謀殺
一
「明日にでも晋に向けて出発する。準備をしておくのだ」
そう命令する太子の表情は、これまでになく明るい。少し前までは、父王に誅殺される運命をただ受け止めようとしていた鬱屈した青年だったはずだが、いまは晋に向かうことを希望と感じているかのようであった。
「子胥どの。異存はないですか」
子仲は、伍子胥に尋ねた。あるいは伍子胥ならば反対するのではないかと思いながら。
「太子に従う」
その子仲の思いをよそに、伍子胥は簡潔に答えた。つまり、彼は明らかに本意ではなかった。しかし内心を抑え、決定に従う分別を優先させていたのである。
子仲の心にも不安はある。だが、太子の表情に光が射したことは歓迎すべきことだと考えた。かつては意気消沈ぶりが目に余り、首に剣をあててまで行動を促さねばならぬほどであった太子が、いまは積極的に生きようとしている……それは素晴らしいことのように思えた。
だが、それにはやはり理由があったのである。
いっぽう、このころすっかり傷が癒えた奮揚は、日に一度、申の城内を散策することを趣味としていた。その傍らには、常に紅花がいる。
「傷あとが綺麗になりましたね。よかった」
優しい口調で紅花は言う。それが奮揚の心を和ませるのであった。
紅花は兄の包胥と同じ血を受け継いでいるあって、女性としては背が高い方で、並んで歩く奮揚とさほど目線に違いはない。このため、奮揚は振り返ると正面に彼女の目を見据える形になる。そしてそのまま、特徴的な澄んだ瞳に吸い寄せられるのが常であった。
「初めて会ったときから思っていたが、君の眼はとても綺麗だ。……世の中の汚れたものを一切見ないようにしているのか?」
紅花は声をたてて笑った。
「そのようなことを言って……。見えるものは全部見えるに決まっています」
「では、眼を背けているのだろう。そうでなければ君のような無垢な瞳を保つことはできない」
奮揚の言葉に紅花はとびきりの笑顔で応えた。それはいままで見たことのない、あるいは彼だけにしか見せたことのない、いい笑顔であった。
「奮揚さま、ここから川の流れを見てください。この申で一番眺めがいいところですから」
紅花は実際の年齢に比して、大人らしい態度を見せる女性であった。その彼女が、喜々として奮揚の手を取り、川を指差すのである。奮揚としては、当然それを可愛らしく思わざるを得ない。
紅花の指差す先には、陽光に反射した川が黄金色に輝き、それがさらに水際の建物を金色に照らしていた。そしてその風景は川の流れに伴って、きらきらと反射を繰り返し、すべてが動いているかのような錯覚を抱かせた。
「こういった風景を見続けていれば、君の眼のように澄んだ瞳を持てるようになるのだろうか」
奮揚は自問するかのように呟いた。その気持ちを紅花は読み取り、奮揚を元気づけるのである。
「世の中には、素晴らしいこともあるのですよ。嘘や悪意ばかりがこの世のすべてではありません。奮揚さまのこれまでの人生には、つらいことや悲しいことが多かったに違いありませんが……きっと幸せが訪れます。だからどうかお気を楽にして、これからの人生をお過ごしください」
「いや。いま、この瞬間こそ幸せだ」
奮揚は迷いなくそう答えた。多分に冗談めかしてはいたものの、それは偽らざる彼の気持ちであった。
「今後もこの幸せが続きますように……」
言う紅花の肩を、奮揚は抱き寄せた。黄金色に輝く光が、二人を優しく包む。彼らは動く風景の一部となった。
二
「男子が生まれた」
その日、包胥は奮揚に告げた。突然のことだったので奮揚は何のことかわからなかったが、やがてそれが楚の新たな太子が生まれたことを意味することに思い当たる。それは、彼にとって良いとも悪いともいえる出来事だった。
楚に生きるひとりの国民としては、男子の誕生は王朝の安定に繋がる。奮揚はこの時点で未だお尋ね者の身分であったため、楚の宮廷に対する思いは微妙というしかない。しかし生まれてきた男子には、なんら罪はないのだ。良かったと言うべきだろう。
だが国を追われた建の立場に立ってみるとどうか。廃嫡された建にとって、新たな太子の誕生は、復権に向けての可能性が限りなく閉ざされたと言ってよい事実であろう。彼が今後をどう生きるべきか、奮揚は自分のことのように思い悩んだ。
