後編
「ミヤ、ミヤ見て。人がいっぱいだよ。すごいね」
「ちょっとスズ! 前見て、前! 危ないよ!」
大勢の人が行き交う街路を、滑るように通り抜けるスズ。
「す、すみません! 通してください……あ、スズってば!」
ぼくはというと、押し寄せる人の波に抗うことができず、一向に前へと進まむことができないでいる。
どの人も忙しそうにせかせかと動き回り、少しでも隙を見せたら最後、あっという間に商人たちの餌食になってしまう。
「ここが、王都……」
人々の喧騒がやまない中、ぼくはポツリとそう呟いた。
話は三日前に遡る。
オークの村を、人間の襲撃から守ることができなかったぼくとスズは、そのことをトーデス様に報告しようと廊下を歩いていた。
「はぁ……折角、ぼくに任せてくれた任務だっていうのに、失敗するなんて……」
「仕方ないよ。あれは、予想がつかないことだったもの」
トーデス様の部屋へと向かう足取りは重い。
オークたちを全滅させてしまいましただなんて、一体どの面を下げて言えばいいんだろう。
「そういえばミヤ、ユーには会わないの? せっかく帰ってきたのに」
「あー、ユーか。後でね……」
ユーには、それこそ顔を合わせたくなかった。
絶対に成功させると言って出てきたんだ。失敗したなんて知ったら、きっと失望されてしまう。
「気が重いったらないよ……」
固く閉ざされた扉を、恨めしそうに見つめる。
だが、いつまでも部屋に入らずつっ立っているわけにもいかない。
ぼくはいつもより少しだけ重くなっているドアノブを回し、その中へと足を踏み入れた。
「失礼します」
「おお、ミヤとスズか。随分と、早かったな」
「はい、まぁ……」
早く言わなければならないのに、喉の奥でつっかえて言葉にならない。
隠すことなんてできない、言うのが遅いか早いか、それだけの違いだというのに。
「それで? オークたちの様子はどうだったんだ?」
「それが──」
その話をしている最中、トーデス様は取り乱すこともなく、ただ黙って聞いていた。
「そうか……オークたちが」
「はい……」
トーデス様は立ち上がり、そのまま部屋を出て行こうとする。
「どこに、行くんですか?」
「決まっているだろう。魔王様のところだ。今回のことは、我々だけで済む問題ではないからな」
「そう……ですよね」
それもそのはず、村が一つ壊滅したのだから当然だ。
「人間たちとの戦争も、そう遠くないうちに起こるだろうな」
「そんな! ──っ!」
ぼくが言い終わらないうちにトーデス様は、その持っていた鎌を喉元に突きつけた。
「まだ、人間と魔物は分かり合えるなどと世迷いごとを言うつもりか? ミヤ、君もその目で見ただろう。人間は血も涙もない、非情なんだ」
「でも……」
トーデス様の言う通り、人間は魔物を殺すことをやめないだろう。
かといって、このまま戦争をしたとしても魔物にも、そして人間にもいい未来が待っているとは思えない。
戦争に変わる新たな案を出さなければならないが、それもない今何を言ったところで聞き入れて貰えるはずがなかった。
「話は終いだ。もう、行くぞ」
「ま、待ってください!」
「何だ? くだらん話なら聞かぬぞ」
悪あがきではあるが、ここは何としても開戦までの時間を稼がなければ。
言うとするなら、もうこれしかない。
「ぼくに……王都へ行く許可をください!」
「何だと? 何のためにそんなことを」
「王都は、人間たちが集まる中心部です。そこなら、充分に情報を集めることができるかと」
トーデス様はしばらく考え込み、そして──。
「確かにそれは一理あるが、君はオークの件で既に失敗をしているわけだ。そんな君を、もう一度信じろと言うのか?」
「それは……」
信じてもらうことは、はっきり言って難しいだろう。それはぼくが一番、分かっていることだ。
だが、だからといってこのまま引き下がるわけにはいかない。
ここは、強気でいくんだ。
「王都への侵入なら、人間であるぼくが適任なはずです。今度こそは、失敗しません。どうか、お願いします!」
「……はぁ。分かった。君を信じよう」
「あ、ありがとうございます!」
トーデス様がくれたこのチャンス、無駄にならないようしなければ。
「ねぇ、ミヤ」
「ん? どうしたの、スズ」
トーデス様の部屋を出るとすぐ、スズが話しかけてきた。
そういえば、トーデス様といる時スズは何も発言していなかったが、何かあったのだろうか。
「王都に行くの、私もついて行きたい……」
「だ、だめだよ! もしスズが魔物だってバレたら、それこそ殺されるかもしれないんだよ⁉︎ ぼく一人だけなら大丈夫なんだから、スズは城で待っていてよ。ね?」
「嫌だ……」
まるで子どものような駄々をこねるスズに、ぼくはすっかり参ってしまった。
どうしたら、諦めてくれるんだろうか。
「ミヤだけだと、心配だよ。それに、王都まではどうやって行くの? 私がいれば、飛んで行けるんだよ?」
「うぐ……」
そうだった。オークの村に行く時も、スズの力があったお陰ですぐに着くことができたんだ。
それがなければ、一体何日かかっていたか……考えたくもない。
「で、でも……スズのその姿は絶対に魔物だとバレてしまうし……」
「それなら大丈夫だよ。確か部屋にフード付きのローブがあったはず。それを着れば、頭を隠せるよ」
「そんなに、上手くいくのかなぁ……」
不安ではあるが、このままではいつまで経っても出発ができない。
「絶対に、フードを取っちゃだめだからね」
「うん、分かってるよ」
ぼくはスズに何度も念押しし、王都へと向かうのだった。
そして現在。
「お兄さん、少し見ていかない? 安くしとくよ!」
「い、いやぼくは……」
ただ道を歩いているだけで、この有様だ。
三歩に一回は、こうして声をかけられる。
商人たちからすると、ぼくは絶好のカモに見えていることだろう。
「この調子じゃ、日が暮れちゃうよ。スズはどこ行ったんだろう?」
スズからしたら、人間たちがひしめき合っているこの状況が珍しいのか、ぼくを置いてさっさとどこかへ行ってしまった。
「スズってば、意外と抜けているところがあるからな。フードが脱げていなければいいんだけど」
ぼくに心配されるだなんて、スズにとってはさぞかし心外なことだろう。
「ミヤ!」
「わ! スズか、びっくりさせないでよ……」
ぼくよりも前を歩いていたはずだが、なぜか後ろから声をかけられた。どこをどう行ったらそうなるんだ。
「あのね、あのね、どこもすっごく賑やかだね。毎日、お祭りをやっているのかな?」
スズは興奮が冷めやらないのか、大きく身振り手振りをしながら、その賑わいの様子を伝えようとしている。
「スズ、気になるのは分かるけど、遊びに来たんじゃないんだよ。あんまりぼくから離れないでね?」
「あ、そうだったね。ええと、何をしに来たんだっけ?」
もはや根本的なことを忘れてしまったスズに、思わずズッコケてしまいそうになる。
「人間たちの、情報を集めるんでしょ……」
「そう、そうだった。でも、その情報は戦争に使われるんでしょう? ミヤはそれでいいの?」
「情報を集めるっていうのは建前みたいなものでね……本当は、人間たちに魔物をどう思っているのか聞くんだ」
「魔物を?」
「そう。実際に聞いてみないと分からないことってあるからね。さ、行こう」
スズはいまいちピンときていないみたいだが、それ以上は言及してこなかった。
さて、ここには人間が腐るほどいる。誰がどういう人かなんて分からないのだから、適当に話しかける他ない。
「あの、すみません」
「ん? どうしたんだ?」
何か果物のようなものを片手に持つ、気のよさそうなおじさんだ。ぼくの次なる言葉を待っている。
「あー、えっと……」
しまった。何と言えばいいのか、考えていなかった。
単刀直入に聞いたのでは怪しまれてしまうだろうし、どうしたら……。
「あのね、おじさんは魔物のことをどう思っているの?」
「スズ⁉︎」
なおも何か言おうとしているスズの口を押さえていると、おじさんが神妙な表情で顔を近づけてきた。
「シッ! 魔物のことは、ここでは言うんじゃない。憲兵に聞かれると牢に入れられるぞ」
「……? どうして、言ってはならないんですか?」
おじさんは、やれやれといった風に頭をかく。
「今言うことは、くれぐれも誰かに話すんじゃないぞ。この国の王は、魔物を根絶やしにしようとしているんだ」
「えぇ! そんなどうして──!」
まだ言い終わらないうちに、今度はおじさんの手がぼくの口を覆う。
スズの口をぼくが押さえ、それをさらにおじさんが──と、はたから見ると異様な光景に違いない。
「声が大きい! 静かに、聞いてくれ!」
声が出せないぼくは、コクコクと何度も頷いてみせる。
それを確認してやっと、おじさんは手を離してくれた。
「ぷはっ。そ、それでどうして、王様はそんなことを……」
「そんなこと、俺が知るはずねぇよ。確か昔に、魔物と人間で仲違いがあったらしいが……」
「あれ、おじさんはその話、詳しくないんですか?」
魔王様やトーデス様だけに関わらず、魔物全体がこの時のことを重大な出来事として話していたから、おじさんの話し方には少し違和感があった。
「なにせ、何千年も前のことらしいからなぁ。ちょっと前に、ここいらにいたオークを滅ぼしたとか何とか言っていたが、俺からしてみれば魔物だろうが何だろうが、何もしてこないなら放っておけばいいと思うがな」
「それ本当ですか⁉︎」
「うわ! な、何だよ? 大きい声出すなって……」
「さっきの! 何もしないならのところ、本当にそう思っているんですか⁉︎」
おじさんはキョロキョロと辺りを気にしているが、構わずに離し続ける。
「うるさいって! ……国は魔物を目の敵にしているみたいだけどよ、正直俺ら国民はそんなことどうでもいいと思っているよ。兵士とやり合ったって話は聞くが、それ以外には特に害もないしな」
「そう、ですか……」
「ところで、こんなことを聞いてどうするんだ?」
「あ、ありがとうございました!」
訝しげな眼差しを向け始めたおじさんに背を向け、ぼくとスズは一目散に走り出した。
また余計なことを言わないように、スズの口は押さえたままだ。
「はぁ、ちょっと聞きすぎちゃったかな……?」
「んーっんーっ!」
「あ、ごめんスズ」
流石に息が苦しくなったのだろう。スズが暴れ出し、ぼくの手を振り払った。
「ふう……あの人、魔物のことなんとも思っていなかったね? 私たちの間では、人間は魔物を嫌っていて、見つけ次第殺してしまうって聞いていたのに……どういうことだろう?」
「多分、それが人間と魔物の行き違いなんだろうね」
「行き違い?」
さっき暴れた時にズレてしまったフードを深く被り直しながら、スズが聞いてくる。
「そう。魔物は全ての人間が憎悪を抱いていると思っているようだけど、蓋を開けてみれば実際に嫌忌しているのは一部の人だけなんだ」
「じゃあ、ほとんどの人間は私たちを憎んでいないんだね? また昔みたいに共存もできるかな」
「それはどうだろう。まだ、街中の人に聞いたわけじゃないし、必ずしもそうだとは決まっていないからね」
そう、問題はそこだ。もっとたくさんの人に話を聞きたいが、あんまり嗅ぎ回っていると今度は目をつけられてしまう。
今だって、おじさんに怪しまれたばかりだ。
もっとこう、確実な方法はないだろうか……。
「だったら、直接乗り込んじゃう? その、王様のところに」
「……は?」
唐突なスズの申し出に、ぼくは素っ頓狂な声を上げる。
「……いやいや、無理だよ! 王様だなんて、そんな友達感覚で会えるような人じゃないんだよ?」
「でも、いつかは話さなければならないんじゃない? それも、王都にいられるうちに」
「それは、そうだけど……でも、どうすれば城に入れてもらえるか……」
「考えていても仕方ないよ。行くだけ行ってみよう? だめなら、他に解決策を探せばいいんだから」
スズのこういう思い切りのいいところが、時々羨ましく思える。
ぼく一人だけだったら、まだうじうじと悩んでいただろう。
どうやらスズを連れてきたことは、正解だったようだ。
「うん、そうだね。行ってみよう!」
「だめだ!」
「まぁ、こうなるよね……」
城の門番は口をキッと結び、ぼくらの前で立ち塞がる。
「王様に会いたいの。合わせてよ」
「だめだと言ったらだめだ! 旅の途中で王都に寄っただと? そんな奴らを、通すわけにはいかない! 大人しく帰ることだな」
城に入るどころか、文字通り門前払いされてしまった。
当然だ。ぼくだって門番の立場なら、素性の分からない男女二人なんて追い出している。
「しかもスズは、そのフードだもんね。怪しさの塊みたいなものだよ……」
「むぅ……せめて、この街の人と一緒なら通れたかもしれないのに……」
フードで顔はよく見えないが、声からして不機嫌でいることが伝わってくる。
「ま、仕方ないよ。ほら、スズも言ったでしょ? 失敗したら他の方法を探すって」
「んー、今日はもう疲れたかも……」
そう言ったスズの足取りは、見ると確かにふらふらと頼りないものになっていた。
「今日はもう、休んだ方がいいね。もう日も暮れ始めているし、宿を探そうか」
「そこの二人、ちょっと待つんだ」
そう言って目の前に現れたのは、城の兵士だろうか。気がつくと、周りを取り囲まれていた。
ジリジリと、距離を詰められる。
「な、何ですか……」
「お前たちだな? 魔物のことを聞いて回っている怪しい者たちというのは……」
兵士たちはざっと十人ほどだろうか。少しでも妙な動きをすれば、すぐにでも捕らえようという気迫が感じられる。
「ミヤ……」
スズは、苦しげに肩で大きく息をしながら、ぼくの腕にしがみついてきた。
立っていることも辛いんだろう。こんな状態のスズを連れて、この数から逃げ切ることは無理そうだ。
「ぼくたちはただの旅人ですよ。王都に寄ったついでに、聞いていただけですよ。ほら、最近もオークを襲ったらしいじゃないですか? それで気になったもので」
大丈夫だ、落ち着け。何でもない風を、装うんだ。ここさえ切り抜けられさえすれば、スズを休ませて、朝一番で魔界へ帰ることができる。ぼくが、やらなければならないんだ。
「そうだとしても、だ。我々は、ここでお前らを見逃すわけにはいかない。取り調べる必要があるからな」
「あの、連れの子が具合が悪いみたいなんです。明日にしてもらえませんか?」
「あ、おい待て!」
スズの容態が気になり、そそくさと退散しようとすると、それが兵士の逆鱗に触れたのか、はたまたスズが仮病をしていると思ったのか、とにかく兵士は乱暴にスズに掴みかかった。
ほとんど寄りかかるようにしていたスズは、簡単にバランスを崩し──。
そして地面に倒れ込み、その拍子でフードが脱げてしまう。
その顔は真っ赤で、倒れたというのにぐったりとしたまま起き上がらない。
「こいつ……ツノがあるぞ! やはり魔物だったんだ!」
兵士たちは一斉に剣を抜き、ぼくに詰め寄る。
「お前も、人間のふりをしているが魔物なんだろ⁉︎」
「違う! ぼくは──」
「黙れ! 死ねえええ!」
一人の兵士が、勢いよく切りかかってくる。
あぁ結局、話し合うことは叶わないことだったんだ。
魔物も人間も、自分たちの主張ばかりでまるで聞く耳を持たない。
姿が違うだけで、笑ったり悲しんだり友達を欲しがる、根本的なことは同じだというのに。
スローモーションで迫りくる切っ先に、ぼくは静かに目を閉じる。
そして辺り一面が血に染まり、痛みが電撃のように全身を駆け巡っていく。
……いや、違う。斬られたのならなぜ、全身が痛いんだ?
