第01話 仮面
赤子の泣き声が聞こえる。
闇夜の森の中、幼子を抱いて走る一組の夫婦を雷が照らした。母親は土砂降りに濡れた落ち葉に何度も足をとられ、父親は枝葉を払いながら先の様子を探り、進んでいく。
「崖が見えたぞ!もうすぐだ!」
父親が叫び手で促すと、母親も足早に彼を追った。
二人は崖に辿りつき、立ち止まる。再び雷鳴が轟き、木木の切れ目に蒼白した二つの顔が浮かんだ。崖下を覗き込んだ後、彼らは顔を見合わせた。
「ここを降りれば小さな舟がある。風雨をしのぐ屋根がついているから、奥に奥に潜り込め。潮の流れがこの島から遠ざけてくれるだろう」
父親は続ける。
「嵐が過ぎたら、東へ、日の昇るたもとへ向けて、舵をこげ」
今にも泣きだしそうな母親を父親はしっかりと抱きしめた。
「お前に出会えたことは私には有り難い最上の幸福だった。安息だった……これから辛い思いをさせることを申し訳なく思う。いつまでも、いつまでも愛しているよ」
二人は口づけをしてから抱擁をほどくと、父親は泣き止まない赤子の顔を覗き込み、頭の産毛を撫でた。一層泣きわめく息子に慈愛の微笑みを向け、再び眉間に皺を掘ると、父親は崖下へ続く道を示した。母親はゆっくりと彼の側を離れ、何度も振り返り、見送る顔を確かめながら降りて行く。
二人は寝間着姿だったが、父親の衣類の腹部と肩は鋭く裂けており、赤くにじんでいた。
「息子よ」
やがて母親が崖を降り、その小さな背中がつないである舟へ駆け寄るのを見届け、父親は呟いた。
「やがてここへ来る息子よ。見よ。私がお前の父だ」
彼は呟きながら、これから愛する者が辿る海路へ視線を滑らせ、暗雲立ち込める空へと向ける。
「お前は驚くだろうが、伝えなければいけないことがある。お前に課せられた使命と、破ってはいけない規則があることを」
舟は嵐の中を滑るように進んでいく。
川に揺られる、木の葉のように。
「聞け。我が息子『エスタシャ』よ」
***
けたたましい音が鳴り響く。
フライパンほどの丸い金属板が、回転する棒に打ちたたかれる仕組みの目覚まし時計は、その音もさることながら、指定した時間に正しく鳴ることでもっぱらの評判だった。その真下で眠る黒髪の青年が、顔をしかめ呻きながら時計へと手を伸ばす。
「あっづ!」
したたかに甲を打たれながら片手で時計と格闘し、なんとか音を止めるが、窓から受ける光の強さに途端に愕然としてしまう。
(またやっちまったか……)
彼は寝坊を確信し顔を掌で抱えた。
静かになった時計の両脇に、大小様々な時計が積み重なり、あるいは吊り下がっている。それは部屋の一角を完全に占領し、歯車が歪なアンサンブルを奏でていた。差し込む陽光は正午も近いことを示しており、鳥のさえずりも聞こえる。彼は勤め先への言い訳を考えようとして違和感に気付く。
何かが乗っている。
ずしりと下腹部に感じる重みに、後悔とまどろみの余韻は吹き飛び、血の気が引いた。彼は決して臆病ではないが、寝起きで身に覚えのない存在を身体の上に感じ、そら恐ろしく思うのを誰が笑えようか。顎を引いて、おそるおそる、指の隙間から重みの正体を覗き込む。
「わあっ!」
青年は悲鳴をあげ、身じろぎした。
「なんだお前!」
なんだと叫ばれ、相手は姿勢を乱されたのを迷惑そうに、青年を見すえた。
仮面だ。
彼に跨っていたのは、大きく開いた口、拳ほどはある牙、嘴のような鼻、上半分を占めるほどの巨大な眼が描かれた、仰々しい仮面である。正確には仮面を付けた何かだが、青年の目には仮面から伸びた得体のしれない四肢に絡まれているようにしか映らなかった。
「魔族か?」
髪と同じ真っ黒な瞳を見開きたじろぐ彼を、のんびりと仮面が眺めながら、ため息をこぼした。
「ようやくお目覚めですね。寝坊助な騎士様」
それはその姿からはおよそ想像もつかないような、細く高い声だった。青年はあっけにとられ、仮面にぶら下がった部分が人間の形をしていることにようやく気付いた。彼を抑え込んでいる腕指は細く、黒ずくめの装いの胸部は豊かに膨らんでいる。
