前編
学校は、誰しもが必ず行かなければならない。コンビニでレジを打っているあの人も、大企業の社長も、誰しもが必ず通っていくものだ。
勉強だけではない遊び、時にはケンカもしたりして、そうして人との関わり方を学んでいく。
……それが学校というものならば、ぼくはきっと落第生なんだろう。
誰も使っていない空き教室。陽の光はほとんど差し込まず、陰気な雰囲気を漂わせている。
まるで、ぼくと一緒だ。
「おい宮ぁ! ボーッとしてんじゃねーよ!」
頭のてっぺんからつま先まで突き抜けるような怒声とともに、ぼくのお腹に今まで経験したことのないような衝撃が走った。
いや、これまで幾度となくやられてきたことだから、まったく経験がないわけではないんだけれど。
それでも、この痛みに慣れることはない。
ぼくは机とイスをいくつも吹き飛ばし、最終的に壁に激突してとまった。
胃がこれでもかと言うほど押し潰され、行き場を失った酸っぱい液が喉のすぐそばまでせり上がってくる。
ぼくは情けなくよだれを垂れ流し、ひゅーひゅーと喉を鳴らした。
「これぐらいで、へばってんじゃねーぞ!」
「あぐっ……ご、ごめんなしゃ……!」
髪を掴まれて、無理やり正面を向かせられる。
見たくもない、ぼくを殴って笑っている、顔。
目の前にいるやつも、遠巻きに見ているその取り巻きも、みんながみんな今の状況を楽しんでいる。
「お前の顔ムカつくからよ、俺が整形してやるよ」
髪を掴む手に力がこもり、ぶちぶちと音を立てて毛が抜けていく。
勢いよく拳を振りかざし、次の瞬間には弾ける閃光と、熱くなる頰。
痺れるような痛みに尚も止まない暴力の嵐。
声を出す暇もなく、ぼくの意識は段々と薄れていった。
気がつくとぼくは家へと向かって歩いている途中で、一体どうやってここまで来たのか何も覚えていない。
痛い。顔が、腕が、お腹が。もう、全身が熱くて、痛くて。
前がよく見えないから、ふらふらと頼りない足取りだ。
それはまぶたが腫れているからか、それとも……泣いているからか。
「うっ……! うぅ……」
一度流れ出した涙は、簡単にはとめられない。
周りの人の視線が、一斉にぼくに向くのが分かる。
「橋本くん!」
そう、声がかけられて振り向くと女の子が一人、立っていた。
同級生の、江本鈴理さんだ。
ぼくは慌てて、服の袖で涙を拭う。
江本さんは、いじめられているぼくを心配して、いつもこうやって声をかけてきてくれる。
だからこそぼくは、彼女に泣いているところを見られたくなかった。
「橋本くん、大丈夫? 泣いていた……みたいだけど」
「な、泣いてないよ! それよりも江本さん、もうぼくなんかに話しかけない方がいいよ。君まで目をつけられるし、ぼくと話したっていいことないでしょ」
「そんなこと……って、橋本くん!」
江本さんはまだ何か言いかけていたが、構わない。
ぼくは彼女に背を向けて、歩き出す。
そうだよ。ぼくと江本さんが、対等に話せるわけがないんだ。
彼女はクラスの人気者。片やぼくはクラスカースト下の下だ。どう考えたって釣り合わない。
そう、これでいいんだ。そうやってまた、明日だって今日の繰り返し。
卒業するまで、毎日毎日──。
……嫌だ。
嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ! もう、学校には行きたくない!
折角、江本さんは声をかけてくれたのに、ぼくは何をやっているんだ⁉︎
あぁ、ぼくは馬鹿だ。彼女は手を差し伸べてくれたのに、ぼくなんかが無下にしていいはずがないのに。
(もう、いっそのこと死んじゃえば楽になれるんだけどな)
ぼくのこの願いを神様は聞き入れてくれたのか、それは分からない。
危ない! と、誰かが叫び、クラクションと巻き起こる悲鳴。
そしてテレビの電源を落とすように、ぼくの意識はぷつりと切れた。
「……うぅーん……」
何だろう、酷く身体がダルい。三日間、不眠不休で働き続けたかのように指の先を動かすことも、目を開けることさえも億劫だ。
……だけど、疲れている時にこうやって眠るのはすごく心地がいい。このまま疲れが取れずに、ずっと眠り続けているのもいいかもしれない。
そのまま心ゆくまでうつらうつらしていると、なんだか外の世界が騒がしい。
ざわざわと木が揺れる音、何か分からない鳥の鳴き声。
一度気にすると、その音がやけに大きく聞こえ出し、もうそのこと以外考えられなくなる。
「あれ……そういえば、何で外で寝ているんだろう」
よく考えたら絶対におかしいことなのに、今の今まで気づかないでいた。
まだ重たいまぶたをやっとこさ開けると、そこには──。
「え……」
──目の前には、見たこともない景色が辺り一面広がっていた。
まず、地面がコンクリートじゃなくなっている。
ぼくは確かに歩道を歩いていたはずなのに、あるのは剥き出しの岩ばかりで、草一本も生えていない。
一応あちこちに木は生えているようだが、どれも枯れていて青々としている木は生えていなかった。
空は陽が沈みかけているんだろう。青紫色をしていて、それが一層この場を不気味なものにしている。
何がなんだか分からずに、ぼくは頭を抱えた。
ここはどこで、どうやってぼくはここに来て、そしてこれからどうしたらいいんだろう。
誰かに助けを求めようにも、ぼく以外の人はここにいないみたいだし……。
「考えていても仕方ない……よね?」
同調を求めたところで、誰からも返事はない。
「うぅ……怖いなぁ」
何しろどこを見渡しても同じ景色だ。右も左も分かったものじゃない。
歩いていればきっとどこかに繋がると信じて、まずは進んでみることにする。
……そうして、もうどれくらい経ったんだろう。
行けども行けども景色は変わらず、同じ道を永遠に回っているんじゃないかとすら思う。
「はあ……はあ……喉、渇いた……水……」
頭がガンガンして、目眩もしてきた。いよいよ、限界が近いかもしれない……。
「あれ、ついに幻覚まで見えてきたのかな。人がいるように見える……」
揺らぐ視界の先に、人影が三体動いている。
それはゆっくりと、大きく、はっきりと見えるようになっていった。
「違う! 幻覚なんかじゃない!」
このわけの分からない世界で、初めて人を見つけたことに胸が高まる。
もしかしたら、ここがどこなのか分かるかもしれない。水だって分けてくれるかもしれない。
「おーい! おーい! ここだよ! 助けてくださーい!」
ありったけの声を振り絞って叫び、影の方へとひた走った。
これで助かる、安心だ。何の根拠もなく、ぼくはそれを信じて疑わなかった。
やがて姿が確認できる距離まで近づいて、ぼくは見てしまった。
それが、人ではないことに。
希望から一気に絶望へと叩きつけられる。ぼくはその場にへたり込んで、動けなくなってしまった。
なぜなら、ぼく目掛けて迫ってきているのが死体だったからだ。
いや、死体だと御幣がある。骨だ。ガイコツだ。
理科室に置いてある骨格標本よりやや大きいガイコツが三体、こちらに向かってきている。
兵士のような服を着ていて、その細い腕では不恰好なほど大きい剣を振りかざす。
早く逃げろと頭はうるさいほど警告を鳴らすが、腰が抜けてしまって立つことすらままならない。
あぁ、短い人生だった。確かに死にたいとは思ったけれど、まさかこんな形で死ぬなんて、一体誰が予想出来ただろうか。お母さん、お父さん、ごめんなさい。親孝行もろくにできなかったことだけが心残りです。
ぎゅっと目をつぶって、その時がくるまでジッと待つ。
……何もしてこない。もしかして、ぼくの勘違いだったとか? たまたま進路方向にぼくがいて、通り過ぎただけだったとか?
あり得なくはない。天文学的確率でしかないけれど。
そっと目を開けて、いなくなったかどうか、様子を伺ってみる。
そこには、かごめかごめよろしく三体でぼくを囲っているガイコツたちがいた。
「ひ、ひいい!」
いる! ずっと見てる! ぼくを取り囲んで、何をする気なんだあのガイコツたちは⁉︎
「キキキ! ヤッパリコイツ ニンゲンダ!」
「ニンゲン ナニシニココヘキタ!」
どうやらこのガイコツたち言葉を話すようで、何か言うたびに骨が共鳴しカタカタと音を鳴らしている。
「オマエラ スコシオチツクンダ」
「タ タイチョウ!」
隊長と呼ばれるガイコツは、ほかのガイコツよりさらに大きい。隊長と呼ばれるのにも納得だ。
「シカシタイチョウ! コノニンゲン キットマタオレタチヲ クルシメルタメニ キタニチガイナイデス!」
「ソ ソウダ! ニンゲン イマスグココデ コロスベキ!」
「マアマテ オマエラ」
おそらく次に隊長ガイコツが発する言葉で、ぼくの生死が決まるだろう。
あまりの恐怖で声が出ず、ただただこの状況を固唾を飲んで見守るしかない。
「ニンゲンガ ヒトリデ ココニクルナンテ カンガエラレナイ ダロ?」
「ソ ソウカ! マダ ナカマガ ドコカニ イルッテコト デスネ!」
「ソウイウコトダ」
いないです! ぼくは一人です! だから助けて!
心の中で必死に叫んだところで聞こえるはずもなく、ぼく抜きで話はどんどん進んでいく。
「ソレデ タイチョウ コノ ニンゲンヲ ドウスルンデスカ?」
「ウム! ニンゲンハ イチド シロニ ツレカエッテ ホリョニ スルンダ カエッテ ジンモンヲ ハジメルゾ! オマエタチ ニンゲンヲ ハコブンダ!」
「サーイエッサー!」
言うが早いかぼくの身体はあっという間に二体のガイコツたちに持ち上げられた。
骨張った……というより、完全なる骨が当たって服越しだというのにかなり痛い。
「ウゥ……オ オモイ」
腰が抜けているせいで、ほとんど引きずられるような形でその城とやらに歩いていく。
右を向いても左を向いても前を見ても、ガイコツたちが視界に写り込む。気分はまるで、死刑囚のようだ。
……もう、余計なものは見ないようにしよう。
ぼくはこの後、終始俯いて一度も顔を上げることなく歩き続けたのだった。
「シロニ ツイタゾ コレカラ チカロウニ イク オマエラ キヲヌイテ ニゲラレルンジャナイゾ」
「サーイエッサー!」
あれからかなり長い時間歩かされ、ぼくはすっかり憔悴しきっていた。
逃げる気力なんて、一ミリも残っていない。あったとしても、やらないけれど。
地下牢に続いているという、ろうそくが点々と灯されているこれまた薄暗い階段を、降りていく。
コツコツという靴の音、骨の軋む音までが大きく反響している。
たどり着いた先はそれほど広くない部屋があり、その三分の一が牢屋で区切られている。
看守用に、小さいテーブルとイスが二つ並べてあって、床は石床だ。
もちろん、牢屋の中にはテーブルもイスもない。お世辞にも、快適だとは言えない環境だ。
「オマエニハ ココニ ハイッテモラウ」
乱暴に牢へ放り込まれ、無情にも扉が施錠される。
「ヨウシ オマエニキク オマエノ モクテキハ ナンダ? ナカマハ アト ナンニン イル?」
「…………」
「……ホウ ダンマリカ」
だんまりも何も、目的もなくあそこに倒れていたんだし、仲間だっていない。
ただ、恐怖で声が出ないだけだ。それに、迂闊なこと言ってしまうと、腰にかけている剣で切られてしまう可能性だってあった。
「イジデモ ナカマハ ウラナイツモリカ……」
勝手にいい方向へ持って行っている……。
「ナラバ シカタナイ イマカラ コイツヲ ゴウモンニ カケル」
物騒なことを言いつつ、腰の剣を引き抜く。
これまでに幾千もの人の血を吸ってきたであろう剣に、ぼくの怯えた顔が映る。
こんなもので斬られでもしたら、ひとたまりもないだろう。
いや、これは拷問なんだ。きっと、身体の端っこから少しずつスライスされていって、地獄のような苦しみを与えられるに違いない。
その時、グググーッと、くぐもった地響きのような音が、部屋中に響いた。
「ナンダ ナンノ オトダ⁉︎」
「ニンゲンノ ワナカモ シレナイゾ!」
ガイコツたちは驚いて、きょろきょろとしたり、怪しいものがないか見て回っている。
ただ一人、ぼくだけが顔を真っ赤にして俯していた。
……お腹が、なってしまった。
ぼく自身、信じられないでいる。こんな自分が死ぬかどうかの瀬戸際で、誰がお腹を鳴らすなどと思うだろうか。
ぐうぅー。
第二波が、再び鳴り響く。これには流石に、ガイコツたちも気づいたようだ。
「オイ! マサカ コノオト…… キサマ ハラヲ ナラシタナ⁉︎」
「コノ ジョウキョウデ ハラガ ヘッタノカ!」
二体のガイコツに責め立てられ、顔から火が出そうになる。
それまで、この一部始終を見ていた隊長が、口を開いた。
「……ヨシ オマエラ コノ ニンゲンニ ショクジヲ ヨウイシテヤレ」
「シ シカシ タイチョウ! ゴウモンガ マダ……」
「コレガ サイゴノ ショクジニ ナルカモシレナインダ ソレニ オレタチ スケルトンハ ハラガヘラナイ カラ ワカラナイガ ショクジハ ニンゲンニ トッテ タノシイモノダト キイタ タベサセテ ヤロウ」
「サ サーイエッサー!」
慌ただしくニ体が、部屋を出ていく。
彼らは、スケルトンという名前だったのか。ずっとガイコツだと間違えていてなんだか申し訳ない気持ちになる。
「モウスグデ モッテクルダロウ マッテイテクレ」
隊長……。いや、隊長さん!
あのスケルトンたちが尊敬しているのが、痛いほどよく分かる。彼こそ、隊長になるに相応しい骨だ。
「タイチョウ! ショクジノ ヨウイガ デキマシタ!」
スケルトンたちはそう言って、牢の中に食器を並べ始めた。
牢にはテーブルがないから直置きだが、それでも充分過ぎるくらいだ。
野菜らしきものが浮いたスープと、一切れのパン。それに、これは牛だろうか。香ばしく焼き上げられた肉が、食欲を刺激する。
「サア エンリョ シナイデ タベルトイイ」
ぼくはスケルトンたちを一瞥すると、まずはスープに手を伸ばした。
にんじんとも、大根とも違う半透明な野菜を、恐る恐る口に運ぶ。
シャクシャクとした爽やかな歯ごたえに、あっさりとしたスープがとてもよく合う。
心身ともに疲れ切っていたところに、隅々まで行き渡り芯から温められていく。
この肉だって塩加減が絶妙で、噛めば噛むほど味がしみ出てくる。
こんなに美味しいものは、今まで食べたことがなかった。いや、それだけじゃない。
ぼくの身体が、何か得体の知れないもので満たされていく。
この、気持ちは何なんだろう。
スープをすすりながら、自然と涙がこぼれ落ちる。
でも、どうしてだろう。全然、嫌じゃない。むしろ温かくて、落ち着く感じだ。
「オ オイ ドウシテ ナイテイルンダ⁉︎」
「モシカシテ オイシク ナカッタカ⁉︎」
「いえ……グスッ。美味しいです……」
もはやさっきまでの恐怖心はなく、親しみすら感じる。
あれだけ敵対していたにもかかわらず食事を用意してくれ、さらに泣いているぼくの心配までしてくるなんて。
そんな経験、今まで一度たりともなかった。
ただあったのは、馬鹿にされ暴力を振るわれて、親にバレないように隠して生きる、そんな毎日。
食べ終わった食器を置き、ぼくは意を決して話しかけた。
「あ、あの! ここは、どこなんで……あぁ! その前にご飯、ありがとうございます。えぇと、実はぼく、どうしてあそこにいたのか覚えていなくて……」
「オボエテイナイ? ナラ ココニ クルマエニ イタバショハ ドコナンダ」
「東京です、日本の。……分かりますか?」
「トウキョウ? ニホン? キイタコトガナイ ムラダ」
そのあとも何個か質問をされるが、なぜか一つも伝わらない。
話が噛み合わない、何も知らないといった感じだ。
そもそも骨が動いて喋ること自体おかしな話だし、一体ぼくはどこに来てしまったんだろう。
「ウギギ……コマッタ ナニモ ワカラナイ」
「タダ ウソモ ツイテイルヨウニハ ミエナイ」
スケルトンたちも、この場をどう収めるのか困っているようだ。
その時、スケルトンの骨の音に混じって、靴音が聞こえた。
誰か、階段を下ってきている人がいるらしい。
「あの、誰かこっちに来ているみたいですよ?」
「アア? ソンナワケ ナイダロウ コンナ チカロウニ イッタイ ダレガ……」
「お前たち、ここで何をやっている?」
現れたのは男性で、真っ黒なフードを頭まで被っている。
病的なくらい色白で、端正な顔立ちをしていて控えめにいっても美しい以外の言葉が見つからない。
そして、その美しさに引けを取らない存在感を放つ、彼の背たけをゆうに越える巨大な鎌。
一見すると人間のように見えるが、この人もスケルトンのように人ならざる者なのか。
「ト トーデス サマ! ナゼ コノヨウナ トコロニ⁉︎」
「ついさっき、お前たちが地下牢に行ったと知らされたものでな。気になって様子を見に来たんだ」
隊長さんたちは、トーデスと呼ばれる男に敬礼をし、起立の姿勢をとっている。
どうやらあの人は、かなり上の立場にあるらしい。
「それで、捕らえたという人間は……」
トーデスさんはぼくを見ると、少しだけ表情を強張らせた。
その瞳は、気を抜くと吸い込まれてしまいそうなほど鋭く、すべてを見透かされているようで思わず肩をすくめてしまう。
「……なるほど」
トーデスさんは小さく頷くと、隊長さんたちに向き直って言った。
「今すぐに、この者を牢から出すんだ」
「ギギ⁉︎ オコトバ デスガ トーデスサマ! ナゼ ソノヨウナ コトヲ?」
「この人間を、魔王様に会わせに行く」
魔王? 魔王だって?
