第09話 暗殺者
――坊や
声がする。
優しく、懐かしい声だ。
――坊や、良い子、良い子
「お袋?」
エドワールは跳ねるように起きた。四隅にベッドの置かれた、静かな教会の寝所だ。彼は目をこすり、窓から差し込む日差しに目を細める。
「誰がお袋よ」
振り向くと反対側にエリスが立っていた。
「おはよう。起こしてくれたのか」
「もうほとんど昼だよ寝坊助。さっさと起きて」
エリスがエドワールの布団を乱暴にひっぺがす。彼は思わず身を屈めた。
「おいっ。寒いだろうが」
「目が覚めた?」
「お前、雑なんだよ! 逆の立場になって考えろ。俺に同じ事されたらどう思うよ」
「それ自分で言って、おかしいって思わない?」
エドワールがふと考え、あ、と口を開ける。
「確かに絵面が危ないな。何でだ?」
「はぁ。付き合ってらんない」
「いや、まて。俺が言いたいのはだな」
起き上がろうとしたエドワールがふらつき手をついた。
「っと。あぶね」
出口に向かいかけたエリスが、一拍おき、手を差し伸べた。
「はい」
「何だよ。焼菓子ならもうないぞ」
「国宝級のバカね。……手、貸すから」
エドワールはきょとんとし、すぐに表情をほころばせ、その手を掴んだ。貸すと言われた割には乱暴に引き寄せられ、あたふたとベッドを降り、すっくと立つ。
「世話が焼ける」
憎まれ口をたたくエリスに、エドワールは礼を言おうとして、ふと妙な事に気が付いた。彼女の胸のところに、うっすらと皿ほどのサイズの銀の輪が見える。輪の中心には金属製の棒が通っているが、両端は見えない。
エドワールは顎に指をあて、まじまじと見つめた。よく見ると銀色の輪の表面は荒くギザギザで、何かが欠けたように見える。
「何?」
エドワールが視線を落としたのを感じて、エリスが怪訝そうに尋ねる。
「いや、お前がな」
「うん」
「ここに妙なものをぶら下げてるなと思ってあだだだだっ!」
エリスがエドワールとつないだ手を、余ったほうで思い切りつねり、ひねった。たまらずエドワールが「だ」を連呼しながら手を離すと、懲りずに凝視していたエリスの胸部に見えていた輪は消えてしまった。涙目でつねられた場所を撫でるエドワールを尻目に、エリスはドアを吹き飛ばす勢いで開き、さっさと出て行った。
「いてて、何もこんなになるまで……」
と独り言ち、よくよく思い直して無理もない事だと気づいた。エリスを諭せるほど、エドワール自身も他人との距離感に自信は無いのだが、不思議とエリスには遠慮なく接する事が出来たため、つい踏み込みがちだった。
彼なりに反省し、先程エリスの胸に見えた銀の輪を思い出す。
(あれは何だったんだ?)
彼は旅立つ前の、エリスとの会話を思い出した。
(エリスが言っていた、世界と軸でつながる歯車……『体内時計』。あれがそうなのか?)
