2-2
ルナは慣れない宮廷の緊張からか、ソファに座ってしばらくすると、ついウトウトと眠りに落ちてしまっていた。
静かな部屋の中、幼い頃の思い出や、小さなお菓子屋の夢を見ていたような気もする。
──時計の針が午後を指し、陛下との予定時間が近づいていたとは知らずに。
コンコン…と扉のノック音の後に、ウィンが静かに部屋に入る。
「ルナ様、お休みのところ恐れ入ります。まもなく国王陛下…」
そこで、彼の言葉が止まる。
ソファの上で、わずかに口元を緩め、無防備な寝顔を見せるルナの顔。
その表情は、街の陽光を浴びた明るい雰囲気とは異なり、まるで幼い頃に戻ったかのように無垢で穏やかだった。
その寝顔を見た瞬間、ウィンの冷静な表情がピクリと揺らいだ。
ウィンの脳裏に──鋭い光とともに、過去の記憶が一気に流れ込んできたからだ。
***
──(嫌だ!こんな厳しい訓練、もう嫌だ!僕には無理だ!)
雨の日の庭園。
泣きながら茂みに隠れている、幼い金髪の少年。
その茂みの前に立つ、一人の小さな女の子が泣き腫らした彼の顔を見て、手を差し伸べる。
顔を上げると、
「あのね、これ!『夜空のキャンディ』っていうんだけどね、魔法のお菓子なの。食べたら、きっと"勇気"が出てくるからね!」
何も聞かずに、青い小さな菓子の包み紙を差し出して、
「あなたの瞳を思い出して作ったのよ」
と得意げに語る彼女は、自分のことを『ルチェ』と名乗っていた。
***
……その時見た、何の曇りもない、優しく無垢な笑顔──
目の前に眠る女性の顔と、記憶の中の幼い女の子の顔が重なり合う。
(ルナ様…?まさか、あの時の……)
瞬間、"氷雪の執事"としての鉄壁の仮面が一瞬崩れ、青い瞳が大きく見開かれた。
彼は無意識にポケットの中にいつも忍ばせている、古い小さな紙包みの入った"お守り"を強く握りしめる。
完璧な執事としての理性と、突然蘇った過去の記憶に対する動揺とで、彼の心の中で激しく衝突していた。
だが、すぐに後者は振り払うようにして表情を固める。
感情の波を押し殺し、ウィンは一呼吸の後、彼女を起こすため静かに声をかけ直した。
「ルナ様、ティータイムの準備が整いました。国王陛下がお待ちでございます。」
彼の声は静かで、部屋の静寂を破るには十分だったが、相手を驚かせないよう配慮された洗練された声色で。
パチッ…と開かれたルナの視線は、目の前の執事の、夜空のような紺碧の瞳をしっかり捉えていた。
「綺麗…」
静かな客間に響いたのは、ルナの寝ぼけたような、しかし心からの賛辞だった。
ウィンの青い瞳は突然のその言葉に、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、"夜空のキャンディ"のような光を宿していた。
彼はその言葉の意味を理解する間もなく、その輝きを氷雪の仮面の下に閉じ込めた。
彼の表情は完全に平静に戻っていたものの、その頬には微かに熱が残っているかもしれなかった。
発された言葉が、偶然にも彼の幼い頃の記憶と深くリンクした『魔法のお菓子』のモチーフを呼び起こしてしまったからだ。
ルナはというと、すぐに自分の失言と、まだ身なりが整っていないことに気づいて、慌ててソファから立ち上がった。
頬を赤らめ、慌てて乱れた髪を直すルナ。
王宮の客間で眠り込むなど、一般人とはいえあまりにも無防備な失態だ。
「あ、ああっ……!失礼いたしました、ウィン執事様!少し、うたた寝をしてしまっていたようで、申し訳ありません。すぐに向かいます!」
服のシワを払い、彼に深々と頭を下げた。
ウィンは完璧なポーカーフェイスを保ったまま、穏やかでありながらも凛とした声で答える。
「いえ、お気になさらず。旅の疲れが出たのでしょう。どうぞ、ごゆっくりで結構でございます。」
そう言いながらルナを待つ間、視線は彼女から逸らし、部屋の隅にある小さな花瓶を眺めていた。動揺を悟られまいとする、彼の無意識の行動だ。
しかしルナの方も、緊張と羞恥でウィンの顔をまともに見ることができなかった。
「それでは、ご案内いたします。王様はテラスで、お祖父様との思い出のティーカップをご用意してお待ちでございます」
ウィンは先導するように、静かに一歩を踏み出した。
***
ウィンの案内に従って、ルナは応接室から、よりリラックスした雰囲気の明るいサンルームへと移動した。
部屋全体が暖炉の柔らかな熱と、夕日が差し込む光に包まれている。
部屋の中央にはアルドリック国王が既に座っており、優雅に紅茶の香りを嗅いでいた。
「ルナ嬢、よく来てくれたね!会えて本当に嬉しいよ。ご苦労だったね。」
国王の気さくな笑顔と温かい歓迎に、ルナの緊張もほぐれる。
「アルドリック国王陛下、この度はお招きいただき、また祖父の店への温かいご支援、誠にありがとうございます」
ルナは深々とお辞儀をする。
挨拶を交わした後、ティータイムが始まった。
国王はルナの祖父との思い出話に花を咲かせ、支援の経緯を説明してくれた。
「君のおじいさん、彼は最高の友人だった。そして最高の『人生の魔術師』だったよ。あの美味しいお菓子で、どれだけ私が元気をもらったか。君の店を支えるのは、私にとっても喜びなんだよ。」
和やかな空気が流れる中の、ウィンの給仕は相変わらず完璧だ。
彼の流れるような動作で淹れられた紅茶の香りが、ルナの心を和ませる。
「さあ、まずはこの紅茶で一息つきなさい。そして君のお菓子屋の夢、おじいさんの思い出を、ゆっくり聞かせてくれるかね?」
国王の温かい言葉に、ルナは紅茶に手を伸ばす。
ルナは、アルドリック国王に祖父との思い出や、小さなお菓子屋の看板に込めた思いを、熱を込めて語った。
国王は身を乗り出し、時折豪快に笑いながら、熱心に耳を傾けている。
サンルームは暖かな夕日と、気さくな国王の笑顔で満たされていた。
そんな陛下とルナの会話を耳にしながらも、ウィンのそのクールな瞳は遥か遠く、庭園の隅に留まっていた。
彼女は、あの頃と変わらない。ただ大人になられた。
しかし陛下との会話の中で『ルチェ』という名前は出てこないが……?
(あの時の記憶を、公にはしていないのか?)
ウィンが疑問を浮かべた、そんな時。
サンルームへと続くガラス扉がノック音と共に開いた。
「──国王陛下。公務より戻りました」
そこに立っていたのは、夜に溶け込むような漆黒の髪と、すべてを見透かすような黒曜石の瞳を持つ青年。
彼の佇まいからは、人を惹きつける強い色気と、洗練された魅力が漂っていた。
彼こそが、この国の第二王子・エルリック・ブランフォードだ。
.