あまりに非現実的な展開に、驚きを隠せない。
たしかにここで目覚めてからは、非現実の連続だったけれども……。
心のどこかで、これは全部テレビか何かのドッキリ。仕掛け人が用意した壮大な舞台で、シナリオ通りに物語が進んでいるものだ……と思ってしまう。
魔王がいる扉を開けたら、ドッキリのカードを持った人がいて、ぼくはまたいつもの日常に戻る。
今の現状よりも、ずっと現実的だ。
まぁ、ぼくは最初から信じていませんでしたけどね。でもよく作りこまれていると思いますよ──。
頭の中で、マイクを向けられているぼくが淡々とインタビューに答えていく。
「おい、何をしているんだ。早くそこから出ろ」
「あ……は、はい!」
いつの間にか扉が開けられている。
現実逃避をしていて、気がつかなかった。
「ま、気持ちは分からんでもないが……」
トーデスさんが何か呟いていたけど、何と言っていたんだろう。よく聞き取れなかった。
「早く行くぞ。ついて来い」
「はい! あれ、隊長さんたちは来ないんですか?」
「オレタチハ ココヲ ソウジ シテカラ イクコトニスル トーデスサマガ ナニヲ カンガエテ イルノカハ ワカラナイガ クレグレモ シツレイノ ナイヨウニナ!」
隊長さん……最初は怖かったけど、人への心配りを忘れない、いい人だ。いや、いい骨だ。
ぼくはここに来て初めて、満面の笑みを見せた。
「ご飯、とっても美味しかったです! ありがとうございます!」
「おい、何をやっている! 早く来いと言っただろう!」
おっと、少しゆっくりし過ぎたかな。
トーデスさんは、もう階段を上っていったみたいだ。ぼくも急がないと。
「タッシャデナー」
階段を駆け足で上っていく。振り返ると腕が三本、バイバイをする時のように振られていた。
「いや暗闇でそれやられると、冗談抜きで怖いから!」
三段飛ばしで走り続け、これまでの人生……いやこれからも出ないであろう最速タイムを叩き出し、トーデスさんのところへたどり着く。
「階段を上るだけで息切れしているのか? 体力がなさすぎるぞ」
「い、いや……これにはちょっとわけが……」
「まぁいい。ここじゃなんだ。場所を変えるぞ。……少し休んでからな」
尋常じゃないほどの汗を垂れ流し、大きく肩で息をするぼくをトーデスさんは心配そうに見つめる。
「すみませっ! ゴホッゴホ!」
「む、無理はしなくていいぞ」
トーデスさん……こんなぼくを気遣ってくれるんだ。優しい人なんだな。
対してぼくは階段を上がっただけでこのありさまだ。
同じ男同士、格の違いを見せつけられているようで悲しくなってくる。
「もう、大丈夫です……。すみません」
「なんだか元気がないように見えるが……。まぁいい、こっちだ」
今度は遅れないように、しっかりとトーデスさんの後をついて行く。
地下牢に連れていかれた時はそんな余裕なかったけど、改めて見るとこの城、とてつもなく大きい。
端から端までで、ざっと千メートルはある。
ここから通路がいくつにも分かれているようで、たしかに案内なしで目的の場所に行くのは不可能に近そうだ。
全体的に見て煌びやかさはなく、そのせいかどこか殺風景に感じてしまう。
日常生活に支障はない程度には明かりがあるがやはりそれも、夜に電灯をつけているような暗さが残っている。
「こんなに大きな城なのに、なんだか寂しいですね」
「観光用じゃないからな。むしろこれだけ巨大な城はどこを探しても見つからない。これも魔王様の人望が厚いからだと言えよう」
魔王様、か。一体、どんなひとなんだろう。
そういえば最初に隊長さんたちに会った時、こう言っていた。
また俺たちを苦しめるつもりなんだって。
あそこまで人間を嫌う理由は何なんだろう。ゲームだとむしろ、人間を苦しめる存在なはずだけど、ここでは違うんだろうか。
そうだとしたら、その魔王様とやらもぼくをよく思わないかも……最悪、処刑なんてことになってでもしたら……。
「不安か?」
「ひぃっ! いえ、そんなことは!」
「顔にそうだと書いてあるぞ。大丈夫、魔王様は君をとって食ったりはしない」
トーデスさんは、人の考えが読めるんだろうか。それか、単にぼくが表情に出やすいだけか。
そんなことを思っていると、不意にトーデスさんが立ち止まって言った。
「やはり、魔王様と会わせる前に言っておくべきか」
「……? 何ですか?」
トーデスさんが振り返り、ぼくの方を見る。
その表情は何か決心したような、すべて背負う、そんな覚悟をしているように映った。
「君は、この世界の者ではない、異世界から来たんだろう?」
「え……」
あまりに唐突に言われたものだから、すぐには反応できなかった。
身体中の血液が急激に沸騰しだし、心臓は早鐘を打ち、大量の血を脳に送り出す。
「ちょっ、ちょっと待ってくださいよ! だったら、この世界は何なんですか? まさかぼくの夢の中だとでも?」
「落ち着け。君も、ここが自分の暮らしていたところと違うことくらい、分かっていたはずだ」
「でも……だからって……」
トーデスさんの話が信じられない。信じたくもない。
ここが異世界だって? もし仮にそうだとして、ぼくは元の世界に帰れるのか?
ぼくは内心、パニックになっていた。そしてそれは、トーデスさんにも伝わっていたと思う。
「私は、死を司る神……いわゆる、死神というやつだな」
「死神……」
ぼくの人生で、まさか死神と話す機会があるだなんて。
人間、どうしても受け入れられない事実に直面した時は案外しょうもないことを考えるもので、それはぼくも例外ではなく、あの死神が目の前にいるということに妙に感動していた。
「実は地下牢で君を見た時に、少しだけ君の生き様を見させてもらった。どうやら君は……向こうの世界で死んでしまったらしい」
トーデスさんは、言いにくいのか顔を逸らして口元を手で押さえている。
……死んだ? ぼくが?
あの時、ぼくは泣きながら歩いていて、前がよく見えていなくて──。
──あぁ、そうだった。思い出した。どうして今まで忘れていたんだろう。
ぼくは信号が赤になっていることに気がつかなくて、それで走ってきた車に……。
「そうか……ぼく、死んじゃったんだ」
「随分と落ち着いているんだな。てっきり、もっと取り乱すかと」
「いえ、何て言うか、本当のことが知れてスッキリしました……それに、変な言い方かもしれないですけど、世界が変わっただけでぼくという存在はここにいるんだし、それだけは変わらないかなと」
そうだ、死んでしまった以上はもう、ここで暮らしていくしかないんだ。
だったら、早々に受け入れてしまった方が苦しまずに済む。
未だにぼく以外に人を見ないのが不安ではあるけれど……。
「それでトーデスさん、ぼくはこれからどうしたら?」
「うむ、それを今から魔王様に決めていただくのだ。君は人間だから、どうなるのか予想がつかないが」
なるほど、そういうことか。
その魔王様がどういう人なのかは知らないけど、ぼくが人間である以上はそっち側で暮らせるようにしてくれるんだろう。
……でも、魔物と人間は仲が悪いようだし……。なにより、隊長さんやトーデスさんが敵になるのは悲しかった。
この話しが終わってここを離れることになったら、もう二度と会うことがないかもしれないんだ。
心臓が、ぎゅっと締めつけられる。短い間とはいえ、あんなによくして貰ったんだから当然だ。
それっきりトーデスさんとは会話がなく、無言のまま歩いていく。
長い長い廊下の先には、一つの扉があった。
「着いたぞ。この扉を開けると、魔王様がいる」
「ここが……」
扉のふちが金で彩られていて他より豪華ではあるが、それ以外に特に変わった様子はない。
だけど、感じる。ぼくは人間で、ここにいる誰よりもそういうものを感じる力は弱いはずだ。
それでも伝わってくるほど、この扉の主は異彩を放っていた。
「開けるぞ」
トーデスさんが扉に力を加えると、ギイィと音を出してゆっくりと開いていく。
開き切った扉の先は、真っ暗な空間だった。
廊下側は明るいのに、扉一枚隔てて完全なる暗闇が、そこにはあった。
普通、いくら暗くてもこちら側が明るい以上、少しは照らされているはずなのにそれが一切ない。
まるで、光を吸い取っているようだ。
「失礼します」
そう言うと、トーデスさんはさっさと中へ入っていってしまった。
本当なら、ぼくも後を追って入らなければならないが、何だかここに入ると永遠に出られないような気がして、ついためらってしまう。
「何をしているんだ。早く来い」
暗闇の中から、トーデスさんの声だけが聞こえてくる。行くしかなさそうだ。
ぼくは深呼吸を二、三回繰り返すと、意を決して扉の中へと足を踏み入れた。
「トーデスさーん、どこですかー?」
「ここだ。そんなに大声出さなくても、聞こえているぞ」
自分自身の姿さえ見えない、闇の中。トーデスさんの声を頼りに、向かっていく。
「痛っ! こら、私の足を踏むな!」
「わわっ! す、すみません!」
「はぁ……そういえば、人間は暗いと目が見えなくなるんだったな」
暗いというレベルを超えている気がするけど。
……あれ、ということはトーデスさんは、何がどうなっているのか全部見えているってことか。
流石死神は、闇に強いらしい。
「ま、見えずとも魔王様のオーラを感じることはできるだろう」
オーラって……。何だか、急に嘘くさい感じになってきたぞ。
それに、ぼくはこの世界のことを何も知らないただの人間だ。仮にオーラとやらがあるにしても、そんなもの分かるわけがなかった。
コツコツと、暗闇の中で響くトーデスさんの靴音を追いかける。
もう、だいぶ歩いたような気がするがまだなんだろうか。
それとも、実際はそれほど進んでいないのか。
ここでは自分がどれほど歩いたのか、時間が経ったのか、全てが曖昧だ。
いや、そもそも本当に進めているのか? ただ同じところで足踏みしているだけかもしれない。
トーデスさんだって、声が聞こえるだけでそこに居るかどうかは証明のしようがないじゃないか。
「あれ……?」
気がつくと、さっきまで聞こえていたはずの靴音が聞こえない。
耳をつんざくほどの静寂がぼくから余裕を奪い取る。
「そんな……どうしよう……! トーデスさん! どこに居るんですか! トーデスさん!」
「落ち着け! 闇に呑み込まれるな!」
突然、肩を掴まれてぼくは、そのまま崩れるように倒れ込む。
声からして、肩を掴んだのはトーデスさんだろう。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
「大丈夫か?」
「はい、なんとか……」
額を伝う汗を拭い、呼吸を整える。何だろう、急に気分が悪くなってきた。
込み上げる吐き気を抑えながら、なんとか立ち上がる。
「どうした? 気分が悪いか?」
「う……は、はい」
「それも仕方ないだろう。魔王様が、目の前におられるのだからな」
「え……?」
魔王様が?
周りを見回してみるが、やはり姿を確認することはできない。
それでも、ぼくには魔王様がどこに居るのか、はっきりと認識することができた。
何と表現したらいいんだろう。
決して見えることはないが、頭の中では魔王様の姿が映っているという具合だ。
身長は、ぼくの倍以上はあるだろうか。
顔や服装は分からない。そこにピントを合わせようとすると、途端にぼやけてしまう。
闇と一体化していながらも、認識はできる。
前の世界ではなかった、不思議な感覚だ。
「魔王様、異世界から転生してきた人間を、我が軍が保護いたしました。この人間を、どういたしましょうか」
「……人間だと?」
地の底から響くようなその声に、思わず後ずさってしまう。
凄まじい威圧感にこの場から逃げ出したくなるが、ギリギリで踏みとどまって話しかける。
「あ、あの! ぼく、この世界のことよく知らなくて……。よかったら、教えて貰えませんか!」
「世界のことを……か。よかろう。で、貴様の世界には、魔物はいたのか?」
「いえ、魔物とかそういうのは……おとぎ話の世界でしかなくて、まさか本当にいるなんて」
魔王様はそれを聞くと、一呼吸置いて話し出した。
「ここでは人間と魔物が一つの世界で暮らしており、それぞれ人間界と魔界に別れて生活している」
「ここは、魔界ってことですか? 通りで、人間がいないわけですね」
「最近は人間たちの進行が激しい。各地で、住処を奪われたという話を聞く」
「それって、どういう──」
「人間と魔物は、対立しているのだ」
やっぱり、そうだったのか。
最初に隊長さんたちと会った時の反応から、予想はしていたけど……でも、どうして対立するようになったんだろう。
「人間と魔物は、どうして敵対しているんですか? 何か理由があるはずですよね」
魔王様からの返事は、ない。
何か、言いにくいことでもあるんだろうか。
やがて、魔王様はゆっくりと口を開いた。
「なにも、最初から今のように敵対していたわけではなかった。そう、はるか昔。魔物と人間は、共存をしていた」
「共存を?」
「そうだ。人間が重い病気にかかった時は、我々魔物が治療をしてやった。反対に、人間は魔物に、知恵を授けてくれた」
魔王様は、懐かしそうに目を細める。もちろん、ぼくには見えていない。ただの比喩だ。
「人間は弱い。だから、力仕事は率先して我々が引き受けた。人間も、道具を開発しては我々に手を貸してくれた。全て、うまくいっていたのだ」
「それがどうして、今の状態になってしまったんですか?」
「伝染病だ」
「伝染……病?」
魔王様の声が、苦しそうな、悲しそうな、そんな声に変わる。
「病はあっという間に世界中に広がって、多くの人間たちが死んでいった」
「で、でも! 魔物が治療できたんじゃ?」
「我々が治すよりも、病が感染する方がずっとずっと早かった」
「あ……」
かける言葉が、見つからない。いくら治しても、死んでいく数の方が圧倒的に多いだなんて。
どれだけ、やるせない気持ちだっただろう。
「治療する術を持っていながら、目の前で人が死んでいく。墓を作る暇なんてなかったから、大きな穴を掘っては死んだ人間をそこにまとめて入れていた」
魔王様は、そこで口をつぐんだ。きっと、魔王様自身も辛いんだろう。
「それが、人間たちには気に食わなかったんだろうな。我々には墓を作るという習慣がない。それが人間たちにとって、どれほど大切なものなのか、分からなかったのだ」
「それが、原因で?」
「いや、それはあくまでもきっかけに過ぎない。魔王である我が言うのもなんだが、ここからが地獄の始まりだったのだ」
魔物の頂点に君臨する王が地獄と言うからには、相当なことがあったんだろう。
ぼくは、魔王様の次なる言葉を待つ。
「そもそも我々魔物は伝染病には感染しない。人間たちがそのことを知っていたのかどうか、今となってはそれも分からぬが、とにかく人間たちは一連の騒動を魔物が引き起こしたのだとした」
「え⁉︎ でも、それって」
魔王様は、小さく頷く。
「もちろん、我々の中にそのようなことをする者はいなかった。ただ人間は、いつ死ぬともしれない理不尽な毎日に理由をつけたかったのだ。誰かのせいにして、虐げている間は不安を忘れていられよう」
「そんな……だって、魔物は悪くないじゃないですか!」
「そうだ。しかし人間がやったことも、仕方ないことなのだ。人間は、弱い生き物だ。だからこそ、己より弱い者を求める」
「自分より、弱い者……」
ぼくをいじめていたあの人たちも、ぼくの知らないところで何かに苦しめられていたんだろうか。
ぼくを殴ることでしかストレスを発散させることができなかったのだとしたら、あの人たちの人生はなんて淋しいものだったんだろう。
そして、そんな人たちのストレスのはけ口になって、自分は何もできずに溜め込んでいたぼくの人生は、何だったんだろう。
もしもあの時死んでいなかったら、ぼくはどうなっていたのか……いや、きっとこんなこと考えもせずに何の疑問も持たず日々を繰り返していたに違いない。
「だがその後にやったことは、とても許容できるものではない」
先ほどとは打って変わって、魔王様の声色は怒っているような、憎しみを帯びたものになった。
その場の空気が一瞬にして張り詰め、息をするにも苦しいほどだ。
「あろうことか人間は、魔物が伝染病を持ち込んだと信じ込み、魔物狩りと称して大量に罪のない魔物たちを虐殺したのだ!」
魔王様の声で、空気が震える。魔王様の怒りが、痛いほど伝わってきた。
「魔王様はその時、何かしなかったのですか……」
「何も、しなかった。否、できなかったのだ。どれだけ仲間を殺されても、力を合わせて生活していたあの頃を思い出し、もしかしたら、まだ戻れるかもしれないと淡い希望を捨てることができなかった。あの時の我は、本当に愚かだった」
「そ……!」
そんなこと、言わないでください。
言えるわけがなかった。
信じていたのに裏切られる悲しみは、ぼくも知っているから。
忘れたくても忘れられないあの日のことを、ぼくは思い出していた。
そう、あれは高校の夏、体育の授業から始まったんだ。
「宮! もっと早く走れ!」
グラウンドをランニングしている最中、先生の怒号が飛ぶ。
ほかの生徒に比べて、ぼくは大きく遅れをとっていた。
それもそのはず、ぼくはやつに足を蹴られて怪我をしていたからだ。
そいつは先生にバレないように暴力を振るうことが得意だった。
あれ、いじめていた人の名前、何だったっけ。
……まぁ、いいか。そんなことは些細なことだ。
話を戻して、ぼくは足の痛みと戦いながら、必死に走っていた。
足を地面につく度に、ズキンと鋭い痛みが走る。
そんな状態でまともに走れるはずもなく、半周の遅れだったものがついに一周も差をつけられてしまった。
「とろいんだよ邪魔だ」
ぼくを蹴った張本人が、追い抜く際にぼくの頭を叩いていく。
そのすぐ後ろを、取り巻きたちが笑いながら走っている。
もちろん、先生にはほかに走っている生徒が死角となっていて見えていない。
結局ぼくだけ遅れた分とプラス、ペナルティとして一周多く走らされた。
体育が終わる頃にはぼくの足は青黒く腫れ上がり、歩くこともままならなくなっていた。
次の授業が始まる前に、保健室へ行こう。そう、思っていると──。
「おい」
急に、声をかけられて驚き振り返る。そこにいたのはあの、ぼくを蹴飛ばした張本人だった。
「な、何?」
平静を装うとするが、恐怖で声が上ずってしまう。膝の震えも、止まらない。
「お前、足はどうなんだよ」
ぼくは、耳を疑った。
今まで散々ぼくを殴ってきたくせに、どうして今更そんな心配するようなことを?
気にはなったが、そんなことを聞けるはずもない。
それに、返答次第でまた殴られる可能性だってある。それなら選択肢は、一つしかない。
「う、うん。大丈夫だよ。ごめんね、心配かけて……」
「心配、ね。ふーん」
にやにやと、まるで新しいおもちゃを貰った子どものように、彼は笑った。
まずい……答えを間違えたか?
「大したことないならよかった。今日、坂の上公園で遊ぶことになっているんだ。お前も来いよ」
「え、公園に?」
予想していなかった展開に、少し面食らってしまう。
あのいじめっ子が、何の理由もなくぼくを遊びに誘うなんてあり得ない。
行ったところで待っているのは暴力でしかないだろう。
でも断ったら、それはそれで何かされそうだ。行かなければならない……ならないんだけど。
どうしても行くと返事ができないでいるぼくに、彼は続けて言った。
「今日の体育、お前全然できていなかっただろ。先生に何度も怒られてさぁ。足の怪我が原因だと思っていたら、お前大丈夫だと言ったな? なのに何で、できないんだよ」
彼の責めるような言い方が、さらにぼくを追い詰める。
心臓がばくばくと脈打ち、ぼくから冷静さを奪い取っていく。
「だから、俺がお前を鍛えてやる」
「……え?」
「体力作りだよ。いいか、四時だ。絶対に来いよな」
それだけ言うと、彼はさっさと行ってしまった。
……絶対に来い、か。行きたくないけど、行かなかったら後が怖いし……。
きっと体力作りと称して、無茶なことをやらされるに決まっている。
それにしても、彼と話したことでもう保健室に行っている時間がなくなってしまった。
仕方ない、諦めよう。
重たい足を引きずりながら、ぼくは今日の放課後のことについて考えていた。
あの用心深い彼が、公園でぼくに危害を加えることがあるんだろうか?
坂の上公園と言えば結構大きな公園で、子連れの人やお年寄りも多く利用している。
それだけ大勢の人がいるなら、ぼくに何かしようとした時点で気づく人がいるはずだ。
まさか本当に、ただ鍛えようとしてくれているだけ?
