生き戻りした俺とサキのたった1日の日常
「ねぇ」
外に雪が降る夜、暖房のホワホワとした暖気が部屋を満たす中、サキが何気なく話しかけてきた。
「うん?」
俺は読んでいた本から目を外し、サキの方を見て返事をした。
彼女は桃色の長い髪を床にだらしなくつけていたがそれを気にすることなく座布団に座り、何かをどうしても伝えたいという目でこちらを見ていた。また猫でも見た話をしてくれるのだろうか。
するとサキは穏やかに笑いながら
「幸せだね」
と、そう言った。
…何をいうのかと思ったら、ずいぶん嬉しいことを言ってくれるな…
むず痒くて仕方ないが、しかし確かに俺は今、幸せだった。
ふと一年前のことを振り返る。確か俺たちが出会ったのは入学式の時だった。別に劇的な出会いをしたわけでもなかった。
彼女が困ってたから助けたわけでも、彼女に助けられたわけでもなかった。ただすれ違っただけ。
その瞬間、俺は振り返り、彼女も振り向いていた。それだけのことだった。
それから俺たちは親睦を深めていった。遊園地に行ったり映画を見たりもしたが、何より彼女といることが幸せだった。俺たちは自然と一緒に暮らしていた。
知り合いでもなかった人とすれ違っただけでお互いの存在を意識し、互いを必要とし、喧嘩をすることもなく存在するだけで心が安らいだ。間違いなくこれは運命だった。
確かに俺は今、幸せだった。だから俺は顔が緩むのを抑えず、サキを真っ直ぐ見て言った。
「…うん、サキと会えて、幸せだよ」
やっぱりキツかった。言ってる途中で流石に恥ずかしくて目を伏せた。きっと顔も大変赤くなっていたことだろう。そんな俺を見て彼女はからかうことなく笑って、また穏やかな時間が流れた。
ふと彼女の方を見ると、もうすでにこちらを向いてはおらず、手元の本に夢中になっていた。目の前の本が楽しくて仕方がない、という様子の彼女の横顔を見てまた心が満たされていくのを感じた。
——こんな時間が永遠に続きますように。
「…え?」
ふと気がつくと、俺はさっきまでいた場所とはまるで違う場所に居た。
——ここはどこだ?
俺の通う学校の体育館のようだ。
——何をしてる?
壇上の横断幕には「入学式」の文字が書かれていた。
——さっきまで俺は——
それを考えようとした時
「新入生、起立」
壇上の人物がそう声を上げると、周りに座っていた大勢の生徒が急に立ち上がり始めた。
「ッ!?」
釣られて俺も慌てて立ち上がる。何だ。何で俺の周りが立ち上がった?
——新入生!?
いや、俺は既に入学してから1年は経っているのだから、新入生とはもう言えないだろう。
思考がまとまらないまま入学式は進行していく。
何だ。何が起きている。
さっきまで俺は…そうだ、さっきまで俺はサキと部屋で過ごしていたはずだ。
…いや、本当に直前のことか?
確かに最後の記憶はサキと部屋で過ごしてる所だった。だがその後は?
俺はその後の記憶がまるで霧に包まれたかのように思い出せないことに気がついた。
心臓の音が聞こえる。汗が止まらない。
——なぜ俺はここにいる?
誘拐?時間が飛んだ?
それよりも現実味があるのは記憶喪失の線だった。自分がとんでもない病気を抱えている?
体が冷える。震える。
ふとポケットの中の存在に気づく。それがスマートフォンだとすぐに気がついた。
今は式の途中なので出すのを躊躇ったが、そんな場合ではないと考えを改める。
日付と時間を確認する。…4月1日の10時56分?
部屋にいた時は何日だったっけ?何で11時なんだ?
全く思考がまとまらないが、それでも今一番知りたい情報を検索する。
焦点も定まらず、震える指で何度も入力し直したのは
「今 何年」
検索結果には、本来書かれているべき年より1年足りない数字が表示されていた。
1年、戻っている?