「お、女?」
「魔女です」
すっとんきょうな返しに彼女は答えた。さらに青年は困惑する。
魔女とは森に住まう魔族のことであり、その多くは人間と互いに敵対し接触も好まない。人間の幼子……無垢な魂が彼女たちの糧であることがその所以だ。彼女たちは森に棲み、森そのものであり、人里は食卓であり、もちろん食卓は食事をする場所である。
つまり――
「俺を食いにきたのか!?」
「違います」
侵入者がするりとベッドを降りる。側面から見る仮面も、得も言われぬ威圧的な様相を見せていた。青年は上体をおこすと、魔女を見ながら手足の有無を確認した。
「こんなだらしない生活を送ってる人、誰もとって食べません」
「一体魔女がこんなところに何の用だ。俺には赤子はもちろん伴侶も居ないぞ」
「見れば解ります」
「だろうね」
またけたたましい音が鳴った。
「くそ、こいつも壊れたか」
青年が往生際の悪い目覚まし時計をこらしめるように抑え込む。その隣の時計まで鳴り出したので、彼は転げ落ちるようにして止めにかかった。魔女がその滑稽な姿を目で追う。
「ずいぶん沢山、色んな時計がありますね」
「好きで集めてるわけじゃないが、買った側から壊れちまうんでね。まあいわゆる……呪いのせいとでもいうか」
「呪い、ですか」
「――それは貴方の周囲だけ時間の流れが歪む、といったものでしょうか?」
青年の作業の手がぴたりと止まった。
「空腹を感じ、睡魔を感じるようように、時間の流れに身を置いている実感はあっても、誰かと会話をするときに隔たりを感じ、周囲に足並みを揃えようにも得体の知れないものに足を取られ、朝も昼も夜も、芝居を見せられているような、別の世界の景色が流れていく感覚……」
「お前……何故それが解る?俺のこの呪いについて何か知っているのか?」
「この世界には一本の軸があり、全ての生き物がその軸を通して時間を共有しています。
大きな時計のように」
魔女が壊れた小さな時計を手に取り、むき出しの歯車を撫でる。
「軸を同じくする歯車、いわゆる『体内時計』が、今を生きる人たちが共有する『時の流れ』です。でも……」
魔女は歯車を外し、軸を持つとくるくると回した。
「世界に繋がらない、その人だけの軸を持っているとしたら、それは完全に世界とはかけはなれた時を刻む存在になります」
「……」
「それが騎士様、貴方なのです」
終始訝しげに魔女を見ていた青年は、いつしか真剣な表情となっていた。彼自身、今の類の話を初めて聞いた訳ではない。
魔女の言う通り、青年は誰かとの時間の共有を苦手としていた。他人と会話をしても延々とぎこちなく、仕事をしても時間を揃えられない。どこにいっても長居出来ない彼は、この地で『極西騎士団』の名を聞いた。いわれのない罪、不条理な理由で安寧の地を追われた者たちが、お互いの居場所を作ると同時に秩序の安定を図る集団として結成された団に、彼は自然と入団を希望していた。
青年が自身の事情を話したとき、団長はすぐさま優秀な占い師に彼を占わせたが、途端に周囲の時計が一斉に針を進め、あるいは反対に回り始め、中断となった騒ぎが起きた。占い師の結論もやはり、『体内時計』の特異性だ。
「お前には見えるのか。俺の……その『体内時計』が」
「私が見たというよりは、見せてもらった、と言うほうが正しいです」
「誰に?」
「今は秘密です」
「お、おい」
魔女が背を向けて寝室の扉に手をかけたのを見て、青年が立ち上がりながら尚も問いただそうとする。
「待てよ!今は秘密ってどういうことだ? 俺の魂を奪いに来たわけでもなく、この身の呪いを知りながら、ここに来た理由はなんだ!」
「お話しの前に、部屋を変えませんか?騎士様はお腹が空いてるでしょうし。それに何よりも――」
魔女が部屋を出ながら、背後で焦る青年に言い放った。
「ひとまず、下に何か穿いてください」