第5話:二つの「正義」が交差する、カフェの一瞬
九条刹那は、黒曜から受け取った「清掃ルート」の紙を、指先で静かになぞった。そこには、特務部幹部・城之内が非公式な会合を開くカフェの、清掃員が巡回する精密な時間が記されている。
「神崎零司は、この情報の一部を掴む。そして、彼が動いた直後、僕の時間が始まる」
刹那はそう呟き、いつものように学校の屋上にいた。風が吹き抜け、彼の黒髪を揺らす。
その時、屋上のドアが開き、一之瀬雫が入ってきた。
「やっぱり、ここだ!」
雫は息を切らしている。その手には、昨日食べきれなかったおかずを詰めた、小さな容器があった。
「刹那くん、これ、お弁当のおかずの残り。晩ご飯にでも食べてね」
彼女は差し出しながら、不安そうな目で刹那を見上げた。
「……君は、僕が君の優しさを利用して、何か裏で悪事を働いているとは思わないのか」
刹那は、自らの内に巣食う「復讐」という名の業を、あえて彼女に突きつけてみた。
雫は目を丸くし、それから少し困ったように笑った。
「悪事……?うーん。刹那くんが何か深刻なことに巻き込まれているのは分かるよ。でもね、刹那くんはいつも、誰かのために怒っているんだなって、思うの」
彼女の言葉は、刹那の冷たい心を突き刺し、そして温めた。
「誰かのため、か。それは、僕の復讐を『正義』だと呼ぶのか?」
「それは分からないけど。でも、刹那くん、たまにすごく辛そうな顔をするんだ。だから、それが悪いことでも、あなたを支える人がいるっていうことだけは、忘れないでほしいな」
雫の無垢な瞳は、彼の暗い内面を照らす唯一の光のようだ。刹那は何も言わず、差し出された容器を受け取った。
(もし、僕が本当に悪事に手を染めたとしても、この優しさは、僕を地獄の淵から引き戻す錨になる)
その瞬間、刹那は決意した。雫だけは、絶対にこの復讐劇の核心に触れさせてはならない。彼女は、この物語に存在する、唯一の「救い」なのだから。
午後3時。特務部幹部・城之内が会合を開くのは、銀座の裏通りにある、一見普通の静かなカフェだ。しかし、このカフェは魔法庁の人間が、非公式に極秘取引を行うための巧妙な隠れ蓑だった。
刹那は通りを挟んだ向かいのビル屋上から、カフェの様子を監視していた。彼の右手の掌は、いつでも『時間停止』を発動できるよう、魔力を微かに帯びている。
「そろそろ、零司が動く時間だ」
黒曜の情報通り、この時間に城之内は、違法な魔導具の取引の鍵となるデータを、会合相手に渡す手筈になっている。
そして、その瞬間は来た。
カフェの裏口の清掃用通路に、一瞬だけ、黒い影が差し込んだ。それは魔法庁のユニフォームではない、漆黒の戦闘服。そして、その影が動き出した瞬間、カフェ周辺の魔法庁監視カメラの映像が、一瞬だけ砂嵐になった。
(神崎零司の『空間断裂』による、魔力回路の一時的な切断。清掃ルートの情報は、零司のチームにも流れていた)
零司は城之内を現行犯で押さえるため、周囲の監視を無効化したのだ。零司の「法」は、不正を許さない。
刹那は静かに、そして素早く、カフェの正面入口へと移動した。零司が裏から踏み込むまでの、わずか数十秒の猶予。
カフェのドアに手をかけたその瞬間、刹那は、全身の魔力を解放した。
「――『時間停止』」
世界が、刹那の復讐のために、静止した。
店内。城之内は、会合相手と資料を交換しようと、手を伸ばした瞬間で凍りついている。周囲の客も、コーヒーカップを持ち上げたまま静止している。二つの「正義」が交差する、決定的な一瞬だ。
刹那は静止した店内に入った。彼に与えられた時間は、わずか二分。零司が『空間断裂』の副作用から回復し、突入を完了するまでの間だ。
彼は凍りついた城之内に近づいた。彼の目的は、城之内の持つ「家族の事件の核心資料」の入手だ。
(城之内の手にあるのは、取引の資料。僕が欲しいのは、裏側の真実)
刹那は、城之内のスーツのポケット、そして会合相手のブリーフケースを探索した。だが、資料はない。彼は、時間停止の貴重な数秒を、徒労に費やそうとしていた。
「くそっ、どこだ……!」
焦りが、冷静さを蝕む。心臓が限界を告げるように激しく鼓動する。
その時、刹那の視界の端に、壁の絵が映った。抽象的な油絵だ。時間停止で止まっているため、絵の具の細かいヒビまではっきりと見える。
(このカフェは、隠れ蓑。金庫室ではない……)
刹那は、絵に触れた。油絵の裏側に、僅かな魔力の反応がある。
(これだ!)
彼は急いで絵を外し、その裏側を露出させた。そこには、薄い金属製の扉があり、魔法的なロックがかかっていた。通常のロック解除ツールでは間に合わない。
「『時間停止』の力を、解除に使うしかない」
刹那は、時間停止を保ったまま、自身の能力を扉のロック機構に逆流させた。停止した時間の流れを、強制的に過去へ巻き戻し、ロックがかけられる前の状態へと戻すのだ。それは、魔力消費が極めて激しい、禁断の応用技だった。
扉が、無音で「カチリ」と音を立てて開いた。
その中には、小さな電子端末があった。端末の画面には、「極秘:特務部・二年前の最終報告書」という文字が映し出されている。
刹那は息を呑んだ。これこそが、家族の死の真実が記された、「復讐の鍵」だ。
彼は端末を抜き取り、懐に隠した。そして、岩永の時と同じように、城之内の通信記録に、彼の隠された不正の情報をリークさせる。
(これで、零司が城之内を逮捕する。僕は、零司の正義を、僕の復讐のために完全に利用した)
任務完了。
刹那は、テラスの窓を破り、元の屋上へと戻る。全身から力が抜け、彼はアスファルトの上に崩れ落ちた。
「ハァ、ハァ……間に合った……」
「――解除」
世界が再び、動き出す。
カフェのドアが蹴破られ、零司率いる特別監査チームが突入した。
「動くな、城之内監査官!君の不正は全て露呈している!」
零司の冷徹な声が響き渡る。
城之内は混乱し、顔色を変えた。
「な、なぜだ!?誰が、私を……!」
零司は、城之内の姿を一瞥した後、鋭い視線を刹那が逃げた窓の外へと向けた。
(やはり、君か、刹那。君が、僕に『情報』を与え、僕の『法』を走らせている)
零司の冷たい瞳に、明確な「敵意」が宿った。彼は、刹那が自分の行動を予測し、利用していることに気がついたのだ。
「九条刹那。君の復讐は、もはや私的な感情ではない。それは、法と秩序への、挑戦だ」
零司はそう心の中で断言した。彼の「正義」は、今、感情を持たない機械から、絶対的な「断罪者」へと変貌し始めていた。
一方、屋上。端末を握りしめた刹那の耳に、疲労で朦朧とする意識の中、どこからともなく、黒曜の楽しそうな声が聞こえた。
「おめでとう、刹那。これで君は、復讐の核心に触れる。だが、最も危険なのは、真実を知った後だ。さあ、その『鍵』を開けてごらん」
刹那は、極秘報告書と書かれた端末の冷たさを感じながら、再び、孤独な戦場に立ち尽くしていた。
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