呼吸が苦しい。喉が狭く感じる。
サキ、サキに連絡したい。
もはや真っ直ぐ立っていない俺を隣の人が訝しむ。
布の擦れる音が聞こえる。
司会が何かを話す。
突然曲が流れ始める。
声が響く。
うるさい。静かにしてくれよ。
連絡帳を、開いて、サキに、サキ。
しかし連絡帳には、彼女の連絡先がなかった。
吐き気がした。もう限界だった。
俺は立っていられなくなり、席に手をつきながらゆっくりと倒れた。
——そういえば、今はまだサキと出会ってなかったんだっけ。
先生らしき人に助けられ、医務室まで何とかたどり着くことができた俺は、袋とスポーツドリンクを持ってベッドに寝かされていた。
式のことは気にせずゆっくり休んでいいよ、と言われ寝かされてはいるが、まさか3分も経たずに回復するとは思わなかった。
速攻で治りました、なんて言ってしまうのは気まずいし、ベッドも大変柔らかいのでこのまま寝転がりながらすこし状況を考えることにした。
俺はさっきこの学校の入学式に新入生として参加していた。だが、俺はこの学校に入学してから一年間をサキと共に過ごしたはずだ。そしてさっき検索した年も、俺の把握している年の一年前の年が表示されていた。
このことから、どうやら俺はこの学校に入学した日に戻っているようだった。
どうしてそうなったかは分からないが、実際これ以上分かることはなかった。
時間を確認すると11時18分、体調も良くなったし、思考も落ち着いたので次に確認するべき場所に向かうことにした。
保健室の先生に適当に
「今日は体調が悪いので帰ります」
と言い、荷物を持って学校から出て、目的地へと向かった。
その道中、目に見える花や建物のほとんどが新鮮に思えた。
一年前はこうだっただろうか、と感慨深くなったが、そんな場合では無いと一喝し、早足で向かう。
向かった先は俺の家だ。俺の家というより、普通に借家のアパートだが。
階段を登り、右ポケットから鍵を出し、ドアを開ける。
「ただいま」
僅かな希望を込めて放った言葉は、誰からも返されることはなく暗闇へと吸い込まれた。
足元を確認しながら中へ入り、部屋のスイッチをつけると、中にはゴミや書類、畳まれていない服が散らばっている始末だった。
注意深く机や棚を見てみたが、一緒に買ったお土産も、一緒に撮ったはずの写真も、どこにも飾られてはいなかった。
…やっぱり、サキと暮らした形跡はここには存在しなかった。
酷く残酷な現実が俺を包む。サキはどこに行った?なんで俺はここに戻ってきた?サキは存在しないのか?いや、
「サキはどこかにいるはずだ。必ず…」
必ず見つけ出す。そう誰に言うでもなく呟いた直後、外で鐘が鳴った。時間を確認するとちょうど12時。どうやら12時の鐘がなったようだ。
そしてふと思い出す。そうだ。俺はあの場所でサキと出会ったはずだ。今から向かえばまだ間に合うかもしれない。そう思い立った俺は急いで家を出て、鍵をかけるのも忘れて飛び出した。
俺が向かった先はまた学校だった。その途中、学校の制服姿の人と多くすれ違った。どうやら入学式は終わってしまったようだ。クソッまだ間に合うだろうか。
学校に到着した俺は生徒を避け、校門を抜け、彼女を探し始めた。
大丈夫だ。俺なら見つけられるはず。運命というものがあるなら。いや、あの時に運命を感じたのだから、絶対にまた会える。そう信じて探し続けた。
そして学校の裏手に回ったところに、彼女は居た。
「サキ!」
走り続けたせいで息が切れていて、かなり情けない声が出た。それでも走ることはやめなかった。
花を眺めていた桃色の長い髪をした女の子は「ひゃっ」と声を出して驚きながら振り返り、こちらをみた。
俺の姿を認めた彼女は目を見開いて、そして涙に顔を歪ませながらこちらに向かって走ってきた。
俺たちはそれから数秒もしないうちにお互いにたどり着き、そして抱きしめ合った。
俺はサキの存在を確かめるように強く抱きしめた。
サキはしばらく俺の胸の中で泣いた後、ゆっくりと話し始めた。
気がついたら入学式の最中に戻っていたこと。俺に連絡をしようとしたら連絡先がなかったこと。家に行ったが鍵がなくて入れなかったこと。二人が出会った場所で待ってれば来ると思い待っていたこと。
どうやらサキは俺よりも早くこの異常に気がつき、すでに行動に移していたらしい。
サキが俺の家まで来たのに鍵を持っていないため、帰るべき場所に帰れなかった彼女を思うだけで胸が締め付けられる思いだった。
そこまで話した彼女は恥ずかしそうに俺から離れ、壁に寄りかかった。胸に喪失感を覚え手持ち無沙汰になった俺はそれに倣って隣に寄りかかる。
俺はこれからどうしようかを考えた。
とりあえず今日のところは家で一緒に休もうか。いや、今の汚い部屋をサキに見せるわけにはいかないよな。そもそもなんでサキを部屋に入れる前提なんだ。今はまだサキの家があるんだからとりあえず別々で良いじゃないか。
いや、本音を言えばこの異常な状況下で離れるのも嫌だし、今更一人で部屋に寂しくいるのもなんだかなぁ…という気持ちもあるが。
そんなことを考えていると
——グゥ。
という音が鳴った。
思わずサキを見る
「あはは、お腹空いたんでしょ〜」
残念なことに腹の虫を鳴らしたのは俺だった。
「ご飯食べに行こっか」
「…そうだね」
若干の気恥ずかしさを覚えつつその提案を断る必要はなかった。時間を確認すると13時12分。お昼にちょうど良い時間だった。
俺達はファストフード店に立ち寄って食事を取ることにした。
俺はハンバーガーのセットを頼んだが、サキは
「ジュースだけで良いや」
と言い、オレンジジュースを飲むことになった。
最初、ダイエットでもしてるのか、なんて思ったが記憶の中の彼女はよく食べてよく笑う人だった。
元気そうな笑顔を見えてくれてはいるがどうやら本当に食欲がないらしい。むしろ俺が図太いのか。なんにせよ彼女の健気さに胸が痛む。
それでもポテトはつまんでくれるようで安心した。俺のセットのポテトだが大いに食べてほしい。
今はとりあえずこの異常な状況の恐怖から目を逸らすことにした。食事中にまで彼女を怖がらせるわけにはいかないと思い、むしろこの状況を楽しめるようなことを話した。これからのことはその後にしようと決めた。
その中で俺は通学路が一年間でかなり変わっていることを話すと、サキは
「そういえばそうかも」
と言って窓の外を見る。釣られて俺も窓の外を見た。
俺たちが過ごした1年間は何も変わっていなかったようで、その実いろんなものが変わっていったようだった。店の窓から見下ろす街並みは全てが新鮮に見える。
この景色におれは俺は違和感を感じた。あんなところにコンビニなんてあっただろうか…?
