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丹花

作者: 雨森 夜宵

 お兄様が部屋の左手、天鵞絨のカーテンを開けられますと、わたくしを三人重ねても届かないほどの大窓が、永久に動くことのない大きな満月を掲げて現れます。わたくしたちの朝でございます。時が全てその動きを止めた日に、そのようにとお兄様が定められました。月の出るうちが昼、月の出ないうちが夜。その境は、この部屋の壁一つを埋めた、精巧な大時計によってわたくしたちに知られます。昼と夜との境目にひとつずつ、昼と夜の真ん中にひとつずつ、鐘が鳴るのです。お兄様はその時計の子供である、真鍮製の小さな懐中時計をお持ちになっています。夜の間、お兄様はご自分の部屋でお休みになり、夜明けの時刻が近づきますと、わたくしの部屋へふらりと遊びにいらっしゃいます。そうして天鵞絨のカーテンを六つお開けになり、わたくしと共に月を迎えられるのです。

 わたくしたちの朝でございます。


 御早う、麗しき我が妹。


 窓辺に立つお兄様のお顔を、満月の光が真珠の色に照らし出しております。真に麗しきはわたくしではございません。お兄様のその目によればこそ、わたくしは美しいものとして見られることができるのでございます。わたくしを映すお兄様の目こそ、そしてその心こそ、誠に美しいのでございます。


 今日で我々がこちら側へ来てから、一万と五千の月を数えたよ。


 そう仰るお兄様の顔は心から喜ばしげで、わたくしはちょっと寂しい気持ちがいたしました。

 わたくしたちがこちらへ来た日というのは、時が全てその動きを止めましたまさにその日でございます。あの日、天地のあらゆるものは動きを止め、地上は静寂に満たされました。鳥は囀らず、風も吹かず、花は永久にその美しい姿を保っております。わたくしの座っております椅子の隣に小さなテーブルがございますが、その上の、硝子の花瓶に活けられた白百合の花はこれも、一万と五千の月の下、変わらずそこに咲き誇っております。それでもわたくしは言いたいのです、一万と五千という途方もなく長い時が流れた、と。


 百五十回目の百の月だから、また少し景色を変えてあげよう。


 お兄様はそう言って、大窓から外へと出てゆかれました。お兄様は、この止まった世界でただひとり、動くことがお出来になります。この世界の時をお止めになったのが、他ならぬお兄様ご自身でいらっしゃいますから。麗しきお兄様。あの日、お兄様は悲しみのあまり、世界の法則ひとつを捻じ曲げるほどの禁忌を犯してしまわれた。世界を狂わせながら、ご自身まで狂わせてしまわれた。愚かなお兄様。優しいお兄様。哀れなお兄様。生きた死体になったわたくしを、心あるお人形にしてしまわれた。ああ、お兄様……。

 もう何度、声にしようとしたか知れませぬ。けれど、お兄様の美しいお心には、わたくしの言葉は届かぬのです。わたくしの肉体は一万と五千の月の間、時の止まったままなのでございますから。

 大窓の隙間から、お兄様の長いおみ脚がすっと入ってこられました。わたくしに背を向けるように入っていらしったのは、何かをお隠しになっているのでしょう。肩ごしにわたくしを見たお兄様は小さく笑って、ゆっくりと振り返られました。


 プレゼントだ、我が妹。


 白薔薇の花でございました。

 五輪の白薔薇が、お兄様の胸の前で静かに咲いておりました。

 お兄様はわたくしの方へゆっくりと歩いていらっしゃいますと、わたくしの右側にお立ちになって、目の前にその花を差し出してくださいました。大窓から差す月の光に照らされて、白薔薇はその美しさの全てを、わたくしの前に示すかのようでした。触れればきっと、絹のごとくなめらかなのでしょう。かつて触れた薔薇の感触を思い出します。あの頃はまだ、わたくしの指も思うままに動き、触れたものの感触をはっきりと捉えておりました。今ではそう易々とは参りません。今のわたくしは、心あるだけのお人形でございます。


 百合はもう見飽きたろう?


