反響する声
その声に気づいたのは、たしか水曜日の夜だった。
仕事から帰り、冷蔵庫の残り物で夕食を済ませ、ソファに座って本を読んでいた。
午後十時を少し過ぎた頃だったと思う。
隣室から、誰かの話し声が聞こえてきた。
薄い壁越しに、言葉の内容までははっきりとは聞き取れなかった。
ただ、男性の声で、独り言のような抑揚があった。電話をしているのか、それとも独り言なのか。
私は本から目を離さず、ページをめくった。一人暮らしのアパートなら、隣人の生活音が聞こえることはよくあることだ。
けれど、その声は妙に気になった。
リズムが、どこか自分の呼吸と重なるような気がしたのだ。
翌日の夜も、同じ時刻に声は聞こえた。今度は少しだけ注意を向けてみた。
声は低く、淡々としていて、何かを説明するような口調だった。耳を澄ますと、言葉の断片が壁を通して届く。
「……だから、僕はそう思ったんだ」
「……誰も、気づかないだろう」
普通の会話だった。特に奇妙な点はない。
ただ、相手の返答が一切聞こえないことが少しだけ引っかかった。
電話にしては間合いが長すぎるような。しかし、独り言にしては語りかけるような抑揚がある。
私は考えるのを辞め、再び本に視線を戻した。
しかし、声は聞こえ続けた。
「……仕事は退屈だった。誰とも話さなかった」
無意識で耳に入っていた声の中からこの会話だけがはっきりと聞き取れた。
それは、今日の私の一日のようだった。
単なる偶然だ、と思った。誰にでもある日常の風景だ。
仕事が退屈で、誰とも話さない日など珍しくない。
けれど、その声の調子が、私自身の内側の独白と似ていることが、どうしても気になってしまった。
金曜日の夜、私は意識的に壁に耳を近づけてあの声を聴くようになった。
声はまた聞こえた。今度は少し明瞭に。
「……夕食は冷凍のパスタだった。味は覚えていない」
昨日、私が食べたものだった。
「……眠る前に、窓の外を見た。誰も歩いていなかった」
私も、昨夜同じことをした。
心臓が早鐘を打ち始めた。偶然にしては重なりすぎている。
まるで、誰かが私の一日を記録して読み上げているようだった。
土曜日の朝、私は意を決して管理人室を訪ねた。
管理人は無表情で書類に目を通していた。
私が隣室について尋ねると、彼は顔も上げずに答えた。
「203号室ですか。空室ですよ」
「空室?」
「ええ。先月から誰も住んでいません」
「でも、声が聞こえるんです」
管理人はようやく顔を上げた。無機質な目が私を見た。
「それはおかしいですね。鍵もかかっています。確認しますか?」
私は頷いた。
管理人は鍵束を持って立ち上がり、私と一緒に二階へ上がった。
203号室の前で立ち止まり、彼は鍵を差し込んだ。ドアが開く。
中には、何もなかった。
家具も荷物もない。
カーテンも外されていて、午後の光が床に白く広がっていた。
うっすらと埃の匂いがした。確かに、誰も住んでいる気配はなかった。
「どうぞ、ご確認ください」
管理人の声は事務的だった。私は部屋に足を踏み入れた。
壁を叩いてみる。空洞音が響く。何の変哲もない、ただの空き部屋だった。
「……失礼しました。私の勘違いだったようです」
私はそう言って、自室に戻った。
その夜、あの声はまた聞こえた。
「……管理人に尋ねた。空室だと言われた」
私は凍りついた。
「……でも、声は聞こえる。確かに聞こえる」
それは、今日の私の行動そのものだった。
「……どこから聞こえるんだろう」
壁に手を当てた。声は続く。
「……君は、そこにいるのか?」
息が止まった。
「……聞こえているなら、答えてほしい」
私は、震える声で呟いた。
「……誰だ」
すると、壁の向こうから、こう返ってきた。
「……君だよ」
全身の血が冷たくなった。
その声は静かに続けた。
「……ずっと、ここにいた。君が帰ってくるのを待っていた。君が話すのを聞いていた。君が眠るのを見ていた」
「そんなはずはない」
「……君は一人じゃなかった。ずっと、僕がいた」
私は壁から飛び退いた。しかし、声は止まらない。
「……君の声を聞いていたら、僕も話したくなった。だから、話しかけた」
私は部屋中を見回した。
録音機器でも仕掛けられているのだろうか。誰かが私を監視しているのか。
「……君は、僕に気づいてくれた。嬉しかった」
スマートフォンを取り出し、録音アプリを起動した。
壁に向けて、もう一度問いかけた。
「お前は何者だ」
返答はなかった。
沈黙が続いた。
私は録音を止め、再生ボタンを押した。
スピーカーから流れてきたのは、私の声だった。
「お前は何者だ」
そして、間を置いて、また私の声。
「……管理人に尋ねた。空室だと言われた」
「……でも、声は聞こえる。確かに聞こえる」
私は何度も再生した。
全て、私の声だった。抑揚も、間合いも、私のものだった。
けれど、私はそんなことを口に出していない。
日曜日、私は一日中部屋に閉じこもった。声は聞こえなかった。
夜になって、ふと窓の外を見た。誰も歩いていない静かな通りだった。
そして、壁の向こうから、声が聞こえた。
「……日曜日、一日中部屋に閉じこもった」
私は振り返った。
「……夜になって、窓の外を見た。誰も歩いていなかった」
録音していないのに、声は私の行動を語り続ける。
「……そして、壁の向こうから、声が聞こえた」
私は壁に近づいた。
「……私は振り返った」
耳を当てる。
「……私は喋ってなどいないし、録音もしていないのに、声は私の行動を語り続ける」
心臓が激しく打つ。
「……私は壁に近づいた」
「やめろ!」
声は、少しの間を置いて、静かに続けた。
「……私は叫んだ」
そして、沈黙。
長い、長い沈黙。
私は床に座り込んだ。何が起きているのか、もはや理解できなかった。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
私は一人ではなかった。
この部屋には、もう一人の私がいた。
それは壁の向こうではなく、もっと近くに。もしかしたら、私の内側に。
月曜日の朝、私は会社を休んだ。
誰にも会いたくなかった。何も話したくなかった。
ただ、静かに座っていた。
そして、夜。
また、声が聞こえた。
「……月曜日、会社を休んだ。誰にも会いたくなかった」
私は答えた。
「……そうだ」
「……何も話したくなかった」
「……そうだ」
「……ただ、静かに座っていた」
「……ああ」
声は、少しだけ優しくなった気がした。
「……君は、ずっと一人だったんだね」
私は目を閉じた。
「……ああ」
「……僕もだよ」
壁に手を当てる。もう、怖くはなかった。
「……だから、話そう」
「……ああ」
「……ずっと、一緒にいよう」
私は頷いた。
そして、気づいた。
自分の口が、声と同時に動いていることに。
私は、ずっと一人で話していたのだ。
壁の向こうには、誰もいない。
ただ、私の声が、反響していただけだった。
窓の外を見た。誰も歩いていない。
静かな夜だった。




