01.旅立ち
壁が壊されてから約10分後。
リディアは、ソファの背もたれに寄りかかりながら、ぐったりと座っていた。
その前にひざまずくレオハルトが、心配そうな顔でコップに入った水を差しだした。
「大丈夫ですか?」
「え、ええ、ありがとう。少し驚いただけだから、大丈夫よ」
リディアは身を起こすと、コップの水に口をつけた。
チラリとレオハルトを見て、心の中でため息をつく。
(この人があのレオハルトだなんて、信じられないわ)
彼女の記憶の中にあるレオハルトは、目がぱっちりとした小さくて可愛らしい男の子だ。
しかし、この青年はそれとはかけ離れていた。
冴え冴えとした黒髪に、整った顔立ち、切れ長で涼しげな目元に赤い瞳。
背はリディアよりもずっと高く、身体つきも細身ながらがっしりしており、いかにも騎士といった風情で、エルフにはいないタイプの美青年だ。
(なんだか知らない人みたいで緊張するわ)
リディアの戸惑った表情を見て、レオハルトが申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんね、リディア。驚いたよね」
その子どもっぽい言葉遣いと、シュンとした様子に、リディアはくすりと笑った。
その様子は、昔のレオハルト少年そのものだ。
(やっぱりレオハルトはレオハルトね)
そう思いながら、彼女は手を伸ばして彼の頭をなでた。
「大丈夫よ、少し驚いただけよ」
「あ、うん……、それならばいいんですが」
頭を撫でられたレオハルトが、表情を隠すように片手で口元を押さえる。
そして、気持ちを落ち着かせるように軽く息を吐くと、真面目な顔でリディアを見た。
「そろそろここを出ることを考えたいのですが、どうでしょうか。穴がふさがり始めたようですし」
そう言われてリディアが壁を見ると、先ほど開いた大穴が少し小さくなっているように見える。
「また開ければいいだけですが、何度もやると木にも負担がかかるかと」
「そうね。少し準備をしてもいい?」
「急がなくても大丈夫です。穴がふさがらない程度には広げておきますから」
リディアは、急いで立ち上がった。
何を持ち出そうかと考えながら作業スペースに向かい……ふと、レオハルトを振り返った。
「エルフ国が、今どうなっているか知ってる?」
「あの国は秘密主義なので詳しいことは分かりませんが、ここ10年間で目立った大きな動きはないと思います」
「……国王が変わったりはしていない?」
「変わっていないと思います。ここ最近は作物もよく採れていて、経済が潤っているという話はよく聞きます」
「……そう」
リディアはお礼を言うと、作業スペースに向かった。
急いで持ち出す荷物を準備しながら、思案に暮れる。
(わたし……、これからどうすればいいのかしら)
実のところ、リディアはエルフ国に大変な何かがあったのだろうと思っていた。
ヴェロニカとギルバードは、「すぐに迎えに来る」と言いながら10年間迎えに来なかった。
きっと、父と国に何かあったに違いない。
しかし、今のレオハルトの話を聞く限り、何もないどころか国の状況はすこぶる良いらしい。
(つまり、わざと迎えに来なかった、ってことよね……)
何の知らせもなく迎えに来なかったということは、それが答えなのかもしれない。
リディアは視線を落とした。
少し前までは、ここを出たら、すぐに王宮に戻ろうと思っていた。
しかし、今はそれが果たして正解なのか分からない。
(……とりあえず、外に出る準備よね)
リディアは一旦考えを横に置くと、荷物を準備し始めた。
製薬道具や本や着替えなど、必要最低限のものをマジックバッグに入れ、入らない分は置いていく。
その後、ここに来てくれていたリスやウサギのためにと、畑と果樹園から野菜と果物をたくさん収穫して置いておく。
そして、ざっと部屋の片付けを済ませると、リディアは改めて部屋を見回した。
ぼんやりと柔らかい光に包まれた緑の部屋に、そっと「ありがとう」とつぶやくと、足元で首をかしげているウサギやリスに、「行こう」と声を掛ける。
少し小さくなった壁の穴の傍にいくと、外に剣を持ったレオハルトが立っていた。
どうやら穴が小さくなりすぎない程度に何かしてくれていたらしい。
「準備はもういいですか?」
「ええ。――わたし、出てもいいのかしら……?」
思わず尋ねると、レオハルトが微笑みながら手を差し出した。
「いいに決まっています」
リディアは、レオハルトの手に自分の手を乗せると、恐る恐る穴から外に出た。
振り返ると、巨木に空いた穴がみるみるうちにふさがっていくのが目に入った。
穴はどんどん小さくなっていき、住み慣れた部屋がどんどん見えなくなっていく。
そして、穴が完全にふさがり、リディアは周囲を見回した。
森は春の緑に満ちており、柔らかな風が吹いている。
その春風に混じる土と森の香りに、思わず泣きそうになる。
そんなリディアを、レオハルトが目を細めて見つめた。
少しためらった後、彼女を真剣な顔で見た。
「これからですが、もしも良ければ、私と一緒にセレニアに行きませんか?」
「セレニア?」
セレニアとは、エルフの国に隣接している共和国で、森と緑が多い自由主義の国である。
「セレニアは森が多い美しい国です。余所者に寛容な国なので、前に言っていた薬屋を開くこともできると思います」
リディアは目を見開いた。
「覚えていてくれたの?」
「もちろんですよ。リディアの言ったことは一言一句たりとも忘れたりしません」
リディアは目を潤ませた。
ヴェロニカとギルバードは、絶対に迎えに来ると約束して10年間一度も来なかった。
それと比べ、10年前に一度言ったことを覚えていてくれて、それを叶えてくれようとするレオハルトの優しさと誠実さに涙がにじんでくる。
リディアは思った。
自分はもう十分待った。自由になろう。
父に自分が毒を盛ったと誤解されたままのことや、国のことなど、ずっと気になっていた。
でも、もういい。気にするのはやめよう。
ただ、心配なのは、レオハルトのことだ。
自分の願いに付き合ってしまって、彼は大丈夫なのだろうか。
彼女は躊躇いがちに口を開いた。
「すごく嬉しいわ。ありがとう。でも、レオハルトは国を離れて大丈夫なの?」
レオハルトは、柔らかく微笑んだ。
「大丈夫です。リディアがいる場所が私の居場所ですから。リディアこそ大丈夫ですか?」
彼女はうなずいた。
「ええ。大丈夫よ。わたし、行きたいわ」
レオハルトが、そっとリディアに手を差し出した。
「では、行きましょう。向こうで馬が待っています」
「……ありがとう、レオハルト」
リディアが目を潤ませながら彼の手を取る。
そして、彼女はざわめく緑の巨木と動物たちにお別れを告げると、レオハルトと共に森の奥へと歩いていった。