第08話 樹海の淵
「やっぱりインキュバスってだめね。人間の女は満足させられても、同族相手になった途端まるでゆでたてのジャガイモ。ワイルドさも味気もまるで無いわ」
樹海の淵で、その魔女は呟いた。
彼女は身長よりも長い髪を垂らし、紫色の星空のようなドレスを身にまとっていた。子猫の産毛で作った小さな筆で、爪に紅を塗っては腕を伸ばし、その光沢を確かめる。彼女が座る場所はふかふかの毛皮の椅子、ではなく、生きた雌シカ達が横たわり形成したソファーの上で、足首にはテンが巻き付いていた。さらにその下には、数匹のイノシシが隙間なく円陣を組み、さながら王座の様相を呈していた。その周囲を魔法の紫色の火の玉が浮き、その王座の下に跪く狼男の姿を照らしていた。
「森一つ丸ごと治めてたから期待したけど、ちょっと膝に手置いただけで出来上がっちゃって、ホント、退屈な夜だったわ」
「ですがこれで、ボスの支配下となった森がまた増えました。大陸の制覇も近いかと」
「そうねぇ。あとはさっさと魔王に世界を支配してもらって、人間共の家畜化を進めてもらわないと。可愛い妹達のためにもね」
森の中に複数の魔女の、常人が聴けばたちまち発狂してしまうような、妖しい笑い声が響き渡る。
「ところで、あの小娘は首尾よくやってるのかい?」
「はい。『王子様』を無事誘う事に成功し、東へと向かっているようです」
「はん。オウムとすらろくに会話できないくせして、小賢しい」
「それで、大変言い難い事ですが……私ども三ツ首のうち一つが何やら興味をもったらしく、もしかしたら既に、その、『王子様』に接触している可能性がありまして」
「あらそう。良いわよ別に」
跪いていた影はボスと呼んだ主人の怒りを覚悟していたのか、王座の上からあっさりとした声が返って来たのに驚いて顔を上げた。
「ほっときなさいって言ったのは魔王の顔を立てただけ。あとはアンタ達がどうしようと、構わないわ。ただ殺しちゃだめよ。魔王に言い訳するのが面倒だから」
「そうでしたか。確かにおかしいと思いました。ボスであればエリス様一行の動向など些細な――」
そこまで言って狼男はハッとして口を押えた。王座に座る魔女の作業の手が止まる。
「も、申し訳ありませんボス。つい、口が――」
「お前えぇっ! あのクソガキの呼名は口にするんじゃないっつってんだろうがアァッ! 毛皮になりたいのかいッ!」
魔女の周りに浮かんでいた火の玉が、天を焦がさんとばかり燃え上がる。あたりは真昼のような明るさになり、飛び散る火花に王座にされていた動物たちは震え、目を必死で前足で隠し、耐えていた。
「あんなガキ今すぐに首ネジ切って、ハラワタくり抜いてぽっかり開いた穴にブチ込んでやれるさッ! でもそうしないのはアタシが慈悲深いからだよ! そうだろうッ!?」
「は、はい、その通りでございます。それに加えまして、あなた様の方が美貌、魔力、統べる森の数、全てにおいて凌駕しておいでです」
狼男は魔女のあまりの形相にすっかり肝を冷やしてしまい、声が上ずっていた。魔女が力んでいた顔を戻し作業を再開すると、炎の柱はもとの火の玉に戻った。
「解り切った事を言ってんじゃないよ。ただ、そうねぇ。負けてるものもあるわよ」
「それは一体?」
ホっとしながら狼男が尋ねる。魔女がニヤリと笑った。
「外道さ、よ! あのガキ、よりにもよってあの『王子様』にとんでもない事をしたのさ。確かにアタシ等は奪うのが得意だけど、あそこまではやらないよねェ! とんでもないクズさあのアバズレは! ウフフ……オーッホッホッホッホ!」
魔女がのけぞりながら高笑いをする。何の話か分からないながらも、彼女の機嫌が直ったことに狼男は心底安堵していた。
ひとしきり笑い終えたあと、魔女が指先でくるりと円を描くと、彼女が着ていたドレスと下着がするりとその悩ましげな身体を離れ、狼男の目の前に放り出された
「それ洗っておいて」
「か、かしこまりました。ボス」
「あとさっきの話だけど、なんだかとってもムカっ腹が立っちゃったから、アタシもそのうち挨拶にいくとするわ。大好きなあの子のこと、ぐちゃぐちゃにしたくなっちゃったぁん」
魔女が溜息交じりにそう言いウィンクすると、火の玉が一斉に消えた。
狼男は一礼し、投げ出された服を抱えると、ゆっくりとした足取りでその場を後にした。背中に浴びる複数の魔女の、凍りつくような視線に、今にも駆け出しそうになるのを堪えながら。