それにこの痛みはよく知っている。鼻の奥にツンと広がる土の匂い、この世界へ来る前に、何度も味わってきた──。
「──スズ!」
気を失っていたとばかり思っていたスズ。最後の力を振り絞ったのか、ぼくを突き飛ばし自ら身代わりになったのだ。
「スズ! 返事をしてくれ、スズ!」
斬られた首からは、おびただしく血が流れ続けている。
いくら手で押さえても後から後から溢れ出し、その顔からは血の気がどんどんと引いていった。
「おい! 一人は重症だぞ! 今のうちにもう一人も捕らえるんだ!」
「首を斬られたのなら、魔物といえどもう助からない。後から回収しよう」
そんな会話が、どこか遠く聞こえてくる。
スズ……血が止まらない。こんなに、押さえているのに。
(こっちだよ……)
突然、頭の中にノイズのような、声が鳴り響く。
男とも女とも、老人とも取れないその不思議な声にハッと我に帰ると、まさに兵士たちがぼくを捕らえようと手を伸ばしている最中だった。
「うおっ⁉︎」
「おい、待て! 止まるんだ!」
ぼくは急いでスズを背負うと、目の前の兵士たちを押し退けて走り出した。
兵士たちもまさかぼくが逃げ出すとは思っていなかったようで、すぐには追ってこられないようだ。
(こっち、こっち、急いで……)
また、あの声が聞こえる。どうやら、向こうの森から聞こえてきているようだ。
声の主が誰なのか、分からない。敵の罠なのかもしれない。
だけど今は、それを選べる状況ではないんだ。ぼくはわらをも掴む思いで、漆黒の森へと入っていった。
「はぁ、はぁ、スズ……」
背中から感じる体温はみるみるうちに冷たくなり、鼓動も弱々しいものになっていく。
スズがスズでなくなっていくのが、どうしようもなく怖かった。
遠くで鐘が鳴っている。ぼくを捕まえるべく、街全体に知らせているんだろう。
焦り、恐怖、後悔──。色んな感情が入り混じって、泣いている場合ではないのに涙が勝手に流れていく。
「どこに行けばいいんだ⁉︎ どうして声が聞こえないんだよ!」
それが兵士に気づかれやすくなるだけだと分かっていても、心細さからつい大声を出してしまう。
声が聞こえなくなったとしても、立ち止まるわけにはいかない。ぼくはでたらめに、ほとんどヤケクソで夜の森を進んでいった。
「このままじゃ、逃げ切れない……それに、スズだって──ん?」
鬱蒼とした木々の間に、ぼんやりとした光が漂っている。
蛍かとも思ったが、この世界にもいるとは考えにくい。
その光は、まるで意思があるようにふわふわと奥の方へと移動していった。
「あ……ま、待ってよ!」
光はある程度進むと止まり、ぼくが追いついたことを確認するとまた動き出す。
誘われるままに奥へ奥へと入って行くと、目の前に開けた景色が見えてきた。
「ここは……」
そこは無数の光で溢れ返り、さながら小さな小宇宙だ。
(その子を、ここに寝かせて……)
「うわぁ⁉︎」
ぼくをここまで連れてきた光だろうか。急に飛び出してきたものだから、驚いて尻もちをついてしまった。
そのせいで、背負っていたスズも地面に投げ出される。
(乱暴……)
「な……何なんだ⁉︎」
光はしばらくスズの側をウロウロすると、ジッと何かを考え込むように押し黙ってしまう。
それはよく見ると、ただの光ではない。小さな、羽の生えた人型の生き物が発光していたのだ。
「よ、妖精……?」
(思ったより、傷が深い。回復するかどうかは、彼女次第だ……)
言うが早いか、あっという間にスズの傷口に妖精たちが集まって、光はより一層強いものへと変化した。
キラキラと輝くスズはとてもきれいで、まるで眠っているようだ。
おとぎ話に出てくる眠り姫も、こんな感じだったのだろうか。
(よし、終わったよ……)
妖精たちが、一斉に離れていく。
スズの首元にあった傷は見事に塞がっていて、あれだけ血を流していたことが嘘のようだ。
「スズ、よかった……これで、助かったんだ」
(喜ぶにはまだ、早いみたいだよ……)
「おい! こっちにはいたか⁉︎ 隠れられる場所は、ここしかないんだ! 探せ!」
あの兵士たちの声が、聞こえてくる。近くにはいないようだが、ここに来るのも時間の問題だ。
「早く、逃げないと……!」
(待って、この森は複雑で迷ったら二度と出られなくなる。ぼくについて来て……)
再び、妖精の案内で森を進んでいく。
妖精が発する光で足元は照らされているが、同じような景色ばかりで、確かにぼくだけで森を抜けるのは不可能だっただろう。
「……あの、どうして助けてくれたんですか? ぼくたち、会ったこともないのに……」
(同じ魔物が斬られたんだ。助けたくもなるよ。それに……)
「それに?」
(……うぅん、何でもない。ほら、そうこう言っているうちに出口だよ……)
森を抜けると、そこには満点の星空が広がっていた。
見ると、はるか向こうで街の明かりが点々と散らばっている。
どうやら、随分と遠くまで来たみたいだ。
(魔界は、この先を真っ直ぐ行った先にあるよ。治療したとはいえ、まだ危険な状態だ。早く、連れて帰ってあげて……)
「はい。あの、ありがとうございます。ぼく一人じゃ、何もできていませんでした」
何度も妖精に頭を下げ、ぼくは城へと向かう。
(ぼくが彼女を助けたのは、あの時庇われた人間──君に興味が湧いたからだよ。君なら、また魔物と人間が共存する世界にしてくれる、そんな気がするんだ)
妖精のその声は、一人言だったのかあるいは一定の距離を離れると聞こえなくなるのか、ぼくの頭に響いてくることはなかった。
「スズ……」
相変わらず、スズは目を覚まさない。微かに聞こえてくる吐息が唯一、スズを感じられるものになっている。
「あの時、無理にでも城に置いていけば……! ごめん、ごめんよ…….」
過去のことをいくら悔いたところで、スズが斬られたという事実は変わらない。
それは分かっているんだ。
だけど、あの時こうしていたらという考えが頭の中をグルグルと回り、自分ではどうしようもできない。
「こんな時、どうしたらいい? スズ、教えてくれよ……」
そう、聞いたところで返事がくるはずもなく、ぼくはただひたすらに歩き続けるしかなかった。
「これは、酷い……全然血が足りていないんだ! 直ぐに、輸血を!」
城の医務室では慌ただしくスズが運び込まれ、一枚の扉を隔ててその姿は見えなくなった。
ぼくは中へ入ることもせずに、その場に立ち尽くすことしかできない。
「何、やってんだよ……」
聞き慣れた声がする。どうしてここにいると知っているんだろう、見るとそこにはユーが立っていて、ツカツカとこちらへ向かってくる。
「ユ……っ!」
ユーは一切の迷いなく、ぼくの顔面を思い切りぶん殴った。
ぼくは壁に叩きつけられるが、反撃をする気にもなれない。ただ、壁に背を付けてうなだれるばかりだ。
「言ったよな、スズを絶対に守ってやれって。……なのに、何なんだよこれは!」
「…………」
何も、言うことができない。いや、言う資格がないんだ。今のぼくには、何も──。
「……トーデス様が、言っていた。今が、戦争の幕開けだって。スズの仇だ……俺が、人間どもをぶっ殺してやる」
そう言ったミヤが去っていくまで、遂にぼくは顔を上げることができなかった。
……結局、ぼくは隣にいたスズを守ることもできなければ、戦争をとめることもできない。何も、やり遂げられなかったんだ。
「そんなこと、ない……」
「……っ⁉︎ スズ!」
そこには、扉に寄りかかるようにして立つ、スズの姿があった。
息も絶え絶えで辛いはずなのに、その表情には密かに笑みが見られる。
「何してるの⁉︎ まだ、寝ていないと……!」
「ミヤがこんなになっているのに、寝てなんていられないよ。ね、あの後どうなったの? 王都で、何が──」
「もう、終わったんだよ」
「……え?」
顔を合わせられずに俯いて話しているから、今スズがどんな顔をしているのかは分からない。
それでも、声からして大体どんなものかは想像ができてしまうが。
「戦争は、もう始まってしまったんだ。今更、何をやったところで、無駄なんだよ……」
「……そんなこと、言わないで!」
スズはぼくの両手を握りしめ、そのせいで嫌でもスズの顔が目に入ってくる。
その瞳に映るぼくは今にも泣きだしそうで、それはあの日のぼくと何も変わっていないようだった。
「無理だよ……だって、何ができるんだよ。ぼくだけで、何が……」
「……確かに、戦争をとめることなんて無理かもしれない。誰もが、そう言っていたかもしれない。でもね、それでも私はミヤが言うような世界を、生きてみたいと思ったの。ミヤが諦めなければ、私も諦めないよ」
ギュッと、手を握る拳に力がこもる。
スズ……初めて会った時は無表情な子だと思っていたのに、いつからだろう。こんなに表情が豊かになったのは。
「……うん。そうだよね。ぼくは、ここへ来た時に決めたんだ。絶対に、戦争をとめてみせるって」
「ミヤ……! うん、何をしたらいい? 何でもするよ!」
スズはそう言ってくれるが、実際のところやるべきことは限られてくる。
まずは、人間界へ進行をしている魔物たちを、何とかしてとめる方法を考えなければならない。
「直接行ったとしても、反感を買うだけだ。なら、どうすればいい?」
一つだけ、考えがあるにはある。
それは、ユーとの対決の時に起こったあの落石を、今度は人為的に起こすというものだ。
成功すれば、大幅な足止めにはなるが、それにはいくつかの課題がある。
まず一つ目は、先に行った魔物たちを、追い抜かねばならないということ。
そして二つ目。魔物の軍勢を足止めするほどの巨大な岩を、どうやって動かし落とすのかということだ。
どちらもスズの力を利用すればできるのだが、今はそれも使えない。
それに何よりも、この方法だと誰かが怪我をする可能性がある。完全に安全だと言い切れない以上、この方法は無理そうだ。
「ああ! 何も思い浮かばない! どうしたらいいんだ⁉︎」
「こんな時、龍神様がいてくれれば……」
「龍神様?」
「あ、何でもないの。忘れて」
スズは一瞬しまったという風な表情を浮かべて、手を顔の前でブンブンと振る。
「いや、聞かせてよ。今は、どんな小さなことでも知っておきたい」
「……ただの、昔からの言い伝えだよ。この世のどこかには龍神様がいて、その姿を現した時、世界には真の平和が訪れるって」
「龍神様、か……ちょっと調べてみるよ。確か、書庫があったよね?」
「あるけど……でも、そんなの子どもに聞かせる昔話みたいなものだよ! 本当にいるわけがないよ……」
スズはそう言うが、ぼくには全てが作り話には思えなかった。
おそらくだが、龍神様というのは実在していて、いつか再び戦争が起こることを危惧した誰かが、それを昔話として伝えていったのではないだろうか。
ただの噂話とは違い、昔話とは何百、何千年も語り継がれるものなのだから。
「ぼくは、龍神様について調べておく。その間に、スズは少しでも治療を受けていてよ」
「でも……」
「大丈夫。ぼくは、スズを置いていったりなんてしないよ」
スズが医務室に戻ったことを確認すると、ぼくは書庫へ向かった。
城中の兵が出払っているのだろう。辺りはシンと静まり返り、不気味さをかもし出している。
コツコツと、歩く靴の音がやけに大きく感じられる。こんなにも、淋しいものだったか。
「着いた。ここが……」
それは書庫というよりも、もはや部屋自体が本でできているかのようだ。
うず高く積まれた本は、天井にまで届いてしまうほどで、絶妙なバランスを保ってそこに鎮座している。
「この中から探すのは、骨が折れるぞ……」
とはいえ、まずは一冊手にとってみないことには始まらない。
昔、ブロックを積み上げていって崩した方が負けというゲームが流行ったが、ここにきてそれをやる羽目になるだなんて。
震える手で、恐る恐る本を抜き取ってみる。
しかし、本を取るわずかな揺れが次第に大きな揺れへと変わり──。
周りの本も巻き込み、盛大に崩れていった。
古い本特有の、カビ臭さと埃っぽさが部屋いっぱいに充満していく。
「ケホッケホッ! こんなことしている場合じゃないのに……」
腰のあたりまで埋まるほどの本の量に途方に暮れていると、ある一冊の書物に目が止まる。
「これは……」
それはここにあるどの本よりも古く、表紙は汚れでザラついていて、持つとホコリがフワッと舞った。
「子ども向けの、絵本みたいなものなのかな? 字は読めないけど、これなら何となく話が分かりそうだ」
一ページ目をめくってみると、一人の男の子が森を歩いている。
ページが進むごとに、男の子は木を登り、獣と戦い、川を渡ってと大変な冒険をしているようだ。
やがて男の子は、洞窟にたどり着く。巨大な龍が火を吹き、襲いかかる。
「次のページは……あ!」
物語は、そこで終わっていた。いや、正確に言うと最後のページが抜け落ちていたのだ。
誰かのイタズラか、そうでなければ古い本だ。自然と抜け落ちてしまったのだろう。
「でも、これで龍神様が森の奥の洞窟にいるってことは分かったぞ」
しかし困ったことに、ぼくにはこの世界の土地勘がない。知りたいこと、行きたい場所があるのならそれを教えてもらうしかないのだ。
「スズの調子はどうなったかな。一度、戻ってみないと」
散らばった本の片付けは……後ででいいか。
ぼくは、扉を開けたままにしていたせいで廊下にまで溢れ出ている本の氾濫から目を逸らしつつ、書庫を後にした。
「……あ、ミヤ。どう? 何か手がかりは掴めた?」
「こっちは、何とか情報をゲットしたよ。スズは? 具合はもう大丈夫なの?」
「私の方は、何も心配ないよ。すぐにでも起き上がって、走り出したい気分」
そう言ってイタズラっぽく微笑むスズは、確かに血色がよくなっていて、これなら二、三日休むだけで充分回復するだろう。
「それで、ぼくは今からその龍神様を探しに行くんだけど……」
「私も、ついて行くよ」
「だよね……」
正直言うと、これ以上スズを連れ回したくなかった。
治療を受けたとは言え、まだ万全な状態ではないスズを連れて行くのは些かリスクが高い。それに──。