「建さまのもとに馳せ参じて、お助けしたいとお思いですか」
紅花は心配そうな目をして、そう奮揚に尋ねた。しかし、奮揚には建をどうやって助けるべきかが、よくわからない。
建が太子の座を、あるいは王座を求めて楚に乗り込んでくることを後押しすることが、彼を助けることとなるのだろうか。しかし、それには少なからず波乱が伴う。それともまったく違う土地で、新たな生活を送るよう建を説得することが彼を助けることになるのか。
いや、彼には子仲がついている。連絡は取りあっていないが、子仲が存命ならば、今ごろは建のもとに辿り着いているはずだ……。奮揚はそう思い、建への思いを頭から振り払おうとした。
「国が平和であれば、それで満足すべきかもしれない。もとの太子であった建さまが帰還したとして、それが社会に乱を起こす事態になったとしたら……それこそ兄上が唱える『道』に反することになる。ここは静観すべきだろう」
奮揚はそう結論づけた。紅花は安心したように頷き、兄の包胥もこの言葉に目を細めた。
「奮揚どの、君にわかってもらえて嬉しい。妹が君に惹かれた理由もよくわかるというものだ」
包胥の言に、紅花のみならず奮揚も顔を赤めた。それを見て意地悪そうな笑みを浮かべた包胥だったが、やがて表情を改めると話題を変えた。
「実をいうと、私は大夫という身分柄、祝賀のために郢を訪れなければならない。その際に折りをみて例の秦のもと公女に会ってこようと思っている。君も来ないか」
奮揚は包胥の発言に驚きを隠せなかった。まさか彼が自分の境遇を理解していないはずがない、自分は宮廷に追われている身分なのだ、と。
「お兄さま、そんなところに行ったら、奮揚さまは捕らえられてしまいます」
紅花は驚く奮揚に先立って、質問した。
「いや、それは私がどうにかしよう。要は費無忌に見つからなければよいのだ。費無忌以外に宮廷で奮揚どのの顔をはっきりと覚えている者はおそらくいないだろう。危険がないとはいえないが、秦の公女に会う機会は滅多にあることではないし、また会ってみる意義はおおいにあると思うのだ」
確かに会ってみたいと思うのである。楚は彼女の入国を機に大きく変化し、それ以来国情が荒れ気味となっているが、肝心の彼女の意思はまったくわかっていない。本人の意思とはまったく無関係に、彼女を中心に世界が動いているのである。ぜひとも会って、本心を確かめてみたいのだ。
「でしたら、私も一緒に行きます。いいでしょう、お兄さま」
紅花は強い口調でそう言った。
「危険な目に遭うかもしれん。気をつけることだ」
包胥は注意を促したものの、彼女を止めない。
「わかっています」
肝心の奮揚の決断の前に、紅花は決心を固めてしまった。紅花は凛々しく、いい意味で男前であった。
三
結局奮揚は二人に連れられるように、郢へ赴くことになった。しかし実際に宮殿に入ることなどできるかどうかわからない状況では不安が尽きない。せっかく変装のためにつけた顔の傷もいまではすっかり癒えてしまっていた。
「奮揚どのが費無忌を襲ったとき、たしか祈祷師の扮装をしていたのだろう。素顔は知られていないに違いない。安心したまえ」
包胥は奮揚の不安をよそに、そのようなことを言う。また紅花も、
「兄に任せておけば安心です」
などと言うのであった。彼は、何もできない自分を恥じた。
――生粋の武人たるこの私が……。
奮揚としては自らの身を嘆かざるを得ない。現在の彼は、包胥や紅花によって生かされているのだった。
「他人の力に頼るのも、生きていくうえで大切なことですよ」
紅花は奮揚の頭の中の考えがまるで見通せたかのように、的確なことを言う。奮揚は、それによって救われたような気がした。
包胥は、しかし何も特別なことをしなかった。二人を連れて先頭に立ち、宮殿の門をくぐると何食わぬ顔で二人を自分の従者だと周囲の者に告げた。そして、それを疑う者は誰ひとりとしていなかったのである。
――大夫とは、恐れ入ったものだ。
奮揚は驚かざるを得ない。その様子を見た紅花は、にこりと彼に向かって微笑むのであった。
「だから兄に任せておけばいい、と言ったのです」