しかしそれは歯車というよりは輪っかだった。仮に体内時計であっていたとして、それがどうして見えたのだろうか。頭の上に「?」の字を浮かべながら、彼は寝所を出る。
「おはようございます。エドワールさま」
オリーブが大広間に姿を現したエドワールに会釈した。
「おはようございます、シスター」
「顔色も良くなりましたね。丁度お昼の用意が出来ましたので、どうぞお召し上がりください」
講壇の脇にテーブルが用意してあり、その上には食事が並んでいた。エドワールは椅子につき、ナプキンを取る。すでに向かいにはエリスも座っていたが、彼がその仮面を見ると、露骨に顔を背けた。
「悪かったよエリス。機嫌直してくれ」
返事は返って来ず、エドワールは諦めたように食事にとりかかった。パンと蜂蜜、ほうれん草とミルクのシチュー、炙った野菜のゴマソース和え、葉物のサラダと、森の幸尽くしだ。サラダにはニンジンの葉っぱがふんだんに入っていた。エドワールは品目を眺め、驚く。
「これは、シスターが?」
「はい。料理はよくしますので」
エドワールの問いに、オリーブは満面の笑みで答えた。
「こいつは本当に有り難いな。全部俺の好物ですよ」
「あらそうなのですね。それはとっても、良かったですわ」
「昔、お袋が野菜の苦手な俺に、色々工夫してくれたんですけどね。その時のメニューにそっくりだ」
エドワールは嬉々としてフォークを手に取り、パンにかじりついた。エリスもちびちびと蜂蜜を舐め、シチューを飲んでいた。オリーブは二人の様子を目を細め見ていた。
「素敵なお母様でしたのね」
「えぇ。そいつはもう、本当に」
エドワールが噛みしめるようにつぶやく。
しばらく静かに響く食事の音を楽しみながら燭台を磨いていたオリーブだったが、突如顔を青ざめると、天上を仰いだ。
「――いけません、まって。クロウ! この人たちは違うの!」
オリーブが急に叫んだので、食卓についていた二人が振り向いた。その瞬間、屋根を突き破る幹の隙間から、丸く黒い影が滑るように落下し、エドワールの傍に転がりこむや否や人の形となり、刃先を突きつけた。
「なっ!?」
「動けば二人とも殺す」
それは冷たい男の声だった。彼は灰色の覆面とマントのうちに、革の鎧を着こんでいる。エドワールの喉元に向けた剣は特殊な形状をしており、握った拳から刃が伸びていた。エリスは立ち上がったまま固まり、微動だに出来ずにいた。
「シスターの、ご友人か?急にお邪魔して悪かっ――」
「黙れ」
「うぐ」
エドワールの喉元に刃が浅く食い込んだ。
「クロウ……!」
「シスター、違うと言ったな。確かに彼奴等のような単なる騎士ではない。もっとおぞましいものだ」
クロウと呼ばれた男は、刃をエドワールに向けたまま、ゆっくりとオリーブに見せつけるように位置を変えた。
「見ろ。こいつに向けた刃が、水面に移るように歪んで見える。間合いがまるで読めない」
確かにエドワールに向けられた刃は、蜃気楼のようにゆらゆらと歪んで見えた。しかしそのことに一番驚いていたのは、他ならぬエドワール自身だった。
(こんな事、今まで無かったぞ)
エドワールの額に脂汗が足された。
「言え。シスターに近づいた目的は?」
「お、俺たちは昨晩、狼に追われ、それで、彼女に救われて、ここに……」
「本当の事を言え。依頼主は誰だ」
「クロウ!」
オリーブに再び呼ばれ、クロウはゆっくりと彼女に向き直った。
「何だ」
「あなたの言った刃の歪みだけど、良く見えませんわ。もっと近くで見せて下さい」
「何?」
「ですので、もっと近くに」
クロウとエドワールが目を合わせる。エドワールは必死に頷いた。
クロウが立つように顎で指示すると、エドワールは喉元に刃を当てられたまま両手を上にあげゆっくり立ち上がり、オリーブの傍へと二人で歩幅を合わせて歩いて行った。
「どうだ」
「もっと、こちらに」
オリーブが手を広げてクロウを誘う。彼は一歩進んで、はたと立ち止まった。
「俺をからかっていないか?」
「いいえ。でもあなたを落ち着かせるには、抱きしめるのが一番ですから」
「……二人に怪しいそぶりは無かったか?」
「はい。女神様に誓って」
クロウが手を降ろす。エドワールが全身の力を抜いて首元を抑え、肩で息をした。
「シスターに免じて、お前の言い分を信じよう」
「ひぃ、はぁ。感謝するよ」
エリスがエドワールに駆け寄った。クロウが二人とオリーブの間を遮るように立ち、腕を組んだ。エドワールが息を整えながらなんとか笑顔を作る。
「ずいぶん警戒させちまったな。悪かった。俺はエドワール。元騎士だ。こっちは旅の連れのエリス。趣味の悪い仮面を付けてるが、気にしないでやってくれ」
「……アグモグの『斑爪の獅子団』所属、クロウだ」
自己紹介を終えたエドワールが、握手しようと手を伸ばした。しかしそこで画は静止し、しばらくはそのまま、無慈悲な静けさに包まれた。