もう、あの時のように目の前でスズが傷つく姿は見たくなかった。
ユーならともかく、ぼくじゃあ何かあった時にスズを守ってやることができないから……。
「ミヤは、もう私を置いて行かないって言った……」
「言ったけど……でも、流石に病み上がりの身体で行くのは……」
「ね、お願い、ミヤ……」
こうなってしまったスズは、もう何を言ったところで説得するのは不可能だ。
長い髪がサラリと揺れ、首すじに残った傷跡が痛々しく主張している。
「……分かった。でも、今度またスズが危険な目にあったらその時は……ぼくの命に代えても、絶対に守るから」
「ミヤ……ありがとう」
スズの傷跡を見て、やっと決心がついた。
これから先、何があろうとスズを危険に晒したりはしない。
たとえそれで戦争をとめることができたとしても、スズがいなければ何も意味などないのだから。
「辛くなったりしたら、すぐに言うんだよ?」
「うん、分かった」
スズはベッドから起き上がると、軽く伸びをしてストレッチを始めた。
「そうだスズ、書庫で見た本なんだけど、どうやら森の奥にある洞窟に龍神様がいるらしいんだ。そういうところ、あったりしない?」
「洞窟……。ここからちょっと遠いけど、そんなところがあったかもしれない……」
「よし、早速そこに行こう。手遅れになる前に、急がないと」
「あ……待って!」
スズはモジモジと、何か言いたげな様子だ。やはり、まだ本調子じゃないのか。
「本当にいるって確証はないし、それに私……今、力を使えないから歩くしかないよ? もしそれでだめだったら、戦争をとめる手段はないと思った方がいい」
「そうなるね。でも、それ以外にできることはないし、もうその方法に賭けてみるしかないんだ。こうしている間にも、魔物たちは人間界へと進行を続けている。さ、ぼくたちも行こう?」
スズと二人、手を取り合って歩んでいく。
果たして行った先に、龍神様はいるのかいないのか。
泣いても笑っても、これが最後の冒険となるだろう。
スズが言っていた森はとても複雑なようで、木の一本一本が絡み合い、まるで迷路のように入り組んだものになっていた。一度でも足を踏み入れようものなら最後、二度と出て来られなくなりそうだ。
「えぇと、スズは道を知っているんだよね?」
「私もそういう話を聞いただけだから……」
人を立ち入らせないという点においては、龍神様がいる可能性が大いにある。が、肝心のぼくらが迷ってしまっては元も子もない。
と、いうわけで、かれこれもう数十分はここで立ち往生をしている。
「ヘンゼルとグレーテルなら、ここで石を目印に置いて行くんだけどな……」
「何、それ?」
「あぁ、ぼくが住んでいた世界の童話でね、森で迷った二人は石をたどって家に帰るんだ」
「石……。ここには、落ちていないね」
「何か、代わりになるものがあったらいいんだけど」
しかし周りにあるものといえば、草や木、それに枝ぐらいのものしか落ちていなかった。
枝を落として行くという手段もあるが、それほど多くはないし、だからといって折るというのも何だか忍びない。
「あ、だったら……」
「スズ、何か思いついたの?」
「うん、こうしたらどうかな」
スズは落ちていた木の枝を拾うと、地面に一筋の線を引いていった。
「これならこの枝一本だけで足りるし、道に迷うこともないよ」
「確かに、これなら先に進んでも大丈夫そうだね」
ガリガリと枝を地面に擦り付けながら、洞窟を探す。
道はいくつにも分かれていて、そのうちの一つを進むとさらに道が──と、全てを回っていたらキリがない。
目印のおかげで、どの道を通ったか一目で分かるようになっているのは本当にありがたかった。
これで迷う心配はなくなったのだから、とりあえずは適当に歩いてみる。
「……しかし、広い森だなぁ。どこまであるんだろう?」
「噂だと、この森は今でも広がり続けていて、終わりなんてないんだって」
「こ、怖いこと言わないでよ……」
そんな突拍子もないことを言いながら、どんどんと奥へ進んで行く。
すると──。
「行き止まり……?」
「みたいだね。仕方ない、戻ろう」
そこは大量のイバラが生い茂り、大きな壁を形成していた。
その鋭い棘はいかなる物も切り裂かんと、そこに人が来ることを待っているようだ。
間違っても、あの棘には触れないようにしなくては。
「この道を通ったんだから……次は、あっちに行ってみよう」
そこから、しらみつぶしに歩いていってみるが、どの道も最後には必ず行き止まりになっている。
行っては戻りを繰り返しているうちに、自分が今どの位置にいるのか分からなくなってくる。
目印を付けていなかったら、この時点で確実に迷っていただろう。
「どの道もだめで、残りはこの一本。これが、洞窟まで繋がっているといいんだけど……」
そう、半ば諦めながらも行ってみると、やはり道は途中で塞がれており、これ以上進むのは不可能になっていた。
「これで、全部だめだったか……他に行けるところなんてなかったし、スズの言った通りただの伝説だったのか?」
そうだとしたら、もはや打つ手はない。あと何時間後には魔物と人間は衝突していることだろう。
「ねぇ、ミヤ。この道、まだ奥に行けそうだよ?」
そう言うとスズは、道の終わりにしゃがみ込んで何やらし始めた。
その壁は、ツタとツタとが絡まり合っていて、とてもではないが人が通れる隙間が空いているようには見えない。
「確かに、一見するとそうかもしれない。でもほら見て、ここのツタは細いものばかりでしょ? これなら、手でちぎることができる。そしてできた穴を広げていけば、通れるようになるはずだよ」
スズは一心不乱に、ツタを手でかき分けていく。
どうやら壁自体は薄いようで、すぐに向こう側の様子が確認できるようになった。
「ちょっと狭いけど、これなら何とか行けるかな……」
小柄であるスズは、いとも簡単にその上半身をツタの穴に通していった。
「どう、スズ? 何かあった?」
「ちょっと待って、もう少し……きゃあ!」
ガラガラと硬い何かが崩れるような音と共に、スズの身体が穴へと吸い込まれていく。
「スズ!」
間一髪でスズの足を掴んだぼくだったが、近くに支える物もなければ力もない。
次の瞬間にはぼくも同様に引きずり込まれ、全身が浮遊感に包まれると──。
「いでっ! うぐっ!」
地面に叩きつけられるのとほぼ同時に、今度は上からの衝撃が。
おそらくぼくは、スズのクッションになったのだろう。
「ご、ごめんミヤ……大丈夫?」
「何とかね……それよりも、ここは?」
上を見てみると、さっき通ってきたツタが見える。
その先は切り立った崖になっていて、どうやらぼくらは滑り落ちてきたらしかった。
「これじゃあ、もう戻れないな。先に進むしか──」
ビュオオと、唸り声とも、呻き声ともつかない音がすぐ後ろで聞こえてくる。
「な、何の音だ⁉︎」
反射的に振り向くと、そこには地獄へと続くような大穴が、ポッカリと開いていた。
再び、あの不気味な音が響く。
穴を、風が通っている証拠だ。つまり、どこかしらに繋がっているということになる。
「もしかして、これが……」
「ねぇ、見てミヤ!」
スズがしきりに、上の方を指差して何かを訴えている。
「上が、どうしたの?」
「あのイバラって、さっき私たちが行き止まりだって言ってたところじゃない?」
見ると、確かにあの時引き返す原因となったイバラが、無造作にあちらこちらへとそのツルを伸ばしていた。
いや、イバラだけではない。今まで通れないと思っていた障害が、ぐるりと周りを囲っている。
どの道を行ったところで、結局は全てここへ繋がるようになっていたのだ。
「行き止まりとしか思えない道、そして最終地点であるこの大穴……」
「こんなの、自然にできるはずがない。誰かが、ここへ来るように仕向けたってこと?」
だとしたら、一体何のために? そもそも、この場所に気付くかどうかも怪しいというのに、わざわざあんな壁を作るだなんて……。
「この先に、それを知る誰かがいるってことなのか? それとも、最初からぼくらを監視していたのか?」
「ミヤ、どうする?」
この先に何が待ち受けているとしても、この大穴こそが探していた洞窟であることは間違いないのだ。
行かない手はない。
「中は足場が悪いだろうから、気をつけて焦らずゆっくりと……って、どわあぁぁ⁉︎」
「ミヤーっ!」
洞窟の土質はやわらかいものになっていたようで、足の重さに耐え切れなくなった地面は容易く崩れ、そのままぼくは真っ逆さまに転がり落ちることとなった。
「ミヤ、大丈夫?」
慌ててスズが降りてくるが、ぼくの前例があるからかその動きは慎重だ。
「な、何とか……土まみれになるだけで済んだよ」
落ちる時の絶叫を思い出し、気恥ずかしさでまともにスズを見られない。
「それにしても……ここはまだ外の光があるからいいけど、あっちの方は暗いね。私は少しなら見えるけど、ミヤは?」
もちろん、ただの人間であるぼくに暗闇の中見えるわけがない。
奥に行くに連れて暗さが増していっている様を見ると、以前に魔王様と対面した時のことを思い出す。
もっとも、あの時の暗さは今とは比べ物にならないものだったけれど。
「こういう時のために、ランプを持ってきたから大丈夫だよ」
火を灯すとオレンジ色の光がぽやっと浮かび上がり、洞窟内を優しく照らす。
せいぜい数十センチ先を照らすのがやっとな光だが、その温かな色合いになぜだかすごく安心する。
「これであとは、目印を付けながら進むだけって……あれ? あの枝は?」
「多分、ここに落ちた時になくしちゃったんだと思う……」
いつどんな時でもぼくを励ましてくれていたスズが、不安そうに指をいじっている。
それもそのはずだ。何せ無事に帰って来られる保証など、どこにもないのだから。
「だ、大丈夫だよ! ぼくに任せて、先に進もう?」
「……分かった」
スズが安心できるよう、なるだけ明るく話すようつとめるが、それでもまだ、どこか不穏な空気が流れている。
スズにとってぼくという存在は、そんなにも頼りないものなのか。
思えばぼくは、スズと初めて会った時から一度でも、スズのためになるようなことをした時があっただろうか。
オークの村では何も達成することができず、王都ではスズを命の危険にまで晒してしまった。
そんなぼくを、スズはどう思っているんだろう。内心、ぼくに幻滅しているのではないだろうか。
「……ミヤ」
「な、何⁉︎」
そんなことを考えていたせいか、スズに話しかけられただけでドキリと心臓が跳ね上がった。
「分かれ道があるよ」
「ほ、本当だ。じゃあ、左に行ってみようか」
ただ歩いているだけだというのに、気が気ではない。
今まで、スズといてもこんな気持ちになることはなかった。
暗い洞窟にいるということも、何か心に影響しているんだろうか。
右へ左へと行っているうちに、段々と自分のことさえも分からなくなってくる。
「結構歩いてきたけど、出口どころか行き止まりにもならないね。ちょっと、おかしくない?」
「う、うん。そうかもね……」
きっかり二人分聞こえていた足音が、小さくなった。
スズが、急に立ち止まったからだ。
「どうしたの? 疲れたなら、休憩しても──」
「ミヤは、いつまでそうしているつもり?」
「え?」
その声は低く、語気も少し荒々しい。
あの温厚なスズが、怒っている。
普段とは違う様子に面食らったぼくは、オドオドと顔色を伺うことしかできずにいた。
「な……何か、気に障るようなこと言っちゃったかな? ごめんね?」
「そういうことじゃない。さっきから、私を避けている気がする」
「そ、そんなこと……」
ないとは、言い切れない。
だけど、この気持ちが何なのか……自分でもそれが分からないのだ。
「私が枝をなくしちゃったから、怒っているんだ……」
「違うよ! 違うけど……」
ぼくとスズの間に、重苦しい空気が流れる。
何も会話がない。ただただ、時間だけが過ぎていく。
「……早く進まないと。もう時間がないんだから」
沈黙を破り、スズは再び歩きだす。すれ違う時も、ぼくとは決して目を合わせようとしなかった。
スズの背中が、遠ざかっていく。
このままでいいのか? ぼくが変えたかった世界は、本当に──。
「──待って!」
自分の足元を見るのがやっとな中、走ってスズを追いかける。
「何? 早く行こうよ。こんなことで、時間を無駄にするわけにはいかないんだから」
「こ、こんなことじゃないよ……うまく言えないけど、このままギクシャクが続いてしまったら、だめなんだよ。こんな時だからこそ……」
「ミヤ……だったら、話してよ。私がいるのに、一人で抱え込んで……そんなの、寂しいよ……」
一つ、また一つと、スズの目から涙が零れ落ちていく。
……そうか、きっとスズもぼくと同じだったんだ。自分は相手にとって必要なのか。勝手に心配し、そして勝手に傷ついて。
それはこんなにも簡単に、声に出すだけで解決することだというのに。
「ぼくは、ここに来てから何も成し遂げることができなくて……いつもスズに助けてもらいっぱなしだから、だめな男だと思われているんじゃないかって……」
「そんなこと、ないよ! ミヤは、サキュバスの落ちこぼれだった私に、それでもいいって言ってくれた……ミヤだけが、私を私として見てくれていたんだよ。すごく、嬉しかった……だから私は、何があってもミヤと一緒にいるよ。そう、決めたの」
スズ……知らなかった。そんなことを、思っていたなんて。
幻滅されているかもだなんて、ただの杞憂だったんだ。それが分かって、一気に全身の力が抜けていく。
「ほら、座っている時間はないでしょ? 早く行かないと」
「あはは……安心したら、思わずね……」
先ほどまでとは違う、和やかな雰囲気の中二人、歩みを進める。
どちらからともなく手を握り合い、そして離すことはなかった。
「……! ミヤ、見て」
「どうしたの?」
「道が……」
そう、これまでのパターンからいくと、道は少なくとも二つ以上に分かれているものばかりだった。
だが、今は違う。ぼくらを導こうとするが如く、真っ直ぐに道が続いている。
「ここだけ一本道なのは、何かあるからなのかな」
