ヒゲール男爵の館(中編)
白い幽霊は天井に張り付くと、逆さまの四つん這いになる。そして骸骨じみた顔を半回転させて僕らを威嚇した。
『キシャァア、デテ、イケ……!』
「エルリア、手を!」
「えー」
すいっと手を背後に引っ込められた。
「えーってなんだよ!?」
こんな時に恥ずかしがっている場合か。
「だって」
「お願いだってば」
手を掴もうとすると、ひょいっと手を避けられた。
「あとで」
「いっ、いやいや!? 後でじゃダメでしょっ」
最後は恥ずかしそうに僕の方に盾を向けてしまった。完全ガードの構えだ。これじゃ嫌がる妹をいじめているみたいだ。
夕べ、エルリアは「恥ずかしい」と打ち明けた。けれどそれは普段、たとえば人前で……という意味だと思っていた。こんな戦闘中の緊急時は仕方ないと思うのだけど。軽くショックだ。
「風よ、導け……!」
ロリシュがエルフ語で呪文を唱えながら、矢を放った。
幽霊との距離はおよそ十メル。魔法の風に導かれた矢は、正確無比に幽霊の眉間を射ぬいた。
『カッ?』
天井付近を漂う白い骸骨とボロ布のような幽霊の背後で、カスッと音がした。
「やった!?」
「だめ、矢がすり抜けたよ」
悔しげな様子のロリシュ。幽霊は悠然と身をくねらせて、嘲笑うように動き出した。
『ケガラワシイ、生者ハ、デテ、イケ……』
怒気を孕んだ声を発すると、再びこちらに迫ってきた。
幽霊がいた場所付近の天井には、矢が突き刺さったまま残されていた。
「あっ、奥から別のが来た……!」
エルリアが指差す廊下の突き当たり、奥の暗がりから湧いて出てきたのは幽霊の群れだった。
『ァアアアア…………!』
『ンバァアアア…………!』
『フゥホァオオオオ…………!』
一体でも手に追えないのに、更に三体。まるで白い波のように廊下の向こうから押し寄せてくる。
「増えた!?」
「仲間を呼んだのね」
それらは洞穴のような口を開き、不気味な叫びを発していた。死の苦悶を思わせる表情で、顔の肉はそげおち、眼窩では赤黒い燐光が瞬いている。骨と皮だけになった半透明の体は、申し訳程度のボロ布が覆っているだけだ。
天井をベタベタと這う奴、床をものすごい勢いでズルズルと這う奴、首をぐるぐる回しながら、ユラユラと廊下を歩いてくる奴。
まさに悪夢のパレードだ。
「無理、やっぱり無理っ」
「ひやぁああっ……」
ロリシュがたまらず悲鳴をあげエルリアに抱きついた。エルリアは直立不動で涙目になっている。
おそらく、剣士カルビアータさんもここで悲鳴をあげ逃げ出したのだろう。
「あ、あはは……?」
なんかもう、変な笑い声しか出てこない。僕も正直、ここから逃げ出したい。
「皆さん、あれらは死霊……! 接触されると生命力減衰攻撃、命を削られます!」
メリアが魔法の杖で床を叩き、集中。早口で祈りの言葉を口にする。すると、杖の先端の白い石から光が放たれた。まるで薄いヴェールのような光の波が僕らを追い抜いて、死霊の群れとの間に壁を作る。
「結界……!」
『ガ……!?』
『ギィ……』
それは迫る来る速度を僅かに鈍らせた。でもそれは僅かな時間だった。死霊の爪が光の幕を掻きむしり、破いてゆく。
「……くっ、浄化どころか足止め、動きを鈍らせるのが精一杯です。持ちません」
もう考えている時間は無かった。
あえなく撤退。
僕らには危険を冒すより、撤退する道もあった。後ろからはムチリアさんとリスカートさんの足音が聞こえている。
こちらの異変に気がついたのだ。でも、それを待っている暇はなかった。最初の一匹の死霊が光のヴェール、結界を突破――。
「あぁもう、エルリアごめんね」
立ちすくんでいるエルリアの手を強引に握る。
「もう……」
一瞬だけ戸惑ったあと、エルリアはぎゅっと手を握り返してくれた。そこに拒絶の意思は無かった。
エルリアも迫り来る死霊を目の前にして、意を決したのか、あるいは背に腹は代えられないのか。
でも重ねた手のひらの温もりと、指先の力から感じられる意思。それは今までと変わらない信頼と、皆を守りたいという気持ちだった。それは確かに伝わってきた。
僕らの想いはひとつ。
瞬きほどの時間だったけれど、心が繋がり、重なりあう。胸の奥から光が生まれ、温かい力で満たされてゆく。
そして、重ねた手の隙間から、光が漏れた。
――エルリアルドの剣……!
魔女と対峙した時に比べれば一割にも満たない光の力。
でも今はそれで十分だった。少しでいい。僅かな光の力でも、魔を払うことはできるはずだから。
僕はすぐさま手をほどき、光を塗るように剣にまとわせる。
「アルドくんっ……! 来ます」
結界が破れ四体の死霊が一斉に襲いかかってきた。
愛用の短剣――刃渡り60センチメルの刃には、誰の目にもわかるほど白い輝きが宿っていた。
床を蹴り、エルリアとロリシュの前に躍り出る。
「みんなは下がって!」
狭い室内空間、二メルテしか幅のない廊下。ここでは対人戦闘用剣術式がベストだ。
――剣式、突空剣舞……!
迫り来る死霊に剣を叩き込むのは、素早い剣。一撃必殺の、重さに任せた刃ではなく、切り裂くように右から左へ、左から右へ。振り払うように短いストロークで剣を振る。
『ギショァアアアアアアッ!?』
手応えがあった。
まるで湿った毛布を斬るような妙な手応え。死霊は刃の軌跡どおりに切断され、霧散する。
「アルドすごいっ!」
「まだ三体いますわ……!」
『オノレ……!』『セイジャ……!』『ニクイ……!』
一体目の死霊から僅かに遅れ、三体が一斉に襲いかかってきた。
「ふぅ……ッ!」
呼吸を整え、剣を構え直す。すぐさま次の三体の迎撃に移行する。
再び同じ剣式、突空剣舞を叩き込む。
動きを止めず、流れるように、舞うように。
剣舞を連想する動きで、軸足を中心に回転し、剣を振るう。
『キッ……!』
『シャァアアア……!』
『ノガァアア……!』
エルリアルドの剣によって切り裂かれた三体の死霊は、瞬く間に白い霧となって消えていった。
「やったね、アル」
「うん、ありがとうエルリア」
と、小さな音がした。
カラン……となにかが床に落ちる音。
「なにこれ? 赤い……石?」
ロリシュがつまみ上げたのは、赤い形の不揃いな石だった。
宝石でもない、金貨でもない石。でも内側にはほんのり赤い光を宿している。
「それは……焦熱石ですわね。魔法の石……」
「え? じゃぁ魔物は魔女の眷属? 天然の幽霊じゃなくて?」
「わかりません。このあたりの魔物は、金貨や銀貨ではなく、焦熱石に宿った障気から生まれるものなのかも……」
メリアは何かを知っているようだった。
「魔物を倒せばこの石が手にはいるのか」
「焦熱石は珍しいものじゃありません。この土地では広く使われている熱源ですから」
<つづく>