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世界に二人しかいなくても

作者: N2

 目覚めたら、目尻が濡れていた。あたし泣いていたみたい。何か悲しい夢を見たのはわかるんだけど、夢の内容は……思い出せない。

 あたしは涙を手の甲でぬぐって、布団から起き上がった。畳の上、障子とふすま。和風旅館みたいな、この部屋にまだ慣れない。

 鳥のさえずりを邪魔するように、ラジオ体操のメロディーが響いてきて、これで眠りを覚まされたのだと気づいた。

 音の方向へ歩き出す。部屋の障子の外は、木の廊下で、ガラス戸越しに中庭が見える。うっそうと茂る濃い緑。

 廊下の突き当りに、大きなフレームに入ったモノクロ写真。三日前にこの家に来てからずっと、あたしはこの写真が気になっていた。

 廃墟のようなビルの一室に、下着姿の女性が一人椅子に浅く腰かけている。俯いて表情は見えないが身体全体から醸しだす、悲しみ、孤独、疲労。見過ごすことができなかった。

 あたしは左の戸を開けて居間に入った。体操の音楽はテレビから流れていた。あたしは見るなり叫んだ。

「社長! なんて恰好しているんですか!」

 テレビに向かって腕を振っている男。白いものが混じった髪は、寝癖がそのままでボサボサ。分厚い黒ぶち眼鏡をかけ、あごに無精ひげ。やせて少し猫背の体に、浴衣と黒いドテラを着ている。ひどく年寄りくさい。朝なのに何てだらしない。でも社長は一日中この格好なんだけど。

「社長。そんなんじゃ若い女性に嫌われますよ。もう少し身なりに気を遣ってくれないと」

 と言った専務は、社長の斜め横で体操をしている。社長は、ぼくの自由だろう、みたいなことを口の中でモゴモゴ呟いた。

 専務は言うだけあって、長めの黒髪を後ろで縛り、白いシャツのボタンを襟元までとめている。顔色が黒っぽい。四十代の女性がきちんとしても、掃除のおばさんみたいだ。

 体操が終わると、専務は台所へ向かった。あたしは、「朝食、手伝います」と言った。ありがとうと微笑んだ専務の顔が、次の瞬間、怒りに変わった。

「社長! どうして生ゴミ入れにビール缶を捨てるんですか! それにビール捨てるんなら、ちゃんと水を流して清潔にして下さい!」

 社長は聞こえないふりをして、テーブルで新聞を広げて読みだした。信じられない。

 専務は怒りながらも朝食の準備を進めていた。動作が早くムダがなく、専務だけ早送りで回っているかのよう。味噌汁が煮える間に、専務は炊き上がったご飯の真ん中をよそって、小さな金属の入れ物に盛り上げた。

「ぼくが、仏壇にお供えしようか?」

 急に新聞から顔を上げた社長が言った。

「いいえ、社長は座ってて下さい」

 と言うと、専務はお盆を持って行った。

 朝食ができた。ほとんど専務の仕事。あたし何も手伝えていない。恥ずかしい。専務の料理は、薄味で上品で、抜群においしいんだ。

「ねえ、篠原さん。そろそろお家のことを話してくれない?」

 おもむろに専務が言う。あたしは黙りこむ。

「じゃあ、お家に連絡した?」

 あたしは頷いたが、これは嘘。ウチに、ママに電話していない。したくない。

「まあまあ、篠原くんもまだ落ちついていないんだろう。ウン」

 と社長がひどく場から浮いた発言をした。専務が凄い目でにらみつけたが、社長は気にせず続けた。

「なにせ、篠原くんは、ゴミ袋の間に倒れていたんだからな」

 これ、間違い。ちゃんと言ったけどな。あたしは、ゴミとして捨てられたんだって。


 あたし篠原舞っていう。十七歳、女子高生なんだけど、学校は好きじゃない。

 学校嫌いなのは、あたしが莫迦で勉強がよくわからないせいだけじゃない。ガールズ・トークって奴が嫌い。誰かの陰口とか、誰と誰がつき合っているとかに一ミリも興味が持てない。そしたら完璧にハブられた。