 お兄様は優しく微笑まれました。白薔薇をテーブルへ並べますと、そっと手を伸ばして、花瓶から百合の花を抜き取られました。ぴちゃり、と雫が落ちたのは、ちょうど一万と五千の月ぶりに聞く音でございました。


 今日からは薔薇だよ。


 お兄様は百合をテーブルの上に横たえますと、一輪ずつ白薔薇をお手に取り、そこへ挿してゆかれました。白薔薇に負けずとも劣らぬ清いお手が、瑞々しい茎をそっと指に挟んで、花瓶の中へ挿しました。それは、花瓶に対して少しばかり長く思われました。わたくしがそう思うかどうかといううちにお兄様は白薔薇を抜き取り、懐から銀色の鋏を出しますと、まだ水を纏ったままの茎をぱちりとお切りになりました。まるでわたくしの心をお読みになったかのようで、わたくしは少し嬉しくなります。けれど、それもほんの束の間のことで、白薔薇には何か嫌な思い出のあることを、わたくしは思い出しました。そうでした。わたくしは白薔薇を嫌っておりました。けれど、何故にわたくしは、白薔薇を嫌っていたのでしょう。

 時の動きが止まったその日、意識を取り戻したわたくしは、その日の出来事以外の記憶を失っておりました。胸の上に手を組んで、ベッドの上に横たわっていたわたくしの、その横でお兄様は声を上げて泣いていらっしゃいました。首も目も動かすことはできませんでしたが、泣きはらした目のお兄様がわたくしの顔を覗き込んだのですから、すぐにそれと知れました。お兄様はわたくしの頬に触れ、唇を撫で、額にそっと口づけをなさいました。優しく、少し震えながらの口づけでございました。そうして暫くわたくしをご覧になっておられましたが、徐に口を開かれると、実に悲しげに微笑みながら仰ったのです。


 ――――ごめんよ。僕は君を失いたくなくて世界の理まで捻じ曲げたけど、君が誰なのか忘れてしまった。一体自分が何を守ったのか、忘れてしまったよ。


 悲しかったというのは、嘘になるかもしれません。わたくし自身も、お兄様がどういった方だったのか分かりませんでした。悲しみようがなかったのです。けれど、悲しくないというのも嘘になるのでしょう。お兄様のお言葉を聞いて、その微笑みを見て、わたくしは心の底から申し上げたかった。


 ――――泣かないで。どうか、泣かないで。


 あっ、とお兄様が声を上げられて、わたくしは引き戻されました。

 お兄様は最後の一輪を手にしたまま立ちすくんでおられます。その花弁の一枚が真っ赤になっているのを、わたくしは視界の隅に見ることができました。きっと、気付かぬうちに棘で指を刺してしまわれたのでしょう。右の親指の腹を口に当てて、お兄様はじっとその赤い花弁を見つめておられました。その姿に、記憶がひとつ、急に浮かび上がってきたのです。


 ――――お母様は白い薔薇が好きなのです。


 ある遠い日、お母様はわたくしを呼びつけてそのように仰いました。


 ――――白い薔薇は汚れひとつなく、穢れのない姿で咲くわ。実に清く美しいではありませんか。ねえローザ、そうではなくて?

 ――――ええ、お母様。私もそう思います。

 ――――そう。賢い子だわ。


 お母様はそう仰ると、冷たいほどの微笑みを浮かべてお続けになりました。


 ――――貴方もそうよ、ローザ。汚れなく、誇り高く、清く美しくありなさい。私の可愛い白薔薇……。


 そうでした。

 わたくしは白薔薇が嫌いだったのでございます。

 あれはまだ幼き日、使用人の子である男の子と一緒に花環を編んで遊んだ、その次の日のことでございました。窓の外を蜜蜂が横切ったことを覚えております。花の咲く季節だったに違いありません。お母様は使用人の子と遊ばぬようにと強く禁じ、その子と遊ぶことは二度とございませんでした。わたくしは悲しかったのでございます。美しく編みこまれた花環をわたくしの頭に載せて、似合うね、と笑ったあの子を、汚れであり穢れであると、お母様は遠回しに仰いました。お母様のお言いつけは如何なる時も守ってきたわたくしですが、これだけは受け入れられなかったのです。白薔薇であろうと思いながらも、白薔薇であることを憎みながら、わたくしは生きてきたのでございました。

 それを。それを、お兄様、あなたが。


 ――――薔薇にも色々ございますよ、お嬢様。勿論、白薔薇も美しい。しかし、紅の薔薇もようございましょう。紅だけではございません、黄色も、緑も、紫の薔薇もございます。白一色も悪くはありませんが、やはり、色とりどりに咲いてこその花ではございませんか。