だとしたら、怪我のことは失敗したな。素直に言って、断っておけばよかった。
その後ぼくは授業に集中できるはずもなく、悶々とした時間を過ごした。
ホームルームが終わるとすぐ、ぼくは教室を飛び出す。
坂の上公園はぼくの家からだと結構遠い。早めに行っていないと、みんなを待たせてしまう。
もっと早く歩こうと足に力を込めて、その痛みに顔を歪める。
そうか、今のぼくは足を怪我していたんだった。
今から家に帰り、公園に行っていたら、四時に間に合わない。
このまま、公園に行ってしまおう。結局怪我の手当てはできなかったけど、包帯を巻いて行ったら怪しまれるだろうし、帰ってからやればいいか。
そう、自分に言い聞かせて公園へと急ぐ。
実を言うと、ぼくは少しだけ楽しみにしていた。こんな風に誘われることなんて今までなかったし、もしかしたら今からでも彼とは和解できるかもしれない。
ぼくをいじめていた人だけど、ちゃんと謝って反省してくれるなら、それでいいと思った。
そんな淡い期待を寄せていたぼくは、なんて馬鹿だったんだろう。
彼が少しの善意さえ持っていないことぐらい、知っていたはずなのに。
公園に着いたぼくは、まだ誰も来ていないことに安堵の息を吐いた。
あとは、みんなが来るのを待つだけだ。
近くのベンチに腰を下ろし足を見てみると、最初に見た時よりも倍に腫れ上がっている。
もはや足を動かしていなくても酷く痛み、額に脂汗がにじむ。
それでもぼくがした約束なんだ。体力作りは無理だとしても、会ってそれを伝えないと。
ぼくは、彼が来るのをひたすら待っていた。
耐えがたい痛みと戦いながら、十分が過ぎ、三十分が過ぎ、そして──。
──そして、ついに約束の四時になった。
誰一人として、集まっていない。
時間を、間違えた? 確かに、四時と言っていたはず。それなら、どうして?
考えてぼくは、一つだけ思い当たることがあった。
彼は時間を指定していたが、集合場所までは言っていなかったのだ。
先に言っていた通り、ここの公園は大きい。
だから、ここではないどこかで集まっている可能性が非常に高かった。
だとすれば、かなりまずい状況だ。
彼らは、ぼくが一時間前からいたことを知らない。今から行けば、遅刻確定だ。
遅刻した罰で、何をやらされるか分かったものじゃない。
とにかく今のぼくにできることは、できるだけ早く彼らと合流することだ。
もう、周りの人たちも帰り始めている。急がないと。
腫れている方の足は既に上がらなくなっていて、 このまま行くと公園を回りきるまで三十分はかかりそうだ。
既に薄暗くなり始めている公園を、一人歩き続ける。
途中で、何度帰ろうとしたことだろう。
だけど、もしかしたら見つけられていないだけで、まだどこかにいるかもしれない。
そう思うと、どうしても帰る気にはなれなかった。
それにこれまでいじめられていたこともあって、勝手に帰ることが怖かったというのもある。
結局、公園を回りきる頃には六時を回っていた。その間、集まる予定だったメンバーは誰も見なかった。
冷たい風が吹き始め、上着を着ていないぼくはその寒さに震える。
きっと、ぼくが遅れたせいでみんな帰ってしまったんだ。二時間も待っているなんて、そんなわけないんだから。
そう、頭の中で何度も唱えて自分を納得させようとする。
それでも、頭の片隅にある嫌な予感は消えなかった。むしろどんどん大きく膨れ上がって、そのことしか考えられなくなる。
(何を、考えているんだ! ぼくがみんなと合流できなかっただけなのに、それを彼のせいにするなんて!)
こんなことを考えてしまう自分が、嫌で嫌で仕方がない。
そう、こんなになっていながらまだ、ぼくは彼のことを信じていた。
四時を過ぎてもぼくが来なかったから、帰ったのだと本気で信じていたんだ。
今思えば広い公園で、何も場所を指定しなかったのも不自然だったわけだが。
明日、何て言って謝ろう。そんなことを思っていると、
「それで……でさ……なんだよ」
何だろう。誰かの、話し声が聞こえる。それも、一人や二人じゃなく、もっと大勢の声だ。
離れているからなのか、断片的にしか聞こえない。
聞き耳はよくない……よくないことなんだけれど、なんだか妙に気になる。
ぼくは少しだけ、近づいてみることにした。
どうやら声は、近くの空き地から聞こえているらしい。
そっと、顔を覗かせてみる。
「いやー、今日も楽しかったなー」
「お前、あの時の反則だったぞー」
そこにいたのは、確かに約束していたはずの彼の姿だった。
心臓がギュンと締め付けられ、今すぐここを離れたいのに身体は指の先さえピクリとも動かず、それどころか目が釘付けになって離せないでいる。
「それにしても、宮のやつを誘うなんてすごいよなぁ。俺なら、絶対に無理だね」
取り巻きの一人が、両手を前に出しお化けのポーズを取り、舌を出しておちゃらけてみせる。
「バーカ、本当に誘うわけないだろ? ちょっとからかってみただけだっつーの」
「だよねー!」
ギャハハハと笑う声が、近くで聞いているはずなのに遠くから聞こえてくる。
世界がまるで、抽象画のように歪んでいく。
この場でぼくは、何をするのが正解なんだろう。
ただ、聞きたくもない声だけがはっきりと脳に刻み込まれる。
「だってよ、あいつ足の具合を聞いたら大丈夫だって言うんだぜ? そんなわけないのによ、あんなに腫れているのに! でも、まぁ嘘をつくことはいけないわけだし? ちゃんと罰を与えないとねー」
「ははっ、ひでーな。怪我してるってのに、あそこまで歩かせるなんて」
「でも、案外まだ待っていたりしてな?」
「流石にそれはねーだろ。……よし、俺たちも帰ろうぜ」
彼らが近づいてきて、やっと動けるようになったぼくは急いで来た道を引き返す。
もう、足の痛みも寒さも、どうでもいい。
勝手に流れてくる涙も全部、どうだっていいんだ。
家に帰り夕飯も食べずにベッドに倒れ込む。ぼくは、枕を顔面に押し付け声を殺して泣き叫んだ。
そうしているうちに、いつしかぼくは眠ってしまい、そして次の日。ぼくは初めて学校を休んだ。
あの時のことを思い出すと、今でも胸が押し潰されそうになる。
ぼくでさえそうなら、長年信頼を置いていた相手に裏切られた魔王様はどれだけのものだろう。
こんな時、何と声をかけるべきだろうか。
ぼくには、見当もつかない。いや、きっとそれが正しいんだろう。
部外者のぼくが、何も言えるはずがないんだから。
「……同胞を殺されて、魔物たちも黙ってはいなかった。襲われた際に反撃し、殺めてしまう者も出てきた。反撃し、復讐され、ついには戦争にまで発展してしまったのだ」
「戦争ですか⁉︎」
「うむ。人魔界大戦の始まりだ」
「そんな……そんなことをしたら、人も魔物もただでは済まなかったのでは!」
「その通りだ。人も魔物も沢山の血を流した。だが、終わりが見えないとされていたこの戦争も、ある日突然終わりを迎えることになったのだ」
「それは、どうして?」
それほど激しい戦争だったのなら、和解はまずなかっただろう。一体、何があったんだろうか。
「単純な話だ。お互いに犠牲者を出し過ぎて、戦争の維持が困難になったのだ」
それはあまりにも単純明快で、そして哀切に溢れているものだった。
何でもないように話しているが、その言葉の節々から悲痛な叫びが伝わってくる。
「……でも、それで戦争は終わったんですね」
「否、まだだ。戦争はまだ、終わっていない」
「え……?」
戦争はまだ、続いている? どういうことだ?
他でもない、魔王様自身が戦争は終わったと言っているというのに……不思議に思っていると、魔王様が説明をしてくれた。
「終戦したはずの現在になっても人間は魔物を憎み、殺し続けている」
「……っ!」
「今やこの大陸はほとんどが人間のもの……それでもなお、人間は侵攻の手を緩めない。我々はやっと手に入れた住処さえ、奪われているのだ」
酷い……。魔物は何もやっていないというのに──いや、むしろ病魔に苦しむ人々を救おうとしていたのに、こんなこと……あんまりだ。
「どうしたら、人間たちを止められるのでしょうか……」
「それはもう、考えてある」
魔王様はきっぱりと、力強く言い放った。
「本当ですか! それなら、よかっ──」
「今度は、こちらから戦争を仕掛ける」
これで魔物と人間との関係も修復されるかもというぼくの淡い期待は、しかし次の瞬間にはいとも簡単に打ち砕かれてしまった。
ぼくには魔王様の考えが、理解できない。
沢山の犠牲者を出しておきながら、なぜ今また戦争を繰り返そうとするのだろう。
「魔王様、本気なんですか? 先の戦争で、沢山の犠牲が出たと仰っていましたよね? それなのに……」
「それは我々が人間に対し、手を出しにくい状況であったからだ。だが、今は違う。兵の数こそ少ないが、それでも人間とは比べ物にならないほどに強い。我々は、人間に敵意はあれど友好関係を築こうなどとは、微塵も思ってはいない。この城も、そのために建てたのだ」
確かに初め城を見た時、いやに無機質な印象を受けた。
魔王様を讃えているのなら、もっと豪華絢爛な造りになっているはずだ。
と、いうことはこの城は──。
「最初から、戦争をするつもりで建てた。……と、いうことですか」
「その通りだ」
「そんな! 考え直すことは、できないのですか!」
「人間! 魔王様に対し、口が過ぎるぞ!」
今まで黙って行く末を見守っていたトーデスさんが、初めて止めに入る。
「構わん。人間よ。なぜ、頑なに反対する? 何が貴様をそこまでさせる?」
ぼくは一瞬悩んだが、すべてを言うことに決めた。
ぼくが、前の世界でどんな目に遭っていたか、そしてどうして死んでしまったのかを。
「ぼくはこの世界に来る前に、酷いいじめを受けていたんです」
「いじめ、だと?」
「はい。殴る蹴るは当たり前で毎日心ない言葉を浴びせられ、ぼくは日々追い込まれていました」
「人間同士で潰し合うなど……愚かな」
何度も何度も、あの人がぼくを指差して笑っている映像がフラッシュバックして、話し続けることが辛い。
だけど、言わないと。いつまでも、この忌々しい記憶に縛られたくないんだ。
ぼくは、乗り越えなければならない。あの日の記憶から、そしてぼく自身からも。
「今思えばおかしな話なんですけど、いじめられている時って不思議と、助けを求めることができないんです。いや、そんなことすら考えつかなくなると言った方が正しいですか……」
「ふむ……」
「毎日毎日辛くて、死ぬことだけを考えていました。実際、事故で死んでしまったわけなんですけど実感が湧かないというか……もしあの時死んでいなかったら、ぼくにはいじめを終わらせる数多くの選択肢が残されていたんじゃないかって思うんです」
「何が言いたい」
「魔王様……本当に、戦争をすることが正解なんでしょうか? まだ、ほかに方法があるのではないですか? 誰も傷つかない、平和的方法が」
「…………」
魔王様は、何も言わない。一分一秒が、とても長く感じられる。
ぼくの言葉が、気持ちが。少しでも魔王様に、伝わっていたら──。
「……ふん、くだらない」
魔王様はそう、吐き捨てるように言った。
だめ……だったのか。ぼくじゃあ、争いをなくすことなんて、無理なのか?
「我々と貴様ではまず、住む世界が違うのだ。何も行動を起こさなければ、摂取されるのみ。貴様も、そうだったのではないか?」
その通りだ。こちらが何もしなければ、相手は際限なく侵し続けるだろう。
ただ、だからといって武力で解決することが正しいとはどうしても思えない。
力に力で対抗したところで、それは本当の意味での解決にはならないからだ。
争いは憎しみを生み、新たな争いが始まる。
魔王様が二度目の戦争を企てている時点でそれは証明されているが、当の本人はそのことに気づけていない。人間への憎しみで、客観的に判断することができないでいるんだ。
そして説得も失敗に終わった今、打つ手はもう残っていない。
「言いたいことはそれだけか? なら、話は終いだ」
考えろ、考えろ! この場を繋ぎとめるんだ!
──そう。打つ手がないなら、作ってしまえばいいじゃないか。
「……待ってください! 話はまだ、終わっていません!」
「何だ。くだらない理想論なら、聞かぬぞ」
「ぼくを……ぼくを、魔王様の軍に入れてくれませんか!」
場が、シンと静まり返る。
暗闇の中で、トーデスさんが息を飲んでいるのが分かった。
「人間、貴様……本気で言っているのか?」
「はい。冗談で、こんなことは言いません。それに、ぼくが仲間に入ることで魔王様にもメリットがあります」
「メリット、だと?」
よし、食いついた! あとは、何とかしてこの提案を受け入れてもらえれば……!
失敗は許されないんだ。やるしかない!
「まず戦争をするとなると、いくら魔王様の率いる軍だからといって無傷で勝利することはできないでしょう。少なからず、犠牲が出るはずです」
「そんなことは我も、そして兵たちも覚悟の上だ。貴様が気にすることではあるまい」
緊張で、うまく声が出てこない。ちゃんと、話せているだろうか。ぼくは大きく息を吸って、次の言葉を紡ぎ出す。
「戦争においては、情報収集が大事になっていきます。敵を知ることが、勝利への第一歩なのだと。そして、見ての通りぼくは人間です。ぼくならば、人間の本拠地に侵入することなど造作もないことです」
「なるほど……確かに、人間同士ならば怪しまれることもないな。今の我が軍では、成し得ぬことだ」
「それなら……!」
「だが、貴様が裏切らないとなぜ言い切れる? 人間と関わっているうちに寝返ることだってありえる」
やはり魔王様は、ぼくを完全には信じきれないようだ。
それも、魔王様が経験したことを思うと仕方がないことなのかもしれない。
だけど、それでも今はぼくを信じてもらうしかないんだ。
ぼくが人間の情報を探っているうちは、魔王様も進軍させることはないだろう。
その間にうまく魔物と人間の仲を取り持つことができれば、この戦争を回避することができるんだ。
そのために、何がなんでもここで軍に入れてもらわなければ。
「……ぼくはこの世界に来て、本当に不安でした。急に見知らぬ場所に飛ばされたと思ったら、この世のものとは思えない動く骨に襲われて……てっきり殺されるものだと思っていたんですけど、彼らは違いました。憎んでいるはずの人間に、温かい食事を用意してくれて……ぼく、人間にだってあんなに温かな気持ちになったことはありません。……だから、その恩を少しでも返したい。そこに、魔物だとか人間だとかは関係ないんです。だからお願いです、魔王様。どうか、ぼくを魔王軍に入れてください!」
嘘偽りなく、すべてを言い切った。これが、ぼくの本音だ。
「……人間よ。貴様、名は何と申す?」
「え? えっと、宮です!」
「ミヤ……先ほどの言葉、信じてよいのだな?」
「は、はい!」
「……トーデスよ」
「はっ!」
これまでのやり取りを後ろで見ていたトーデスさんが、ぼくの隣まで来た気配がした。
「ミヤに、城を案内してやれ。今日から、我が軍の仲間だ」
「魔王様⁉︎ 本気なのですか!」
「ミヤは、この世界に来たばかりだ。いい意味でも悪い意味でも、中立の立場と言えよう。ならば我が軍に引き入れるのも、悪い話ではあるまい」
「しかし、いや……し、承知いたしました」
トーデスさんはまだ何か言いたげだったが、魔王様が睨みを利かせたことにより渋々引き下がった。
そう。ここからが、本当に難しいところだ。
人間が魔王軍に加入したなんて、ほとんどの魔物が受け入れてくれるわけがない。
ぼくが仲間として加わることで、少しでも人間への憎悪を払拭できたらいいんだけれど。
「ミヤと言ったな。今日は色々あって疲れただろう。部屋に案内する。ついてきてくれ」
「はい! あの、よろしくお願いします!」
「それは、私ではなく魔王様に言うべきだろう」
「あ……よろしくお願いします! それと、ありがとうございました!」
「利用できると判断したから、入れたまでだ。せいぜい、足を引っ張らないようにすることだ」
これは、魔王様なりの叱咤激励なのだと解釈して、ぼくは部屋を後にした。
「はぁ……魔王様も、無茶なことを……」
「すみません……」
「む……いや、私は構わないのだが、ほかの者が何と言うか」
トーデスさんも、ぼくと同じことを考えていたみたいだ。
しばらくは、軍の魔物たちとどう関わっていくかが課題となるだろう。
「部屋は、何かあった時のために私の隣にしておこう。寝込みを襲われることだって、ないとは言い切れないからな」
さらっと恐ろしいことを言ってのけているけど、たった今入った軍の仲間に殺されるなんて、たまったもんじゃないですよ、トーデスさん……。
「そ、そういえばトーデスさん。今って、もう夜なんですか? 外にいた時に、随分と暗かったので」
「ここに、夜なんて概念は存在しない。ずっと暗いままだ。まったく、かつては目一杯陽の光を浴びることができたというのに、今ではこんな場所にしか住むことができないとはな」
トーデスさんも、人間のことをあまりよく思っていないみたいだ。
あの温厚そうなトーデスさんでさえこうなのだから、ほかの魔物たちは相当なものなのだろう。
この問題、かなり根深いところにありそうだ。
「それと、ミヤ」
「……? はい、何ですか?」
「君も正式に仲間になったんだ。私のことは、トーデスさんではなくトーデス様と呼ぶように。これでも、魔王様の側近だからな」
「あ……そ、そうですよね! すみません、トーデスさ、様!」
トーデスさんで呼び慣れてしまっているのか、なかなかしっくりこない。
「……まぁ、いいだろう。それよりもほら、着いたぞ」
どうやらトーデス様と話しているうちに、いつの間にか到着していたみたいだ。
一番端にある木製のドアを開けると、中からもの凄い勢いで煙が噴き出してきた。
いや、違う。これは煙じゃなく埃だ。
ドアを開けた風で、部屋中に積もった埃が一斉に舞い上がったんだ。
「ゴホッゴホ! ミ、ミヤ! 早く換気するんだ!」
「は、はい! ……ケホッ」
こんな埃まみれの部屋に入るなんて、考えただけで身体中が痒くなりそうだが、まさかトーデス様にやらせるわけにもいかないし、背に腹はかえられない。
ぼくは覚悟を決めて、部屋に飛び込んだ。
「うっ……⁉︎」
これは……痒い! 眼球が、悲鳴を上げている。涙が溢れて止まらない。
花粉症の人たちは、毎年こうなのだろうか。だとしたら、なんて不憫なんだ。
息を止めて、ぼくは窓へと向かう。こんな空気、鼻からだって吸いたくなかった。
窓に手をかけて、思いっきり押して……ん、開かないな。
何度か押して引いてを繰り返すが、長い間手入れされていないのかうんともすんともいわない。
段々と息が苦しくなり、最終的にはほとんど拳で叩きつけていた。
埃だらけの部屋で半狂乱になりながら窓を叩く男なんて、傍から見たら恐ろしいことこの上ないだろう。