 学校以上に最悪なのが家で。あたしが十歳の時に両親は離婚して、ママはパパより若い男と再婚して、すぐに弟が産まれた。あたしには、ママの今の夫は、よその男の人が家にいるって感じしかしない。気持ち悪いよ。

 新しい「お父さん」とロクに口もきかないものだから、親子仲は最悪で、あたしは家に居場所がなくて、家に帰りたくもない。

 だから、あたしは街に出た。賑やかな街にいると、誰とも話さなくても淋しさが紛れた。日が落ちて、ビルの広告に明かりが瞬く時間になっても帰りたくなくて、ガードレールに腰掛けていたら、あいつに出会った。

 あいつ、元カレとは、とてもうまくいっていた。あたしはあいつが大好きだった。家出してあいつの部屋に転がりこんだ。愛し合う以外に何もしない日々。最初はとても楽しかったのに、いつからかあいつは怒り出し、あたしを殴るようになった。

 そして三日前の夜、あたしはあいつにボコボコに殴られ、部屋から逃げ出した。このままじゃ殺される。体中痛くて、歩き疲れてゴミ置き場のゴミ袋の間に倒れこんだ。

「大丈夫?」

 優しい声。力強い腕に抱き起こされた辺りで、あたしの意識はフェイドアウトした。気づいた時はこの家で、専務が手当をしてくれた。本当にありがたかったけど……家にはまだ帰りたくないんだ。


 食べ終わって、片づけをする専務を手伝う。「専務」という語感と、朝食の片づけという作業が合っていない感じがするが、しかたがない。だって、この二人は「社長」と「専務」としか呼び合わないから。

 専務は、庭から花を摘んできて花瓶に活けていた。生け花なんてわからないけど、きれいだと思った。それから家中の掃除をする。徹底していて、磨き上げるようだ。そして庭の草木の手入れ。雑草をむしり、伸びすぎた枝は梯子に上って鋸で落とす。

「篠原さん、社長にお茶を持って行って」

 お盆ごと部屋の前に置いて、お茶置いておきます、と声をかけるだけでいいから、と専務に言われた。

 それなら楽勝じゃん。あたしは社長の部屋の障子の前にお盆を置き、声をかけた。それで立ち去るつもりだったんだ。

 障子が少し開いていた。あたしは、隙間から中を覗いた。机に向かっている社長の背中。大きな机の上には二台のモニタが光っている。何よりも目を奪われたのは、社長と机を取り囲む膨大な本だった。あたし、こんな沢山の本は、図書館か本屋でしか見たことない。

「何か用?」

 振り向きもせず、社長から声がした。仕事の邪魔をしてしまったらしい。あたしは慌てて、その場を離れた。でも何の仕事をしているんだろう? ビジネス的な会話はほとんどない。家のことは全部専務に任せていて、やる気がないみたい。専務は時々怒っていた。

「わたし、これから出かけなくちゃいけないから、篠原さんは自由にしてていいからね」

 一人になって、居間のソファに座った。体中の疲労が全部ソファに吸いとられていく感じ。そよ風に揺れる中庭の木々の葉音が届いている。あたしは深呼吸をした。

 この家は社会から切り離されていて、穏やかにいられるような気がする。無理しないで、本当のあたしになれるだろうか。ずっと、このままで、ここにいたい。

 でもきっと、それは無理だ。得体の知れない少女をいつまでも置いてくれる家はない。じゃあ、本当のこと、全部打ち明ける? そうしたら家に連絡して送り帰してしまうだろう。冗談じゃない。涙が出てくる。