まったくその通りだと、自身の心配が杞憂に過ぎなかったことを知った奮揚であった。
「祝宴が催される前に、用件をすませてしまおう。宴の後では訪問客がごった返して厄介なことになる」
包胥はまるで何ごともなかったかのように、二人にそう告げた。そしてずかずかと大胆に宮殿の中を歩いていく。すれ違う者は皆、通路を開けて脇により、頭を下げるのであった。奮揚は、あらためて包胥の大人物ぶりに驚愕した。
「私は、こう言ってはなんだが、ただの大夫ではない。王と同じ羋姓を持っているのだ。ある程度の特権はあるさ……。しかしその特権がこのような形で役立つことになるとは、嬉しいものだな。この私に、君を守ることができるとは」
包胥の謙遜ともとれるような言葉が、奮揚の心を和ませた。慈愛に満ちた心こそが、人を救う……奮揚は本気でそのようなことを考え始めた。
だが、宮殿の奥にある側室の間を訪れたとき、その考えは崩れ去った。その部屋の主は、泣き崩れていたのである。
「運命に逆らえず、人の意志に弄ばれ、このまま一生を終えるかと思うと、私は何のためにこの世に生を受けたのか、と思ってしまうのです。こんなことなら……子など産まなければよかった」
そう言いながら、嗚咽するのである。おそらくはいままで誰にも明かさず、胸に秘めてきたその言葉を、その女性は包胥の顔を見るなり口にしたのである。
ひと目見て信用できる人物だと感じた、ということだろうか。
紅花はその女性の肩を抱き、優しく涙を拭いてやった。女性は肩をしゃくり上げながらも、次第に落ち着きを取り戻していった。
「申の大夫の包胥、と申し上げます。こちらは我が妹の紅花。そしてこちらは奮揚という者です。私の従者という形をとってこの場に同行させましたが、実を言うと彼は、費無忌を襲撃した犯人のひとりです」
「あの費無忌を……殺してほしかった。失敗したのは、私にとって残念なことでした」
女性は小声ではあるが、しっかりとした自己主張をした。これは、本心であるに違いなかった。
「申し訳ありません。力不足でした」
奮揚には謝罪の言葉しか選ぶことができなかった。
「初めて会うというのに、だいぶ感情的になってしまいました。すみません。私はこれからこの国の王母となるべき存在なのに、こんなことではいけませんね。さっき私が言ったことは、どうぞ忘れてください」
そう言いながら、女性は表情を戻した。そうすると細めで切れ長の目元が涼やかである。肌は白く透明であり、唇は薄いながらも柔らかそうな印象であった。
なるほど、天下の動静を左右する美女かもしれぬ。奮揚はそう思い、費無忌が太子を裏切った気持ちが若干理解できたような気がした。
「私は秦公の娘として生まれ、ゆくゆくは見知らぬ他国へ嫁に出される運命にあることを幼いころから理解していました。ですが、私も人の子です。見知らぬ国に赴くのも、相手が王であることも構いませんが、愛してもいない人の子を産まねばならぬことには我慢できません。その我慢できないことを、私はしてしまいました。自分の運命を呪っています」
この女性は、美女に生まれたからこそ苦労していた。運命を呪うという言葉に、まったく嘘はなかろう。可憐な容姿が同情を誘った。
「私は、名を喜といいます。まったくふざけた名前を付けたと親を責めたくもなります。名が実を伴っていないのです」
喜という名。姓は秦公の娘なので嬴である。本来であれば、幸福な人生を送るべくして付けられたはずのその姓名が、彼女にとっては重荷になっていた。
「そのように悲観なさるべきではない。貴女の人生はこれからです。生まれてきた子を愛し、国民を愛しなさい。そうすれば、貴女もすべての人から愛されます。その中には、王より貴女へ深い愛情を示す者も現れましょう」
包胥の言葉には非常に含蓄があるように思えた。彼は王よりも愛を選べと言っているのであろうか。
「希望を捨てないことです」
さらに包胥は言う。そしてその言葉に嬴喜はこくりと頷くのであった。明らかに彼女は元気になっていた。
「楚王は……私を愛してはくれます。ですが私にはその愛に応える気持ちが持てないのです。年齢が離れ過ぎていますから……。そう思うのは私のわがままなのでしょうか」