「分からない……でも、ここからは用心して進もう」
奥に行くにつれて、心なしかさっきよりも暗くなっている気がした。
いや、気がする、ではない。実際に暗くなっているのだ。
手に持っているランプの灯りが、どんどんと小さくなっていく。
光が、闇に吸収されているようだった。
「これは……魔王様の時と、同じ……⁉︎」
ついに辺りは完全な黒一色となり、もはや一歩も進めなくなる。
同時に、全身の毛が逆立つような……何か、とてつもない力を秘めた者が、すぐ近くにまで迫っている気配がした。
隣で、スズが息を飲む音が聞こえる。
『よく、ここまでたどり着いたな……』
男の、しわがれた声がしたと思ったら、エメラルド色の粒が一斉に発光しだし、急に強い刺激を与えられた目がチカチカと瞬いた。
「うっ……何だ? 眩しい……」
「これ、鉱石だよ。岩の中に、埋まっているみたい」
しばらく待ち、ようやく目が慣れてきたところで見てみると、上も下も関係なくびっしりと、光る鉱石が散らばっている。
その光はとても幻想的で、まるでオーロラの中に閉じ込められたかのようだ。
「あれ、ここの岩は光ってないね」
これほど明るいと、一面だけ黒いのが逆に目立ってしまう。
触ってみると、ザラっとした中に独特のヌメリがあり、その気持ちの悪さからつい声が漏れる。
「何だ、これ……」
他の岩は普通だというのに、なぜこれだけが……。
そんなことを考えていると岩の隙間から、鉱石はずっと向こうまで続いているのが見えた。
「じゃあ、これは……」
岩の先を追って天井を見上げていくと、ギョロリとした目玉がぼくを見据えている。
岩だと思っていたのはなんと巨大な生物で、驚きのあまり声が出なくなったぼくは、数秒間その目と見つめ合った。
「あ……あぁ……」
『何だ、我に会いに来たのではないのか?』
また、さっきの声がする。この生き物が発しているのは、間違いなさそうだ。
「会いに来たって……それじゃあ、貴方が龍神様なの?」
未だに固まっているぼくに代わって、スズが生き物──もとい、龍神様に問いかける。
『いかにも……我こそが、龍神。貴様たちの動向は、全て見ていたぞ。それこそ、森へ足を踏み入れた時からな……』
「森から……ということは、もしかしてあのツタの壁も?」
『そうだ。あの程度を突破できない者など、会う価値がないからな』
龍神様は身じろぎしているのか、鉄に包丁を擦り合わせたような音が聞こえてくる。
確かに、森でのことが龍神様の仕組んだことだとすると、来る者を拒むような入り組んだ道、そして本来なら行き止まりである壁の向こうが、全てこの洞窟に繋がっていた、自然ではまずあり得ない現象にも説明がつく。
だが、だとすると龍神様は、なぜ今こうしてぼくらと会っているのだろうか。
伝説の存在となっているのなら、これほど簡単に姿を現わすはずがない。もっとたくさんの試練があったとしても、不思議ではない。いや、むしろそうでなければおかしいのだ。
「龍神様! 言い伝えにある、龍神様が世界に平和をもたらすって、本当なんですか?」
龍神様を目の前にしても、臆することなくズバズバと聞いていくスズは、ある意味大物なのかもしれない。
『だったら、どうしたというのだ……』
「魔物と、人間の戦争が始まろうとしているんです。だから、龍神様の力で争いを収めてください!」
一瞬の静寂の後、龍神様が静かに口を開く。
『戦争が起こるとして、なぜ我が? それを聞く道理が、どこにある?』
「え……」
『我を従わせたいなら、それ相応の覚悟を示してみよ!』
龍神様が言ったのと同時に、鉱石はより一層輝きを増し、辺りは昼間のように明るくなった。
そして、今まで暗闇で見えていなかった龍神様の全貌が明らかになる。
蛇のように長い体に、強靭な手足。緑色のトカゲのような鱗がびっしりと全身を覆っている。
燃えるような真っ赤なたてがみに、耳まで裂けている口は今にも火を吹き出しそうだ。
「スズ!」
さっきまで硬直していた身体が嘘のように、動き出す。
スズと龍神様の間に立ち、両手を広げて龍神様をキッと睨みつける。
「ミヤ、危ないよ! 私が……」
「いいから! スズは隠れていて! 約束したんだ……ぼくが、絶対に守るって!」
恐怖で歯がガチガチと鳴り、うまく話すことができない。
龍神様との圧倒的な力の差を前に、足の震えが止まらなくなる。
アドレナリンが出ているお陰でなんとか立てているが、そうでなければ腰が抜けてしまっていたことだろう。
「ミヤを置いて、逃げられないよ! 戦うなら、私も一緒に!」
「だめだ! スズだけでも助かるんだ!」
龍神様と戦ったって敵わないことなんて、誰の目にも明らかだ。
しかしだからといって、ここで退くという選択はできない。
ここで逃げ出せば、もはや戦争は避けられないんだ。
たとえここで命を落とすとしても、立ち向かわなければならない。
『……ふっ。ははははは!』
突然、壊れたかのように笑い出した龍神様に、ぼくもスズも唖然とする。
あの凄まじかった威圧感も、今ではもう完全に消えてしまっていた。
「あの、どういう……?」
『いやはや、済まなかったな。今ままで、貴様たちを試していたのだ』
「試す?」
つまり、これも試練の一環だったということか?
『先に言っていた通り、我は貴様たちをずっと監視していた。我の力を貸してやるほどの者かどうか、確かめるためにな』
「それは、森でのことですか」
『いや、それだけではない。洞窟にいた時に、何か感じなかったか?』
洞窟……それは、あの疑心暗鬼になっていた時のことを言っているのだろうか。
隣を見ると、スズも覚えがあるのか、どこか思い詰めたような表情をしている。
「ぼく、どうしてかは分からないですけど、何だか急にスズのことを疑いだして、一緒に並んで歩いていることすら辛く感じるようになってしまって……」
「それ、私も……ミヤのちょっとした仕草が気になって、なぜかすごくイライラしてしまったの……」
あの時、スズはそんな風に思っていたのか。
思い返すと、あの怒り様はどこかおかしかった。いくら怒っていたとしても、スズはあれほど感情的になったりはしない。
『あれは、全て我が仕向けたこと。お互いがお互いを信じられなくなった時、どういう行動を取るのかを確かめるために』
「どうして、そんなことをする必要が?」
『我は、永遠とも言える時間を過ごしてきた。魔物と人間がどうなっているのかも、知っている』
龍神様の体はゆっくりととぐろを巻き、一呼吸おいて続きを話し始める。
『だからこそ、我は見定めたかったのだ。魔物と人間のコンビとは……異色とも言える貴様らだが、同時に世界の希望でもある……これを、持っていくがいい』
龍神様が差し出したものは、黄金色に輝くりんご大の球だった。
「これは……?」
『それは、宝珠。貴様が真の平和を望むと言うのなら、きっとそれに応えてくれるだろう』
手の中で真っ直ぐな輝きを放つそれは、まさに希望の光のようで、平和をもたらすに相応しい存在感を醸し出している。
「龍神様……ありがとうございます! これで、戦争をとめることができます」
『礼なら、全てが終わった後にしてほしいものだな。……それより、急いで向かった方がいい。もう時間は、あまり残されていないようだ』
龍神様が指で何かサインのようなものを描くと、鉱石の光が地面から一直線に伸びていく。
『帰りの道しるべは用意してやった。後のことは、貴様らで何とかするといい』
「はい! 行こう、スズ」
「うん!」
背後から、龍神様の気配が消えていくのを感じる。
だけど、もう振り返ることはしない。前だけを見て、走り抜けるんだ。
龍神様が作ってくれた光の道のお陰で、ぼくらはすぐに洞窟を出ることができた。
「軍は、今どの辺りまで進んでいるんだろう。ここから急いで行ったとしても、間に合うかどうか……」
「ごめん……私が、力を使えていればよかったんだけど……」
「スズは、悪くないよ! どうすればいいのかは、歩きながら考えればいいさ」
そう、ぼくらに立ち止まっている時間なんてものはない。
とにかく、一秒でも早く軍を見つけなければ。
幸いにも、森には枝で付けた跡がある。それを辿っていけば、迷うことはないだろう。
「ところでミヤ。軍を見つけたとして、それの使い方は知っているの?」
スズが、ぼくの持っている宝珠を指差して言う。
完全に盲点だった。宝珠を手に入れることができたという達成感で、そこまで気が回らなかったのだ。
「分からない……龍神様が何も言わなかったということは、特別何かをするわけじゃないと思うんだけど……」
「一回使ったらそれっきり……なのかな? これで、軍のところまで導いてくれるといいんだけど」
「ちょっと、やってみようか」
言ってみたはいいものの、どうすればその力を解放することができるのだろうか。
手の平でこねくり回してみるが、ただの球以外の何物でもない。
少なくとも、今のままでは戦争をとめることはおろか、他の何にも役に立つことはないだろう。
ただのオブジェクトと言った方が、よっぽどしっくりくる。
「うーん……宝珠よ! ぼくらを導きたまえ!」
何となくそれらしいことを言ってみるが、肝心の宝珠はうんともすんとも言わない。
若干の恥ずかしさで、ぼくの心にダメージを負わせることには、成功したみたいだが。
「だめだ……何か、間違っているのか?」
「軍を見つけるより先に、使い方を見つけないとね」
とは言ったものの、どうしたらいいのか……まったくもって見当もつかない。
模様も何もない球体に、これ以上何をしたらいいのか。
「空に向かって、宝珠を掲げてみるっていうのはどう?」
スズの提案の通りに、背伸びをする要領で宝珠を高く上げる。
が、先ほどの心の傷が影響して、なかなかあのセリフを言い出すことができない。
「ほ、宝珠よ……ぼく、ぼくらを……」
「そんな言い方じゃだめだよ。もっと、大きな声を出さないと」
「宝珠よ! どうかぼくらを……」
もう、どうにでもなれ。半ばやけくそで、声を張り上げていると突如、身体がひっくり返るほどの衝撃がぼくを襲った。
「ミヤ⁉︎ 大丈夫⁉︎」
「あてて……一体、何があったんだ? ……って、あれ⁉︎ 宝珠が!」
気がつくと、さっきまでは確かに持っていたはずの宝珠が、きれいさっぱりと煙のように消えている。
「ミヤ! あそこ!」
スズが言った方──空に、光る何かを咥えて飛び去る怪鳥の姿があった。
光り物が、好きなのだろう。それほど大きくない宝珠は、怪鳥にとってはさぞ魅惑的に映ったことだろう。
「どうしよう……あれがないと、戦争が!」
「落ち着いて、ミヤ。宝珠のあの輝きは、離れていても確認できる。それを追って行けば、取り返せるはず」
「でも……龍神様が、時間がないって! 急げって、言っていたよ!」
予想だにしないハプニングに頭は混乱状態で、ぼくは冷静な判断ができないでいた。
「まずは宝珠を取り戻すのが、先。それに、時間がないって言ったって、具体的にいつかなんて言っていなかったでしょ? もしかしたら半日、一日後かもしれないじゃない」
スズは強い口調で、しかし優しくぼくを諭した。
いつもこうだ。こうして、何度スズに助けてもらっただろう。
……やるべきことは、決まった。
「あの怪鳥を、追いかけよう! そのためにスズ、手伝ってほしい」
「うん、私はミヤについて行くよ!」
しかしただ闇雲に追いかけたところで、相手が空を自由に移動できる以上こちらが疲弊するだけだ。
何とかして、あの怪鳥をおびき寄せることはできないものか……。
「……! ミヤ、光が向こうの木のてっぺんで、止まったよ! きっと、あれが巣に違いないよ!」
「あ、あぁ! 急いで向かおう!」
今はまだ、考え事をしている時ではない。
あの木へたどり着かないことには、何も始まらないのだ。
どうやって宝珠を取り戻すのかとか、後で考えればいい……そう、自分に言い聞かせる。
でなければ、焦りと不安でどうにかなってしまいそうだったからだ。
それは、スズも同じなのだろう。
「はぁ……は……きゃっ!」
「スズ! 大丈夫⁉︎」
隣を歩くスズが、足を取られて転びそうになる。何もない平坦な道であるにもかかわらず、だ。
「私なら、大丈夫。それより、早く行かないと……」
スズは、真っ直ぐに前を見据える。その瞳は宝珠の光を反射して、ユラユラと揺れていた。
「──それで、着いたはいいけど……」
「思ってた以上に、大きいね……」
初め見た時にはそれほど大きく見えていなかった木も、しかし近づいてみればその圧倒的な重圧感に押し潰されてしまいそうになる。
その幹の太さは、ぼくとスズが両手を広げたとしても、到底囲みきれないほどだ。
その上、宝珠の光でまともに見上げることすらできない。
木を登って取りに行くことは、まず無理だろう。
「どうしたものか……」
スズと二人、途方に暮れて立ち尽くしていると──。
「ギャア! ギャアアア!」
「うわあああああ⁉︎」
けたたましい鳴き声と共に、何か鋭いものが頭をかすめる。
ぼくは尻もちをつきながらも、必死で頭を隠した。
やがて声は段々と遠ざかっていき、辺りは再び静寂で満たされる。
「いっててて……な、何だったんだ?」
「どうやらあの怪鳥が見張っていて、宝珠を取ろうとする者を攻撃しているみたい」
そう、姿こそ確認することはできないが、宝珠を盗んだ犯人は確かに存在しているのだ。
こちらからは見えないが、向こうからは全てが筒抜け──これほど厄介なことはない。
「せめて、少しでも気をそらすことができれば……」
「うーん……あ! そうだ!」
何か閃いたのかスズは、ゴソゴソとポケットの中を探り始める。
「あった!」
その手には、龍神様がいた洞窟にあったあの、光る鉱石が握られていた。
「その石……いつの間に?」
「えへへ……実はミヤと龍神様が話していた時、あまりにも綺麗だったものだからこっそり持ってきたの」
全く気がつかなかった……。スズの手のひらにある鉱石は、宝珠には劣るが、それでも充分すぎるほどの輝きを放っている。
「それで? この石を使って、何をしたらいいの?」