だが、こっちだって必死なのだ。そんなことを気にしている余裕はない。
そして三十数回目のアタックで、それまでまったく開く気配のなかった窓が、まるでモーゼが海を割ったが如く二つに分かれた。
そのまま叩こうとしたぼくは、勢い余って上半身が身を乗り出してしまったけれど、新鮮な空気を吸えるようになったんだ。よしとすることにしよう。
「ミヤ、どうだ終わったか?」
「はーっはーっ、終わりましたよ」
ちゃっかりとドアを閉めていたトーデス様は、入ってくるなり眉をひそめた。
「換気したというのに、まだ埃が残っているのか」
「これでも、だいぶきれいになった方ですよ。というか、ぼくはここで寝るんですか……」
「随分と長い間、空き部屋だったからな。流石に私も、ここまでとは思っていなかったが」
ぼくは改めて、部屋を見回してみた。
床も家具も、とにかくあらゆるところに埃が乗っている。
指でツーっとなぞれば、絵が描けそうだ。絶対にやらないけど。
壁もそのせいなのか黒ずんでいて、ホラー番組に出てくるような近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
そして何より問題なのが、ベッドだ。
シーツはゴワゴワで、何やらシミのようなものがついている。
おそらく、下に敷いているマットも同じなんだろう。
この時点で、もうこのベッドには寝たくない。
かといって床は埃まみれだし、ほかに場所があるわけでもない。
そんなぼくを哀れに思ったのか、トーデス様がある提案をしてきた。
「よし、ミヤ。今から掃除をするぞ」
「え、掃除ですか?」
「こんな部屋ではまともに寝られないだろう? 私も手伝えば、それだけ早く終わるしな」
思いがけないトーデス様の申し出に、ジーンと胸が熱くなる。
こんなぽっと出のぼくにも、優しいだなんて流石は魔王様の側近を務めているお方だ。
「私は道具を持ってくる。ミヤは家具を一旦外に出していてくれ」
「はい!」
不思議だ。出会ってまだ数時間しか経っていないはずなのに、既に何年もトーデス様に仕えているような気になってくる。
それだけ、人徳があるってことなんだろうな。魔物に人徳というのも、変な話だが。
元々部屋にそれほど家具が置いていなかったこともあり、外に出す作業はすぐに終わった。
まだベッドが残ってはいるが、それは一人で運べるサイズではない。後でトーデス様と出すことにしよう。
そうこうしているうちに、トーデス様が帰ってきた。
「持ってきたぞ。そっちはどうだ? 終わったか?」
「はい。あらかたは出しておきました」
「何だと? ベッドがまだじゃないか。どうして運んでいないんだ」
「ぼくだけじゃ無理ですよ……」
なぜ怒られたのか分からないでいると、トーデス様は驚いた表情を浮かべた。
「人間は、こんなものも一人で持てないのか? なんと貧弱な生き物なんだ……」
「魔物を基準にしないでくださいよ……」
トーデス様は両手でベッドを軽々と持ち上げ、テーブル、イスの横に並べた。
「部屋の中は、ミヤ。お前が掃除をするんだ。私は、この家具を拭いておく」
「分かりました。……でも、トーデス様が雑巾を持っているのって何だか変ですね。偉いのに」
「本当なら、こういうことは部下にやらせるのだがな。ミヤは人間だから、事情を知っている私がやるしかないのだ。いわば、特別待遇だな」
「特別、ですか」
「もちろん、いつまでも特別扱いをしてやるわけではない。この軍に入ったからには、魔物と積極的に関わって、親睦を深めていかなければならないだろう。……ほら、無駄話は終いだ。早く掃除に取りかかれ」
「はい!」
トーデス様が持ってきてくれた、わらのほうきで床を掃く。が、どこに潜んでいたのか次から次へと出てきてキリがない。
一体どれくらいの間ほうっておけば、こんなに汚くなるんだ。
床を掃いて水拭きして壁を拭いて……やっと、人が住める程度にはきれいにすることができた。
廊下に出していた家具を元の位置に置き直して、一息つく。
時計はないが、普段ならとっくに眠っている時間だろう。まぶたが、自然と下がってくる。
「ふむ。布団を洗っている間は、こちらが新しいものを用意しよう。今日はもう、休むといい。明日は、城を案内するから、くれぐれも寝坊しないように」
それだけ言うと、トーデス様はさっさと部屋を出ていってしまった。
ぼくも眠気が限界に達し、早々に布団に潜り込んだ。
……今日は、色々なことがあったなぁ。
昨日までは当たり前にあった日常が、今日はそのカケラもない。
明日は、どんな非日常が待っているんだろう。ちょっとだけではあるけれど、楽しみにしている自分がいる……。
そしてぼくはいつの間にか、深い眠りへと落ちていったのだった。
「んー……今、何時だろう……」
枕元に手をやるが、いくら手を左右に振ってもそこにあるはずのスマホが見当たらない。
「なんなの……」
寝ぼけ眼をこすりながら、ベッドから上体を起こす。
頭がぼんやりとする。冷たい水で、目を覚まそう。
洗面台で、手のひらに水をためて顔を洗う。キリッと突き刺さるような冷たさが気持ちいい。
ぼくは段々と、自分がどこにいるのかを自覚していった。
「そうか。もう、家じゃないんだった」
窓から見える景色は、寝る前と同じく薄暗い。
眠ってもスッキリしなかったのは、太陽がなかったせいだったんだ。
普段、特別意識していなかった太陽も、いざこういう状況に置かれてみると、改めてそのありがたさを実感する。
そういえば、今日はトーデス様が城を案内してくれると言っていたな。
時間は大丈夫なんだろうか。
軽く身支度を整えて、部屋を出てみる。
と、同時にトーデス様もドアを開けて出てくるところだった。
「お、おはようございます! トーデス様!」
「む、早いな。おはよう、昨日はよく眠れなかったのか?」
「いえ、そんなことは……ここは太陽が昇らないので、いまいち時間が分からなくって」
「おっと、そういえば時計がなかったな。後で付けておこう」
時間的には、まだ早朝ということになるんだろうか。
誰もいない廊下を、トーデス様についていく。
「今日は城を案内すると言ったが、その前に食事をとろう。明日からは一人ですることになる。しっかりと覚えるようにな」
「はい」
食堂に着いたが、やはり誰もいなかった。
「誰もいないようですが、どうするんですか?」
「おかしいな。いつもは料理長がいるはずなのだが」
「あれぇー! トーデシュしゃま! 随分とお早いんでしゅね!」
なんだかやけに元気な声が聞こえたと思ったら、厨房の方からひょっこりと女の子が顔を覗かせる。
「あぁ、そんなところにいたのか。小さいから気がつかなかったぞ」
「むうぅ! 酷いでしゅよトーデシュしゃま! おや、そちらは?」
ぼくに気がついた彼女は、とてとてと可愛らしく近づいてきた。
こうしてみると、本当に小さい。小柄な、中学生ぐらいだ。
こんな身長で、料理なんてできるのか? ましてや、料理長だなんて。
「ちょっと! 今、あたしがチビだからって馬鹿にしました⁉︎」
「いやいやいや! そんなこと思ってないですよ!」
「しーてーたー! してたもーん! 目がしゅべてを物語ってましたー!」
……何でだろう。今、もの凄く理不尽なことで怒られているはずなのに、全然嫌じゃない。むしろ癒される。
「はぁ……落ち着け、グレコ。ミヤは、昨日入ったばかりの新人だ。正真正銘の人間だぞ。ほらミヤ、自己紹介するんだ」
「あ、ミヤ……と言います。えっと、まだここに来て日が浅いんですが、よろしくお願いします」
その体格差から、敬語を使うかどうか迷ってしまう。
でもまぁ、ここではぼくより先輩なんだから、使っていて間違いないだろう。
「人間⁉︎ あたし、人間なんて初めて見ましたよ!」
そう言うと彼女、もといグレコさんは物珍しそうに、まるで博物館に展示されている恐竜の化石を見るかのようにぼくの周りを回った。
「へー、人間って案外普通なんでしゅねー」
「そ、そういうグレコさんは、何なんですか? 見た感じ、ぼくと変わらないように見えますけど」
「あたし? あたしは、グールのグレコでしゅよ! この調理場を仕切っているんでしゅ!」
「グール?」
聞いたことのない種族だな。どういう魔物なんだろう。
「グールは、ミヤのいた世界だと死体を食す悪魔だとされているな」
「し、死体をですか⁉︎」
トーデス様の説明によると、グールは死体を食べ、時には人間に化けて襲うこともあるらしい。
「と、いうことはグレコさんも、人の姿に化けているってことですか?」
可愛らしい女の子と話していると思っていたら、実は悪魔でしたなんて恐ろしいったらない。
「んーや、あたしは生まれた時からこのしゅがたでしゅよ。それに、まず人間なんて今初めて見ましたしね」
「そうなんですね……じゃあ、死体を食べるっていうのも」
「それは本当のことでしゅ」
一番、違っていて欲しかったのが事実だったー!
「え⁉︎ え⁉︎ グレコさん、死体食べるんですか⁉︎」
「何でしゅかー! みんなだって、動物の死体食べてるじゃないでしゅかー!」
「そりゃそうだけど……って、死体じゃなく食材と言ってくださいよ……」
グレコさんは、どうにも怒りがおさまらない様子で地団駄を踏んでいる。
「ミヤ、グレコはそういう種族なんだ。あまり、言ってやるな」
「あ……」
そうだ、ぼくが人間で魔物ではないように、グレコさんもグールという一つの種族なんだ。
それを、自分とは違うからと決めつけて……ぼくは、なんてことをしてしまったんだろう。
「グレコさん……すみません。ぼくが、間違っていました」
「もう、いいでしゅよ。あ、あたしも言いしゅぎました……その代わり、とびっきりの料理を作るでしゅ!」
ばつが悪そうに俯いていたグレコさんが、ぱぁっと顔を輝かせる。
「わぁ! どんな風にできるんだろう。楽しみです!」
「おーいみんなー! 出番でしゅよー!」
「えー? もうそんな時間ですかぁ?」
厨房の奥にある扉に向かって叫んだと思ったら、出るわ出るわ寂しかった厨房はあっという間に満員となった。
「お二人のために、心して作りましゅよー!」
「はーい。あれ、人間? ……へー、新入りさんなんだ」
「人間のお肉って、どういう味なのかしら?」
「食べてみたーい!」
「ひぇっ⁉︎」
集まった彼女たちは、全員グールなんだろうか。口々に、物騒なことを言い合っている。
「やだー、冗談なのに! 本気にしちゃったの?」
「い、いや、冗談に聞こえないですよ……」
「こらー! お喋りはそこまで! 早く作りましゅよ!」
はーい! と、元気な返事を合図に、一斉に調理に取りかかっていく。
トントンと、規則正しい音にどこか懐かしさを覚える。
大人数で作っている様は、まさに圧巻の光景だ。次々と料理ができ上がっていく。
「完成しましたー!」
トレーに置かれた料理はどれも美味しそうで、見ているだけでよだれが出てくる。
「すまないな。ミヤ、一度部屋に戻るぞ」
「え? ここで食べないんですか?」
「食事の最中にほかの者が来るかもしれないからな」
「食器は後で回収しておきましゅね! ミヤ、後で感想を聞かせてくださいねー!」
総勢二十人ほどのグールさんたちに見送られながら、食堂を後にする。
何人かよだれを垂らしているように見えたのは、見間違いだと信じたい。
部屋に戻り、それほど大きくないテーブルにトレーを置く。
サラダ、スープ、そして厚切りの肉。
この肉、美味しいけど何の肉なんだろう。この世界にも、家畜のようなものはあるのだろうか。
後で、グレコさんに聞いてみよう。ほかのグールたちは、なんとなく怖いし。
「では、案内するとしようか」
朝食も済ませ、トーデス様と再び合流した。
いよいよ、城の中を見て回るのか。
城なんてテレビやゲームでしか見たことがないから、わくわくが収まらないでいる。
「まずは、この部屋からだ。城にいる大多数の魔物が寮な中、ここだけはそれぞれ個室が割り当てられている。魔王様に万が一何かあった時のために、王室の近くに位置しているんだ」
「なるほど……それは新入りのぼくがいていい場所じゃないですね」
「異例中の異例でもあるが、人間などある意味貴重な存在だ。そう恐縮しなくていい」
トーデス様について長い廊下を歩いていくと、開けた場所に出た。
人間に似ている者、人外な者、多種多様な魔物たちが入り乱れていて、目が回りそうだ。
「ここが、ホールになっている。すべての部屋はここに繋がっているから、魔物を多く目にするのもここだろう」
「おはようございます、トーデス様! そちらにいる方は、もしかして……?」
「うむ、昨日から我が軍に属することになった、人間のミヤだ! 彼は人間だが、我々の仲間だ。決して、不穏なことを考えぬように」
トーデス様は、もう次の部屋に行こうと歩いていく。
いかんせん魔物の数が多すぎる。先を歩くトーデス様の後ろ姿は、すぐに魔物にまみれて見えなくなった。
「あ……よ、よろしくお願いします!」
ろくに挨拶ができないまま、見失ったトーデス様を追う。
「人間が、仲間だって? 嘘だろ?」
「俺は、絶対に認めないぞ!」
そんな魔物たちの困惑した声を背中に聞きながら、ぼくはただ走ることしかできなかった。
「置いていってすまなかったな。てっきり、後ろにいるとばかり」
「いえ、見失ったぼくも悪いですから」
「魔物の中には、獰猛な輩も多くいてな。あそこに長くとどまっているのは危険だったんだ」
「そう、だったんですね」
さっき叫んでいたのも、その類いだったんだろうか。
トーデス様や隊長さん、それにグレコさんも。優しい魔物とばかり関わっていたから、きっとすぐに馴染めると、そう思っていた。
だけど、それはあまりにも浅はかな考えだったんだ。
実際には人間を憎むあまり、話の通じない者がほとんどだ。
それこそ、会った瞬間に襲われるということもあるかもしれない。
ぼくは、本当にここでやっていけるんだろうか。
ここにきて強い不安を実感する。
「だが、それも一部の者だけだ。ほとんどが人間を嫌ってはいるが、きっと話せば分かってくれるはずだ」
「そうだといいんですけど」
ぼくを気遣ってか、トーデス様は前向きなことを言う。とても、思慮深い方だ。
「さて、気を取り直して……ここは、魔物たちが使っている寮だ。普段はここで生活をしている」
「寮ということは、たくさんの種族が同じく暮らしているということですか?」
「うむ、そういうことになるな。部屋は種族ごとに分けられているが、それ以外は共同だな」
城中の魔物たちが使うだけあって、広さもかなりのものになっている。
びっちりと部屋が等間隔に並んでいて、端が見えないほど遠くまで続いていた。
「これだけ多くの魔物がいるなら、ここにいるのも危険なんじゃないですか?」
「今は、それぞれ訓練や勉学に励んでいるだろうから、心配ない」
「訓練……ですか」
それは、いつかくる人間との戦争に備えてのものだろうか。
人を殺すための教育がされているという事実に、喉の奥が熱くなる。
「その訓練、見学することはできないでしょうか」
「別に、構わないが……では、ついてくるといい」
訓練の様子を見れば、戦争を回避するために何が必要か、分かるかもしれない。
やってやる。ぼくは、絶対に誰も傷つかせない。戦争なんて、とめてやるんだ。
「ここが、訓練場だ。今の時間はちょうど、スケルトンたちがいるな」
城を出てすぐ左に行くと、巨大な広場が見えてきた。
激しい雄叫びと、剣と剣がぶつかり合う音が響いている。
離れていても感じられる気迫にたじろいでいると場内を見渡せる高台から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「モット アイテヲ ヨクミルンダ! ギリギリデ カワセ!」
「隊長さん!」
「ン? オオ! アノトキノ ニンゲンジャ ナイカ! ドウシタンダ?」
「ぼく、魔王様の軍に入れてもらったんです! これから、よろしくお願いします!」
「グンニ ハイッタダッテ⁉︎ ギギギ ソウカ。オマエ オクビョウダッタカラ アノアト ドウナッタノカ シンパイシテ イタンダ」
隊長さんはガシャガシャと飛び跳ね、まるで自分のことのように喜んでくれた。
初対面がほとんどな魔物の中、こうして顔見知りと会って話すのは、これほどまでに安心することだったのか。緊張で張り詰めていた身体が、ほぐされていく。
「ソウイエバ オマエ ナマエハナント イウノダ?」
「あ、ミヤって言います! 隊長さんは?」
「ミヤカ……イイ ナマエダナ。オレハ コノシロニ ツカエルイッパンヘイ ソレダケダ。ナマエナド ナイ スキニヨンデクレ」
「そうなんですか……」
名前がないだなんて、魔物の間ではよくあることなのか? 確かに、数は多いし見た目も変わらないけど、それだけで個人を呼ぶ名前がないだなんて……少し、寂しいな。
「ア ナマエ アルゾ。オモイダシタ」
「本当ですか! 何て、言うんですか?」
「タイチョウサン ダ。ミヤガ ツケテクレタ タイセツナ ナマエダ」
「隊長さん……」
隊長さんはカタカタと骨を鳴らして、笑う。表情は分からないが、隊長さんの嬉しいという気持ちがひしひしと伝わってきた。
「さて、主要な場所は大体回ったが、帰るか?」
「トーデス様。いえ、ぼくはもう少しここにいます」
「トーデスサマ! ワザワザ ゴクロウデ アリマス!」
「訓練の様子は、順調なようだな。その調子で、今後も頼むぞ」
「ハ! アリガタキ オコトバ!」
トーデス様は先に城に戻っていき、その姿が見えなくなるまで、隊長さんは敬礼をやめなかった。
「オイ! タイチョウノ トナリニ ニンゲンガ イルゾ!」
「ナニ⁉︎ ナゼ コンナトコロニ!」
トーデス様がいなくなるのと同時に、スケルトンたちがぼくの存在に気づく。
「タイチョウ! ドウイウコト デスカ! ゴセツメイヲ!」
「ニンゲン! コロセ!」
「オレガ イチバンニ コロシテヤル!」
訓練場は、もはやパニック状態で手がつけられない。
秩序は乱れ、スケルトンたちはみな一様に剣を持ち、ぼくに向かって来ようとしている。
「キケ! オマエタチ!」
隊長さんのかけ声一つで、あれだけ興奮しきっていたスケルトンさんたちの動きがピタッと止まった。
「ワガグンニ アタラシイナカマガ クワワッタ! ミヤハ ニンゲンダガ ワレワレノ テキデハナイ!」
「ニンゲンガ ナカマダッテ⁉︎ ソンナコト アリエン!」
「マオウサマハ イッタイナニヲ オカンガエ ナンダ⁉︎」
「ニンゲンガ ナカマナンテ ミトメナイゾ! ダンコ コウギスル!」
一度は静まり返った場内だが、ぼくが魔王軍に入ったということを知って、再びざわめき出した。
やはり、そう簡単には認めてもらえないみたいだ。
どうする? どうすれば、この場を収められる?