「そんなことはないでしょう。そう思うのは至極当然のことです。貴女はご自分の思うがままに日々をお過ごしなさればよろしいのです。それが原因でなにか問題が起きましたら、この私が解決に向けて奔走することにしましょう。どうか、私を頼ってください」
包胥は、そのように言い切った。単に嬴喜を元気づけるために言った言葉なのか、それとも本心からそうしたいと願って言った言葉なのかは、この時点で奮揚には判断できなかった。
しかし嬴喜は確かにこの言を喜んだのである。
「ぜひ、よろしくお願いします」
やはり包胥は慈愛に満ちた男であったと言えるだろう。最初は悲しみで一杯だった側室の間が、いまでは優しさに満たされていた。
四
もと楚の太子であった熊建は、結局伍子胥と子仲を伴って晋へ入国した。建は意気揚々としており、その表情には明るさがみなぎっていた。しかし、その原因が何であるのか、子仲にはわからない。これは伍子胥も同様であった。
当時の晋の君主である頃公が彼らを迎えたが、その目にはうすら笑いが浮かんでいるように子仲には感じられた。ひと目見て、頃公にはある種の企みがあり、自分たちをその企みに利用しようとしている、そう感じたのである。
「太子、お気をつけ下さい」
子仲は注意を促したが、このときの建は浮かれ気味であり、忠告を素直に聞き入れようとはしなかった。
「何を、気をつけろというのか」
子仲は確信を持てないながらも、忠告することをやめない。
「あの目には、悪意があるように感じられます。具体的にはわかりませぬが……。口車に乗せられるように、うまい話に靡いたりしないようにお気をつけ下さい、と言いたいのです」
太子は表情を変えた。
「お前は、かつて俺に剣を突きつけて前向きに生きるよう促したはずだ。晋という大国の君主が我らになにかを期待しているのであれば、それに従って行動するのが筋というものではないか。当然、見返りがあるはずだからな」
そう言うと、それ以上子仲の話には取りあおうとしなかった。子仲の胸は不安で満たされた。
「子胥どのは、どう思います?」
質問された伍子胥は、冷酷に言い放った。
「やりたいようにやらせておけばいいさ。実を言うと私は少し幻滅しているのだ。私の父が精魂込めて育成した男が、あんなに子供っぽい奴だとはな」
「それは、ある程度仕方のないことではないかと思いますが……。子胥どのは太子を見捨てるおつもりですか」
「なにもそういうつもりで言ったわけではない。太子の尻拭いこそが、我々の役目だと言いたかっただけだ」
伍子胥の言葉は、野卑な表現だが正しい。子仲の見る限り、太子は精神がやや不安定なところがあり、危なっかしいのである。しかし主君として仰いでいる限り、臣下としてはその判断を尊重するべきであった。
しかし太子には確かによい面もある。彼は、費無忌暗殺に失敗した子仲を責めなかった。また、守り役の伍奢を心から尊敬しているなど、基本的には優しい男である。しかし父親から死を賜るなどの相次ぐ苦難を経験した彼は、強く、逞しく成長しようとしていた。もしかしたらその過程にやや無理があったのかもしれない。
太子を呼び寄せた頃公は、ひとつの策を与えた。それに応じるあたりに、彼の心が未成熟であったことの証が示されていると言えよう。
「太子は、鄭国に歓待されたと聞いている。信用されている証であろう。そこで言っておきたいのだが、余は鄭国を併呑したいと考えている。太子よ、御身が鄭の内側から手引きし、余が率いる晋の軍隊が外側から攻めれば、鄭国を滅ぼし、その地を晋の領土とすることが可能だ。このことを聞き入れてくれれば、鄭を滅ぼしたのち、御身をその地に封じよう」
太子はこの誘いに乗ってしまった。子仲と伍子胥はそれを知って臍を噬んだが、この時点でできることはなにもなかった。
五
太子一行は晋の頃公の意を受けて再び鄭国に入った。鄭の君主である定公はこれを受けて驚いた様子を見せたが、正卿の子産は落ち着いていたという。
「戻られましたね。晋国に身元を保証されたのでしょう。そうだとしたらなおさら邪険にはできません」
と言った子産は、再び歓待の儀を催した。彼らを骨抜きにしようとしたのである。
「子産は、気付いているな」
