死んでいることを伝えようかと迷う。

 でも、湊のその光り輝く瞳を見ていると、できなかった。

 あなたはもう死んでるよ、なんてそんな残酷な言葉、彼にかけられないよ……。

 だって私は、心のどこかでまだ、湊のことを——。

「あゆり?」

 下唇を噛んで俯いた私を見て、彼がまた心配そうに私の名前を呼ぶ。この五年間、慣れ親しんだ彼の声。彼を失ってから半年間、ずっと聞きたかった声。もう二度と聞くことができないのだと思い知って、絶望に打ちひしがれたいくつもの夜を思い出した。

 顔を上げて、湊の頬に手を伸ばす。その手に触れようとした瞬間、テーブルの上に置いていたスマホが震えた。

 湊が私と同じタイミングでスマホのほうを見やる。

 LINEの通知だ。

 画面に浮かび上がるポップアップ通知の「宗岡雅也」という名前を、彼が見ないように、無意識のうちに心の中で祈ってしまう。

「あゆり、スマホが」

 彼がスマホのほうに手を伸ばそうとした。が、その手がスマホに届く前に、私は自らそれを手に取った。

「ごめん、同僚から連絡みたい」

「そうなんだ。あゆり、確か転職したんだよな」

 湊が転職をしたことを知っていることは意外だった。転職は彼がいなくなったあとの出来事なのに、その辺の事情は理解しているのか。

「あれ、俺なんであゆりが転職したって思ったんだっけ……」

 ぽりぽりと頭を掻きながら不思議そうに首を傾げる。「おかしいなー」ととぼけた様子でつぶやいているのを見ると、彼は自分でもなぜ私の転職の事実を知っているのか、分からないようだった。

「まあ、細かいことはどうでもいいか。新しい仕事はどう?」

彼に問われてふと雅也の顔を思い浮かべる。

 新しい仕事。

 新しくできた恋人と一緒に頑張ってるんだけど、なかなか思うようにいかなくて——そんなこと、言えるはずがない。

 胸に確かな罪悪感を覚えながら、テーブルの上のパソコンの蓋を閉じた。

「順調、とまでは言えないけど……頑張ってるよ」

「そっかー。あゆりってなんでも器用にこなすタイプだもんな。どんな仕事でも絶対に手を抜かないし。さすがだな」

「……いや、そんなことないよ」

「そんなことあるって」

 彼はにっこりと笑いながら、再び私の頭にぽんと手を乗せて撫でてきた。

 幽霊なのに、やっぱり温かい……。

 湊の手は、私の身体をすり抜けたりしないんだ。

 それに、幽霊ってもっとおどろおどろしくて恐ろしいものだと思っていた。

 生前と何も変わらない、ひょうきんものの湊の幽霊を見ていると、こんな幽霊もいるのかと驚く。私の中の幽霊のイメージがどんどん崩れ去っていく。

 と同時に、胸に込み上げるのはどうしようもない切なさだった。

「どうしたのあゆり。やっぱり疲れてるだろ?」

 目尻に溜まっていく涙をこぼさないように、必死に指で拭う。

「違うって。埃が舞ってるだけ」

「えー、毎日二回掃除機かけるぐらい綺麗好きなあゆりの部屋に埃なんて舞ってるはずないじゃん」

「いや、埃ぐらいあるよ。もう気にしないで」

 これ以上心配されるのがいやで、突き放すように彼の目をキリリと見つめた。でも、湊は私の鋭い視線を受けても、にっこりと笑っている。

「そうやって強がるところも可愛いんだよな、あゆりは。大丈夫。俺が癒してあげるから」

「〜〜〜!」

 声にならない吐息が口から漏れて、咄嗟に赤くなった顔を背ける。

 私、どうしちゃったんだろう……!

 相手は元婚約者とはいえ、幽霊だよ。それに私にはいま、雅也という大事な恋人がいる。それなのに、元彼に会えて嬉しくてときめいているなんて、そんなこと……。

 あっていいはずがない。

 彼はもう死んだのだ。

 半年前に涙のお別れをして、ようやく前に進み始めたところだった。

 羽島湊は過去のひと。これ以上、関わっちゃいけない。

 必死にそう自分に言い聞かせて、「ごめん、今日はもう寝るね」と椅子から立ち上がった。

 なんだか本当に、今日は疲れが溜まっているみたい。

 きっと明日の朝目が覚めたら、湊はいなくなっているだろう。だから、今日ベッドに入ったらまた湊とお別れすることになる。ふともう一度彼に触れたいという衝動に駆られている自分がいて、唇を噛んだ。

 ……だめだよ、自分から触れたりなんかしたら。

 雅也という恋人がありながら、幽霊とはいえ元彼に触れたいなんて思う自分が恨めしくて、同時に胸が軋んだ。

「あゆり、おやすみ。ゆっくり休んでね」

 私の心中なんてこれっぽちも知らない湊が、一緒に暮らしていたころと変わらない挨拶をしてくれる。

「……うん、おやすみ」

 きっとこれがもう、本当のお別れだ。

 今のこの時間は、ボーナスタイムのようなものだ。

 神様は気まぐれだ。

 私から突然大事なものを奪っておいて、こうしてまた大事なひとを連れてきたくれたんだから。仕事で疲れている私が見る、都合のよい幻想。ゆっくり休んで明日の朝目が覚めたら、彼はもうここにはいない。

 その事実に打ちのめされながら、彼に背を向けて自室へと入っていった。

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