「オマエタチ! ヨクキクンダ! ニンゲントノ センソウデ イチバンジュウヨウナ コトハナニカ!」
ぼくがどうするべきか悩んでいるうちに、隊長さんの突き刺さるような声が場内に響き渡った。
「センソウデ ジュウヨウナコト?」
「ソンナノ タンジュンニ ツヨサニ キマッテイル」
「イヤマテ ヘイノ カズモ ダイジダゾ」
一応、注意を逸らすことには成功したみたいだ。
だけどこんなことを聞いて、隊長さんは一体どうしようというんだろう。ぼくは、ただ黙って見ていることしかできない。
「センソウデ モットモ ジュウヨウナコト……ソレハ アイテノ ジャクテンヲ シルコトダ!」
「タ……タシカニ! ソウダ!」
「ニンゲンノ ジャクテンヲ ヨクシルモノハ ダレカ……ソウ! ソレハ ホカデモナイ ニンゲンジシン ダ!」
「ソウカ! ダカラ ニンゲンガ ヒツヨウダッタ ノカ!」
「ニンゲン……イヤ ミヤ! コレカラ ヨロシクタノムゾ!」
あれだけ怒号が飛び交っていたのが一変、場内は拍手喝采で満ち溢れた。
称賛の嵐がやまない中、ぼくは照れながらも手を振って応える。
「ドウヤラ オサマッタ ミタイダナ」
「隊長さんのお陰ですよ。ぼくは、何もできなくて」
「ムリハナイ コレダケノ カズガイルンダ ソレニミヤハ マダ ワカインダシナ」
隊長さんは満足気に下にいるスケルトンさんたちを見下ろすと、空高々に剣をかかげた。
「オマエタチ! ニンゲンヲ ミカタニツケタンダ モウオソレルコトハ ナニモナイ! カナラズヤ ニンゲンヲ ウチタオソウ!」
「ウオオオ! ヤッテヤル!」
「タイチョウ バンザイ! バンザイ!」
一時はどうなることかと思っていたが、結果的に全体の士気が上がったようだ。
よかったような、そうじゃないような。
戦争をとめることがぼくの目的ではあるけれど、この一体感は正直嫌じゃない。複雑な気持ちだ。
「ソウダ ミヤ!」
「……? 何ですか?」
「セッカクキタンダ ミヤモ クンレンニ サンカスルト イイ」
「お、お邪魔しましたー!」
上機嫌な様子で、子どもの身長ほどもある剣を持たせようとしてくる隊長を振り切り、一目散に駆け出す。
「ふう……あんなに大きな剣、持てるわけがないよ」
仮に持てたとしても、次の日には確実に筋肉痛になっている。
……さて、このまま外に出ていてもやることはない。城に戻るほかないわけだが。
「……一人で、戻れるかなぁ」
そう、城に行く道中に誰ともすれ違わないという可能性は限りなく低いだろう。
今まではトーデス様や隊長さんがいたから、なんとかなっていたわけだが。
一人では、とてもじゃないが切り抜けられるとは思えない。
かといって、隊長さんの元へ戻ると強制的に訓練に参加させられるし……。
「前門の虎か後門の狼か……」
悩んだところで、ぼくに残された道は一つしかない。
「どうか、誰とも会いませんように」
魔界の地で神頼みをし、ぼくは足早に城を目指すのだった。
「はぁ……なんとか、着いたぞ」
距離でいうと大したことはないのだが、いつ魔物と出会うかと気が気ではなかったから、通常の倍以上は疲れた気がする。
早く、部屋で休もう……。
「……ん?」
気のせいだろうか。今、視界の端にチラッと何か見えた気が。
いつもなら気のせいで片づけるが、この日に限ってはなぜか気になって仕方がない。
どうせ、部屋に行っても寝るだけだ。少しだけ、確かめてみよう。
大丈夫、何もなかったら引き返せばいいだけだ。
ぼくは門をくぐらずに、城を回りこむ形で脇道へと入っていった。
「うーん、だいぶ進んでみたけど、特に変わったものはないなぁ」
じめじめと草が生い茂っていて、薄暗さもあり何度も足を取られながら、歩みを進めていく。
結構歩いてみたが何もなく、やはりぼくの見間違いだったみたいだ。
「このまま引き返すのもなんだし、折角だから一周回ってみようか」
元々大きい城だから、回り切るにはかなり時間がかかるだろう。
ちょっとした、冒険心だ。危険なことなんて起こりっこないし、人間のぼくにはちょうどいいや。
雑草といっても、ぼくにしてみれば見たことのない植物ばかりだ。
ただ歩いているだけでも、充分楽しめる。
「これは何ていう花なんだろう? そういえば、トーデス様は案内していなかったけど、この城図書室はないのかな? あとで、聞いてみよう」
こんな調子で、トコトコとのんびり歩いていく。これで空が明るかったら、言うことはないのに。
この世界に来てから、一度も青空を見ていない。
生前は毎日見ていたというのに、もう見られないかもしれないと思うと途端に恋しくなる。
もう一度、あの青い空が見たい。太陽の光を浴びたい。
そう、思っているうちに城の端まで来たようだ。
ぼくは特に何も考えず、当たり前のようにその角を曲がった。
「……え?」
そこには、一人の女の人が立っていた。
いや、正確には人ではない。魔物だ。
向こうもぼくに気がついたらしいが、その表情に変化はなく、ただただ無感情に見つめてくる。
「あ、あの……えぇと」
うまく、言葉が出てこなかった。
それは、想定外なところで魔物と鉢合わせしたからでもあるが、原因はそれだけではない。
女の子は、ぼくと同い年くらいの──否、魔物だからもしかすると、ぼくとは何百歳も離れているのかもしれないが、とにかく人間を基準にするとそれぐらいの見た目をしていた。
紅梅色をしたくせっ毛が強い髪は地面につきそうなほど長く、頭の左右にはそれだけで人間ではないと思わせるツノが生えている。
華奢な女の子にはあまりにも不釣り合いなその巨大なツノに、ぼくは思わず感嘆の息を漏らした。
服装はというと、胸や局部など、必要最低限のところしか隠れていない。
女性特有の柔らかな身体のラインに、しっぽが挑発的に揺れている。
「……だれ?」
ふんわりと、そよぐ風が春を告げるように温かく、心地のいい声がぼくを包み込んだ。
つい、聞き入っていると、少女が訝しげにこちらを見ている。
「あ、いや……違うんだ! 別に追いかけたわけじゃなくて、決して、ストーカーとかそういう類のものでは……」
未だかつて、自分の口下手をこれほど恨んだ日はないだろう。
急いで訂正を試みるが、口は回らないし必要以上に露出の多い服に目は泳ぎまくるしで、あたふたしてまるで言葉にならなかった。
「…………?」
少女はカクンと不思議そうに小首を傾げるが、こんな誰も通りかからないようなところで挙動不審な男と二人きりだというのに、首を傾げるだけで済む方がよっぽど摩訶不思議だ。
「えぇと、だから……ぼくは新しく軍に入った者で……あ、といっても人間なんだけど……き、君に危害を加えるつもりは全然ないっていうか……」
下を向いて、ごにょごにょと話すぼくは、彼女の目にどう映っているんだろう。
きっと頼りない、情けないやつだと、そう思われているに違いない。
顔がカッと熱くなって、泣きそうになる。嫌だ。あの時のこと、もう思い出したくないのに。
ちゃんと話せなかった、やっぱり駄目なやつなんだ。どこにいったって、変わらない。
自分を否定するような言葉が、頭の中で渦を巻く。息が苦しい。誰か……。
「よろしく、ね」
思ってもみなかった言葉が投げかけられて、ぼくはパッと目の前の少女を見る。
彼女は先ほどと何ら変わらずに、そこに立っていた。
ぼくの目を見るその真っすぐな視線に、耐えきれず目を逸らし言う。
「あ、あの! 君は、ぼくの言うこと……お、おかしいと思わないんですか?」
「おかしい……? 嘘を、言っているってこと?」
「いや、そうじゃなくて! き、気持ち悪いとか……そういうのです」
少女は、何も答えない。
耐えがたい緊張の中、ぼくの心臓は破裂寸前だ。
あの時、散々言われてきた罵倒の数々が、頭をよぎる。やっぱり、ぼくは……ぼくは──!
「思わないよ?」
「……え?」
「だって、一生懸命話してたよ? だから、信じられるよ。君のこと」
予想外なことを言われ、最初彼女が何を言っているのか分からなかった。
こんなことを言われたのは初めてで、動揺すると共に胸の辺りが温かい気持ちで満たされる。
ぼくは、何もおかしくなかったんだ。
「あ、ありがとう……。あの、ぼくはミヤっていうんだ。君は?」
「私? 私は、スズ。サキュバス、だよ」
「スズ? スズ、か……」
何だろう、この既視感は。どこかで、聞いたような……。
……だめだ。思い出せない。
「ミヤ、どうしたの?」
「あ、あぁ。いや、スズって名前、どこかで聞いたような気がしてね。まぁ、ぼくの勘違いだろうから、気にしなくていいよ」
「ミヤは、人間なんでしょ? 知り合いに、いたとか?」
「知り合い……?」
そういえば、そんな人もいたかもしれないな。
ぼくがいじめられていた時に、何かと気にかけてくれた……。
「……だせない」
「…………?」
「思い、出せない。ぼくは、ここに来る前どこに住んでいた? 毎日毎日、どこに行っていた? あの人……あの人の、名前は何だ?」
ぼくの頭の中で、何が起こっているんだ?
いじめられている時の記憶は、忘れたくても忘れられない──嫌というほど脳裏にこびりついているっていうのに。
それなのに、顔、声、家族まで、ありとあらゆる記憶がぼくの中から抜け落ちていた。
「何で、どうして……」
「ミヤ、忘れちゃったの? だったら、覚えていること私に、話してみて? もしかすると、思い出すかも」
「そんなわけ……いや、そうだよね。話すよ」
なぜだか分からないが、スズに話すことで解決するんじゃないか、そんな気がしてならない。
それに、スズならこの話を真剣に聞いてくれるだろうし、ぼくもすべてを吐き出して楽になりたかった。
「──そんなことが、あったんだ」
「うん……でも、どうしてぼくは前の世界のことを忘れてしまったんだろう」
「きっと、この世界にずっといるせい。人も魔物も、前世の記憶は保てないから」
「前世の記憶……」
なんだか、不思議な気持ちだ。
ぼくは確かにここに存在しているというのに、こっちの世界と向こうの世界。消えかけているとはいえ二つの世界の記憶が同時に頭の中にあるだなんて。
「ミヤは、ここに来た初め、誰と会ったの? もしかしたら、その時何か言っていたかも……しれない」
「あの時、初めて会ったのは隊長さんたちだったけど、うーん……あ!」
「何か、分かったの?」
「確か、あの時どこから来たのかを聞かれて、その時に前の世界で住んでいたところを言ったはずだよ」
「ん、じゃあ行ってみようか」
トーデス様と行っていた道を、今度はスズと並んで歩く。
水着より、少しだけ隠れている面積が広い程度の服で寒くないのかと心配になるが、それを言ってしまうとぼくが意識しているようで、何となく気恥ずかしかったから言うのはやめておいた。
「ギギ ハジメテ アッタトキニ イッテイタコト ダト?」
「はい。例えばどこから来たとか、そんなことを言ってはいませんでしたか?」
「ウーム……ソウ イワレテモ ……ア! ソウイエバ ニホーン カラキタト イッテイタキガ シタゾ!」
「ニホーン……だって。ミヤ、どう?」
「いや……残念だけど、まったく聞き覚えがないよ」
隊長さんに聞けば、思い出すことができると思っていたのに……。
それだけ、記憶が薄れていっているってことなのか。
「ソレヨリモ ダ。セッカク マタキタンダ コンドコソ クンレンシテイケ!」
「え? い、いやー。それは、ちょっと……」
「ミヤ、がんばって……!」
「え、えぇー⁉︎」
すぐさま逃げられるように準備していたぼくは、しかしスズの応援によって阻まれてしまう。
「ハッハッハ! アンシン シロ! オレガジキジキニ アイテヲ シテヤル!」
「そ、そんなー!」
だだっ広い訓練場、兵士たちの割れるような声を駆け抜けて、ぼくの悲痛な叫びがこだました。
「──はぁ。やっと、終わった」
「おつかれ、様」
場内の走りこみに素振りもやらされて、もうヘトヘトだ。おまけに隊長さんがやたらと張り切っていて、なかなか終わらせてくれなかったし……。
明日はきっと、筋肉痛になっているんだろうな。
「結局、何も思い出せなかった、ね」
「うん……でも、どうしていじめられていた時のことは覚えているんだろう」
「多分、それがミヤにとって強烈な記憶になっているのかも。だから、忘れるのに時間がかかっている」
「それじゃあ、いずれは全部忘れてしまうっていうこと?」
「おそらく……」
前の世界のことをすべて忘れるということは、ぼく自身転生したことをなかったこととして、初めからこの世界の住民として生きることになるんだろうか。
ぼくが転生者だと知っているトーデス様は、前の世界の記憶を失っているのを見てどうするだろう。
いや、きっと何もしないんだろうな。
「どうしたら、忘れずにいられるんだ? どうしたら……」
「何で、忘れることを拒絶するの? 嫌な思い出なんて、忘れた方がいい」
「確かにいい思い出ではないよ。でも、昨日までは覚えていたことを次の日には忘れているかもしれないのが、怖いんだ。ぼくが、ぼくじゃなくなる気がする……」
そう、ここに来た当初は確実に、覚えていたはずなんだ。それが、今じゃ何も思い出せない。
だとしたら、記憶はいつ消えたんだ? 昨日のぼくと、今日のぼくに違いはあるのか? ぼくは……。
「あぁ! 頭が混乱してきた! とにかく、忘れちゃいけないんだよ。忘れちゃ……」
「ミヤは、戦争をなくしたいんだっけ?」
「そうだけど……」
そうだった。ぼくがこの世界の戦争を止めたい理由も、記憶が関係していたんだ。
こんなに大切なことさえも、忘れてしまうところだった。
「ここにはここの、歴史がある……ミヤはあまり関わらない方がいい……」
「それはそうかもしれないけど……でも! 元々は人間が、病気の原因を魔物のせいだと勘違いしたところから始まったんでしょ? 誰にも悪意はなかったはずなのに、すれ違ったまま戦争だなんて悲しいよ。もっと、ほかに方法があると思うんだ」
「方法って?」
「ま、まだ考え中だけど……」
それっきりぼくとスズの間に会話はなく、気まずい沈黙だけが流れる。
「……ミヤは、人間と魔物が、また昔みたいな関係に戻れると思っているの?」
「確証はないけど、一度話し合うことができれば──」
「無理、だよ」
半ば呆れたような声で、スズは言った。
「たとえ最初は勘違いだったとしても、その後何百年も、人間は魔物を迫害し続けた。この間に、話し合いが行われなかったって思える?」
「あ……」
スズは、知っていたんだ。話し合いなんて、何の意味もなさないことに。
「もう、元には戻れないの。戦争は、避けられない」
「……でも、この戦争で魔物が勝利した後はどうなるの?」
「勝利した……後?」
「そうだよ。魔物がそうしたように、人間はきっと力をつけて復讐する。そして、さらにその復讐を魔物が……」
「そんなの、所詮は屁理屈だよ。私たちが、負けるわけない」
「スズ、憎しみは、とても強いんだ。争いは争いを生む。やっぱり、戦争は止めるべきだよ」
スズは、下を向いたまま黙ってしまう。
それもそうだ。今まで正しいと信じていたことを、真っ向から否定されたのだから、怒ってしまっても仕方がない。
「私……戦争が終わった後のことなんて、考えもしなかった」
「スズ?」
「戦争をしないことで、人間の迫害がなくなるとは思えない。でも、戦争以外に行動することができたら、何か変わるかもしれない、よね」
スズはぼくと目を合わせると、にっこりと微笑む。
その陽だまりのような笑顔に心臓は大きく跳ね上がり、ぼくはそれを悟られないよう話題を逸らした。
「そ、そういえばスズは、どうしてあんなところにいたの?」
「それは……」
瞬間スズは明らか言葉に詰まり、一転して思いつめた表情を見せる。
何か、まずいことを聞いてしまったんだろうか。
「ご、ごめん。言いにくいなら言わなくても……」
「……うぅん。いいの。私ね、訓練が嫌で、いつもあそこにいるの」
「訓練が?」
訓練と聞いて、さっきまでの隊長さんを思い浮かべる。
「私たちサキュバスは戦えないから、訓練って言ってもさっきのものとは、全然違うものだけど」
「そうなんだ。その、訓練っていうのは何をやるの?」
「人間の男を、誘惑する訓練……」
「あ……」
スズはうつむきながら歩いていて、表情はよく見えない。
こんな時、何と声をかけてあげたらいいんだろう。分からない。
「私、訓練も、こんな服を着ているのも、全部嫌。おかしいよね、サキュバスなのに」
「そんなこと……」
「ほかのみんなは、ちゃんとしているのに。私は、サキュバスの落ちこぼれなんだよ」
「そんなことないよ!」
急な大声に、無表情なスズも流石に驚いて目を丸くする。
「全然、おかしなことなんてないよ。スズは、スズなんだ。サキュバスがどうかなんて、関係ないよ。スズが嫌だと思ったら、それは逃げたっていいんだよ」
「ミヤ……」
ぼくを否定しないでくれたスズに、自分のことを否定してほしくなかった。
だから、たとえ世界中の魔物がスズをおかしいと言っても、ぼくだけは受け入れるんだ。絶対に。
「ミヤ……城に着いたら、ついてきてほしいところがあるの」
「別にいいけど……どこに?」
「内緒……」
スズは人差し指を軽く口に当て、シーっと念押しする。
どこに連れていかれるんだろう。
まぁ、別にいいか。断る理由もないのだから。
「着いた……」
「着いた……って、ここ?」
スズに連れられてやってきたのは、何の変哲もないただの部屋だった。
あちこちにタオルやら何やらが散乱していて、生活の跡が残っている。
一人でというよりは、シェアハウスのようだ。
「ここ、私がいる寮……」
そうか、そういえばトーデス様が寮制だって言っていたな。待てよ、だとすると……。
「だったら、ほかのサキュバスたちが帰ってきたら、まずいんじゃ⁉︎」
「今は訓練中だから、大丈夫」
焦るぼくを尻目に、スズはどんどん部屋の奥へと進んでいく。
「待ってて」
そう言い残して、隣の部屋へと行ってしまった。どうやら、一つの大部屋を二つに区切って使っているらしい。
ごそごそと音が聞こえる中、ぼくはいつサキュバスたちが訓練から帰ってくるかと気が気ではなかった。
「お待たせ……」
「スズ! 何して……っ!」
そこには、美しいワンピースに身を包んだスズの姿があった。
あの、露出度が高い服ではない。青と白の、腰に大きなリボンがあしらわれた可愛らしいものだ。
「今まで、着たくても着れなかったの……でも、ミヤの前で着れて、よかった……」
これが、スズがずっと着たかった服……。
「すごく、似合ってるよ。か、かわ──」
「あーん、訓練疲れちゃったー!」
ドアが開いたと同時に、どこか色っぽい女性の声が響く。
あ、と思ったのも束の間、グッと強く腕を引っ張られて──。
「……あれ?」
「どうしたのー?」
「今、誰かいたような……気のせいかな?」
あ、危なかった……!
心臓の鼓動が、かつてないほど早鐘を打っている。スズが、隣の部屋へ引き寄せてくれなかったら、間違いなく見つかっていただろう。
しかし、この状況は……何というか……。
ち、近すぎる……!
