奈落の底へと落ちる瞬間。
そして、月日は流れ、私は8歳になった。
お母様が亡くなって2年、サンドラが義母になって1年経った頃、私はお父様に書斎に来るよう言われた。こうして関わるのが久々だった私は、この後、奈落の底へと付き落とされるとも知らずに、浮き立つ足で書斎へと向かった。
嬉しかったのだ。ここ最近は、もっぱらエヴィとサンドラとだけ関わっていたお父様が私だけに時間を割いてくれたことが。
“お父様”と呼ぶ声が、つい弾む。
私は信じて疑わなかったのだ。『アイヴィ、よく来たね』と微笑み、駆け寄る私を抱き締めてくれるに違いないと。しかし、実際に向けられた目は優しさなんて一切感じない冷たいもので、私の体は頭から冷水をかけられたかのように急激に冷たくなっていった。
そうだ、お父様はもう私の大好きだった頃のお父様じゃないんだ。
現実を突き付けられた私は、酷く悲しい気持ちになった。視界が涙でぼやける。今にも泣き出しそうな顔をしたって、お父様は私に何の言葉も掛けてくれない。
いったい何を期待してしまったのだろうか。ぎゅう、と着ていたドレスを握りしめながら、そう思っていた私に、お父様は言ったのだ。
「2つも同じ顔は、我が家には必要ない。」
――と。
いったい何を言っているのか、分からなかった。どういう意味なのだと問い掛ける私に、お父様は『言葉通りの意味だ』と言った。
言葉通りの意味…、つまりは、…そう。私は、要らないということ。
お父様は無慈悲にも、発言を続けた。
「エルズバーク伯爵が、お前のことを偉く気に入ってな。うちを支援してくれる代わりに、お前を寄越せと言うんだ。うちに同じ顔は2つも必要ないし、丁度いいと思ってな。」
本当にこの人は、私が大好きだったお父様と同一人物なのだろうか。何か呪いにでもかけられているのではないか。あまりにも酷い発言に、私はそう疑わずにはいられなかった。
ローナン家は元々、貴族とは言えども、大富豪というわけではなかった。食べるものにも、着るものにも困らなかったが、高名な公爵家なんかと比べてしまえば財力は足元程度。それなのに、貴族ならばお金があって当然だと思い込んでいる馬鹿なサンドラのせいで、ローナン家は、窮乏の一途をを辿っていた。
支援と引き換えにといえば多少聞こえは良いが、要するに私はエルズバーク伯爵に売られたというわけだ。羽振りの良いエルズバークから、お金を貰ったんだ。それはそれは、涎が出てしまうような大きな額だったのだろう。
後に知ることになるが、どうやらエルズバーク伯爵は、性的嗜好がひん曲がっており、社交界でも“子供好きの変態”と有名だったようだ。
そんな男に実の娘を渡すのだから、お父様もどうかしている。しかし、8歳の私にどうにかする術はなく。私は、8歳の冬。エルズバーク伯爵の養女となった。