そのコンビニは少し道の奥の方にあった。なるほど、これでは見つけづらい訳だ。しかし、ここに一年住んでてこのコンビニに気づかないことがあるだろうか…?
そんなことを考えていると
ジュッ
「熱ッ!?」
えっ?根性焼き?
頬に熱を感じ思わず前を見るとサキがポテトを突き出して笑っていた。どうやら彼女がポテトで突っついてきたらしい。
思わず手元のポテトを食べてみるが仄かにあったかい程度だ。少し過敏になりすぎていたらしい。きっと顔も険しくなっていたに違いない。
サキが俺を気遣ってくれたということを理解しつつも
「何するんだよ」
と言った。
サキは少しいたずらに笑って
「ポテト冷めちゃうよ」
と、早く食べることを促した。
「…確かに。一番美味しい時を逃すのはもったいないな」
そこで俺は考えることをやめ、食事にまた手をつける。
それからは他愛もない話を続けてゆっくりと食べ終わった。その間も彼女は笑顔で幸せそうな表情をしていた。
ゴミを片付ける際、彼女の紙コップにオレンジジュースが少し残っていた。これを飲み切ることもできないほど食事が喉を通らなかったことを察した。
なんとか気持ちを落ち着かせようと優しい話題を振ってつもりだったが、彼女の傷を癒すには至らなかった自分の無力さが恨めしい。
食べ終わり、店を出ると時刻は14時を回っていた。
さて、これから何をしようか。
食事も済んだし、帰ってしまうのもひとつだろう。サキのためにも今日のところは休むべきだ。そして俺も部屋を片付けなくては。
と、思っていた矢先、サキが少し意外なことを言いだした。
「ねぇねぇ、学校回るのどうかな?」
「学校を?」
サキ曰く、一年前の教室や学校がどうなってたか見てみたい、とのことだ。確かに、さっきの入学式の時はそれどころではなかったし、一年の経過で街並みが見違えるのだから、学校も何かしら変化しているに違いない。確かにそれは気になる。
それにしてもサキからそれを言い出すとは、意外と虚弱ではないらしい。彼女が無理をしていなければ良いのだが…。
俺はその提案を採用し、また学校へと向かうことにした。
14時30分頃、再び学校に到着した俺たちはサキの提案で自分たちの教室から回ることにした。
1-2。俺の記憶では、この教室で1年間を過ごしたはずだ。そしてまたこれから過ごす場所。
ドア窓から人がいないことを確認し、少し静かに入室する。
「わ〜…こんなに綺麗だったっけ……」
「…確かに…」
まだ誰にも使われていないこの教室はやけに静かに感じた。
「懐かしいねぇ」
「どこに座ってたっけな…」
「えぇ?忘れたの?」
「…ん〜…」
何も言い返せない。あまりにも学校に対する印象が薄すぎるようだ。
「ほら、あそこだよ。あの窓際の席!」
そう言うとサキは指差した席に座った。俺もその後ろに座る。
「ここでまた授業受けることになるんだねぇ…」
「そうなっちゃうなぁ…」
俺達が時間を巻き戻ったのだとすると、またあの1年間を繰り返すことになる。正直、勉強し直すことは面倒くさい。
「授業何やったかほとんど覚えてないなぁ」
「あはは、確かに!テストが終わると何にも覚えてないよね!」
だけどサキとまた一緒にこうして過ごせるなら悪くは無いのかもしれないと、彼女の揺れる桃色の髪を眺めながら思った。
「…へー…ゴキブリってこんなにすごい生き物なんだなぁ」
「ね〜…」
その後俺達は「さらに変化してるところを見に行こう」と言う提案の元歩き回っていたが、気づけば知らないところを探検し始めていた。今は生物部の部室の前で研究発表を読んでいる。
しかし一年通った学校であるはずだが、こうして回って見てみると意外に知らないところだらけだった。
この研究だってそうだし、部活動の見学(盗み見)、学校裏の畑、屋上からの眺め。普段は目を向けないだけでこんなに面白いものを見逃していたとは勿体無かったな。これからはこれらにも注目しながら学校生活を送っていこうか…。
「部活動したくなっちゃった?」
「いや、見てるだけで良いね。絶対。」
こう言うのは最初だけ楽しいのであって継続すると苦痛でしか無い。それに俺はサキとの時間を大切にしたかった。そのため部活動をやる気は全くなかった。
「サキは何かやりたいのあったの?」
だけどもし彼女に何かやりたいことがあるなら、俺もそれについて行こうか…と思って聞いたが、
「いや〜、部屋でゴロゴロしてる方がいいかなぁ…」