 あたしの物思いを邪魔するように、音が台所でした。台所に人が入ってきた。社長だ。

 お茶って呟くのが聞こえた。信じられない。台所のお茶の置き場所もわからないなんて。

 あたしは、ソファから立ち上がって、お茶の一式が入ったお盆を指さした。すると、今度は急須を持って、お湯、お湯とうろうろし始める。苛々したあたしは言った。

「いいです、社長。あたしがお茶淹れます」

 テーブルに向かって、お茶をすすっている社長を見たあたし、閃いた。

「社長、あたし、この家にずっといたいです。何でも家のことしますから、お願いします」

 あたし、頭をさげて、テーブルの板にくっつけた。まず社長から説得しちゃえ。

 じっと社長はあたしを見つめる。出ていけ! と怒り出さないか。あたしは不安になった。長い沈黙の後、社長の口が開いた。

「……じゃあ、君は、わが社に入社希望ということでいいんだな」

 入社? この人、何言ってるの。

「ここは会社だ。会社にずっといたいなら、入社試験を受けるのが当然だろう」

「ここ、何の会社なんですか?」

「ぼくは作家、物書きをしている」

「作家って、原稿用紙に字を書く人?」

 色々イメージが合わない。社長は笑った。

「意外と古いことを言うね。パソコンに打ちこんで、メールで入稿しているから、ウチには原稿用紙なんてものは一枚もないよ」

「どうして作家なのに、社長なの?」

「作家というと、世間では『先生』と呼ばれるだろう? それが嫌なんだ。ぼくは人に何かを教えるほど偉くない。呼ばれるなら『社長』の方がましだ。この会社、名上プロダクションは、ぼくが社長で、妹の和子が専務だ。原稿料を収入として社員に給料を支払う。その方が税金も安くなる」

 そうか、専務は社長の妹なんだ。

「入社できたら、あたし給料もらえますか?」

「そういうことになるね」

 家族なのに家族じゃない。家族なのに会社。何だか面白そうな気がしてきた。

「それじゃ入社試験どうぞ! カモン!」

 社長は、のけぞって大笑いした。

「これこれ、入社試験なんだから、背筋を伸ばして、ちゃんと座って、挨拶して」

あたし不真面目すぎたみたい。

まず名前を聞かれた。社長は本当に面接する人みたい。柔らかくて、堂々としている。

「ご自身の長所、強みを教えて下さい」

え、あたしに長所なんてあったっけ? あたし頭はよくないし、人に迷惑ばかりかけているし……長所なんて、わかんない。

「では、ご家族について教えて下さい」

 あ、これなら簡単。答えられる。

「ママと弟とお父さんがいるんだけど、お父さんは本当の父親じゃなくて……」

それで? と社長がうまく聴くので、言葉が止まらなくなって、全部喋ってしまった。

「最後の質問です。ご自宅の電話番号は?」

 これって本当に入社試験なの? 芽生える疑い。家に連絡する気じゃない? どうしました、と回答を促す社長の髪に寝ぐせを見つけた。ちゃんとしてないよ。この人マヌケすぎる。あたしは電話番号を教えた。

「面接試験は終わりです」

「どうだった? あたし入社できる?」

「まあ、普通の会社なら落第だろうね。それに君は一度、家に帰った方がいい」

 そんなの嫌だ。やっぱり電話番号を言うんじゃなかった。

「家族と別れてしまうと、君自身がいつか後悔するよ。世の中には取り返しのつかないことってあるんだ。で結果だが……入社を認めます。自宅から通っておいで」

 本当に? あたし、ここに居られるんだ。

「それから……自分にいいところがない、なんて思うな。君にはいいところが沢山ある」


 その夜、専務と社長は、遅くまで話をしていたようだった。翌日、専務が「いつも面倒なことはわたしにさせるんだから」とブツブツ言いながら、あたしの家に電話をかけると、ママが飛んできた。応接間で専務と長話をして、ママは頭を深々と下げて帰っていった。