 ああ、お兄様、その言葉にわたくしは、どれほど救われたことでしょう。そう、そうでございました、こんな大事なことも忘れておりました。どうして忘れていられたのでしょうか。わたくしが生きられたのはあなたの言葉があればこそ、あなたがそばにいればこそでしたのに。

 お兄様、あなたはお兄様ではないのですね、わたくしの血の繋がった兄ではないのですね。けれど、わたくしはあなたの妹で構いません。あなたの傍にいることを許されるなら、呼び名など些細この上ない。でも、わたくし、あなたにお伝えすることができない、こんなにも傍にいるのに、あなたに瞬きのひとつさえ届けて差し上げられない……。

 こんなにも悔しいのに、涙のひとつさえ出ることはございません。わたくしの肉体の時は止まっているのです。それをこんなにも苦しく思うのは、お兄様がわたくしを愛してくださるのと同じように、わたくしがお兄様をお慕いしておりますればこそでございましょう。その気持ちを知ることは、苦しくもまた、幸せなことでした。伝わらずとも、届かずとも、わたくしはお兄様をお慕いしているのです。こんなにも。ああ、こんなにも。


 ねえ、我が妹。


 離した親指に盛り上がる暗い赤を見つめて、お兄様は呟かれました。


 白薔薇も美しいが、紅の薔薇というのも美しいな。


 わたくしの心臓が動いていたなら、この瞬間に止まっていたかもしれません。

 零れ落ちそうになった指の上の血を、お兄様は最後の白薔薇の上に落とされました。また一枚、花弁が紅く染まります。お兄様は目を細めて、慈しむようにそれを眺めておられましたが、やがてテーブルの上に薔薇を置き、置き去られていた鋏を左手でお持ちになりました。わたくしはお兄様が何をなさるのかを知りました。果たして、お兄様は血の出ている親指の腹を鋏の先に挟み、ぎゅっと握りこんだのでございました。


 痛っ。


 小さく、聞こえるか聞こえないかというくらいのお声で、お兄様は呟かれました。その痛みはわたくしにまで伝わって来るようでした。お兄様は極めて冷静に薔薇と鋏とをお持ち替えになって、白かった薔薇の花を、丹念に紅く染め上げてゆかれました。


 ほら、ご覧。白い薔薇が汚れてしまった。


 真っ赤に濡れた薔薇は、月光を浴びて妖しく光っておりました。それは、お兄様が今まで見せてくださったどんな薔薇よりも汚れておりました。実に徹底的に、取り返しのつかない程念入りに、汚されておりました。それでも、それでもその薔薇は、どんな薔薇よりも美しく咲き誇っていたのでございます。


 綺麗だろう、我が妹。


 ああ。

 わたくしは、この薔薇になりとうございました。

 清からずとも美しい、この紅き薔薇に。


 お兄様はその薔薇を、四本の白薔薇を背景に、わたくしから一番よく見える位置に飾ってくださいました。切れてしまった親指の腹からはまだ血が溢れ出ておりました。お兄様は真っ白なハンケチでそこを押さえていらっしゃいましたが、ふっと楽しげにお笑いになると、急にハンケチを外してしまわれました。何をなさるのかと思って見守っておりますと、玉になった血を緩く開いた唇に当て、器用に塗り広げてゆかれます。あっという間に、お兄様の唇は薔薇と同じ色に染まりました。


 どうだい。綺麗だろうか?


 月光の中、薄く微笑むお兄様の、窓側のお顔だけが照らし出されておりました。しかしそのお姿の、なんと神々しいことでしょう。明るいお顔と、暗いお顔と。その両方を、血に穢された美しい唇の微笑が繋いでおります。


 ――――お綺麗です、お兄様。本当に、お綺麗でございます。


 わたくしの動かぬ唇が、お兄様の唇に触れられました。実に、突然のことでございました。濡れた感触に、わたくしは本当に時の止まったような心地が致しました。

 まるで悪戯を終えた子供のように、お兄様はにっこりとお笑いになりました。真っ赤な、その唇で。


 やはり、君には紅が似合うな。

 ――――いえ、いえ、違います、本当に紅が似合うのは……。


 わたくしが叫び終えないうちに、部屋の奥の大時計が重たい鐘の音で空気を震わせました。お兄様はそれを見遣っておられましたが、やがてハンケチを巻いた指先を握ったまま、わたくしの部屋を出てゆかれました。

 わたくしたちの昼でございます。

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