74話『金的』
学校閉鎖期間が訪れ、僕の日常に日常が訪れた。たった残り二週間ほどの日常がひどく非日常に思えた。
「宿題は終わったの?」
「終わってない。あとで終わらせるよ」
頬を張られたあの日から、僕は櫻木の顔を一度も見ていない。どこで何をしていようが、僕には関係ない。ただビンタは殴られた痛みより濃く残っている。ただのビンタではなく、櫻木の怒りとか、悲しみとかそういう感情が含まれた一撃だったのかもしれない。そう勝手に思う。
結局夏休み。僕の手は宿題に触れることはなく。なんやかんややる事無く学年を過ごすのだろうと思う。それから季節はあっという間に寒くなった。
文化祭とは名ばかりの文化祭を終えて十二月。
僕は完全なるとばっちり受けた。普段僕が殴られる理由は僕の言動に対するものだ。
けれど今回は違った。どうやら更科は他校の、セフレ兼彼女に振られたらしい。いい気味だ、そう思っていた僕は甘かった。すべての怒りは僕に向けられるのだから。
僕は背中をコンクリの冷たい壁に激しく打ち付けて内臓が潰されたような不快に吐き戻しそうになった。薄い呼吸に凍える胸部が激しく蹴られる。胸倉をつかまれ壁にはり付けられ、脚が浮く。
太い血管が脈打つこめかみに、明らかな殺意がこもる双眸。僕は苦しさに更科の手を掴み呻きながら抵抗する。割と意識はすぐに飛びそうになる。
「触ってんじゃねぇよ! 調子に乗ってんじゃねぇよ!」
「――――!」
「うわぁ、いたそー」「あれつぶれたろ」
突き上げる金的に全身の血の気が下がり壮絶に沸き立つ痛みが声を殺す。嗜虐的に笑う更科を殺したい。そう思うが僕の意識は次第に薄れゆく。頭からかぶせられた真冬に晒されたバケツの水が体の体温を急激に奪う。何度も頭は壁に打ち付けられ、肋骨はヒビを走らせたように痛み、指は折れ、残る感覚は痛みの熱だけ。僕は思わず口にたまった苦い血を吐き出し。死を覚悟した。ぼんやりと歪んだ瞳が更科の振り上げた拳を捉える。僕は歯を食いしばる。歯を食いしばると腫れた頬の内側を噛む。それがとても痛い。
「――早く!」
そう女子のキンキンとした声が狭い更衣室に響いた。頭上の小さい窓から射す日差しがその姿を照らす。僕は覚えている。薄れゆく思考の中、コート向こう側で目を逸らした女子。それと数人のコート姿の男が狭い更衣室を占領して更科等はその場に押さえつけられた。一瞬のこと。
僕の意識はあと少しのところで潰えた。
「先輩、あと少しですよ」
「君、名前は」
――宮崎六華。
そう頭の中で救急車の音と響いた。たぶん僕は彼女の名前を忘れないだろう。
それが僕の中学一年から二年の部活動での思い出。中三からはなぜだか部長に押し上げられた。
目が覚めたのは見知らぬ天井だった。
手を握っているのが誰なのか、僕は見なくてもわかる。
「旭は強いね」
いじめの主犯格である彼らは少年院に送られるらしい。ついでに志田徹の姿も見なくなった。
「やっぱり、僕は強いなぁ」
「調子乗んないでよ、バカ」
中学二年が終わるまで、櫻木と仲良くする女子生徒は一人もいなかった理由を、旭が知ることはない。櫻木がそのことを言う事もない。
それから月日が過ぎて同じ進学校に進学した僕は櫻木に告白するのだった。