「それはね……私が石を持って、囮としてあの怪鳥をおびき出すから、ミヤにはその間に木の上から宝珠を取ってきて欲しいの」
そう言ってスズは得意げに笑ってみせるがこの作戦、かなり厳しいものになるだろう。
まず第一に、さっきも言った通り木を登っていくことは不可能だ。
スズなら飛んでいくということも可能だが、何せ手負いの状態ではそれもままならない。
スズ自ら囮になると言ったのも、それが理由だろう。
「でも……だからと言って、ぼくに何ができるってわけでもないし……」
「そんなこと、ないよ」
そう、スズは言う。ただの励ましではない。
その目には、確かな自信の炎が灯っていた。
「何か、考えがあるみたいだね」
「そう、これは一人では成し得ない……ミヤとの協力が必要不可欠なの」
遠くで、またあの怪鳥が鳴いているのが聞こえてくる。
見張りをしているといっても、つきっきりで木に張り付いているわけではないようだ。
スズは、この隙を突こうとしているのだろうか。
「……それで、ぼくは何をしたらいいの?」
「まず、私がこの石を持って怪鳥を誘い出す……」
スズは、持っている鉱石を改めてぼくに見せながら、説明していく。
「でも、私だけじゃそんなに長くは走れない。だから、途中からミヤに代わってもらいたいの」
「代わる?」
「私から石を受け取ったミヤは、うまいこと怪鳥を誘導して、木に衝突させる。覚えている? オークの村でやったこと……」
勿論、覚えている。忘れられるはずがない。
村を守ろうと立ちはだかったドレイクさんに、正気を取り戻してもらおうとした策だ。
あの時落ちてきたものは木の実だったが、今回はそれで宝珠を落とそうということか。
「なるほど……やりたいことは、分かったよ。……でも、それってほとんど、ぼくにかかっているよね⁉︎」
「大丈夫! ミヤなら成功させられるよ!」
「ここにきて根拠のない自信を持ち出してこないでよ!」
……結局のところ、確実な手段はないということだ。
それでも、失敗は許されない。
ぼくは、スズが作戦を遂行するべく森へと入っていくその瞬間まで、頭の中で何度も何度も流れを繰り返した。
相手の速さ、動き、そしてどういうルートを描くか。
少しずつ条件を変えてシミュレーションしているうちに、まるで本当に成功したかのように錯覚してしまう。
「ギュアアアア!」
そんな妄想を打ち消して、耳をつんざく、雷のような鳴き声が響き渡る。
スズの作戦通り、まずは怪鳥を誘い出すことができたのだろう。
激しい羽音に、木々が次々となぎ倒されていく。
確認はできないが、向こうで必死の攻防戦が繰り広げられているであろうことは容易に想像がついた。
思わず森へと踏み入ろうとする衝動を、どうにかギリギリで抑え込む。
この作戦は、何か一つでも間違えたら決して成功しない。生半可な覚悟でいていいものではないのだ。
今、ぼくにできること。それは、スズを信じてただ待つことだけだ。
傍から見ると、薄情に思えるかもしれない。
だけど、今ここでぼくが動けば、それはスズを信用していないということになる。
それだけは、してはいけない。それをしてしまうということは、スズを裏切ることに他ならないからだ。
いつスズが来てもいいように、全神経を集中させる。音が、段々と近づいてくる。
「ギィャアアアアア!」
「ミヤァ!」
始めに、スズが。そして、一秒も経たないうちに怪鳥が、スズの後を追ってくる。
「スズ! 早く!」
スズの服はズタズタに引き裂かれていて、それがどれだけ過酷なものであったのかを物語っていた。
まさしく満身創痍といった様子で、ヨタヨタと走っている。
そんなスズを怪鳥が見逃すはずもなく──。
「っあああああ!」
鋭い、鉈のような爪が、遂に鉱石を捕らえる。
「スズーーっ!」
懸命に、スズの方へと手を伸ばす。
だが、スズはその手を取らない。何かを伝えたいのか、口をパクパクとさせている。
スズが何を言っていたのかは分からない。が、何を言おうとしていたのかは何となく分かっていた。
スズへと向けていた手を、上へとずらして──。
「うっわあああああ⁉︎」
次の瞬間にはもう、ぼくの目前には広大な土地が広がっていた。
あの怪鳥がスズの鉱石を奪っていった時、同時にぼくもその爪へとしがみついたのだ。
怪鳥はぼくを振り落とそうと、無茶苦茶に飛び回る。
空が、大地が、グルグルと回転し、どっちが上でどっちが下なのか分からなくなっていく。
いや、それ以前に目が回ってもう、限界……だ。
終わらない浮遊感と込み上げる吐き気に、たまらず手を離してしまう。
しまった、と思ったところでもう遅い。
怪鳥の姿が遠ざかっていく。鉱石も奪われてしまった。
作戦は、失敗してしまったんだ。
万事休す、か。
あとは、真っ逆さまに落ちるのみ。みっともなく、カエルのように地面にへばり付いている自分を想像しながら、ぼくはギュッと目をつむった。
バキバキメキッ!
小気味よい音と、身体中に突き刺さるような痛み。
どうやらぼくは、木の上に落ちたらしい。
何箇所か切り傷を負ってしまったが、最悪の事態は免れたようだ。
「……でも、これで宝珠は……」
「おーい! ミヤー!」
鉄琴のように甲高く、弾むような声。
下を覗き込むと、スズが嬉しそうに宝珠を掲げてピョンピョンと飛び跳ねている。
ぼくが落ちた木が、怪鳥の巣だったのだ。
「よかった……本当に、よかった」
安堵の溜息を吐きながら、慎重に木を降りていく。
「ミヤ、やったね! 取り返せたんだね!」
「喜ぶのは、まだ早いよ。ここは、あの怪鳥のテリトリーなんだ。宝珠を取られたと知ったら、ぼくたちを追ってくるだろう。その前に、ここを離れないと──」
「ギュイガアアアアア!」
そう言い終わらないうちに、再びあの鳴き声が轟く。
先ほどまでとは明らかに違う、怒りを含んだ声だ。
「ミヤ……」
「早く、行こう!」
スズの手を取り駆け出すが、二人とも体力は限界に近かった。
少しでも怪鳥の目を欺くため、わざと森の深い方を目指す。
だがそれも、少しの時間稼ぎにすらならなかった。
どれだけ身を潜めていようが宝珠を持っている限り、その強い光ですぐに居場所を知られてしまう。
ましてや相手は空から追跡してくるのだ。
夜、身体中に電飾を巻きつけてかくれんぼをするようなもので、向こうからしたらあくびが出るほど退屈な作業でしかないだろう。
「……⁉︎ ミヤ、危ない!」
スズに突き飛ばされて、二、三度地面を転がる。
見ると、さっきまでぼくが立っていた場所は巨大な爪でえぐられ、地面にぽっかりと穴を開けていた。
あと、一秒でも遅かったら……。
考えただけで、ゾッとする。
「どうしよう、ミヤ……」
「と、とにかく走るんだ!」
立ち止まっていては、ただマトになるだけだ。
乱れた息を整える間もなく、再び走り出す。あの爪攻撃を繰り出されれば、走ったところで無意味な気もするが、それでも何もやらないよりかはマシだ。
「はぁ……は……ミ、ミヤ……私、もう……」
途切れ途切れに、スズが限界を訴える。かくいうぼくも、とうに限界を迎えていた。
いっそのこと、宝珠を捨ててしまおうか。
そんな考えが、ふと頭をよぎる。
このままここで二人やられてしまうより、その方がいいのではないか。
宝珠がないならないで、他に方法はあるはずだ。だから──。
「……それは、できない、か」
あれだけ苦労して手に入れた宝珠だ。おいそれと、手放せるものではない。
強大な爪が、既に目の前まで迫ってきていた。
この状況を切り抜ける方法が何も浮かばないまま、ぼくはただそれを見つめ続ける。
荒々しい風が全てをもみくちゃにしていき、そしてそれはぼくたちも例外ではなく、ふわりと身体が浮き上がったと思ったら、まるで洗濯機に放り込まれた衣服のように砂埃や木々と一緒に回転し続けた。
「う……うぉええ……」
そうして、一体どれくらいの時間が過ぎたのだろう。
怪鳥にしがみついていた時とは比べ物にならないほどの吐き気に苛まされることとなったぼくは、胃から込み上げてくる酸っぱい液体を抑え込むことに必死になっていた。
「うぅ……そ、そういえばスズ……どこに行ったんだろう……」
フラフラと立ち上がってみるが、地面がグワングワンと揺れて、景色が歪む。とてもじゃないが立っていられなくなったぼくは、すぐにへたり込んでしまった。
せめて動けるようになればいいのだが、回復するまではまだ時間がかかりそうだ。
「スズ……」
ポツリと名前を呟くが、今はもう目を開けているだけでしんどい。
少しだけ、横になっていよう。それから、スズを探して怪鳥を──。
……そうだ。どうして、怪鳥はあの時攻撃をせずにいたんだろう。あれから一向に来る気配がないが。
「……ヤ……ミヤ……」
……考えが、まとまらない。誰だ? ぼくの名前を呼んでいるのは。少し、静かにしてくれ……。
「ミヤ……ねぇ、ミヤってば!」
「……はっ⁉︎ ここは……」
どうやらぼくは、意識を失いかけていたみたいだ。いつの間に来たんだろう。スズが、心配そうに手を額に添えている。
「ミヤ、気がついた? 大丈夫?」
「大丈夫……ていうか、今は揺さぶらないで……うぷっ……」
せっかく遠のいていた吐き気が、再び舞い戻ってくる。
両手で口元を押さえつつスズを見るが、先ほどのように景色が歪んで見えることはなかった。
「ミヤ、どうしたの? どこか具合が悪いの?」
「どうしたって、スズはあの暴風に巻き込まれなかったの?」
「勿論、巻き込まれたよ。グルグルで、ちょっとびっくりしちゃったけど」
「もう、いいや……」
魔物は、人間よりも三半規管が鍛えられているんだろうか。羨ましい限りである。
「しかし、スズは随分と遠くまで飛ばされたみたいだね? 周りを見てみたけど、見つけられなかったし」
次第に目眩も落ち着いてきて、会話程度なら何の支障もなくすることができた。動けるようになるのに、そう時間はかからないだろう。
「あぁ、それはね、これを取りに行っていたの」
そう言ってスズは、懐から宝珠を取り出してみせた。
スズが言うには、風で吹き飛ばされたがすぐに復帰し、近くにのびているぼくを発見するが同時に宝珠がなくなっていることに気がついて、探しに行っていたということだ。
「宝珠が飛ばされていたなら、どうしてあの怪鳥は奪いに来なかったんだ? それに、あの時攻撃せずにどこに行ったんだろう……」
「それは……待って。何か、聞こえる……」
スズは険しい表情で耳をそばだてているが、ぼくには何の音も聞こえてこない。
「何も聞こえないけど……気のせいじゃない?」
「うぅん、確かに聞こえた。こっちからだよ」
スズの後を、半信半疑でついて行く。いくら耳をすまそうと、聞こえてくるのは風がそよぐ音だけだ。
「……ねぇ、やっぱり何も……」
「シッ。静かに……ほら、聞こえるでしょう?」
今度は、微かだがラジオの雑音のようなものが、聞こえてきた。
これは何の音で、そしてどこから聞こえてきているんだろう。
「音はあっちからしているみたいだから、歩いていけば正体に辿り着くと思うんだけど……」
スズも、絶対的な自信があるわけではないようだった。
それにしても、あんなに小さな音でも聞くことができるだなんて……。
改めてスズが魔物であることを実感する。
普段こうして一緒にいると、ついその事実を忘れてしまいそうになるのだ。
そうして進んでいくにつれ、音もそれに比例して大きくなっていく。
最初は雑音のように聞こえていたものも、今ならハッキリと分かる。
これは、人の怒鳴り声だ。
「この近くに、人間がいるっていうこと?」
「そんな馬鹿な……こんな森に、一体何の用事があっているっていうんだ」
そんな疑問も、しかしこの後すぐに解明することとなる。
どうやら声の主は、一人だけではないようだ。
五人……十人……いや、もっとだ。とにかく、大勢の人たちがいることに間違いはない。
「……スズ?」
突然、前を歩いていたスズが立ち止まるものだから、危うくぶつかってしまうところだった。
何を、見ているのだろうか。気になって隣へと移動してみたぼくは、目の前に広がる光景に言葉を失った。
「怪鳥が襲うのをやめたのは、きっとこれが原因だよ……」
スズの瞳が、ユラユラとオレンジ色に揺れる。
それもそのはず、あちらこちらで火の手が上がり、そしてそれは草木を巻き込んでどんどんと燃え広がっていた。
このままでは、辺り一面焼け野原になるのにそう、時間はかからないだろう。
だが、消火しようとする者は誰一人としていない。
皆一様に剣を持ち、刃と刃をぶつけ合う。
二人掛かりで切り捨てたところを、今度は後ろから襲撃される。無法地帯とはまさにこのことだ。
「間に……合わなかったんだ……」
脱力しきった身体では重力に逆らえるはずもなく、ぼくはガクリと地面に膝をつく。
森を抜けた先は崖になっていて、そこはちょうど魔界と人間界とを区別する境目になっているところだった。
どんな手段を使ったのかは定かではないが、人間たちは魔物が攻めてくることを知っていたのだ。
そして、魔界を抜けてきた瞬間を迎え撃った──。
崖の上からは、戦況がよく見える。
一見、魔物が押しているように見えているが、単純な数でいえば人間たちは圧倒的だった。
戦いが長引けば長引くほど、有利になるのは人間の方なのだ。
「何で……どうして、宝珠は何も反応しないの! 今じゃなきゃ、ダメなのに!」
隣ではスズが、何度も宝珠を掲げたりと懇願をするが、宝珠は沈黙するばかりで何も起こらない。
いや、むしろその輝きは失われているようにも感じられた。
「お願い……このままじゃ、みんな死んじゃうよ……!」
スズは諦めることなく、宝珠の力を解放するべく奮闘している。
その様子を、ぼくはただボーっと眺めていた。
今更何をしたところでもう、何もかもが遅いというのに、スズはどうしてあそこまで一生懸命になれるんだろう。
……あぁ、そうか。最初から、分かり切っていたことだ。
スズはこの世界の住人で、仲間である魔物たちが窮地に追い込まれている。そんな状況で、簡単に諦めるなどとできるわけがない。
それにひきかえ、ぼくはどうだ?