結局、俺達は似た者同士だった。そんな他愛もない話をしていると、
グゥ
という音がした。今度はサキの腹の音だった。
サキは特に恥ずかしがる様子を見せずお腹を抑えた。
「お腹すいた〜」
ふむ。時間を確認すると17時27分。どうやらお昼にあまり食べなかった分、早めにお腹が空いたらしい。食欲が出てきたのは喜ばしいことだ。
「お昼全然食べてなかったからなぁ…何か食べに行くか?」
「ん〜…」
どうやら何が食べたいか分かってないらしい。食べたいもの当てクイズが始まりそうだ。
「パスタは?」
「んー…」
「またハンバーガーとか」
「いや〜…」
2食連続は嫌らしい。食べてないのに。
「寿司?」
「ん〜…」
「いっそ出前でもとる?」
「ん〜!」
おっいい感触。でも高いからやだなぁ。
そこで思いついたようにサキが答えを言う。
「手料理食べたいな!」
キラキラとした目でこちらを見る。誰の手料理を、なんて聞く必要もない。俺の手料理が食べたいらしい。
「あんまり上手じゃないんだけど…?」
「良いのいいの!作ってくれる気持ちを食べたいから!」
気持ちで腹が膨れるか。しかし他でもないサキが言うのだからしょうがない。
「じゃあ、サキちゃんに俺のプロ級の腕前を見せてあげますか…」
「お願いします!」
俺はわざとらしく偉ぶって見せた。実際、頼られてやる気も湧いてきている。今ならなんとでもなる気がした。
とはいえ、まずは何を作るか…。
俺の記憶では、サキと一緒に住んでいた頃はほとんどを外食で済ませていた気がする。少なくとも俺やサキが作っていた記憶はない。よく食費が持っていたものだ…。
とりあえず、俺でもそれっぽく作れる料理。それも食欲のない女の子でも食べれるような…。
よし、オムライスにしよう。それもトロトロのやつを作ってあげたい。
そうと決まれば材料を買おう。卵、パックご飯、ケチャップはあったかな…不安だから買っておこう。他には…。
「……」
「……」
チラチラとサキがお菓子を見ている。これも買ってあげよう。
こうして材料を買えそろえた俺達は帰路に着いた。この間、サキはずっと笑顔だった。ずっと笑顔でいてくれるのが嬉しかった。この子が笑顔でいてくれるならなんでもしてあげよう。そう、改めて強く思った。
家の前に着いた時そこで少し困ったことを思い出した。
「…あっ!」
「なに?」
サキが少し驚いたように目を開く
「いや、その…部屋が一年前に戻ってるから…汚いままなんだよ…」
そうだった。あの時は二人で住むことになって部屋を片付けたはずなのだが、今は全くもって掃除されていない。女の子どころか人を招くのにも向いていない。
しかしそんな心配もどこ吹く風。サキはむしろ嬉しそうに笑った。
「男の子の汚い部屋ってどうなってるのか気になるな〜」
「えぇ〜…」
まぁ、この時はこの家に暮らし始めてまだ間もないから見られて困るものもないはず。
それに少し暗くなってきたのに外に待たせるのも申し訳ない。
「まぁ、別にいいけど本当に汚いよ?」
「大丈夫大丈夫!」
そう言うとサキは扉の鍵を開けるのを待った。
少し緊張しながらドアノブに手をかけ扉を引く。
一瞬鍵がかかってないことに疑問を持ったが、一度家に帰ったあとそのまま鍵を掛けないで飛び出したことを思い出した。
まぁいいか、と扉を開けると俺の汚部屋が露わになる。
するとサキが不安そうな表情になる。
「え?ちょっと…」
流石に汚すぎたか、と思ったが
「この部屋空き巣に入られてるよ、鍵も開けられてるし…」
「え?」
一応先に入って確認したが、金目のものは全て無事だったし、物の配置が変わってるようにも見えない。彼女にとってこの部屋は盗人に荒らされた後に見えたようだった。そんなに汚かっただろうか…
とりあえず机と座れるだけのスペースを空けて、料理を始めることにした。空腹になってる人を待たせるわけにはいかない。
早速俺は買ってきた材料を台所に並べ、スマホを片手に調理を開始した。
俺がスマホを見ながら素晴らしい手つきで華麗に調理を進める中、サキは邪魔にならないところで珍しいものを見るような目で観察してくる。気が散ってしまうな。
しかしそれに負けるわけにはいかない。爆速でケチャップライスを作りあげた後、ついに卵の調理に取り掛かる。
ここが一番大事だ。ある程度火は通しつつ、ナイフを入れればトロリと中身が溢れ出る様な焼き加減にしなくてはならない。
「フー…」
精神統一を終えた俺は溶き卵を油の敷いたフライパンに流し入れた!