 その日の晩ご飯の時、専務は言った。

「篠原さん、あなたは明日お家に帰りなさい。お母さまが迎えに来るって、電話があったわ」

 専務はふと黙った。

「あの人の立場もわからないではないけれど……どうして、こんないい子を……」

 専務は席を立って、まだ食べているあたしを背中から抱きしめた。

「篠原さん、あなたは今日からウチの正社員だからね。いつでも来ていいのよ」

 専務って暖かい。見た目と違って、優しい人なんだ。あたしはこみあげるものを堪えながら、「はい」と答えるのがやっとだった。


あたし、篠原舞の名上プロダクション社員としての新生活が始まった。

 あたしは、高校の授業が終わると一目散に名上家へ行く。専務の仕事を手伝う。社長や専務と晩ご飯を食べてから、家に帰るのが日課になった。月末には給料が出た。時給千円。週末は朝から晩までずっと入り浸っている。

 他の場所では相変わらず、あたしは一人だった。家族とほとんど顔を合わせない。教室でも、誰一人、あたしに話しかけない。あたしが男の部屋にいたことが、デマも混ざって、取り囲む制服の壁の向こうで、低い声で流れているのが、手に取るようにわかった。

 以前はそんな時には、すぐカッとしたけど、今は他人事のように感じる。はん、それが何? あんたたち、学校っていう箱の中でチマチマ言ってなよ。あたしには関係ない。

 社長、名上直澄は、結構売れている作家らしい。社長の本が平積みになっているのを、本屋で見た。講演のオファーも来ているけれどお断りしているの、と専務は言った。

「あのだらしない顔を見たら、人気がガタ落ちですもんね」

 と言うと、専務は静かに笑って首を振った。

「社長は、作家になるまでに人に迷惑をかけたの。だから有名人になるのが嫌なの」

専務は、スーパーの特売をチェックして、電気代水道代も詰めて節約している。もっとお金が入ってくれば、そんな苦労も減るのに。

  