ここに来たのはつい最近で、人間であるという理由からか、お世辞にも馴染んでいるとは言い難かった。
「……あれ。そもそも、どうしてぼくは魔物側についたんだっけ……何の思い入れもないこの世界で、どうしてこんな苦労をしてまで、戦争をとめようとしていたんだ? ぼくは……」
分からない。自分が、何のためにこんなことをしているのか……。
『人も魔物も、前世の記憶は保てない』
いつだったかスズが言っていたことだ。なぜ、今になって思い出したんだろう。
……前世。もう、何も覚えていないが、その時の記憶が今の行動に繋がっているのか?
何か、大切なことを忘れてしまった気がする。それが何なのか、思い出せないけれど。
あの時、戦争をとめようと誓ったぼくと、今のぼくは本当に同じなのか?
怖い……。自分が自分でなくなっていくようだ。ぼくは……。
血が出るほどに、強く頭をかきむしる。ぶちぶちと毛が抜ける音が聞こえてくるが、そんなことは構わない。
「うああああああああ!」
心の奥底から湧き上がってくる、えも言われぬ不安に、ぼくはたまらずに絶叫した。
そこから抜け出そうともがけばもがくほど、黒い何かは絡みついて離れない。
「ダメ……宝珠は……それに、みんなも……」
誰に向けて言うでもなく呟かれたその言葉。スズはヘナヘナとその場にへたり込む。
完全に心が折れてしまったのだろう。力なくうなだれていて、その表情を確認することはできない。
そうだ、こんなことをしていて何になる? 宝珠も使えない今、できることなど何もないじゃないか。
何の生産性もない、ただの潰し合い。
全てを諦めてしまった今、それはどこか映画のようで、ぼくは無感情な瞳でその様子を見続けた。
最前列には、スケルトンたちが人間と小競り合いを繰り広げている。
あの中に、隊長さんたちもいるんだろうか。
あの時あの場所で、隊長さんたちと出会わなければ、ぼくは魔王軍に入っていなかったかもしれない。
トーデス様や、ユー、グレコさん、それに……スズ。
確かにぼくは、軍の中では極めて異質な存在だった。
でも、それだけじゃなかったんだ。こんなぼくを、受け入れてくれたのも魔物たちなんだ。
「関係ない……記憶がどうとか、関係ないよ……」
芯から力が湧き上がり、身体中を駆け巡る。熱い。血液が沸騰しそうだ。
「記憶なんてなくてもいい! ぼくがみんなと過ごした思い出は、残っているんだ!」
助ける理由は、それで充分だった。
「スズ、宝珠は!」
「……もう、思いついたことは全部やったよ。でも、ダメなの……!」
一つ、また一つと、宝珠にスズの涙が滴り落ちる。
この宝珠は、龍神様から直接受け取ったものだ。偽物のはずがない。
龍神様が嘘を言っているとも考えにくいし、きっとやり方があるはずだ。
ぼくは、龍神様との会話を一つ一つ丁寧に思い出していく。何かヒントになりそうなことは、言っていただろうか?
『魔物と人間のコンビとは……』
『同時に、世界の希望でもある──』
「魔物と人間のコンビ……それが、世界の希望……」
パズルで最後の一ピースがハマったような、そんな快感がぼくを震わせる。
この方法は、まだ試していなかったはずだ。
「スズ! 宝珠の使い方……分かったかもしれない!」
「……! 本当、ミヤ⁉︎ だったら!」
「うん、でも……この状況じゃ……」
そう、戦争はもう既に始まってしまっているのだ。
戦いは熾烈を極め、人間も魔物も入り乱れて、場は混乱していた。
この状態で宝珠を使おうものなら、一体どんな影響が出るのか……皆目見当もつかない。
「せめて、一瞬でも戦いの手を止めることができたなら……」
しかし、それは無理な話というものだ。
数千、いや数万の人間と魔物の注目をいっぺんに集めるなど、神さまでもいなければできるわけがない。
やはり、もうダメなのか。
そう、悔しさに顔を歪め、歯をくいしばっていたその時だ。
「ここにいる全員が、私たちの存在に気づけばいいんだね?」
スズが、念を押すように確認をしてくる。
「そうだけど……でも、そんなことどうやって?」
「忘れたの? 私は、サキュバスなんだよ? これぐらいの数、どうってことないよ」
そう言って立ち上がるスズ。ぼくは思わず、納得してしまいそうになった。
この作戦には大きな欠点があるのだ。それは──。
「……ダメだ! スズは、もうほとんど力が使えないはずだろ! それを、この人数相手に──!」
最後の方は、まともに声も出なかった。
スズが、残りわずかな魔力を振り絞り、それを一気に解放したからだ。
「ミヤ……こんな、サキュバスになりきれなかった私を否定しないでくれて……自信をくれて、ありがとう……」
スズは、泣いていた。だけどそれは、さっきのような冷たい涙ではない。どこか温かい……安心できるものだった。
その言葉に返事をするよりも先に、スズの能力が発動する。
いや、それは発動というよりも、暴走といった方が正しいのかもしれない。
先ほどまで割れんばかりに響いていた声も、金属のぶつかり合う音もなくなり、辺りは病的なまでに静まり返っていた。
まさに「無」としか言いようのないその様に、思わず身震いする。
「…………」
スズは、しっかりとそこに立っていた。
この場、全員の視線を集めそれでもなお、堂々と仁王立ちをしている。
魔力の効果が続いているからなのかは分からないが、スズには既に意識というものはないように見えた。
……スズの思いを、無駄にはできない。
ぼくはスズの手に重ねるようにして宝珠を持つと、ありったけの声を震わせて叫んだ。
「宝珠よ! 人と魔物の絆を示し、今ここに真の平和をもたらしたまえ!」
すると、どうだろう。あれだけ何をやっても無反応だった宝珠が、空高く一直線に光を伸ばしていったではないか。
光は空を裂き、雲を抜けてグングンと伸び続けていく。
やがてその光は細くなり、遂には宝珠から光が完全になくなってしまった。
龍神様から貰い受けた時のような神々しさはどこにもなく、完全に力を使い果たしてしまったという感じだ。
「これで、何かが変わったのか……?」
いうが早いか今度は、地面が割れるのではないかというほどの地震が起き、立っていられなくなったぼくは四つん這いになって頭を抱えた。
「な、何だこの地震は!」
「戦争どころじゃないぞ!」
下からは、兵士たちの慌てふためいた声が聞こえてくる。
どうやら、スズの魅力から解放されたようだ。……と、いうことは。
スズは、まるで糸の切れた人形のように、何の抵抗もなく崖から落ちていった。
「スズーっ!」
間一髪で、スズの腕を掴むことはできたが、ぼくに引き上げるだけの力は残されていない。
それでも、その手を離すという選択肢は、なかった。それを選ぶぐらいなら、二人一緒に落ちた方がマシだ。
「それに……しても……うわっ!」
手も足も痺れてきて、力が入らない。そうしてついに足を滑らせてしまい、スズもろとも崖から落下した。
「くっ……!」
せめてスズだけは守ろうと、その小さな身体を強く抱きしめる。
地面がすぐ目の前に迫り、そして物凄い衝撃がぼくを襲った。
これでは、骨折は免れないだろう。
……いや、もしかしたら死んでしまったのかもしれない。あれだけの衝撃があったにも関わらず、痛みが全くと言っていいほどないのだ。
痛みを感じる間もなく死んだということか? だとしたら、喜ばしい限りだが。
「い……おい……おいっ! いい加減、目を覚ませよ!」
ゴキンと頭を一発殴られ、あまりの激痛にぼくは飛び起きて、泣く泣くたんこぶをさすることになる。
「い、痛い……あれ? ぼくは死んだんじゃ……」
キョロキョロと周りを見回してみるが、もはや見慣れた魔界の風景が広がっているだけで、天国とは到底思えなかった。地獄なら、有り得そうだが。
「何を、寝ぼけたこと言ってやがる! せっかく、助けてやったってのに!」
「君は……ユー⁉︎」
そこには、不機嫌そうに鼻を鳴らすユーの姿があって、まだ別れてから一日も経っていないというのに、随分と久しぶりな気がする。
「ど、どうして? ぼくたち……」
「どうしてだって? あんだけ俺らを釘づけにしておいて、よく言うぜ」
そう言って、ユーは呆れたように笑った。気まずくならないようにするためかあの時、城で喧嘩別れをしたことには、一切触れない。
「ユー、ありがとうね。助けてくれて」
「……あー、スズを助けるついでだよ! ついで! そ、それよりも何なんだよこの揺れは⁉︎」
ユーは照れくさそうに目線を動かし、慌てて話題を変えた。
そう、地震はまだ収まっていない。勢いこそ落ちたものの、それでも船の上にいるような感覚が続き、船酔い……いや、陸酔いしそうだ。
「宝珠が原因だから、大事にはならないと思うんだけど……それよりも、スズ! 大丈夫⁉︎」
先ほどからぐったりとして目を覚まさないスズに、声をかけてみたがやはり反応がない。
「魔力を使い果たしたのか……」
「ねぇ、スズは大丈夫だよね、死なないよね⁉︎」
「あぁもう! うるっさいな黙って見とけ!」
ユーは煩わしそうにぼくを払いのけると、ちょうどスズのお腹の辺りに手を添えて、何やら紅色の光を注ぎだした。
「これは……」
「俺の魔力を、スズに移しているんだ。本当は、同種族のものがいいんだが、今は一刻を争う時だ。仕方ない」
「……ん、うぅ……」
そうこうしているうちに、スズの血色はみるみる回復していき、表情も安らかなものへと変わっていく。
これならすぐに意識も戻るだろう。
「よかった……死んじゃうのかと思ったよ……」
「全然よくない! まったく……無茶なことを……」
「あ痛っ!」
ユーに頭を叩かれ──いや、思い切り殴られた。パーではない、グーでだ。
獣人の力での全力だなんて……ぼくは頭が吹っ飛ばされていないか、念入りに首回りをチェックした。
……だけど、この痛みは今までのものとはどこか違う。
心配だったからこそ殴った、優しさのこもった痛みだった。
「ユー……ごめんね。それから、ありがとう」
「だ、だから、スズを助けるついでだって──」
「そうじゃないよ。あの時、城でぼくを殴ってくれてありがとう。あれには、ユーの色々な気持ちがこもっていたんだって、分かったから」
「……ふ、ふん! 殴られてお礼を言うだなんて、変なやつだな!」
そう、口ではトゲのある言い方をするユーだったが、その頬は緩んでいて、まんざら嫌ではなさそうだ。
「……うわぁ⁉︎」
「くっ! さっきから何なんだよ!」
先ほどから続いている地震だが、急激に揺れが大きくなり、もはや立っていることさえ難しくなる。
「おい! 何だこれは!」
「に、逃げろ!」
人間たちの、慌てふためく声が聞こえたかと思うと、それはいきなり音を立てて現れた。
「な……何なんだ、あれは?」
地面からとてつもなく巨大な何かが、せり上がってきている。
盛り上がった土が空を舞い、一寸先も見えない。襲い来る砂の粒に、ただ耐えるのみだ。
だがそんな砂嵐も、長くは続かない。
だんだんと視界が明瞭になっていくにつれ、地面から突出したものが何なのかはっきりと見えるようになってきた。
「これは……⁉︎」
それは黒い金属のような塊で、誰がどう見てもこれが自然にできたものだとは、思わないだろう。
それに、この塊はとても長かった。と、言うよりも終わりが見えない。
地平線を超えてなお、続いているようだ。
「これが、宝珠の力……?」
「お、おい見てみろよ。あれ、まだまだ高くなるみたいだぞ?」
ユーの言う通り、塊はぐんぐんと伸びていき、止まることを知らない。
「全軍、撤退だ! 急げ!」
その様子を見ていた人間たちは、蜘蛛の子を散らすよう一目散に自分たちの陣地へと帰っていく。
それはちょうど、あの塊を挟んでの形になっていた。
「どこまでデカくなる気だ……?」
塊はぼくたちの背丈を超え、崖まで届き、そして森を抜き、何よりも雲へ近づいたところでやっと、その動きを止めたのだった。
それはもはや塊とは呼べない。巨大な壁だ。
そこにあるだけで全てを拒むような、重々しい雰囲気を放っているそれは、まるでずっと前からそこにあったかのように沈黙している。
「何なのだ、この壁は?」
「人間との戦いはどうなったのだ!」
魔物たちの中からも、困惑の声が次々と上がった。
それもそのはず、戦争をしていたはずが、急に出てきた壁に中断されたとあっては、落ち着いている方がおかしいというものだ。
「おいミヤ! どういうことだよこれ! 説明しろよお前が出したんだろ⁉︎」
「えぇと、多分だけどこれは……人間界と魔界の、境界線みたいなものだと思う……」
記憶はなくなってしまってはいるが、どうやら知識までは失っていないみたいだ。
ぼくは、ゆっくりと一語一句確かめるように言葉を紡いでいく。
「境界線、だって?」
「そう。宝珠の力を使い、境界線を具現化したんだ。この壁は、どこまで行っても切れることはない……つまり、魔物と人間はお互いに干渉する術を失ったってわけだよ」
「じゃあ、戦争は? 俺たちはもう、侵略されないのか?」
「全部、終わったよ。終わったんだ……」
一瞬、痛いほどの静寂が訪れそして──。
「やっ……」
「やったああああああ!」
割れんばかりの歓声が、あちこちで上げられる。
みな笑ったり泣いたり、中には胴上げをする者までいた。
そう、本当は誰も戦争なんて望んでいなかったのだ。
ただ、それ以外に手段がなかっただけ……。それだけなのだ。
「ミヤ、君は……」
「トーデス様……」
その姿を見て、緊張で身体が固くなる。オークの件と王都でのこと、それに結果的に戦争を収束させたとはいえ、勝手な行動を取ったのだ。相当お怒りになっていることだろう。
「あ、あのトーデス様……す、すみま──!」
「すまなかった」
目の前で深々と頭を下げたトーデス様に、ぼくはしばらくの間目をパチクリさせることしかできなかった。
が、すぐにとんでもないことをされていると気づき、今度は両手をワタワタとさせる。
我ながら、忙しいやつだと呆れてしまう。
「ト、トーデス様⁉︎ そんな……やめてください! 謝らなきゃいけないのは、ぼくの方で……」
「いや、ここは謝罪させてくれ。私は君に、戦争するほか道はないと言った。だけど、君はやり遂げたんだ。誰しもが、できないとしていたことだったのに……」
顔を上げたトーデス様は、目に涙を浮かべ、どこか晴れ晴れとした表情をしていた。