フライパンの卵を混ぜ、徐々にダマになってくる卵を成形していく。良いぞ。これなら最高のオムライスが出来そうだ。数十年に一度の出来。これなら———
こうして作られた卵部分は、ナイフを入れても一向に崩れる気配がなかった。
まぁ、「気持ちが大事だよ」とサキも言っていたから大丈夫だろう。
「出来たよ〜」
料理見学に飽きて床に落ちた本を読んでるサキに呼びかける。
「ほんと!?」
まるでこれからプレゼントでももらえる様な顔をしたサキがこちらを向く。
「はいどうぞ」
「お〜…ぉ?」
「…どうしたんですか。」
流石に恥ずかしいので敬語で誤魔化す。
「いやぁ、まだまだだなぁって」
からかうようにこちらを見るのはやめてくれ
「だから上手くないよって言ったのに…いただきます」
「いただきまーす」
少し期待しながら食べたオムライスだが、ケチャップライスの部分はともかく、卵の部分がもはや卵焼きになっていたのでオムライスを食べている気がしなかった。
「まぁ美味しいよ」
「『まぁ』ね…」
そう言いながらもサキはゆっくりと食べ進め、完食してくれた。
サキが美味しそうに食べてくれるのは嬉しかった。自分の作ったもので人が笑顔になってくれるのは存外に嬉しいものだ。
これからも暇があれば作ってあげようかな…。
「これからたまには作ってみようかな」
「そんなに無理しなくても良いよ」
どう言う意味だ。
夜ご飯を食べ終わった俺達はしばらく何もしていなかった。
今日は色んなところを歩いて足も疲れたし、精神的にも疲れた。時刻を見ると19時39分。すっかり日も落ちてしまった。
以前まではこの部屋で二人とも過ごしていたのだが、一年前に戻ってしまった今の部屋は流石に汚い上、寝具も一人用しかない。今日のところはお互いの家で休むべきだろう。
「今日はこの部屋じゃ寝れないから家まで送るよ。家どこだっけ?」
「あ、そうだね」
流石に疲れた様子のサキがこっちを見る。具合が悪い様には見えないが、今日は色んなことで忙しかったのだから無理にでも休ませるべきだっただろうか。
そんなことを思った矢先
「そうそう、最後に行きたい場所があるんだよね!」
「まだ行きたい場所あるの!?」
こんなに行動力のある人だったろうかこの人は。
「流石に今日は暗いし、もう休んだほうがいいんじゃない?」
俺は面倒臭いのもあったが、何よりサキの体が心配でそう言った。
「まぁ…でも今だからこそどうしても見てみたいものがあるんだよね!」
「ふーん…」
元々サキはアクティブな人では無かったはずだ。元気で表情豊かでよくお話をしてくれるけれど、部屋でゆっくり本を読む時間が好きな女の子だった。
そんな彼女をなにがこんなに突き動かすのか分からないが…
「まぁ、どうしてもと言うならしょうがないなぁ」
しぶしぶ了承しました。というフリをして見せた。実際はサキが望むのならどこにでも連れて行ってあげるつもりだった。サキのためなら、どこにでも行ける様な気がした。
「それで、どこ行くの?」
そう聞くと、サキは少し恥ずかしそうに目を逸らし、顔を赤らめて言った。
「学校…」
「またか…」
なんでこんなに学校に執着しているのだろうか…何か学園に縛られてるのかな?
本日4回目の学校に到着した俺はサキと一緒に大きく背伸びをした。流石にお互い体が疲れていた。
そもそも学校は空いているのだろうか、と心配したが、校門が小さく空いているのを見て安心した。どうやらこんな遅い時間まで活動している部活がある様だ。
「それで、なにを見るの?」
これ以上見るものはないはず。そう思いながら訪ねる。
サキが暗くてもよく目立つ桃色の髪を翻して振り向く。
「夜景!」
夜景、かぁ。
どうやら屋上に行って夜景を見たいらしい。なかなかロマンチックな雰囲気じゃないか、そう思わざるを得なかった。
「よし、見よう!一緒に!」
サキの願いを叶えるために体に喝を入れた俺を見て、サキが嬉しそうに笑ってくれた。それを見てさらに身が引き締まった。
夜の学校は存外に恐ろしいものだった。暗いし音は響くし人の気配は無い。
足を前に出すのを躊躇うほど恐ろしかったが、それでも俺達はスマホの明かりを頼りに上へ上へと進んでいった。
サキに夜景を見せると言った手前、日和ってるわけには行かなかった。サキも、怖がりながらも一生懸命前に進んでくれた。
四つほど階段を登った頃、屋上へと出る扉が見えてきた。
しかし今回の作戦には大きな懸念があった。それは実は屋上が施錠されているのでは無いか、ということだ。
もしこの扉が開かなかったら、サキには窓越しの夜景しか見せられなくなってしまう。お互いそれを承知で、敢えて口にはしなかった。
一段、また一段と階段を登るたび、不安が大きくなる。ついサキの手を強く握ってしまう。サキも強く握り返してくる。
頼むよ、神様。開けてくれ。
そう願いつつドアノブに手をかけ、体重をかけて引いた。
扉はびくともしない。
やっぱりか、クソ。一瞬体が冷える。が、逆に押してみると、
「うおっ!っとっと…」
意外なほどあっさりと扉が開き、危うく転びかけた。
なぜ扉が開いたのかはわからない。先生が施錠し忘れたのだろうか、それとも元々施錠していなかったのだろうか。
なんにせよ、目的は達成した。俺とサキは顔を合わせて喜んだ。
やった、これでサキに夜景を見せられる。サキを悲しませずに済む。
俺はゆっくり扉を閉め、サキの手を引いて屋上の真ん中へと向かった。