 ある日、庭の木に水をやっていたあたしに、専務の声が届いた。

「今日はこれで上がって。お茶にしましょう」

 あたしが汗をぬぐい台所へ行くと、専務がシフォンケーキを並べていた。見たことのないカップに紅茶を注ぐと、果物のような爽やかな香りが立ちのぼった。

「このカップ、新しく買ったんですか?」

「よく気づいたわね。でも違うのよ」

 と嬉しそうに専務は笑った。

「ウチは古いから、茶器やカップはたくさん仕舞ってあるんだけど、使う機会がなくて。たまに使ってやらないと、器がかわいそう」

 専務は時々繊細なことを言う。あたし、そんなこと思いつきもしない。

「あたし、優しくもかわいくもないから、彼にゴミ捨て場に捨てられちゃうのかな」

 言いながら、目が潤んでくる。専務は微笑みながら、あらあら、と言った。

「篠原さんってピンボールの玉みたいね……一生懸命に生きているから、色々ぶつかって傷つくの」

「傷つくのは嫌です」

「わたしも嫌だわ。でも傷ついたり、間違ったりできるのは財産でもある。賢く間違いのない人生なんて、つまらないわ」

 そう言って専務は紅茶に口をつけた。

「わたしは、失敗が許されなかった」

「社長を支えるため、ですか?」

「社長のせいじゃないわ。手のかかる、厄介なお荷物だけど」

「社長は、書くこと以外何もできない人ですからね。専務がいなかったら死んじゃいます」

「社長はそんなにやわじゃない。ただ……夢を叶えたのは、うらやましいかな」

「専務の夢って、何ですか?」

「夢か……夢なんて忘れちゃった。今はただ、きちんと後片付けしていきたいわね」


 週末の夜、あたしは夕食を、社長や専務と食べていた。社長がぽつんと言った。

「来月、山口で講演の仕事が入ったんで、多分二泊三日ぐらいの旅行になると思う」

「あら珍しい。そういう仕事は嫌いなんじゃ」

「飯島の奴が、内野先生との対談とセットで企画してきたんだ。断れんよ」

 苦々し気な社長を見て、専務は笑った。

「ねえ、内野先生って?」

「先輩の作家さんなの。きれいな人らしいし」

へえー、なるほど。とあたしもニヤニヤすると、社長はますます不機嫌になり、

「へえじゃない! 単にファンなだけだ」

 ニヤニヤが止まらない。社長は話を変えた。

「そんなことより、二泊で家を空けるが、なのか?」

「大丈夫よ」と専務が答えた。

「篠原さんも、任せて大丈夫よね?」

「はい、任せて!」

 頼られたのが嬉しくて、元気いっぱい返事をする。専務はあたしをみつめて言った。

「篠原さん、社長の子供を産んでくれない?」

「いやです! 絶対に」

 あたしは反射的に叫んでいた。子供ってことは、この冴えないおっさんとエッチを……

「無人島で二人きりになっても嫌です!」

 と力いっぱい否定したところで、社長の存在に気づいた。社長は苦笑いしている。専務に目をやる。冗談よ、と笑い飛ばしてくれないだろうか。しかし専務はじっとあたしを見つめていた。沈黙に耐えきれずに言った。

「……それは業務として、でしょうか?」


 ある日の夕方、あたしは居間にいた。社長は執筆中、専務は買い物なのか、不在だった。

 「社長の子どもを産んで」と言われた夜から気まずくて、社長と顔を合わせられない。

 この家にとって、あたしは何? 正社員と言ってもバイトと同じで、会社員ごっこをしているのにすぎないことはわかっている。

 ここもいつか出て行かなくてはならない。いつか一人であたしは、冷たく厳しい社会で、生きていけるのだろうか? 他の人は守ってくれるものがある。家族、学校、会社。でも、それらが敵に回ったら、どうしたらいいの?

 この「会社」は居心地がよかった。もっといたい。いてもいいのかな?

 ごめん下さい。声と共に、玄関の引き戸がガラガラ開く音がした。あたしは玄関に出た。

「松本と申しますが、名上直澄さんはご在宅ですか」

 編集者という感じではなかった。紺色のスーツできめた四十歳位の男がじろじろ見ている。大人って、こういう感じだったな。好きになれない。あたしは社長に名刺を渡した。

「松本? しつこいな」と言いながら、社長は部屋を出た。玄関から二人の声がしてきた。

「会長に会って頂けませんか?」

 と松本という男は喋っていた。

「社長がウンと言う訳ないだろう。ぼくは失敗した身だ」

「あの時のことは、会長も後悔されています」

「もう、ぼくには今の仕事が大事だ。ぼくのことは忘れて下さい、と伝えてくれ」

 松本が帰ると、お茶、と社長が居間に入ってきた。あたしは緑茶を淹れながら、好奇心を抑えきれなかった。

「手伝ってあげないんですか?」

「ぼくは、今の生活の方が性に合ってる」

 社長はどうして会社を辞めたんだろう。社長は今の松本とは全く違う。不思議なことに、今まで社長に感じていた気まずさを、いつの間にか忘れていた。

 社長はふいにソファから立ち上がった。廊下を突き当りまで歩くと、写真の前に立ち止まった。廃墟のような部屋で下着姿の女が腰掛けている写真。

「あたし、この写真好きです」

「そうか……」

「社長……この人はあたしの憧れなんです……この人は一人で強く生きている気がする。あたし、強くなりたいです。専務みたいに」

「ぼくは、君に似ていると思っていたけどね。何物にも縛られず、可能性に満ちている。ぼくや専務にはないものだ。いや、専務の可能性を奪ったのは、ぼくか……」

「専務は、今の仕事、好きだと思います」

「専務は、働くこと自体好きだ。大企業に勤めていたのに……専務は全てを諦めて、ただ一つ残った仕事も諦めなくてはならなくなって……いつか埋め合わせしなくてはと思っていたのに、もうリミットが……」