祝宴の中、伍子胥は子仲の耳元でそう囁いた。子仲は頷き返す。
「きっと、我々に機会を与えないつもりなのでしょう」
「うむ。おそらくそうに違いない」
子産は頭が切れる上に、勘のよさもある男であった。それゆえ誰が見ても太子建などには対抗できる相手ではない。子仲は計画中止の必要性を意識し始めた。
「太子には、やめさせましょう。どんなに綿密に立てたつもりの計画でも、必ず子産のような男には露呈します。おそらく彼は、こうなることを見越して我々を晋に赴かせたのだ!」
伍子胥は同意した。
「その通りだ。これまで太子にはやりたいようにやらせてきたが、この辺りが本当に尻拭いが必要な時期なのかもしれない。まずは太子を説得せねばならぬ。子仲、できるか」
「なんとかします」
子仲は太子のもとへ赴いた。
自身を取巻く謀略と悪意の数々に、太子建は気付くことができなかった。彼を取り巻く人々の中にはうすうすそのことに気付いていて、注意を喚起してくれる者が存在していたのにも関わらず、彼は自身の意識の高揚と、わき上がる興奮を抑えきることができず、その意に従うことができなかった。したがって彼の運命は、彼自らが招いたものだと言っていいだろう。太子建は計画を中止するよう進言した子仲に激怒し、彼を殺そうとしたのである。
「子仲、貴様! 俺の栄達を阻止するつもりか! 臣下としてあるまじきその態度を正すには、死をもって償わせるしかない! 首を出せ!」
太子の精神はやはり不安定であったと言わざるを得ない。突如腰の剣を抜いて斬りかかろうとしたその姿は、やはり伍子胥の言う通り子供のようであった。
子仲は、遁走した。彼は別室で待つ伍子胥のもとに駆け寄り、息を切らしながら叫んだ。
「子胥どの! 太子はもう駄目だ!」
説得に向かった子仲の身に命の危険が迫っていることを瞬時に察した伍子胥は、彼の手を引き宮殿の中央へ走った。その行く先には、子産がいる。
「我々は、殺されようとしている。子産どの、どうかお助けいただきたい!」
すでに祝宴は終わり、残された執務を片付けようと卓に向かっていた子産は、勢いよく席を立った。
「どうしたというのですか」
伍子胥は、子産に説明を始めた。
「子産どのにはすでに知ってのことかもしれない。しかしあえて白状する。我々の主君である太子建は、晋に言い含められて、この鄭国を乗っ取ろうとしているのだ。我々はそれを諌めようとしたが、逆上されていま首を斬られようとしている」
子産は、すぐさま反応した。
「なるほど、よくわかりました」
そう言うと子産は執務室を出て、宮中の警護兵を呼び出した。彼の号令に伴い、甲冑をつけた屈強な兵士たちが宮殿内に散っていく。そして数刻後、太子はとらわれの身となったのである。
「計画はあらわとなりました。太子、観念してください」
子産は手枷をはめられ、膝を折った太子に向けて上から声をかけた。
太子は顔もあげない。
「私はこのことを公表し、正式に晋に抗議するつもりです。そうすれば晋公の輿望は地に落ち、天下の笑い者となりましょう。あなたはその手助けをしたことになります。現世のみならず、後世の物笑いの種となる恥辱は耐え難いことでしょう。よってここで死ぬことをお勧めします」
そう言って、子産は短剣を太子の前に放った。
「手枷をはめたままでも、ご自分の喉元を刺すことはできましょう」
しかし太子は首を左右に振った。自害はしない、と言うのである。
「仕方ありません」
子産は左右の兵を呼び寄せ、太子の首を斬り落とすよう命じた。それはあたかも熟れ過ぎた果実を枝からもぎ取るような、乾いた口調であった。
「始末するのだ」
命じられた兵は、まったく躊躇する様子も見せずに太子の首を斬り落とした。それは、あらかじめ定められた台本の通りに行なわれた演劇のように、ほんの少しも乱れることなく行なわれたものであった。
しかし、ごく僅かな変化はあった。
ことが済んだ際、子産の口の端がほんの少し上がったのである。これは、彼の計画どおりにことが運んだ証であった。
子仲と伍子胥は鄭をあとにした。太子を守りきれず、最後には自らの手で葬り去った形となった彼らは、未来へ抱く希望すら持ち合わせていなかった。