外には少し肌寒い風が吹いており、それが解放感を演出してくれた。
誰かにバレない様にライトは消したら、月明かりでぼんやりと物の影しかわからない程度になってしまったが、そんな中でもサキの姿はよく見えた。
夜空を仰ぐと、月が煌々と輝き、点のような星々が瞬くように存在していた。
目線を下ろすと、遠くの方には建造物の光が幾つも見えた。
落下防止柵はあったが、上を向けば空以外のものは目に入らなかった。
それはまさに、夜景だった。
ふと隣を見ると、サキもその夜景に夢中になっていたが、俺の目線に気づくとサキは笑顔で答えた。目元がすこし潤んで見える。
「これは…こんな、綺麗だとは思わなかった…」
「でしょ〜?これを一緒に見れて本当に良かったよ」
「うん…一緒に見れて、良かった」
すこし柄にも無いことを言ったか、と思ったが、サキは気にしていないようだった。それなら、この機に乗じてもっと言ってやろう。
「なぁ、サキ」
「うん?」
「…これからも二人でさ、一緒に生きていこうよ。ずっと…」
いや、やっぱ恥ずかしいなこれ。もはや最後の方は自分でも聞こえないくらい声が小さくなっていたぞ。くそ。暗くて本当に助かった。今の俺の顔は見られたく無い。
サキの方を見ると、いつもの様に穏やかで、だけどすこし泣きそうな笑顔でこちらを見ていた。
「…そう、だね…」
その言葉を聞いて俺の胸は熱くなった。俺の今の精一杯の思いを告白して、それが受け入れられたことが嬉しかった。そんな有頂天の中、サキが言葉を続ける。
「…だけど…」
そこまで聞いた瞬間、俺は唐突に耳を塞ぎたくなる衝動に駆られる。猛烈に嫌な予感がした。何かこれ以上聞いてはいけないような気がする。
悪寒が、怖気が、熱を奪っていく。
体の震えを感じる。
聴くのをやめなくては。
それでも、俺の体は動かなかった。
サキの言葉を聞くのを止められなかった。サキは、すこし悲しそうな笑顔で、俺の目を真っ直ぐ見て言った。
「だけど…もう…終わらせなきゃ…」
聞きたく無い。無視しなければ。だがここで返事をしなければ何かが終わってしまう。
俺には聞き返すことしか出来なかった。
「…何、を…?」
僅かな希望を抱いてなんとか声で返事を絞り出す。もはや声に成っておらず、風に溶けるような声だった。
彼女はそれでも聞き入れ、よく聞こえる声で返した。
「君が見ている、幻想を」
この世から、音が消えた気がした。
その言葉を聞いた俺は、サキが何を言っているのか分からなかった。しかし同時に何を言っているのか分かってもいた。
「…なんの、こと、だよ…」
苦し紛れに震えた声でとぼける。
実際、なんのことかわからなかった。だから普通に笑って流すこともできたはずだ。しかし、彼女の言葉が明らかに核心を突いていると感じていた俺にはそれができなかった。
サキはさっきより穏やかな声で、子供に言い聞かせるように話す。
「…キミの見ている世界は、まだキミの夢の中にあるんだよ」
分からない。何も言葉を理解できない。それなのに、彼女が言葉を発するたびに段々と記憶が蘇ってくる。一年前の。いや、今日の記憶が。
風が吹き荒れる。体の熱を奪う。寒い。寒い。寒い。
体の震えが尋常ではなくなっていた。喉の奥から血のような味がする。震えで呼吸が上手くできない。
歯がガチガチとなる音。ひゅー、ひゅーと隙間風のように鳴る呼吸音。危険を知らせるような心臓の音。
俺は立っていられず膝を折る。目の前が白くなってくる。
その時、俺の体が抱きしめられる。目を凝らすと桃色の髪が見えた。サキが支えてくれてるようだ。
彼女の体が風から俺を守って、熱が奪われるのを防いでくれた。だが、震えは一向に止まることはなかった。
「…ごめんね、無理させちゃって。」
「…は、…ぁ…!」
サキが話しかけてくれているのに俺はろくに返事もできなかった。
「でもね、もう少しだけ聞いてほしいんだ。」
そう言うと再びサキは話し始めた。
もうやめてくれ。サキ。これ以上は耐えられない。それを言葉にできない俺はひたすら涙を流すことしかできなかった。
彼女の声を聞くたびに頭に記憶が入ってくる。
頭が割れそうだった。体の震えはさらに大きくなり、痙攣になっていた。口からは泡が出て、涙で目の前に何があるのか理解することもできなかった。それでもサキは話し続けた。
そして、
「——だからね、私を———」
その言葉を聞いた瞬間、目の前が何も見えなくなり、俺の意識はそこで途切れた。
4月1日、午前10時前。
体育館は新入生で溢れていた。
入学式はまだ始まっておらず、知り合いや友達と話す声が周りから聞こえ、会場は人の声で溢れており、俺はその中でじっと目を瞑り耐えていた。
俺は人が怖かった。人の声が怖かった。
何かを笑う声が自分に向けて発せられたものに聞こえて仕方なかった。何かを囁く声が俺を観察しているように感じられて辛かった。
なぜ怖いのか、いつから怖いのか、そんなもの思い出したくも無いほど酷く醜く恐ろしい物だった。
前後左右、周り全てに人がいる空間はストレス以外の何者でもなかった。だから俺は学校が嫌いだった。
学校が始まってしまう不安で仕方なかった俺は数日前から満足に睡眠も取れず、おまけにいつも飲んでいる精神安定剤を今日に限って飲み忘れてしまった。正直、今はもう限界に近かった。
俺はひたすら目を瞑り、懸命に別のことを考えて時間が過ぎるのを待った。