確かに部屋は区切られているが、その仕切りはカーテンを閉めただけの簡易的なもので、あのサキュバスたちが少しでも前へ進むと丸見えになってしまう。
スズもそれを分かっているようで、向こうから見えないようにと必死に覆い被さっている。
布越しに感じる体温とか、サラサラな髪だとか。
スズという存在を形成しているその細胞一つ一つが、脳みそをぐちゃぐちゃに掻き回しては惑わせてくる。
これが、サキュバスの力なんだろうか。いや、そもそもそれ以前にスズの小柄な身体ではどうやっても隠しきれていないし、むしろ有らぬ誤解を招いてしまいそうだ。
「私、訓練でお腹空いちゃったー」
「分かるー。でも、今食べたら太るしぃ」
「とりあえず、休も休もー」
複数の足音が、近づいてきて、ぼくを掴むスズの手にもぎゅっと力がこもる。
もう、お終いだ……!
「……あ!」
「どうしたの?」
「私、訓練場に忘れ物しちゃったー! ちょっと、取りに行ってくる!」
「私たちも、ついていくよ!」
ガヤガヤとした声が一斉に遠ざかっていき、部屋にはぼくとスズの息遣いだけが聞こえるだけとなった。
「……もう、行ったかな?」
「そうみたい……」
再び静寂が訪れた部屋で、ぼくとスズはホッと胸をなでおろす。
「ねぇ、ミヤ」
「ん? どうしたの?」
「さっき、ミヤが言いかけていたのって……」
「あ、あー! こうしてる間にも戻ってくるかもしれないよ⁉︎ 早く、出よう!」
聞こえていないと思っていたのに……。慌てて、スズの手を掴んで部屋を飛び出す。
今さら面と向かって、言えるわけがないよ。
可愛い、だなんて。
スズを引っ張って出ていき、しばらく歩いてぼくは、あることに気がついた。
これ、スズを連れていく必要なかったんじゃないか?
だってあの部屋は元々スズが住んでいたものだったんだし、ぼく一人出ていけばそれで万事解決だったはず。そもそも、スズを連れてどこに行こうっていうんだ。
「あ、あのさスズ」
「おお、ミヤ。ここにいたのか」
「ト、トーデス様!」
まさに、ナイスタイミングで話しかけてきてくれたトーデス様だけど、何の用だろう。
「一体、どうしたんですか?」
「うむ……その前に、君たちはそんなに仲がよかったのか?」
「……え?」
トーデス様に言われて初めて、部屋を出てから手を繋いだままだということに気がついた。
「うわわわわ! ご、ごめん!」
「……? どうして、謝るの?」
当の本人は何とも思ってないみたいだが、生まれてこのかた女の子と手を繋ぐことなど、母親以外に経験のないぼくからしてみれば、とんでもない重大事件だ。
スズの手の感触、もう覚えてないな……。あ、でも温もりはまだ残って……。
ってこんなこと、まるで変態みたいじゃないか! まったく何を考えているんだ! ぼくは!
「……壁に頭を打ち付けているところすまないが、そろそろ本題に入ってもいいか?」
「は、はいぃ!」
ジンジンと痛む頭を押さえながら、トーデス様に向き直る。
気のせいだろうか。心なしか、引いているように見えなくもない。死神も、引くことがあるんだな。
「んんっ! 実は、早速ミヤにはやってもらいたいことがあるんだ」
「やってもらいたいこと? ですか?」
「そうだ。ここから東に向かった先に、オークの村がある。そこへ行って、現状がどうなっているのか調べてきてほしいんだ」
「オークの村? ここ以外にも、魔物がいるんですか?」
人間が今も魔物狩りをしているのなら、なおさら城に集まっていた方がいい気がするけど。人間も、魔界まではやってこないようだし。
「この城は、人間との戦争に備えて造ったものだ。それほど多くは入れられない。それに、魔物には魔物の、そこで育ってきた環境がある。今さら、それは変えられないんだ」
「そうなんですか……」
つまりここにいるのは兵士のみで、それ以外の魔物は人間界で暮らしているということなんだろう。
「色々と準備もあるだろうが、明日には出発をしてもらいたい」
「明日ですか。分かりました」
「あの、トーデス様……」
これで話がまとまろうとしていた時に、おずおずと手が挙げられる。
「ん? スズか。服装が変わっていて気づかなかったぞ。……で、どうした?」
「私も……ミヤと同行させてもらえませんか?」
「ミヤとだと?」
トーデス様はぼくとスズの顔を交互に見て、何やら難しそうに唸った。
「しかし……スズはサキュバスとしての訓練が……」
「人間だけで行くよりも、私がついていった方が絶対にいいよ。ね? お願い、トーデス様……!」
「んぐっ……仕方がない……特別だぞ」
狙っているのかいないのか、スズはトーデス様に近づいて、上目遣いで懇願する。
最後にはトーデス様も折れて、スズがついてくることを了承した。
「ミヤ、よろしく、ね?」
「う、うん。よろしく」
スズの同行は思ってもみないことだったが、この世界に来て間もないぼくだけでは、その村にたどり着くことすら難しかっただろう。
そういう意味では、スズの存在はとても有り難いものだった。
「それでは、頼んだぞ」
「はい!」
「ミヤ、私は部屋に戻って荷造りをするから……」
「あ、そうだね。そうしよう」
「またね……」
ひらひらと小さく手を振って、行ってしまった。心なしか、軽い足取りにも見える。
「そういえば、スズには敬語で話さなかったな……」
あの見た目幼いグレコさんにさえ、敬語だったというのに、どうしてだろう。
なぜかは分からないが、スズにはどこか懐かしいというか、前にどこかで会ったような気がしてならなかった。
それぞれ違う世界にいたのだから、会っているはずはないのだけれど。
そんなことを考えながら、部屋へ戻ろうとしたその時。
目眩だろうか? 急な視界のぐらつきと浮遊感に襲われて、気がつくと──。
床に、叩きつけられていた。
「ガッ……ハッ⁉︎」
「やっと、一人になったな。人間」
ぼくを押さえつけているのは、これまた同い年くらいの少年……いや、よく見ると頭の上に犬のような耳がピンと立っている。
身体も上半身は裸だが、下は足首まで完全に灰色の毛で覆われていた。
間違いない。これは、人間に恨みを持っている魔物だ。
ぼくが一人になったところを襲う作戦か。
「ぼくを、どうするつもりだ……⁉︎」
「俺はよ、見ちまったんだよ。お前が、あの時──」
首を絞める力が一層強くなる。鋭い爪が首に食い込み、熱い血がツーと垂れた。
「お前があの時! スズと一緒に部屋から出てきたところをなぁ!」
「…………ん?」
「答えろ! お前、スズに何をしたぁ! 二人っきりで、何を!」
彼はぼくの肩を掴んで無理やり起こすと、力任せに揺さぶり始めた。
「ちょっ、ちょっと待って! 誤解だよ! ぼくとスズは何も……」
「嘘つけぇ! 部屋を出る時に、その、手……手まで繋いで……!」
怒りのせいなのか単にそっちの耐性がないのか、顔を真っ赤にしながら声を震わせて話している。
「本当に、何もないんだって……」
「黙れ! お前に、スズが渡せるか! 俺と勝負をしろ!」
「勝負って言ったって……」
「こっちだ!」
「あ……」
こちらが何か言う前に、少年はさっさと城の外へと出ていく。
どうやら、ついていくしかなさそうだ。
……早く、出発の準備をしたいんだけどな……。
「ようし! ここから向こうの山まで競争して、一番に着いたやつが勝ちだ。本当は殴り合いしたいところだが、俺は優しいからな。人間でも、できるものにしてやるよ」
「……向こうのってもしかして、あの霞んで見える山のことじゃないよね?」
「はいスタート!」
「早い! って、まだ勝負するなんて言って……行っちゃった」
流石は魔物といったところだろうか。
走りだしたと思ったら、次の瞬間にはもう見えなくなってしまった。
「こんなの、勝てるわけないよ……」
それに今からあの山に向かうとすると、行きだけでも半日はかかりそうだ。とてもじゃないが一日では間に合わないだろう。
どうせ勝てないのだから、いっそのこと帰ろうかとも思ったが、あれだけ燃えていたのだからそれもなんだか申し訳ない。
「はぁ……何やっているんだろう、ぼく」
小走りで山を目指していると、生前騙されて、痛い足を引きずりながら公園へ行った時のことが思い出される。
「関係ない……関係ないよ!」
そう思えば思うほど頭の中はその記憶で満たされて、ペースも何も考えずに走った結果、息が切れて一歩も歩けなくなってしまった。
「はぁ……はぁ……」
落ち着け……大丈夫だ。まずは、息を整えて──。
──ダダダダダダダ!
「な、何だ⁉︎」
突然、耳をつんざくような轟音がして、慌てて音がした方へ駆けると。
「……あぁ!」
音の正体は、巨大な落石だった。
そこにはあの少年も立っていて、このままでは落石に巻き込まれてしまうだろう。
「あ……危ない!」
「来たか人間。俺の力、見せてやるよ」
少年は落ちてくる岩を見据えると、獣のような爪を持つ右手が、烈火の如く燃え盛った。
「手が……燃えた⁉︎」
「うぉるらあああ!」
燃える炎のパンチは、いとも簡単に巨大な岩を打ち砕いた。
後には土煙が舞い、細かくなった岩のかけらがパラパラと落ちてくるだけだ。
「す、すごい……」
「どうだ人間! 俺の力は! お前じゃ、俺には勝てな──」
再び、辺りに轟音が響く。落石は、あれだけではなかったんだ。
しかも、さっきのものとは比べ物にならないほど大きい。
少年はぼくに気を取られていたせいで、反応に遅れてしまった。
あの大技を出す前に、潰されてしまうだろう。
「…………っ!」
一秒を争う事態なんだ。考えている暇はない。
ぼくは駆けだし、少年を覆うようにしてゴロゴロと数メートル転がった。
しかしそれだけでは、落下地点を完全には外れていない。ぼくは少年の上に乗ったまま、ギュっと固く目をつむる。
……が、何と巨大な岩は斜面で勢いがつき過ぎて、少年が立っていた場所を飛び越え数十メートル先に落下した。
「な、何だ……避けなくてもよかったのか……」
「……人間」
「あ! ご、ごめんね! 重かったよね⁉︎」
少年の上にまたがっていることに気づき、慌てて降りる。
結局、ぼくがしたことと言えば、無駄にタックルして馬乗りになったことだけだ。何の役にも立っていない。
「お前、俺を助けたつもりか? 人間のくせに……」
「そんな……」
人間のくせに。その言葉はいくつもの針となり、ぼくの心に突き刺さる。
確かにぼくは何もできなかった。だけど、ぼくはぼくなりに助けようとして──。
「人間のくせに助けようとするなんて……お前、なかなか度胸あるなぁ!」
「…………え?」
「気に入ったぜ! 人間、お前名前は?」
「ミ、ミヤ……」
「ミヤか! さっきはありがとよ! 助かったぜ!」
少年はガハハと豪快に笑い、ぼくの背中をバシバシと叩く。
あまりにも力強く叩くもんだから、ぼくは叩かれる度に身体が大きく揺れ、むせて咳をするはめになった。
「ケホッ……き、君の名前は?」
「俺か! 俺は、獣人のユーグレットっていうんだ。よろしくな!」
そう言うとユーグレットはサッと左手をぼくに差し出した。
完全に獣のそれとなっていた右手と比べて、左手は人間と同じになっている。
きっとぼくが人間だから、合わせてくれたんだろう。
ユーグレットにならってぼくも左手を差し出し、握手を交わす。
「そうだ、勝負はどうなったの?」
「あぁ。あんなもの、もういいじゃねーか。あ! でも、スズとのことはまだ認めたわけじゃないからな!」
「誤解だってば……」
打ち解けたはいいものの、まだ完全に誤解がなくなったわけじゃないらしい。
明日には出発だというのに、また悩みの種が増えてしまった。
「俺たちはよ、もう友達だよな。あ、勿論ライバルでもあるけどな」
「友達……うん、そうだね」
だけど、こうして仲間が増えていくことに、悪い気はしない。
友達か……。まさか、魔物と友達になる日が来るなんて、ここに来る前のぼくに言っても絶対に信じないだろうな。
「友達なんだからさ、何かあったら俺に言えよな。すぐに助けてやるからよ!」
「うん。あのさ、ちょっと思ったんだけど、ユーグレットって名前なんだかお菓子に似てるよね」
「は⁉︎ お菓子⁉︎ 何だよそれー!」
「いたたたた! ご、ごめん! ごめんって!」
ユーグレットの爪が、肉に食い込む。本人はじゃれているつもりだろうが、ぼくにとっては虎に襲われているのと変わらない感覚だ。
まさに命がけでおふざけに興じながら、本日何度目かの帰城を果たしたのだった。
「ミヤ、おかえりなさい。どこに行っていたの?」
「スズ、まぁ、ちょっとね」
「スズ! 俺も、いるんだぜ!」
「……誰?」
隣でユーグレットがピシッと、石像のように固まる。
「あれ、二人は知り合いなんじゃ……?」
「知らない……」
どういうことだ? 面識がないならユーグレットだってあんな風に突っかかったりしないはず。
スズは少しマイペースな節があるから、単に思い出せていないだけか?
ユーグレットの方を見ると、肩を小刻みに震わせている。これは、相当怒っているんじゃ……。
「覚えてないのかよ……廊下でよくすれ違っていたじゃないか!」
違った! 本当に面識がないやつだ!
まさか、話してすらいないだなんて……。
「ミヤの知っているひと、なの?」
「う、うん、友達だよ」
「ミヤの友達……なら、私の友達……」
その言葉に、さっきまでうなだれて目も当てられなくなっていたユーグレットが、パッと表情を輝かせた。
「本当か⁉︎ 本当の本当に、俺と友達になってくれるのか⁉︎」
「うん、いいよ」
「……っやったぜぇええ!」
ユーグレットは歓喜の声を上げると、文字通り城中を飛び回った。
「ちょっと、危ないよ! まったく……」
「ミヤ、あの人、何て名前なの?」
「あ、そうか。彼は、ユーグレットっていうんだよ」
「ユーグレット……。長いから、ユーでいいかな」
まるで英語のようなあだ名だ。……ま、いいか。
「おーいユー!」
「何だユーって! 俺か⁉︎」
「そうだよ、スズがつけてくれたんだ。いいだろう?」
「スズが⁉︎ 俺、今日からこの名前に改名しようかな……!」
よっぽど嬉しかったのか、ユーはそんな冗談を……いや、目がまったく笑っていない。本気だ。
「ミヤ、明日の準備は終わったの?」
「あ、そういえばまだだったよ。今日はもう、部屋に戻るね」
「うん。おやすみなさい」
さてと、なんだか今日は特別に疲れた。早く、部屋に戻って休みたいところだ。
「……あの、ユーさん?」
「…………」
「その、手を離してくれないかな?」
そう、スズが見えなくなった瞬間に、ユーはぼくの手首をがっしりと掴んできたのだ。
つまり、今ぼくはユーが動かない限りは、移動ができない状態になっている。
何だろう、ユーはスズのことが好きっぽいし、スズと話していたことが不満だったのかもしれない。
「……も……く」
「え?」
「俺も、ミヤの部屋に行く」
ユーは、そんな予想外のことを言ってきた。
「いやいや! 無理だよ! 第一、ぼくの部屋はトーデス様の隣だよ? バレたら、叱られるよ」
「そこをなんとか頼むよ! 絶対にうるさくしないからさ! な?」
何度断ってもユーは引き下がらない。なぜここまで必死になるんだろう? これは何か理由がありそうだ。
「分かったよ……明日からはしばらく会えなくなるからね」
「よっしゃあ! ありがとよ!」
子どものようにはしゃぎ回るユー。本当に、感情豊かだなぁ。
「じゃあ布団はいいとして、枕だけは取ってくるとするかな」
枕が変わると寝られないだなんて、意外と繊細なところもあるんだ。なんてこんなこと言ったらまた、怒られるだろうから黙っておこう。
「ん? 何だ、何か言いたそうだな」
「いや! あの、えーと……そうだ! ぼくもついて行くよ! ユーの部屋も見てみたいしね」
そう言った途端、明らかにユーに動揺の表情が見えた。
「あー……ミヤは、先に行っておいてくれよ」
「ど、どうして? 何か見られたくないものでも……」
「とにかく! 急いで行ってくるから!」
何なんだろう、ユーのあの慌てようは。
あんな態度をされると、余計に気になってしまう。
ユーには悪いけど、こっそりついて行ってみよう。勿論、バレずにだ。
とはいっても、尾行すること自体はそれほど難しいものではなかった。
寮の廊下は真っ直ぐで、ぼくはただ何番目のドアに入ったのか。それだけを覚えておけばよかった。
「と、いうことでユーが入っていったのはここか……」
枕を取りに行くだけだから、すぐに戻ってくるはずだ。
部屋の中を確認したら、急いで戻らないと。
「にしても、このにおい……。何だろう」
ここら一帯に漂う、強烈な獣臭。昔行った、動物園を思い出した。
思わず開けることを躊躇してしまうが、ここにきて開けないという選択肢は、ない。
まるで道場破りをするかのような勢いで、部屋に乗りこむ。
……モフッ。
「うわ! な、何だ?」
全身が、モフモフの何かに覆われる。何だか分からないけど、温かくて気持ちいい。
「……ぷはっ! これは、毛?」
「グルルルル……」
そこには人間よりもずっと大きい、まさしく獣が立っていた。
ユーのように人間は混ざっていなく、実際に狼が二足に進化していたとしたら、きっとこんな感じになるだろう。
「あ、あのー……」
「フッフッフッ……! グアアアア!」
獣はだらだらと涎を流すと、大きく咆哮した。
とてもじゃないが、話が通じる相手とは思えない。というよりも、このままでは確実に殺されてしまう。
獣がその鋭い牙をぼくに向ける。
もう、だめだ……!
咄嗟に腕を出して顔を庇うが、一向に襲われる気配はない。
それとも、ぼくはとっくに食べられてしまっていて、気づいていないだけなのか?