後にも先にも、トーデス様のこんな表情を見たのは、これが最後である。
「それから、魔物を……世界を救ってくれて、ありがとう」
「トーデス様……」
「……では、私はこれからやることがあるので失礼する。……おっと、忘れるところだった。ミヤ、魔王様が呼んでおられたぞ。後で行ってみるといい」
そう言うと、トーデス様は足早に去っていった。戦争が終わったことで、変わってしまうことが多々あるのだろう。位が高いというのも、存外大変そうだ。
「へへっ、よかったな! トーデス様に認められて、このまま出世街道まっしぐらじゃねーか⁉︎」
「そうだったら、いいんだけどね。ぼく、魔王様のところに行ってくるよ。ユーは、スズのことをお願いできる?」
スズは、未だ目を覚まさない。
今すぐどうこうということにはならないだろうが、できるだけ早く治療をした方がいいことに違いはない。
「おう、任せとけ! お前は安心して、魔王様のところに行ってこい!」
大きく手を振ってぼくを見送るユーは、もうすっかり元の調子を取り戻したようだ。
あのままギクシャクした関係が続いたらどうしようかと思っていたぼくは、ほっと胸を撫で下ろした。
「失礼します……あの、魔王様?」
魔王様は、いつも通り魔王城の王室にいた。
トーデス様がついていてくれたあの暗闇を、今度は一人で歩いていく。
「来たか……」
「魔王様、用というのは?」
相変わらず姿を見ることはできないが、何となく以前来たよりも明るくなっている気がする。
気がするだけなのかもしれないが。
「ミヤ……今日の活躍、大義であったな。これで、魔界がこれ以上侵されるようなことはなくなるだろう」
「そんな……ぼく一人だけの力じゃないですよ。スズがそばにいてくれていなかったら、ユーが怒ってくれなかったら……ぼくは、今ここにこうして立っていなかったと思います」
「魔物と人間が手を取り合った結果、か……ふふふ……」
「魔王様……?」
魔王様は不敵に笑ってはいるが、その声はどこか悲しみを帯びた、自虐的なものに感じられた。
「その結果が、これか。我々は、人間と交流する手段をなくしたのだ……いや、宝珠がそう判断したのだな。我では、人間との関係を修復することは不可能、と」
「そんなこと……」
ぼくは、握ったままの手にギュッと力を込める。
そうだ、今なら言うことができる。言うんだ、今──。
「そんなこと、ないです!」
闇も、静けさをも一刀両断するような真っ直ぐな声に、魔王様は驚き息をのんだ。
「ぼくだって、ずっと終戦は無理、やるだけ無駄だと言われてきました。でも、現実に戦争は終わったんです。人間との交流が断たれたから何ですか? そんなことで諦めないでください! みんな、魔王様を信じているからここまでついてきているんです。今ここで魔王様がしっかりしないで、どうするんですか!」
ハァハァと、肩で大きく息をしながら、ぼくは全てを言い切った。
興奮が冷めやらないながらも、魔王様相手に大変なことを言ってしまったのだと全身から血の気が引いていく。
「あああ、ぼくってば調子に乗って……すみません……」
「くくく……はっはっは! 構わん。貴様は今や、世界を救った英雄なのだ!」
「英雄だなんてそんな……」
魔王様の言葉に、さっきまでの自信のなさは感じられない。魔王様の中で、何かが確かに変わったのだろう。
「……さて、ミヤ。貴様にはたっぷりと褒美を……と、言いたいところだが、もう少しだけ待ってはくれないか。壁を越えて、人間とどう関わっていくか、人間界へ取り残された魔物たちをどう回収するか……問題は山積みだからな」
「そんな、褒美なんていいですよ! その分を、問題解決に回してください」
「ミヤ! ミヤは、いるか!」
ぼくと魔王様の間に、一時の穏やかな空気が流れるのもつかの間、慌てた様子でトーデス様が飛び込んできた。
普段、礼儀正しいトーデス様が魔王様を前にしてこうも取り乱しているだなんて……。
ぼくは、そこに強い違和感を覚えた。同時に、何か得体の知れない、とんでもないことが起ころうとしているのではないかとも思った。
「どうした、トーデスよ。お前にしては珍しい……」
それは、魔王様も同じなのだろう。
急に王室へ入ったことを咎めたりはしなかった。
「実は、ミヤのことで……」
そう言ったっきり、トーデス様は口をつぐんだまま話そうとしない。いや、話すことをためらっているのか?
「何だ、さっさと話さないか」
「はい……いや、しかし……」
魔王様に急かされるも、トーデス様はお茶を濁すばかりだ。
ぼくのことと言っていたが、それほど言いにくいことなんだろうか。少なくとも、いい話ではなさそうだ。
「トーデス様、どんな話でも、ぼくは大丈夫です。だから、何があったか聞かせてくれませんか?」
何にせよ、話してもらわないことには気になって他の何事も手につかなくなることだろう。
ここは、何としてでもトーデス様に話してもらわねば。
「……前に、君は前世で事故に遭い、それでこの世界にやって来たのだと……そう、話したことを覚えているか?」
「はい、それがどうしたんですか?」
「落ち着いて聞いてほしい。君は……まだ、死んでいなかったんだ」
「……え?」
死んでいない……だって? トーデス様の言葉を何度も頭の中で唱えるが、それでもどういうことなのか分からない。
それが本当だとしたら、なぜぼくはここにいるんだ? 向こうのぼくは、どうなっている?
それに、まだという言い方も気になる。
トーデス様は、一体何を知っているんだ?
「私も、最初は信じられなかった。だが、確かに君は生きているんだ。向こうの、世界で」
「ちょ、ちょっと待ってください! だったら、おかしくないですか? 向こうのぼくと、今ここにいるぼく……二つの世界で、同じ人間が存在していることになりますよ?」
ぼくがそう言うと、トーデス様はポツリポツリと真実を語り始めた。
「以前にも話したが、ミヤ……君は、前世で不慮の事故に遭った。だが、死ぬほどの損傷は受けていなかった。どうやらその時に、魂だけが抜け出てしまったらしい」
「魂……だけ?」
「そうだ。死神の私でさえも気づかないような、珍しい現象だがな。そして、魂だけとなったミヤがこの世界にたどり着き、今に至るというわけだ」
トーデス様の話を聞いたぼくは、意外にもそれほどショックは受けていなかった。
前世での記憶を失ったぼくにとって、それは自分のことというよりは、どこか遠くの他人のことのように思えてしまうのだ。
以前のぼくが聞いていたら、どう思っていただろうか。
あの時のぼくは記憶をなくすことを恐れていたというのに、いざなくなってみるとこんなものなのか。
何だか、記憶よりももっと大事なものを失ったような気がして、悲しかった。
「……教えてくれて、ありがとうございました。真実を知れただけでも、よかったです」
「それなんだが、魂の軌跡を辿っていけば、ミヤのいた世界に行くことができる……つまり、元の世界に帰ることができるんだ」
それを告げられた瞬間、身体中カミナリが落ちたかのように衝撃が走った。
今まで他人事と聞いていた話が、この世界に残るか、それとも元いた世界に帰るかの選択肢が与えられただけで急に自分のこととして降りかかってくる。
いわば、呪いのようなものだ。
「……」
すぐに、返事ができるはずがなかった。
今のぼくからしたら、覚えてもいない世界のことなんかよりも、大切な仲間のいるこの世界の方がずっと居心地がいい。
だけど、それは今だから言えることであって、記憶がなくなる前のぼくだったら何と言うのか、それが問題だった。もしかすると帰りたい、そう言っていたかもしれない。
もはやそれは、確かめることができなくなってしまったが。
「直ぐには決められないだろうが、何とかして明日の夕方頃には答えを出しておいてほしい。それを過ぎてしまうと、確実に戻れるという確証がなくなってしまうのだ」
「明日……」
ぼくは、悩んだ。
一晩中悩み続けそして、ついに答えを出すことができないまま、明日の朝を迎えてしまうのだった。
「こうしていても、仕方がない……そうだ、スズはあれからどうなっただろう? ちょっと様子を見に行ってみよう」
そう言って歩く足取りは、重い。当然だ。こうしている間にも、時間は刻一刻と迫ってきているのだから。
「お、英雄のお通りだぞ! みんな道を開けろ!」
「ミヤ……いや! ミヤ様! あんたのおかげで、俺たちは救われたんだ! ありがとう!」
部屋を出るとまず、魔物たちの態度が一変していたことに驚かされる。
みな、ぼくを英雄と持ち上げ、中にはその場で祈りだす者までいた。
大袈裟だとも思うが、感謝されて悪い気はしない。
ぼくは、城中の魔物たちに注目されながら、スズがいる医務室へと足を運んだ。
「……! ミヤ! 来てくれたの?」
「おはよう、スズ。だいぶ顔色がよくなったね?」
「うん、もうすっかり元気なんだけどね、ユーがまだ安静にしていろって……」
不満気に口を尖らせるスズはまるで子どものようで、たまらなく愛おしい。
そっと頰をなでてやると、気持ちよさそうに目を細めた。
「ねぇ、ミヤ……」
「ん? どうしたの?」
「明日になったら、一緒に出かけようよ。あの壁の近くならお日様も出ているし、緑もあるよ」
明日……。スズが思い描いているような明日は、二度とやってこないだなんて……言えるわけがなかった。
今日中に、元の世界に帰ることになるかもしれない、だなんて。
そんなこととはつゆ知らず、スズは楽しそうに話を続ける。
「私、お日様の下で草の上に寝転がってみたいなぁ。魔界じゃできなかったから。あと、川で魚釣り? っていうのも! これからはたっぷり時間があるんだね。楽しみだなぁ……」
「そう……だね……」
「どうしたの? ミヤ、何かあったの?」
心配そうにぼくを気遣うスズだが、本当のことを言ったらどんな反応をするのだろう。
……いや、やめておこう。今は、余計な苦労をかけたくはない。せっかく、ここまで回復したのだから。
「……うぅん、何もないよ。ただ、何をして過ごそうか迷っちゃって」
ぼくはできるだけ明るく、何でもない風を装った。
「……そっか。ふふっ、いきなり自由になっても困っちゃうよね」
そう、これでいいんだ。帰るにしても、スズには何も知らせない。
それでスズを悲しませたくないから……。
「じゃあ、ぼくはもう行くね? 今日一日、ゆっくり休みなよ」
「分かった。ミヤ、また明日ね」
「……また、明日……」
何でもない挨拶のはずなのに、今のぼくには何よりも重い言葉に聞こえた。
「はぁ……」
「ミヤ、ここにいたのか」
声をかけてきたのは、トーデス様だった。
その口ぶりからして、ぼくを探していたようだ。
「どうだ? そろそろ決まったか?」
「いえ、まだ……」
歯切れの悪い返事をするぼくに、トーデス様は少し焦りを感じているようだった。
「分かっていると思うが、今日の夕方までには決めてほしい。それを過ぎてしまったら、もう帰ることはできないと考えてくれ」
「それは分かっています……けど、どうしたらいいのか。覚えていない向こうの生活より、世界を救った英雄としてここに残っている方が、ずっといいんじゃないかって……」
「だったら、そうしたらいい」
「え……?」
ばっさりと、切り捨てるようにそう言われ、咄嗟に聞き返してしまう。
「記憶がないだなんて、好都合じゃないか。何を迷う必要があると言うのだ?」
「それは……」
なぜなのか、それはぼく自身にも分からないことだった。
確かにトーデス様の言う通りだ。こっちの暮らしがいい。答えはとっくに出ていたはずなのに、どうして今まで決められないでいた? ぼくは、どうして……。
「……本当に、全てを忘れてしまったのか?」
「……? トーデス様、それってどういう……」
「前世でやり残したことが、本当はあるんじゃないか? 君は忘れていると思っているようだが、それは意識をそちらに向けていないだけ。そうでなければ、今の今まで迷ったりなどしていないはずだ」
「やり残したこと……」
トーデス様はそのまま脇を抜けていく。スズの様子を見に行くのだろう。
「もう一度、考えてみるといい。答えは、君の中にあるはずだ」
背中越しにそう、声が聞こえたかと思うと続いて扉を開ける音がし、最後には静けさだけが残った。
「ぼくが前世でやり残したこと? そんなこと、あったか?」
何度も記憶を辿ろうと試みるが、やはり覚えていないものは覚えていない。
だが、前世のことを思い出そうとすると、胸の辺りに引っかかりを感じることも確かだ。
「ぼくは、何を忘れてしまっている? どうしたら、思い出せるんだ……」
そうして、どれくらいの時間が過ぎただろう。魔界では、どうにも時間の感覚を忘れてしまいがちだ。
広間に飾られている大時計を確認すると、時刻はとっくに四時を回っている。タイムリミットまで、あと一時間もなかった。
「時間がない……けど」
そう、やり残したことは思い出せなかったが、ただ一つ言えること。
それは、前世にはぼくがやるべきことが残っているということだ。
それが何なのかはまだ分からないが、ぼくはここにはいられない。
帰るんだ。本来、いなければならない所へ。
そうしているうちに、またもやトーデス様が歩み寄ってきた。その切羽詰まった表情からして、何を言おうとしているのかは大体想像がつく。
「ミヤ! もう待てないぞ! どうするんだ⁉︎」
「トーデス様……ぼく、帰ります。自分の世界に」
「そうか……なら、急いで準備をするぞ! 今は、別れを惜しむ時間さえないんだ」
トーデス様はぼくを外へと連れ出すと、地面に魔方陣を描いたり、怪しい薬品を取り出したりし始めた。
「本当なら、別れの挨拶をする時間があればいいのだが……」
「いえ、ぼくがモタモタしていたのが悪いので。……それに、これでいいんだと思います。この方が、辛くないから」
「そうか。何がいいのかは、人それぞれだからな。……よし、魔方陣の中心に立ってくれ」
言われた通りに、指定された場所へ歩いていく。
魔方陣はぼくの身長を優に超えるほどの大きさで、儀式の規模がどれほどのものなのかを物語っていた。
「では、始めるぞ」
トーデス様が力を込めると、魔方陣がぼんやりとネオンのように輝き出し、それを見つめているうちになんだか身体が浮き上がっていくような、不思議な感覚に陥る。