やがて入学式が始まって会場が静まり帰り、すこし心が落ち着いてきた頃、俺は緊張から解放された安心感と、前日寝れなかった疲れからそのまま眠りについた。
俺は夢を見ていた。
好きな人と一緒に暮らす夢を。
嘘を付かず、安心させてくれる人の夢を。
俺の孤独を埋めてくれる人の夢を。
———こんな夢が永遠に続いてくれれば良いと、そう思っていた。
そして、俺は目を覚ました。
瞼を開くと、サキが倒れている俺を心配そうに覗き込んでいた。
「…良かった…!」
そう言うと彼女は目元を拭って笑顔になる。
ふと下を見ると、彼女の手が俺の胸元に置かれているのがわかった。
俺は胸の確かな温度を感じながらその手を握り、ゆっくりと立ち上がる。
サキは心配そうにこちらを伺う。
「まだ寝てて大丈夫だよ?無理しない方が…」
「…いや、もう大丈夫だよ。」
体は冷えているが震えは止まっていた。風も穏やかに春の風を運んでいる。
時間を確認すると22時55分。結構長い間気絶していたらしい。
俺は一度深呼吸すると、サキの手を握ったまま彼女に向き直った。あまりにも残酷な事実を確認しなければならない。
「サキ」
「はいっ」
彼女は穏やかな笑顔をしつつ、俺の真似をしてかしこまった態度になった。これから何を言われるのか分かっているはずなのに。
「…サキは…」
言うのが怖い。これを認めてしまうのが辛い。それでもサキが頑張って気づかせてくれたのだから、言わなくてはならない。
もう震えはなかった。
「サキは…俺が作り出した…妄想…なのか…?」
暫くの沈黙。その後、
「…はい」
サキは変わらぬ笑顔のまま、ゆっくりと頷いた。
握っている手には、彼女の温度が確かに感じられた。
つまりは、そう言うことらしい。
俺が記憶していた彼女との1年間は入学式の時にストレスのあまり見た夢であって、目を覚ました俺は一年巻き戻っていると勘違いをした。そして今ここにいる彼女は妄想で、実際は存在していない。
その事実は、全て理解した今でも受け入れ難いものだったが、同時に腑に落ちるものでもあった。
今まで1年間過ごしたと錯覚した学校や街は、実際にはほんの少ししか過ごしていなかった。だから、見るものほとんどが新鮮に見えていたのだ。俺が何度も感じていた違和感の正体はそれだった。
ただ、受け入れ難いものもある。
右手には彼女の手が確かにある。
俺は左手で彼女の肩を触ると、確かな感触と熱を感じる。頬を撫でるとくすぐったそうにサキが笑う。桃色の髪を触ると一本一本が柔らかく感じられる。
感触も暖かさも表情も、こんなに生きているのに、サキは存在しないなんて。
俺が彼女の存在を確かめていると、やがてくすぐりに耐えかねたようにサキが話し始めた。
「学校に行くのすごい嫌だったでしょ?だから少しでも慣れてもらおうって思って何回も学校に連れていっちゃったけど…迷惑だったかな?」
「…そんなことないよ」
きっとサキは俺に学校の楽しさを教えてくれたんだと思う。ただ勉強して辛い思いをして帰る。それだけじゃなくて、色んなところに目を向ければ面白いものもある。
サキは、俺に学校で耐え抜く方法を教えてくれた。そのことが嬉しくて、少し涙が出た。たくさん泣いて、涙腺が緩んでしまったらしい。
「さてと…」
と言って、サキがもう片方の手で俺の手を握る。
「もうそろそろ、時間が迫ってるね」
「…え?」
そう言うと彼女は自分の手ごと俺のポケットに入れた。すると、ポケットの中に何か軽いものが当たる感触がした。
「これで、私を消さないと」
そう言ってサキは俺の手を握らせて何かを取り出す。
ポケットから取り出したものは、包装された小さな錠剤。これは俺が使っている精神安定剤だった。
俺は錠剤を握りしめた。
サキは俺の妄想だった。サキと過ごした思い出も全て夢。
確かに、それは異常だった。だけど、もうそれで良いのでは無いだろうか。
「どうして…サキを消さなきゃいけないんだよ…」
「…」
サキは答えない。
「サキが隣に居てくれるなら…俺は狂ったままでいいよ…!」
心からそう思った。サキが俺にしか見えなくても、そのまま暮らしていけば良い。
たとえ毎日が辛い日々だったとしても、サキの顔が見れるなら俺は幸せに過ごせる。だから、この状況が異常でも、これが一番幸せなんだ。
サキはしばらく困ったような表情を浮かべ、やがて話し始めた。
「でもね…君はいつか、これが幻想だってことを忘れて、また私と一緒に過ごしちゃうんだよ…?」
「俺は…それで良いんだ…!サキが一緒じゃなきゃ嫌だ…!サキが…サキが一番大事なんだよ!」
俺は必死で想いを伝えた。
頼む。サキがいなきゃ俺は生きていけないんだ。
「ううん」
しかし、サキは頭を振った。
「やっぱりダメだよ。それじゃあ、キミは幸せになれないと思う」
「…!」
「キミは私のためにしか何もできなくなっちゃって、どんどん周りから孤立して…それなのに私はキミに何もしてあげられないなんて…そんなの、嫌だよ…」
そう言いながら、サキは泣いていた。
サキは俺の身を案じてくれていた。自分が消えるとわかっているのに、俺だけを案じて自分が消えることを選択していた。
彼女にそうさせてしまっている自分が情けなくて、どうしようもなかった。
しばらく言葉は発せられなかったが、先に沈黙を破ったのはサキだった。
「キミは…今日も、夢の中でも、私の願いを叶えてくれようと頑張ってくれたよね…」
「…そうだったかな…」