「ったく、先に行ってろって言っただろ!」
「ユー!」
そこには、後ろから獣を羽交い締めにしているユーの姿があった。
「俺が押さえている間に、早く行け!」
「う、うん」
ユーのお陰で、間一髪死なずに済んだ。
だけど、ユーだけで大丈夫なんだろうか? ユーとあの獣には、かなりの体格差があった。
考えたくはないが、最悪の結果になることだってあり得る。
「どうしよう……ぼくが、言う通りにしていれば……」
「ミヤ! 大丈夫だったか⁉︎」
「ユー! 君こそ、大丈夫なの? 怪我は?」
「何で俺が心配されてんだよ! あいつは、ただ人間を見て興奮していただけだ」
「そうなんだ……」
よかった。ユーに何事もなくて、本当によかった。
心の底から、安心する。ユーもそれ以上怒ることはなかった。
「とりあえず、ミヤの部屋に行こうぜ。話はそれからだ」
「そうだね。こっちだよ」
普通なら行くことはない、王の間に通じる廊下を通る。流石のユーも、少し緊張気味だ。
部屋に行くには、トーデス様の部屋の前を通らなければならない。それが一番の難関だった。
「任せとけって」
ユーは小声でそう言うと、ひょいひょいとまるでサーカスをしているかのような軽い身のこなしで、部屋の前まであっという間に着いた。
流石獣人は、忍び足が得意なんだな。よし、ぼくも見習って──。
ユーの真似をし、そろそろと歩いたぼくも、トーデス様に気づかれることなく行くことができた。
「いや、ミヤがコソコソする必要はなかっただろ」
……確かにね。
「ま、まぁ。とにかく上がってよ」
「邪魔するぜ……って、まだ何にもないんだなー。そういや、ミヤは何で軍に入れたんだ? 普通の人間なら、まずあり得ないよな」
「そ、それは……」
全てを話すことで、嫌われてしまうんじゃないかと思うと、なかなか言い出すことができなかった。
きっとこの感覚に、一生慣れることはないんだろう。
だけど、ユーは事情を知らないにも関わらず、ぼくのことを友達だって言ってくれたんだ。言わないわけにはいかない。
「──なるほど、そうか。まさか、異世界から来ていただなんてな」
「そんなに驚かないんだね……」
「向こうでのミヤがどうだったとか知らねーけどよ、今ここでのミヤが楽しんでいるなら、それでいいんじゃねーか? 難しいことは、よく分からねーけどな」
今が楽しければ……か。確かに、それができたら一番いいんだろう。
だけど、それでもぼくはあの時味あわされた屈辱、感じた憎しみを忘れることはできない。
スズが言っていたように、この世界に転生して本来なら忘れているはずの記憶が残っているのは、そういうことなんだろう。
今が楽しいからといって、あの日の苦しみが消えたことにはならないんだ。
だからこそ、ぼくは戦争がない世界にしたい。ぼくのような思いは、人にも魔物にもして欲しくないんだ。
だから、ごめんね。ユー。
ぼくは、君が思っているよりいい人じゃないみたいだよ。
「何だよ、ひとの顔をジロジロ見てよー……」
「いや、何でもないんだ」
ユーには、言わないでおこう。必要のないことだ。
「でもよ、戦争を終わらせるなんて、スケールがでかいよな」
「やっぱり、無謀かな?」
「んーや! それぐらい無謀な方が、やり甲斐があるってもんだぜ! それに、なんだかお前なら本当にやりそうな気がするしな!」
ユーは照れくさそうに頭を掻いて、応援していると付け加えた。
魔王様に仕える兵士で、本来なら否定しなければならないというのに、賛同してくれたんだ。絶対に、やり遂げなければ……いや、やり遂げてみせる。
「ありがとう、ユー。そういえば、さっき部屋にいたあの獣は何だったの?」
「あれは、その……そうだな。ミヤは話してくれたんだもんな。俺も言わないと」
ユーは何か決心したように、崩れた姿勢から座り直した。
「あの、そんな無理をして言わなくても」
「お前が対面したあいつ……あれこそが、獣人なんだ」
「え?」
あの、獣が獣人だって? どういうことだ。
「だって、ユーとは見た目が全然違うじゃないか。ユーだって、獣人なんだろ?」
「そう、確かに俺も獣人ではある。だけど、俺とあいつらは全く同じではない。希少種と言うべきか」
「希少種……?」
ユーは、チラとも目を合わせずに淡々と話していく。やっぱり、本当は言いたくないことなんじゃ。
それとも、そうまでしてぼくに知っておいてほしい理由でもあるのか?
「獣人は、文字通り魔物と人間のハーフだ。魔物の遺伝子が圧倒的に強いから、普通ならあんな感じの、知性のない自立する獣が生まれてくるはずなんだ」
「それなのに魔物じゃなく、むしろ人間に近いユーが生まれてきた……?」
「そういうことだ。まぁ、可能性はゼロではないからな。ただ、恐ろしく確率が低いっていうだけで」
なるほど。確かに、あり得ない話ではない。
だけど、それとは別にぼくにはもう一つ、気になっていることがあった。
「ユーが希少種なんだってことは分かったけど、今日落石があった時に出していた技は何だったの? 獣人は、みんなあれが使えるの?」
「あれは、親から受け継いだ力で、使えるのは俺だけだな」
「へー! ユーの親は、炎の力を司っていたの⁉︎ すごいね! もっとよく、教えてよ!」
「いや、親のことはよく分からないんだ。すまねー……」
「あ……」
しまった、まずいことを聞いてしまったみたいだ。悪気はなかったとはいえ、あまりにも軽率な発言だった。
何とかしてこの場を取り持ちたいが、この場合、何を言ったところで正解はないのではないか。
「……俺さ、あの中にいてもどこか場違いな気がして、全然楽しくなかったんだ。おかしいよな? 種族は同じはずなのに」
「ユー……」
「お前と友達になった時、すっげー嬉しかった。他愛もない話をして笑い合うことなんて、一生できないと思ってたんだ。だけど、それをお前が叶えてくれた」
ユーはここにきて、初めてぼくを見る。その表情はさっきまでの思い詰めたものとは違う、柔らかいものとなっていた。
「改めて、お礼を言わせてくれ。ミヤ、ありがとな」
「そんな……こっちだって、人間だっていうのに友達になろうって言ってくれて、本当に感謝しているんだよ。ユーと会うまでは、正直ちょっと心細かったし……」
「……ふっ。はははは!」
ぼくたちは二人、顔を見合わせて笑う。
楽しい。友達といることって、こんなにも元気が貰えることなんだ。
「明日、がんばれよ。俺はついて行ってやれないからな」
「うん。できるだけ早く、帰ってくるよ。ぼくも、スズも」
「は⁉︎ スズもいるとか聞いてねーぞ⁉︎」
「うわしまった!」
「この! 黙ってやがったな! スズが行くなら俺も行く!」
その日は遅くまで、ユーとめいっぱい楽しんだ。
きっとこの騒ぎはトーデス様にも聞こえているだろうに、ついに最後まで何も言ってこなかった。
そしてろくに寝ないまま、朝を迎えることとなる。
「……今、何時」
「……そろそろ、出発の時間になるぞ。結局、何も準備してないだろ。早く用意して飯を食うぞ」
「そうか、出発までまだ時間あるなら、まだ寝ていてもいいよね……?」
「いい……いや、だめだ。ほら、早く行くぞ……はぁ」
コンディションは、最悪だった。お互い、死にそうな顔をしている。
「こんなんじゃだめだ。まずは、冷たい水でシャッキリと……」
「はぁ、眠い……ん? おい、ミヤ! 水に顔突っこんだまま寝るな! 死ぬぞ!」
「ガボボボボ……」
こんな調子で、二人でフラフラとおぼつかない足取りながら、なんとか時間通りに出発することができた──。
「……こんなことなら昨日、もっと早く寝かせるべきだったな」
「すみません……」
──と、いうのは全部夢の中のことだ。一体、どこまでが現実でどこからが夢だったんだろう。
ぼくとユーは、それはもう清々しいほど盛大に遅刻をかまし、こうしてトーデス様の前で正座をさせられている。
やはりというか何というか、トーデス様はユーがぼくの部屋にいたことを知っているみたいだ。
「トーデス様、俺がミヤに無理を言って泊めてもらったんだ。だから、ミヤは悪くない……罰なら、俺にだけしてください」
「そんな……止めなかったぼくにも責任はあるよ。トーデス様、罰ならぼくにしてください」
「馬鹿! 折角俺が庇ってやっているのに!」
「こら! いい加減にしろ!」
どっちが罰を受けるかで言い争いを始めたぼくたちに、トーデス様が叱責の声を飛ばす。
「……はぁ。もういい。責任でいうなら、見逃していた私にもそれはあるしな」
「え、じゃあ……」
「二人とも、もう行っていいぞ」
「あ……ありがとうございます!」
トーデス様の部屋を出て広間に行くとすでにスズがいて、キョロキョロと何かを探しているようだ。
……まぁ、遅刻しているんだからスズがいるのは当たり前だし、探しているのはぼくのことなんだろうけど。
「スズ! ごめんね、遅れて!」
「……ミヤ、ユー。んーん、そんなに待ってないから……」
「ああ、結局まだ何も準備できてないや……ごめんスズ、一旦戻るね」
「それなら、大丈夫。ミヤの分も、ちゃんと用意しておいた……」
そう言うとスズは、隣に置いてあった風呂敷を指差す。
それはもはや風呂敷というより、ちょっとした山のようだった。
いくら二人分の準備をしたといっても、これほど大きくならないだろう。
一体、何が入っているんだろうか。ここまでくると気になってしまう。
「あ、ありがとう。でも、それ……どうやって持つの?」
「持てるよ。よいしょ……」
スズは、風呂敷を後ろに回して担ぐと、ね? と言ってみせた。
見かけによらず、意外と力が強い。それもそうか。スズだってこう見えて、魔物なのだから。
そのあまりの大きさに、スズが本体なのか風呂敷が本体なのか分からなくなる。
そもそもそれ以前に、城から出られるのか?
「ミヤ、そろそろ行こう……今日中に、たどり着けなくなるよ」
「あ、あぁ……そうだね。それじゃ、ユー。」
「二人とも、頑張ってこいよな! ミヤ! スズを怪我させるようなことしたら、承知しねーぞ!」
「分かってるよ。ユーも、訓練頑張ってね」
ユーが、握り拳を突き出す。ぼくも同じようにすると、ハイタッチをするように拳と拳を打ち付けた。
「ちょっと、かっこつけちゃったかな」
「ミヤとユー、すごく仲良しだった、ね」
「うん……それよりもスズ、その荷物重くない? ぼくが持とうか?」
急にさっきの拳タッチが恥ずかしくなり、話題をスズの荷物に移す。
城を出てしばらく歩いてきたが、スズは汗ひとつかかず、悠々としている。
が、ここで女の子に荷物を持たせ続けるわけにはいかない。スズが持てるのなら、ぼくにだってできるはずだ。
「そんな遠慮しないでよ。どれ……!」
ここで颯爽と風呂敷を持ってやる……つもりだった。
いくら押しても引いても、風呂敷はビクともしない。悪戦苦闘した挙句、息を切らしてスズの隣を歩くだけのロボットと化した。
「……? ミヤ、何かした?」
「ぜぇ、ぜぇ……いや、何も……」
本当に何が詰まっているんだろう、あの中。
「そうだ、今から行くオークの村っていうのは、どこにあるの?」
「オークたちは、人間界に住んでいるから……あそこ」
スズが指差した方向──光が差し込まない魔界の遥か先、微かだが青みがかかっているところがある。
「あれが、魔界と人間界の境目。少なくとも、あそこまでは行かないといけない」
「あそこまで……って、霞むぐらいに遠いじゃん! 歩きでなんて、一日や二日じゃ無理だよ!」
「大丈夫、歩いていればいつかは着くよ」
「大丈夫って……」
この調子だと、何日か野宿することになりそうだ。スズは、こういうことに慣れているのだろうか。
恥ずかしい話、ぼくは料理もできないし何か取り柄があるわけでもない。正直、スズに迷惑をかける気しかしなかった。
「あのさ、スズ……」
「すぐに行きたいのなら、私の力で飛んでいってもいいけど」
「……ん?」
今、サラッととんでもないことを言わなかったか? 飛ぶって……え?
「サキュバスって、空を飛ぶこともできるの? というか、それを先に言ってよ!」
「ミヤは歩きたいのかと思って……」
「そんな健康志向は持ち合わせてないよ!」
結局飛んでいくことになり、スズが両腕を前に出し、念とやらをぼくに送り出す。
するとどうだろう。段々と体重というか重力というか、とにかく重さ自体を感じなくなり、下を見てみると完全に宙に浮いていた。
「す、すごい! 本当に飛んでる! ……あれ? ってことはあの荷物も……」
「うん。少しだけ、浮かしていたの」
「なんだ、そうだったのか。よかった……」
「……? 何か言った?」
「いや! 何も言っていないよ。それよりも、早く行こう」
スズはコクリと頷くと、ぼくの身体は風をきって、空を滑るように動きだした。
コントロールしているのはあくまでもスズで、ぼく自身自由に移動するといったことはできない。
……なんだろう、周りに頼りすぎなんだろうか。ここまでぼく、何もしていないのでは。
「……ミヤ」
「な、何? スズ!」
「きっとオークたち、人間に村を襲われないか怯えていると思う。だから人間であるミヤが、人間を止めてあげて。ミヤにしか、できないことだから……」
「スズ……うん、そうだね」
そうだ、魔物には魔物の、人間には人間にしかできないことがあるんだ。
できないことでウジウジ悩んでいるよりも、今ぼくにしかできないことを全力でやろう。
「……ありがとう、スズ」
スズはまた、ぼくに大切なことを気づかせてくれた。
それは多分、無自覚なことなんだろうけども。
先を行くスズの背中に感謝の言葉を投げかけるが、風の音でスズはおろか、自分でさえも聞き取ることはできなかった。
「……着いた。ここが、オークの村……の、入り口」
「本当にすぐ着いた……」
ここに、オークたちが住んでいるのか。
一見、普通の森と変わらないようだがよく見ると、踏み均された道が一本奥へと続いている。
いわゆる、獣道というやつだ。
オークたちが通っているのだろうか。だとしたら、この先に村がある可能性が高い。
「……? ミヤ! 危ない!」
スズに激しく突き飛ばされ、近くの茂みに倒れこむ。
左足に痛みが走る。どうやら、転んだ拍子に枝で切ったようだ。
「いたた……スズ、急に何を……」
スズに文句を言おうと立ち上がったぼくは、そのまま言葉を失った。
なぜなら、さっきまでぼくが建っていた場所は何かの衝撃を受けたようにクレーターができていたからだ。
そしてクレーターを作った原因であろう棍棒と、それを持ち激高する大男の姿が一人。
「な、何なんだ⁉︎ 一体!」
「……オーク」
スズがボソリと、呟く。
「あれが、オークだって? どうして、怒っているんだ?」
「分からない……ただ、ここにいるのは危険」
先ほどオークのことを大男だと表現したが、しかしその見た目は、人間とはほど遠いものだった。
まず身体は全身緑色で、原始人のように毛皮を服として纏っている。
そしてなにより、大きさが桁違いであった。
一般の男子高校生であったぼくと比べても、三倍ほどの差がある。
そこらに生えている木と、何ら変わりない。
「人間……何しに来た! 俺たちの村に、何をする気だ!」
どうやらこのオークは、ぼくが村を襲撃しに来た人間だと思っているみたいだ。
それもそのはず、そもそもぼくたちは人間に襲われる心配がないか、様子を見に来たんだから、オークの反応も頷ける。
というか、トーデス様……ちゃんとそこら辺事前に伝えておいてくださいよ!
「待って、ミヤは私たちの仲間……」
「人間が、生きて帰れると思うなよ! ウオオオオ!」
スズが説明を試みるも、興奮していて聞く耳を持たない。
大木をそのまま削ったような棍棒を振り回し、猛然とぼくに向かって突進してきた。
「うわあああ⁉︎」
オークの攻撃を、すんでのところでかわす。
そこにあった木が抉れて、メキメキと音を立てて倒れた。一歩間違えたらあれがぼくの姿になっていたかと思うとゾッとする。
「ちょっ……ちょっと待ってよ! 話を聞いて……」
「村には立ち入らせない! 俺が守るんだ!」
もはや何を言っても、無駄なようだ。まずは何とかして、落ち着かせないと。
「ミヤ! どうするの? ここは一旦退いて……」
「いや、ここは押し切ろう! スズは危ないから、離れていて!」
スズは魔物だが、戦えるわけではない。ぼくが、何とかしなければ。
とは言ったものの、ぼくに何ができる? ただの人間であるこのぼくに、一体何が……。
「死ね! 死ね、人間!」
オークはますますヒートアップし、辺り構わず棍棒を振り回している。しかし対象がぼくである限り、スズに危害が及ぶことはとりあえずないだろう。
それに攻撃をする際、一撃一撃の動作が大きいため、その分隙も多く避けやすくなっている。
何かするとしたら、この隙を狙うほかない。
「どうする? どうしたら、オークに冷静さを取り戻してもらえるんだ……⁉︎」
考えるんだ。何か……何かないのか!
攻撃を避けるために走り回っているが、体力の限界が近づいてきている。このままだと……!