これで、全てが終わるんだ。そう、全てが……。
強制的に眠りへと引きずりこまれるような不快感に、ぼくは強く目を閉じた。
「ミヤ……ミヤ!」
「……スズ?」
聞こえるはずのない声に幻覚かとも思ったが、目を開けるとそこには確かに、息を切らして荒い呼吸を繰り返すスズの姿があった。
身体を包み込んでいた浮遊感もいつの間にかなくなっていて、トーデス様の方を見ると顎で合図を送っている。
スズと、話をしろということらしい。
「スズ、どうしてここに? 休んでいないと──」
「そんなこと、できるわけないでしょ⁉︎」
ぼくの言葉を遮り、怒鳴り散らすスズはまさに取りつく島がなく、そのあまりの剣幕に押し黙ってしまう。
「これは、何なの? ミヤ、ミヤはずっとここにいるよね? 明日は私と森へ行くんでしょ? ねぇ……」
スズの目にはどんどんと涙が溜まっていき、最後の方は声が震えて喋れていなかった。
きっと、スズは分かってしまったんだ。ぼくがこれから、どうなるのかを。
「スズ……ミヤは、本来いるべき場所へと帰るんだ。それを、こちらの世界の者が引き止めては……」
「……っ! 嫌だ! ミヤがいなくなっちゃうなんて、そんなの絶対に嫌!」
スズは強引にぼくへとしがみ付き、儀式を続行できなくした。
「スズ、離れてくれよ! もう、時間がないんだ!」
「時間? ……だったら、その時間までこうしている! そうしたら、ミヤはここにいるしかないでしょ!」
涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながらも、スズはぼくを離そうとはしない。
そのいじらしい姿に、何度抱きしめたいと思ったことだろう。
だが、それをしてしまうと、今度こそぼくは帰れなくなる。否、帰ろうとする気がなくなってしまう。
「スズ! いい加減に──」
トーデス様も、流石にもう無理だと判断したのか、声を荒げたその時だった。
「やっ! 離して! 離してよ、ユー!」
どこからともなく現れたユーが、スズを羽交い締めにし引き離す。
いつから来ていたのだろう? この混乱で、全く気がつかなかった。
「もう、こんなやつに構うなよ、スズ!」
そう言ったユーは、キッと恨みのこもった目でぼくを睨んだ。
「こいつは、俺たちに何も言わないでいこうとしたんだ。こいつにとって俺たちは、どうでもいい存在でしかないんだよ!」
「ミヤ、もう本当に時間が……!」
トーデス様の焦った声に、固まっていた身体が動き出す。
そうだ、スズが動けない今が最後のチャンスなんだ。
嫌われたことは仕方のない──いや、むしろ嫌われてよかった。
これで、後ろ髪を引かれることなく帰ることができる。
「トーデス様、お願いします……」
ぼくはきっちり魔方陣のど真ん中に立ち、トーデス様が儀式を行うのを待つ。
「では、いくぞ!」
「嫌だ! 行かないでミヤ! ミヤー!」
──薄れゆく意識の中で、泣きながら手をこちらに伸ばすスズが見えた。
「──先生! 意識が!」
「宮くん? 橋本宮くん? ここがどこか、分かる?」
目を開けると、真っ白な壁が……いや、これは天井か。
ピッピッと、無機質な音が鳴る中、何人もの人が慌ただしく駆けていく。
「ここは……」
「ここは病院だよ。君は、一週間も意識を失っていたんだ。そうだ、お母さんにも連絡しないと……」
病院。お母さん。何だか、懐かしい単語が並べられるが、いまいち意味が頭に入ってこない。
そうこうしているうちに、お母さんとやらが来たようだ。
ぼくを見るなり、泣きながら抱きついてきた。
「宮! あぁ、本当によかった! もう、起きないのかと……」
「……どうして、泣いているの?」
お母さんは、ぼくを強く抱きしめたまま、答える。
「そんなの、嬉しいからに決まっているでしょう? こうやって話すことができて……声を聞くことができて!」
嬉しいから、泣くだって? ……違う。だって、あの時スズは悲しんでいたはずだ。
ぼくを行かせまいとして、抱きつきながら……。
ツーっと、ぼくの頰に一筋の涙が流れる。
それが嬉しいものなのか、それとも悲しさからくるものなのかは分からなかった。
そして──。
「宮! 遅刻するわよー!」
「い、今行くからー! うわっとと!」
階段から滑り落ちそうになりながら、超特急で家を飛び出す。
「あぁもう、遅刻だよー!」
朝食もとらずに走っているその姿からは、誰もこの間まで意識不明でいた人だなんて思わないだろう。
あれから、三週間が過ぎた。
病院で懸命にリハビリを続けた結果、後遺症が残ることもなく回復することができた。
最初こそ記憶が曖昧ではあったが、今では生活にも支障はなく、事故のショックだろうということで特に問題にはなっていない。
……ぼく自身、向こうの世界のことは全て夢だったんじゃないかと思い始めている。
昏睡状態の時に見た、長い長い夢。
そう思ってしまうのは、あの時スズが言っていたように別世界の記憶が消えていっているからなのだろうか。
今となっては知る由もないが、いずれは完全に忘れ去ってしまう。それだけは確かだった。
すっかり人気のなくなった門を駆け足でくぐり抜ける。
スズ……君の声は、どんなだっただろう。嬉しい時、楽しい時にはどんな表情を見せていただろう。
こういったちょっとした仕草から忘れていって、最後に残るのは一体どんな記憶なんだろう。
そんな考えを断つように、ぼくは勢いよく教室のドアを開ける。
ガヤガヤとした喧騒に包まれながら、やっと何も考えずに済むのだと、ぼくは少しだけ安心した。
……時間が経つのは早いもので、気がつくと時計は午後四時を回っていて、周りの生徒たちは続々と教室を後にしていく。
「ぼくも、帰ろ……」
誰に言うでもなくそう呟いて、かばんに手をかける。
しかし、その手がかばんを掴むことはなかった。
虚しく空を切った手の先、そこにいたのは──。
「よぉ。元気にしてたかよ?」
ぼくを散々いじめ続けていた彼と、その取り巻きたちがニヤニヤと嘘のような笑顔を貼り付けながら、目の前に立っていた。
ぼくのかばんも、そいつらが持っている。逃げられなくするためだ。
「…………」
忘れていた恐怖が蘇り、手足が震え、そして冷や汗がドッと流れ出る。
絞り出した声は喉から出る直前でせき止められ、何の言葉にもなりやしなかった。
「何だよ、無視かよ。……ま、いいや。ちょっと付き合えよ」
彼の声はさっきと比べて一段と低く、あからさまに不機嫌になっていることが伺える。
が、次の瞬間にはパッと明るい表情を見せ、ぼくに教室を出るよう促した。
傍からは、仲のいい友達同士で下校するようにしか見えないだろう。
だけどぼくらは友達でもなければ一緒に下校するような仲でもない、空き教室で殴り殴られるだけの関係だ。
彼からしたら、ぼくが事故に遭ったかどうかだなんてどうでもよくて、ただ壊れたおもちゃが直っただけのこととしか思っていないんだろう。
「宮くん、退院おめでとう!」
そう言って振りかざされる彼の拳に、ぼくは泣きそうになりながらギュっと目を瞑った。
「やめなよ!」
勢いよくドアが開いたかと思うと、空気を切り裂くような、そんな叫びが教室中にこだました。
凛とした、しかしどこか穏やかさを秘めたその声に、ぼくは何故だか懐かしい気持ちになる。
そこに立っていたのは、江本さんだった。
「もう、やめなよ。いつもいつも……橋本くんを、どうしたいの?」
江本さんは、足を大きく開き仁王立ちの体勢を取っている。
その握りしめた拳が震えているのは、恐怖からきているものなのか、それとも興奮しているからなのか。
二人は数秒見つめ合ったのち、先にいじめの主犯格が目を逸らし言った。
「……チッ。お前ら、帰るぞ」
「え? ま、待てよ、優!」
乱暴にぼくのかばんを脇に投げ捨てると、江本さんが立っているところとは反対のドアから出て行ってしまった。それを、慌てた様子で取り巻きたちが追う。
「橋本くん、大丈夫だった? どこか怪我は?」
拾ったかばんを手渡しながら、彼女は心配そうに目を伏せる。
「江本さんが来てくれたから、何もされなかったよ」
「そう……よかった」
それを聞くと江本さんは、ホッと胸をなでおろした。
「そういえば、江本さんはどうしてここに? ここ、空き教室なのに」
「え⁉︎ えっと、それは……なんとなく?」
急にモジモジとしだした江本さんは、何故か疑問形で言ってくる。いや、ぼくに聞かれても……。
「それより! 早く帰ろう! ほら、あいつら気が変わって戻ってくるかもしれないし!」
そう言うと江本さんは、素早くぼくの後ろに回りこみ、グイグイと背中を押してきた。
少々強引な気もするが、江本さんの言うことはもっともだ。
こんなところにいつまでもいる理由はない。さっさと出て行った方が賢明だろう。
……しかし。
結果的に、江本さんと一緒に帰ることになったのだが、それはいいんだろうか?
江本さんは教室を出てからずっと上機嫌で、鼻歌まで歌っている。
見た感じ、嫌そうな感じは見受けられない。ぼくは、ひとまず安心した。
元の世界に帰ってきてからというもの、全てのことがぼくにとって、マイナスなものであると前提に考えてしまうようになった。いや、最初からこうだったか。
だから、江本さんが助けてくれたことも、素直に喜べないでいる。
何の得があってあんなことをしたのだとか、実は裏であいつらと繋がっているのではないかとか、そんなことばかり考えてしまう。
江本さんが理由をはぐらかしたのも、余計にその思考へ拍車をかけていた。
そして、そんなことを考えてしまう自分がたまらなく嫌だった。情けなかった。
「橋本くん? どうしたの?」
「え……あ、いや……」
江本さんが、不思議そうにぼくの顔を覗きこむ。
その距離が余りにも近すぎたものだから、ぼくは言葉に詰まり、咄嗟に顔をそらす。
「な、何でもないよ」
「そう? それならいいんだけど」
夕暮れ時、二つの影が並んで歩く。
その時、不意に吹いた風が、江本さんの髪を空へとなびかせる。
ぼくは、見てしまった。江本さんの首元に、大きな傷跡があるのを。
「江本さん、その首元の……」
「え? ……あぁ、見ちゃった? この痣、私が生まれた時からあるんだよね。だから、特に怪我をしたとかじゃないんだよ」
何でもないという風に江本さんは話しているが、既にそんなことはぼくの耳には一切入っていなかった。
あの痣……ぼくは、前に同じものを見たはずだ。
そう、まるで何か鋭利なものに切りつけられたかのような──。
甦るのは、別世界にいた時の記憶。スズは、王都でぼくを庇って首を……。
……待てよ。江本さんの名前……江本、鈴里……鈴……スズ……。
もしあの世界が、この世界よりも過去の時系列に存在していたのだとすれば──。
心臓が、痛いほどに強く脈打つ。
もしかして……もしかして、江本さんはスズの──。
「──生まれ変わり……」
「え?」
頭の中だけで考えていたはずが、いつの間にか声に出ていたらしい。
「な、何でもないよ!」
上ずった声をあげ、必死に顔の前で両手を振る。
誤魔化そうとして、かえって怪しい動きになってしまった。
「何か、変だなー」
案の定、怪しまれてしまっている。どうにか、この場を切り抜けなければ。
しばらく悩んだのち、ぼくは一つ確かめたいことがあったと手を打った。
「江本さんあのさ、ぼくをいじめていた人って……なんて名前だったっけ?」
「はあー?」
質問の答えは返ってこず、代わりに呆れたような、気の抜けたため息が聞こえてくる。
それもそうだ。いじめっ子とはいえクラスメイトで、ずっと同じ空間にいた人の名前を覚えていないというのだから。呆れない方がおかしいというものだ。
「橋本くん、まだ事故のショックが抜けていないんじゃないの?」
「そ、そうかも?」
江本さんはもう一度大きくため息を吐き、話し始める。
「あいつの名前は、優だよ。日野、優。聞き覚えはない?」
「優……」
聞き覚えが、ないわけなかった。
喧嘩早くて、何かと突っかかってくるくせに、ピンチの時には必ず駆けつけてくれる。
なのに、どうしてなんだ? ユー。
別れ際の、突き刺すようなユーの視線が、脳裏をよぎる。
やっぱり、黙って帰ってしまったぼくを恨んでいたのだろうか。だから、生まれ変わって……。
だとしたら、今のこの状況はぼくのせいなのか? ぼくの、自業自得なんだろうか。
「橋本くん……?」
遠慮がちに声がかけられるが、それに応えられるほど、今のぼくには余裕がなかった。
あの時、ユーが友達だと言ってくれた日が、遠く感じられる。
そういえば、最初にぼくとユーが出会ったきっかけも、ユーが喧嘩をふっかけてきたからだったっけ。
……そうだ。あの時も今も、何も変わっていないんだ。
あの勝負からユーとの友情が芽生えたように、今からだって優との関係はどうとてもできる。はずだ。
「そう……そうだよ!」
「うわ! びっくりした!」
驚きのあまり仰け反った江本さんには悪いがぼくの心は、積もる雪を押し退けて、何よりも先に芽を出し春の訪れを全身で味わう双葉のように、晴れ晴れとしていた。
あの日以来すっかり無くしてしまったと思っていた自信の炎が、メラメラと音を立てて燃え上がっていくようだ。
「橋本くんは反対するだろうけど、あいつらのこと先生に──」
「大丈夫。彼とは、いつか友達になれそうな気がするんだ」
江本さんは何か言い返そうとしていたようだが、ぼくの様子を見てただの強がりではないことを悟ったようで、それ以上何か言ってくるようなことはなかった。
「あ、そうだ江本さん」
「ん? 何?」
「今度の休み、映画でも見に行かない?」
それを聞いた途端、江本さんの顔はリンゴよりもトマトよりも、もっともっと真っ赤に染まっていく。
何か言いたげに口をパクパクと開閉させるが、肝心の声が全く出ていない。
「嫌……だった?」
流石に不安になり聞くと、今度はブンブンと激しく首を振った。
「ち、違くて……ただ、橋本くんからそういうの誘ってくるのが意外で……嫌っていうか、むしろ嬉しいし……」
最後の方はゴニョゴニョとしていてよく聞き取れなかったが、とにかくオーケーということらしい。
ぼくはホッと胸をなでおろした。
夕暮れ独特の、ひんやりとした風が心地いい。
この風のように、ぼくはどこまでも自由だった。