「リミット?」

 とあたしは問い返したが、社長は、それ以上口を開こうとはしなかった。


「遅刻しました。篠原です。入ります!」

 会社の玄関は開いていた。三和土の上でローファーを脱ぐ。今日は社長が講演旅行に出発する日、六限目の終わりと同時に飛び出せれば、お見送りに間に合っていた筈なのに。

「舞が参上しましたよー。誰かいませんか」

 家の奥からは何の返事もない。玄関から奥へと延びる廊下は、暗くて洞窟のようだ。

 あたしは台所を覗いた。テーブルの上の半紙に、筆で「篠原くんへ 行ってくる」と大書されている。あたしは大笑いした。

 笑い終わったあたしは庭におりて、水道につながったホースを探した。ホースの先が木々の間に伸びている。その先端を見ると……専務が草木の陰に倒れていた。

「専務、どうしたんですか?」

 専務に駆け寄る。冷や汗を流して、細かく震えている。意識がない。あたしは専務の体を揺すって叫んだ。

「専務、専務、しっかりして下さい! ‥‥誰か助けて! 社長、助けて!」


「あの……」

 処置室から飛び出してきた看護師の表情が、怖いくらいに真剣だったから、あたしの声は宙に浮いたまま、どこにも届かない。

 壁も床も天井も一面の白で覆われた廊下。ここは病院。

 専務はあたしが今座っているベンチの向かいの処置室に吸い込まれたまま出てこない。あたしは手を組み、祈るしかできない。

 庭で倒れている専務をみつけたあたしは、社長の携帯に電話することだけは思いついた。電話で社長は、救急車を呼んで、と指示してくれた。社長はいま新幹線の中で、Uターンに時間がかかる。

 年配の看護婦が、あたしに言った。

「緊急措置はしているけど、本格的な治療に入るには、家族のサインが要るの」

 あたしはまた唇を噛む。あたし、何もできない。ただここで社長を待つしかない。

 イタリアンスーツを着た男が近づいてきて、あたしの前で止まった。誰、この人?

「篠原くん、ありがとう。大変だったな」

 え、社長? 社長の見た目がまるで違っていた。髪はきちんと櫛が通り、髭は剃り落とされ、高級そうなフレームの眼鏡をかけている。こんなの今まで見た事ない。

「どうした? 処置室はどっち?」

 社長は若い医師と廊下で話しこむ。二人とも深刻な表情で、医療用語が飛び交っている。

 医師と話し終わって、社長はあたしの隣に腰を下ろした。

「専務は助かるんですか?」

「今夜が山だと、言っていたよ」

「専務は、何の病気なんですか?」

「腎不全なんだ」

 腎不全とは、腎臓の機能が低下して体から発生した老廃物をおしっこに排出できなくなってしまう病気だそうだ。老廃物を体内に溜めこんだままだと、人は死んでしまう。

「だから、人工透析に通っていた。週三回」

 人工透析とは、腎臓の代わりをする装置と血管とをつなぎ、機械によって血液中の老廃物を除去する。透析は時間がかかる。一回につき四、五時間、装置につながれ、それを週三回。その間動くことができない。フルタイムの仕事は辞めざるを得なくなる。

「この病気の怖いところは、見た目全く普通に暮らしているのに、透析を止めると死んでしまうところだ。ほとんど何の自覚症状もなく生活していて、ある時突然パタンと倒れる。ところが専務は前回の透析を受けていない」

「透析するの忘れていた?」

「いや、自殺かも知れない」

 あたしは息を呑んだ。社長はじっと病院の床を見つめている。

「社長は、何か知っているんですか?」

 廊下の奥で照明が消えた。もう消灯時間なんだろう。周囲に人の気配はない。

 父親が死んだ時、社長は二十二歳で就職したばかり。専務は十七歳だった。

「当時あの家にはまだローンが残っていて、お金がかかった。そして母は父を亡くしたことで、とても寂しがり屋になってしまった」

 そこで、お金を稼いでくる役割は就職した兄が、母親と一緒にいて家を磨き上げる役割は妹が、担当することになった。社長は、海外赴任を命じられて家を出た。

「専務は大変だった。部活もバイトもせず、まっすぐ家に帰って、家事を次々こなす。大学進学もできなかった。就職はできた。しかし、家から会社に通うことが条件だった。母の世話をさせるために……ぼくは海外を点々とする生活が続いて、家に帰るのは年数回だったから、うまくいっていると信じていた」