すぐ後ろで、木の折れる音がする。もう、そこまで迫っているのか。
……ん? 木か……。そうか、あれを利用すれば、いけるかもしれないぞ。
「こっちだ! 遅いぞ!」
「グワアアアア!」
オークを誘導するために、わざと怒らせるようなことを言う。
案の定、オークは我を忘れてぼくに向かってきた。
その勢いに、周りの木々が大きく揺れて──。
ベチャッ。オークの顔に、何か柔らかいものが落ちる。
「ウグゥウゥ⁉︎ 何だ、目が⁉︎」
そう、オークに落ちたものは、木になっていた果実だった。
オークが激しく揺らしたことで、いい感じに熟れていた果実はいとも簡単に落下したのだ。
「オーク! 私が、分かる⁉︎」
様子を見守っていたスズが、オークの前に立ちはだかる。
「ウゥウウ……やっと見え……お? そこにいるのは……スズか?」
「そうだよ、スズだよ! やっと気づいてくれた」
「どうして、スズと人間が一緒にいるんだぁ?」
やっと話が通じるようになったオークに、スズが今までの経緯を説明した。
そして──。
「ぐわっははは! そうかそうか! それはすまなかったな! ま、怪我がなかっただけよしとしようや!」
「笑いごとじゃないですよ! 本当に、死ぬかと思ったんですから……」
「だから悪かったって! 俺は、オークのドレイクってんだ! お前たち村に行きたいんだろ? 案内するぜ。ついてきな!」
あの怒りようから、もっと怖いひとを想像していたが、ドレイクさんは正義感が強い、まさに兄貴分という感じだ。
ドレイクさんに導かれるままに、荒れた獣道を進んでいく。しばらくすると、教科書に載っているような集落が見えてきて、そこにはドレイクさんのように屈強なオークもいれば、年端のいかない小さなオークもいて、様々だ。
「ここが、オークの村なんですね。オークたちが、沢山いる」
「ドレイク、この者たちは?」
声をかけてきたのは、ドレイクさんよりもやや小さめのオークで、長い間生きてきたであろう証の真っ白なひげが、口元を覆っていた。
足が弱いのだろうか杖をついていて、その手は小刻みに震えている。
「長老様! この二人は、魔王様が派遣してくださった者たちです。人間たちの脅威から、我々を守ってくれるそうです」
「ふむ……」
長老様と呼ばれたオークは、ぼくたちを見定めるような瞳を向ける。
窪んだ目がギョロリと動き、ぼくを捉えた。
「あの、ミヤっていいます……」
「スズ……です」
「……そっちの者は、人間じゃな。なぜ、魔物に手を貸す?」
やはり、そういう話になるのか。
「ぼくはただ、争いがなくなればそれで……」
「…………」
無言で見つめられ、それ以上何も言えなくなってしまう。
長老様のあの目……苦手だ。
「……まぁ、いいじゃろう。じゃが、少しでもおかしな行動をしたら……その時は、分かっておるな?」
そう言い残して、長老様は去っていった。
「ミヤ、気にするなよ。長老様は、この村にいていいって言ってくださったんだ」
「そうだといいんですけど……」
何はともあれ、村に入ることはできたんだ。トーデス様の命令を、こなそう。
それにはまず、情報収集だ。この村のオークたちの実態を、把握しておきたい。
次に、人間たちだ。オークたちにどんな被害が出ているのかを知って、対処しなければならない。
難しいが、一つ一つ着実に解決していくとしよう。
「オークの村といっても、みんながみんな同じってわけじゃないぞ。若者もいれば年寄りもいるし、もちろん女や子どももいる」
「オークの子ども……ちっちゃくて可愛い……」
スズはそう言っているが、子どもといっても背丈はぼくとそう変わらない。
むしろ体力のある分、子どもが一番の脅威といっても過言ではなかった。
「おーい! あんた何しとるの!」
オークにしては、高い声──女性だ。着ている毛皮も、しっかりと上まで覆っている。
料理の途中だったんだろう。まな板の代わりだろうか、硬い葉っぱの上には魚が乗っている。
「魔王様が派遣してくださった、ミヤとスズだ」
「よ、よろしくお願いします!」
「あれまぁ! こんな何もない村によく来てくれたねぇ。ゆっくりと、していってね」
「えっ! あ、あの、ぼくが人間だということは気にならないんですか……?」
人間が魔物狩りをしていたということや長老様の反応から、どうしても女オークさんの対応に違和感を覚えてしまう。
「そりゃあ、気にならないと言ったら嘘になるけど……でも、ここにいるってことは優しい人間なんだろう? だったら、歓迎するしかないよねぇ」
思わず、泣いてしまいそうになった。人間に酷いことをされたというのに、問答無用で忌み嫌っていてもおかしくないというのに。
それなのに、ぼくをぼく個人として受け入れてくれる。人間にだって、そんなことできる人はなかなかいない。
「ありがとうございます……ぼく、ここにいてもいいんですね」
「どうだ? いいやつだろ、俺の嫁さんは。シファンってんだ」
「はい、すごく……って、えぇ! 嫁さん⁉︎」
あまりにも衝撃的だったものだから、つい聞き返してしまった。気に障ったのだろう、ドレイクさんが不満気に鼻を鳴らす。
「何だよ、俺に嫁がいちゃおかしいのか?」
「いえ、決してそういうわけでは……」
「お腹、大きいね。赤ちゃん?」
不穏な空気の中、スズがそう言ってシファンさんのお腹をまじまじと見つめる。
なるほどよく見てみると、確かに目立たないながらも、シファンさんのお腹が膨らんでいた。
「よく気がついたねぇ。そうなんだ、私お母さんになるんだよ」
シファンさんは、愛おしそうにお腹をさすりながら、そう言った。
「こっちだよー! 捕まえてみな!」
「おい待てよ! あはは!」
少し離れた草むらで、子オークたちが思い思いに遊んでいる。
「この子も、いつの日かああやって野山を駆け回る日が来るのかな」
「きっと、来るさ。あまりやんちゃに育ってしまっても、困るがな」
ドレイクさんは、シファンさんのお腹にその大きな手を重ねる。
その表情は、今まで見たどんなものよりも優しさに満ちていた。
あの時ドレイクさんが、ぼくを村に寄せつけないようにしていた理由も、今なら分かる。
ただ、守りたかっただけなんだ。この幸せを。
「……ミヤ、お前に頼みがあるんだ。」
「……? 何ですか?」
「この村を、救ってくれ。情けない話だが、俺にはこうやって頼むことしかできねぇ」
「ちょっ、やめてくださいよ。もとよりぼくは、そのために来たんですから。それよりもドレイクさん、この村のオークたちは、全部で何人ほどいるんですか?」
深々と頭を下げだしたドレイクさんをなんとか制して、本題へと入る。
「そんなに大きくない村だからなぁ。ま、二十人前後ってところだな。そんなことを聞いて、どうするんだ?」
「二十人ですか……その人数だと、たとえ人間とやりあったとしても勝ち目はありませんね?」
「悔しいが、その通りだ。だが何とかして、人間たちが村に進入してくるのを防ぎたいんだ」
人間から身を守るか……バリケードを作るにしても、人手も時間も圧倒的に足りない。
それに、戦えない女性やお年寄り、子どもがいるんだ。彼らを危険に晒すことなく、かつ人間の脅威から逃れるようにするには、方法は一つしかない。
「この村を捨てて、新しく住めるところを探しましょう。それしか、ないです」
「何だと? それ、本気で言っているのか? 村を捨てる……できるわけないだろう⁉︎ そんなこと!」
「あんた! 落ち着きなよ!」
逆上して摑みかかろうとするドレイクさんを、シファンさんが止めに入る。
お腹の子を気遣ってか、ドレイクさんはさほど暴れなかった。
「やっぱりお前、人間の肩を持っているんだろう⁉︎ 俺たちは何もしていない、ただここに住んでいただけだ! なぜ俺たちが出ていかなければならない⁉︎」
「あんたやめなって!」
「考えてもみてくださいよ! この村に残って、その場しのぎをしていたところで、人間が近くにいる限り、安心して過ごすことができないんですよ! お腹の子が生まれてきた時に、満足に村から出してあげられないなんて、ドレイクさんだって嫌でしょう!」
子どもの話をした途端に、あれだけ食ってかかっていたドレイクさんの動きがぴたりと止まる。
たとえ故郷である村を捨てることになったとしても、やはり子どもの安全の方が大事なのだ。
「……俺からは、もう何も言えない。ここから先は、長老様に判断してもらうことだ」
結局、最後までドレイクさんの同意は得られなかった。が、反対しないということは少なからず賛同はしているんだろう。
「ミヤ、長老様のところに行こう」
「うん、そうだね」
「待て、俺もついて行く。シファンは、ここで待っていろ」
長老様の居場所を知らないぼくらは、大人しくドレイクさんの後をついていく。
長老様は、果たしてぼくの提案をのんでくれるのだろうか。
例えどんな結果になったとしても、ぼくはただ自分のやるべきことをやるだけだ。
「ふむ……して、その新しい村というのは、どうやって探すのじゃ?」
「はい。まずはぼくとスズで住めそうなところを探して、その後にオークの皆さんに移動してもらうしかないかと」
長老様はしばらく黙りこみ、悩んでいる節を見せる。
「……なるほどの。では、それで頼もう」
「長老様! よろしいのですか⁉︎ この村を……俺たちの育ってきた村を、捨てるというんですか⁉︎」
「この人間の言う通り、これしか方法はなかろう。それともドレイク、他に案があるとでも?」
「そ、それは……」
「決まりじゃな」
なんだ、いやにあっけなく決まってしまった。あの長老様のことだから、もっと難航するかと思っていたけれど……流石この村の長なだけに、村にとって何が最善か分かっているのだろう。
「ミヤ、村を探すって言っても、どうやって探すの? ただ闇雲に探しても、見つからないと思うけど」
「そうだね。まず村を作るには、最低限何が必要だと思う?」
「必要なもの? ええと、まず家が必要。……それに、食べ物。あと水も」
「そう、水だ。シファンさんが料理していたものを覚えている? 魚を捌いていた。つまり、村を流れる川に沿って歩いていけば、水も食料も確保できるってわけさ」
「そっか。人間たちから距離を取りさえすれば、安心して暮らせるもんね」
「そういうこと。さ、行こうか。ぼくたちが早ければ、その分オークたちも早く移動できるんだからね」
川は、村のはずれにある。魚が生きられるだけあって水は澄み渡り、底に沈む石の一つ一つが確認できるほどだ。
太陽の光を反射してキラキラと輝くその水は、手ですくうと氷のように冷たく、爽やかに喉を流れていった。
「こんなに美味しい水は初めてだよ。身体の内側から、力が湧いてくるみたいだ」
「このお水を飲んでいたから、ドレイクさんはあんなに強かったのかな」
「ふふっ、そうかもしれないね。えぇと、人間たちがいる街があっちだから、その反対に歩いていけばいいんだね」
この川は、一体どこに繋がっているんだろう。
ぼくが想像するよりもずっと遠く、川の果てにオークたちが暮らせる楽園はあるんだろうか。
……いいや、絶対にあるはずだ。見つけるまで、ぼくは歩くことをやめない。
「──って、思ってたんだけどなぁ……」
歩き始めて、何時間経ったのだろうか。既に足は棒になり、次の一歩を踏み出すのが億劫だ。
「どうする? ここで少し休む?」
同じ距離を歩いているはずなのにスズが微塵も疲れていない様子なのは、魔物と人間による体力の差だと信じたい。
「それじゃあ、少しだけね……」
さっきまでの決意はどこへやら、ぼくはいそいそと靴を脱ぐと、川に足を投げだした。
芯まで届く冷たさと川の流れがダイレクトに足へと伝わり、心地がいい。
そのままパシャパシャと水を蹴っていると、スズが隣に座ってきた。
「なかなか、見つからないね」
「うん、ここら一帯はもう他の動物が住んでいるみたいだからね。追いだすわけにもいかないし、もっと奥まで行かないとだめだろうね」
そう考えると、あの村はかなり立地がよかったのだろう。
村を捨てることに、反対するわけだ。
「あれ、もういいの?」
「あぁ、もうすっかり疲れが取れたよ。スズ、あの村と同じぐらい……うぅん、もっといいところを見つけてやろう!」
「うん。……? ねぇ、何か音がしない?」
「音? それって──」
どんな音? と、聞きかけたぼくを遮って、強風が巻き起こる。
両腕で顔を隠していると風は木々を激しく揺らし、枯れ枝や葉なんかを巻きこんで、空へ高く高く昇っていった。
「──っ。すごい風だったね。スズが聞いた音っていうのは、風だったんじゃないかな?」
「そうかな……もっと、別の音だったと思う……」
「さぁさぁ! そんなことより、早く出発しよ!」
ぼくは尚も不満気なスズの背中を押して、村探しを再開した。
「といっても、ただ歩いているだけじゃ見つからないだろうし、どうしようか」
「もっと、奥まで探した方がいいかも……私、行ってくる」
「あ、スズ! 待ってよ!」
小走りで行ってしまったスズを追いかけて、道なき道を進む。時々、絡まっているツタに足を取られながらも、必死にくらいつく。
太陽の光すら届かない薄暗い森で、見失いでもしたら大変なことになる。
「スズ! どこまで行っ……」
やっとこさ追いついたぼくだが、スズに声をかけるよりもまず、目の前の光景に息を飲んだ。
そこには、明らかに人が住んでいたであろう小さな小屋が建っていた。
「この小屋、誰が使っていたんだろう? 人か、それともオークか……」
「人間だよ。オークには、小さすぎるもの。でも、住んでいたのはずっと昔みたい」
小屋にはびっしりと苔がむしていて、今はもう人が住める状態ではない。
触ると木が腐っているようで、小屋全体が大きく軋んだ。
「ほかに住み着いている動物もいないようだし、ここを村にするのはどうだろう? 小屋は、オークたちなら簡単に壊せるだろうしね」
「それ、いいと思う。小屋が建っている周りは木がないから明るいし、川も近いからね」
「よし、それじゃあ早速村に戻って……あれ?」
オークの村の方角に、黒い煙が昇っている。
何が起こったら、あんな煙が昇るんだ? ……何だか、嫌な予感がする。
「スズ、早く戻ろう!」
「うん」
どうか、あの煙が村とは何も関係がありませんように。
ぼくは湧き上がる焦りと胸騒ぎを抑えこみ、来た道をひた走った。
「何だよ……これ……」
村に着き、真っ先に目に飛びこんできたのは傷を負い、地面に転がっている大勢のオークたちと、あちこちから上がる火の手。
ゴムを燃やしたような異臭が、村全体に充満していた。
「あの、大丈夫ですか⁉︎ 誰か……誰か、返事してください! 生きていますよね⁉︎」
大声で呼びかけても体を揺すっても、何一つ反応は返ってこない。
「ミヤ、気持ちは分かるけど、今はまず火を消さないと」
「でも、でも……!」
「このままだと、燃え広がって山火事になってしまう。今するべきことは何か……考えて」
パチパチと、木が燃える音がやけに大きく聞こえてくる。
オークたちが、大切にしていた場所。それが燃えてしまえば、全てが消えてなくなってしまう。
ここで暮らしていたという事実も、思い出も、全てが。
「……分かった。川に行って、水を汲んでこよう!」
幸いにも火を免れた桶が転がっている。オークが使うだけあって、とても大きい。
これなら、十分消火に使えそうだ。
──川から水をいっぱいに入れて、もう何往復しただろう。
腕が小刻みに震え、桶の水はたどり着くまでに半分も溢れてしまっている。
体力はもう限界に近いが、そんな弱音を言っている暇はない。
この先腕が上がらなくなっても、歩けなくなったって構うものか。とにかく、水をかけ続けるんだ。
「火は収まるどころか、どんどん大きくなっている……このままだと……」
──ポツ。──ポツ。
額に、汗ではない何か冷たいものが当たる。
それは段々と勢いを増し、すぐに激しいものへと変わっていった。
ぼくらの想いが届いたのか、まさに恵みの雨が天から降り注いだのだ。
「火が、弱まっているよ!」
「よし、消火を続けるんだ!」
雨の手伝いもあって、大部分の火は既に消えていた。
残っているのは家の中の、雨の影響を受けないところだけだ。
一軒一軒回っては、桶の水をかけていく。効率は決していいものではなかったが、他に手段がない今、できることはこれぐらいしかない。
「これで、全部消し終わったみたいだね」
「うん、でも……」
村を消火して回っている時に、生きているオークは一人もいなかった。
ついさっきまでは無邪気に遊んでいた子どもが、物言わぬ死体になっている。
胸が、張り裂けてしまいそうだった。この子たちが……村のオークたちが、一体何をしたっていうんだ。
「ミヤ、ドレイクとシファンは、どこに行ったんだろう?」
「そういえば……二人とも、まだ見ていない!」
もしかすると、二人だけは生き延びてどこかに身を潜めているのかもしれない。
どこかで、助けを待っているのかもしれないんだ。
「スズ、手分けして二人を探そう! ぼくは、森の方に行ってみる!」
「分かった。私は、川の方を探しに行くね」
森へと走っている道中、右も左も目に入ってくるのはオークの死体ばかりで、いたたまれずに目を背ける。
今はなによりもドレイクさんとシファンさんだ。
「ドレイクさん! シファンさん! いるなら、返事をしてください!」
何度も名前を叫んだが、自分以外に声は聞こえてこない。
もっと、ずっと遠くに逃げていったのかもしれないし、雨の音でぼくの声がかき消されていることだってある。
ぼくは森中を駆け回り、喉が枯れるまで二人を呼び続けた。
「ドレイクさん、シファンさん……うっ⁉︎」
雨でぬかるんでいた地面に足を滑らせ、顔面から泥に突っ込んでいく……が、もう起き上がる気力もない。
顔に付いている泥が、雨で流されていく。全身から、体温が奪われていった。
「二人とも、どこに行ったんだよ……」
「……! ……ミヤー!」
何もかも、諦めかけたその時。確かに、ぼくを呼ぶ声が聞こえた。
この声は……スズの声だ!
「スズ……スズー! ここだよ! ここにいるよー!」
最後の力を振り絞り、ありったけの声を上げる。
「ミヤ! 大丈夫⁉︎ 身体、すごく冷えている……歩ける? 村に戻ろう」
「ぼくは大丈夫……それよりも、ドレイクさんたちは?」
スズの肩につかまり、ゆっくりと来た道を戻っていく。
「……見つかったよ。でもまずは、ミヤの方が先」
ぼくの方が先? あれだけの犠牲が出ているんだ。ドレイクさんたちだって、無傷ではないはず。
それなのに、どうしてぼくを優先するんだろうか。
まだ被害が少ない家に入り、使えそうな布を探して身体を拭いた。
手付かずの食事がテーブルに置いたままなのが、いかに突然のことだったのかを生々しく表している。
「それで、スズ。二人はどこにいたの? 怪我をしているなら、早く行かないと」
「…………」
「スズ!」
どうして頑なに会わせようとしないのか、まるで意図が分からない。
それだけ容体が悪いのなら、なおさら手当をしなければならないのではないか。
「分かった……ついてきてほしい」
スズが案内したのは、先ほど消火のために水を汲んだ場所よりもずっと離れているところだった。
ここならドレイクさんたちに気づかなくても、不思議ではない。
二人は川のほとりで重なるようにして倒れていた。いや、寝ているのか?
「ドレイクさん! シファンさんも! 本当に心配したんですよ? 大丈夫……でした……か」
近づくにつれて、二人の様子が普通ではないことに気づく。
「嘘だ……ドレイクさん! 目を開けてくださいよ! ねぇ!」
「ミヤ……もう、それ以上は……」
「っ……!」
二人は傷だらけで、何者かに危害を加えられたのは明らかだった。
村が燃え盛っている中、必死でこの川に逃げてきたんだろう。
シファンさんはお腹の子を庇うよううつ伏せに、そしてそんな母子を守るかのように、ドレイクさんが覆い被さっていた。
「どうして……何で二人が死ななければならないんだ……! 誰が、こんなこと……」
「人間だよ。それ以外に、考えられない」
「にん……げん?」
なぜ人間が、今になってオークを虐殺するんだ。意味が分からない。ぼくたちが来てから今まで、オークから人間へ、これといってアクションはしていなかったはずだ。
「そんなことは関係ないよ。理由なんて要らないの。ただ魔物っていうだけで、殺しの対象なんだから」
「だったら、村のみんな……何もしていないっていうのに殺されたってこと⁉︎ ここにいたってだけで⁉︎」
「そう……」
ぼくは立っていられなくなり、その場に膝を落とした。
シファンさんは、本来であれば子どもを産み、ドレイクさんと子育てに奮闘しているはずだったんだ。
人間が襲撃したばかりに、それは一生叶わないものとなってしまった。
あれだけ子どもを楽しみにしていたのに、優しい人間もいるはずだって言ってくれていたのに……!
「どうして、それを裏切ることができるんだよ……!」
「ミヤ! どこに行こうとしてるの⁉︎」
「許せない……ぼく、行ってくる。行って、直接話すんだ」
「だめ!」
スズが勢いよく飛びついてきて、ぼくが歩こうとするものなら全力で阻止してくる。
「離してくれよ! ぼくだって人間なんだ! 何も問題ないだろう⁉︎」
「嫌だ、離さない! ミヤ、冷静になって! 今ミヤがしなければならないことって、本当にそれなの⁉︎」
なんとかスズを引き離そうとしてもみ合っているうちに、いつの間にか川の縁まで移動していたみたいだ。
ぼくとスズは、揃って川に落ちた。
「ゲホッゲホッ! つ、冷たい!」
雨に打たれ、尚且つ体調を崩している身体には、厳しいものがある。
大慌てで川から上がると、ドレイクさんとシファンさんが目に入った。
もう、声を発することはない。ないはずなのに、ぼくには二人が何かを訴えているように見えてならなかった。
「ケホッ……ミヤ、大丈夫?」
「スズ……」
大粒の涙が、後から後から溢れ出てくる。
ぼくがやるべきことは、怒りに任せて復讐することじゃない。二人を……村のみんなを、安らかに眠らせてあげることだ。
「みんなの、お墓を作ってあげたいんだ。……手伝ってくれる?」
「……うん。いいよ、作ろう」
身体の大きなオークの墓を、たった二人だけで……それも二十人分作るのは大変だった。
いつとはなしに雨も上がったようで、雲の切れ目から光が射しこむ。
「よし、こんな感じかな!」
ドレイクさんとシファンさんを、一つの大きな墓に入れる。
今度は二人……いや三人で、一緒にいられるように。