「そうだよ!私が何回学校に誘ってもキミは来てくれたし、ご飯も作ってくれた!夢の中でも遊園地とか水族館、いっぱい連れてってくれたんだよ!」
サキが俺との思い出を語ってくれて、俺がそれに相槌を打ちながらその記憶を思い出す。その度に涙が溢れて、気がつけば二人ともグスグスと泣いていた。
「…だからね、本当に、嬉しかったんだよ!…だからね…」
サキはゆっくり、はっきりと言葉を口にした。
「もう一つ、だけ。お願い…。私のために、この薬を、飲んでくれませんか…?」
サキが涙でボロボロになった顔でお願いしている。
「…わかった…」
俺は断ることができなかった。彼女のためなら、なんでも出来たから。
俺は包装された錠剤を2粒取り出して、飲み込んだ。
「…あり、がとう…」
サキは笑顔を見せながら泣いていた。だから俺はサキを強く抱きしめた。
「ひゃっ」
「…ごめん…ごめんな…サキ…無理をさせちゃって…」
薬が効き始めるまでの約15分間、せめて後悔のないようにしたかった。
俺はサキを抱きしめ、ただひたすら謝った。
「…ううん、さっきも言ったけど、本当に嬉しかったんだよ?一緒に暮らそうって言われた時悪く無いかなーって思っちゃったし…」
そう言ってサキも背中に手を回してくれた。
「でもね、午前中についた嘘は午後にはネタバラシしなきゃ…それがエイプリルフールでしょ?」
そう言って胸に顔をうずめた。
抱きしめてみるとサキの身体は小さくて、柔らかくて、暖かい。頭の匂いを嗅いでみると良い匂いがした。
ふわふわと風に揺れる桃色の長髪も、全てが愛おしかった。
俺達はしばらく何も言わずに抱き合っていた。
まるで夢かもしれないと思うほど穏やかな時間を過ごした。
しばらくそうしていると、徐々に彼女から熱が無くなっていくのを感じた。
俺は今一度しっかりと抱きしめて、想いを伝えた。
「…好きだよ、サキ」
「…ありがとう。私も好きだよ…」
「…愛してる」
「うん…」
逝かないでくれ、とは言えなかった。
彼女の桃色の髪が少しづつ夜空に溶けていく。サキの輪郭が薄れていく。段々と、彼女に触れている場所の熱が消えていく。
「最後のお願いがあるんだけどね」
「うん」
「幸せになってください」
「…うん」
俺の中の世界が正常に戻っていく。
サキが消えていく。
気づけば俺は何も掴んでいなかったが、それでもサキを抱きしめ続けた。
やがて
「…バイバイ」
「…!」
そんな幻聴を聞いた頃、俺は完全にサキを見ることが出来なくなっていた。
「…サキ…?」
そう呼びかけたが、返事をしてくれる人はもう居なかった。風が吹くと胸元がひどく寒く思えて、思わず胸を押さえた。
もうサキが居ないことを知った俺は膝から崩れ落ち、まだ残っているかもしれない彼女の温もりを抱きしめながら静かに泣いた。
ふと目を覚めると、俺は部屋の中で倒れていた。記憶には無いが、どうやら茫然自失のまま家に帰っていたらしい。
時計を見ると今は4月2日の10時49分。結構な時間寝てたのだろうか。
「……」
もう何もやる気が出なかった。身体中の力は抜け、鉛のような重さを手足に感じ、立ち上がるのが億劫だった。
それでも、彼女との約束を思い出し、ゾンビのように立ち上がる。
水が飲みたい。
そう思って台所に向かった俺は、手の付けられていない一人分のオムライスを見つけた。それは俺が昨日サキのために作ったものだった。
「…そっか…あれは妄想だもんな…」
俺はそれを手に取るとレンジで温め、ゆっくりと味わうように食べた。
何も掛けられずに放置されたオムライスはすこし乾燥していたが、食べられないほどではなかった。
やがて食べ終わった俺は机の引き出しから薬を取り出した。
精神安定剤。それを二粒取り出し、水と共に流し込む。
椅子に座ってしばらくすると、徐々に体が軽くなり、思考が出来るようになってきた。
俺はすこしはっきりとした頭で考える。
結局、サキは俺の妄想だったのだろうか。
髪の毛の感触や体温、香りに至るまで全てがリアルに感じられたし、俺が予想もしてないような会話もしていた。いくら精神的に参っていたとはいえ、果たしてあれが本当に俺の妄想だけの産物と言えるだろうか。
それについては答えは出せなかった。
もしかしたらエイプリルフールに俺自身に嘘をついた結果、神秘的な力が起こってああなったのかもしれないし、俺自身にそれぐらいリアルに感じることができるほどの妄想力があったのかもしれない。
なんにせよ、桃色の髪が地毛である人間は現実世界では存在しない。だから、サキはきっと普通の人間ではなかったのだろう。
それでも俺はサキが好きで、そして彼女は俺の世界を守るために、俺のために死んだ。
これだけははっきりと分かることだった。
「…あ」
ふと窓の外を見ると、桜が開花しているのが見えた。
花を見るために窓を開けると、風が一瞬だけ強く吹き込み、思わず目を閉じた。
目を開くと、外の風景はいつもよりずっと広く、鮮やかに感じた。
空の色、木々の色、花の色。全てが明るく、景色のコントラストが、輪郭がはっきりと認識できた。
サキは、この景色を俺に見せたかったのだろうか
確かにこの世界は美しかった。
だけど、本当に見たかった色と輪郭はここに存在しない。
「…ん?」
ふと足元を見ると、桜の花びらが一枚落ちていた。きっと風に乗って入ってきたのだろう。
拾い上げてみると、やけに鮮やかな桃色をした綺麗な花びらだった。
彼女の髪によく似た色の、花びらだった。