 社長は憑かれたように喋り続けた。

「専務、いや和子が倒れたと聞いて久々に帰ってみると、母は痴呆症だった。和子はそれを一人で背負って、仕事もこなして、体を酷使したあげく腎臓病を発症してしまった」

「仕事一筋だった、ぼくには家のことなど何もできやしない。社内の派閥抗争に巻きこまれ、仕事も失敗して、会社でも孤立していた」

「絶望の中で思い出した。ぼくは元々小説が好きだった。ぼくは深夜に文章を書きだした。現実逃避だった。でも新人賞を受賞して、ぼくは会社を辞めて作家になった」

「母が亡くなり、ぼくも生計が立つようになって、妹に楽させてやれると思った時、もう透析を受けるしかないと診断された。だが、あいつは透析は受けない、と言った」

「どうして‥‥」

「透析を受けるために、ずっと続けてきた仕事を辞めなくてはならない。『わたしは、恋も、結婚も、子どもも全部諦めて生きてきた。それなのに仕事さえできなくなったら、わたし、世の中の役に立っている? 社会に、兄さんに負担をかけて生きていくなんて嫌』」

「ぼくは必死で説得した。作家業を法人化して、あいつに専務になってもらった。専務には給料を出すから、透析のない日だけ家に来てもらえばいいと言ったが、『部屋を借りるだけの給料は払えないでしょう?』と言って同居を続けている」

 社長は喋り疲れたかのように、目を瞑った。

「きれいごと言っても、ぼくも専務の人生を搾取しているのかな……会社員という地位を用意して、あいつに生き続けて欲しいと願ったけれど……結局、あいつはぼくの仕事を助けている。利用しているだけなんじゃないか」

「それは違います」

 専務は社長を支えるのが嫌だったんだろうか。プライドを持っていたんじゃないか。

「あいつ自身の夢や望みが叶わないのなら、死んだ方が自由で幸せなのかもしれない。それを止める言葉は、もうない。でも!」

 社長は叫んでいた。

「専務がいなくなったら、ぼくは広く古い家に一人ぼっちになってしまう。一人で、あの家の掃除なんてできやしない。あいつの料理が好きだったのに、それも食べられない……一人で、どうやって生きていけばいい!」

 広い世界の片隅で、二人きりで何とか生き抜いてきた兄妹のイメージが、焦点を結ぶ。

 専務の強さは、自分が支えなければ生きていけない社長の存在があったから。それに気づいていた社長は、専務に頼った。専務がもっと強く生き続けてくれるように。そうやって二人で生きてきた、その片方を奪われたら、この深夜の病院みたいに冷たくて残酷な世界で、どう生きていけばいいのだろう……

「どうして泣いているんだね」

 社長の優しい声。ゴミ捨て場に倒れていた、あたしを抱え上げてくれた時と同じ声。

「だって、だって……」

 子供みたいにただ泣きじゃくることしかできない。社長に何もしてあげられない。

 ーー今はただ、きちんと後片付けをしていきたいわね。

 専務の夢。専務は自分の亡き後、社長がこれほどの孤独を抱えることをわかっていたんじゃないか。あの「社長の子どもを産んでくれない」発言も、社長を一人きりにしないためかも。

 人は二人なら生きられる。たとえ愛じゃなかったとしても。


 夜明け近く、処置室のドアがスライドして、中から看護婦が出てきた。

「名上さん」

 と声をかけて、ふふと笑った。

 彼女の視線の先で、初老の男と少女が肩を寄せあって眠っていた。

 二人の手はつながれている。

《FIN》

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