流転
一
「この道場は、もともと郢にあったものをこの申の地に移築したものだ。私は、師範としてここを運営しているが、当然のことながら最初から師範であったわけではない。私は、その座をある友人から譲り受けたのだ」
申包胥は、奮揚と昼食を共にしながら、そのように話を切り出した。その傍らには、紅花がいる。しかし彼女は彼らと昼食を共にしているわけではなく、給仕をしているのであった。
「君も一緒に食べたらどうだ」
奮揚は、かつて司馬の地位まで登りつめた男であったが、もともと有力な貴族の家柄の出身ではない。使用人であるならばともかく、同じ血を分けた妹が兄と食事を共にしないことに違和感を感じた。
「気になさらないでください。私がそうしたくてしているのですから」
紅花はほんのりと顔を赤らめ、はじけるような笑顔で応じた。発した言葉とは裏腹に、奮揚に気をかけてもらったことが嬉しかった様子である。
「それよりも……いま兄が大事な話をしていますから」
そう言いながら、紅花は奮揚の膳を整えた。空いた食器を下げ、新たに焼いた川魚ののった皿を置く。その際偶然にも、ほんの一瞬だけ、お互いの手が触れ合った。
紅花は恥ずかしそうに下を向きながら、微笑んだ。
奮揚は思わず心を奪われそうになったが、包胥の手前では冷静を装わざるを得ない。気を取り直して包胥の話に応じた。
「包胥どののいま話されたことについては、実をいうと私はすでに知っている。ある友人とは、伍子胥のことであろう。道場のいきさつについては、生前の伍尚が私に話してくれた」
「おお、そうであったか」
話を先回りされるような形になった申包胥であったが、特に気を悪くする様子もみせず、彼は食いながら応じた。普段折り目正しい彼にしては行儀が悪い仕草だが、これは彼なりの相手に対する親しみを示す表現なのであった。
「その話を聞いたとき、奮揚どのはどう思ったか」
「そのときはなんとも思わなかったが、いまは不思議に感じる。伍子胥は……性格にしっかりとした芯が入ってはいるが、どちらかというと野卑な男だ。包胥どのと馬が合ったとは意外な気がする」
包胥はそれを聞き、声をたてて笑った。そして、
「野卑とはずいぶんと直接的なものの言い方だな。しかし、言い得て妙だ。彼は芯の強い男で、自分が正しいと信じたことは必ず実行に移す。誰しも胸の内にある思いを現実のものとさせるには苦労するものだが、彼はそれができる稀有な存在だ」
と、ちょっと聞いただけでは褒めているのかけなしているのかよくわからない評価を下した。奮揚は即座に返答できなかった。
だが包胥は、構わずに話を続けた。
「そこで奮揚どのにお尋ねしたいのだが……次に伍子胥が実現させようとしていることはなんだと思う」
奮揚はさらに言葉に詰まった。とはいえ頭に浮かんだ答えは明確である。しかしその答えは、包胥が追い求める「道」とは明らかに異なるものであった。
「……いま、伍子胥の胸の内にある考えは……自らの力で楚を滅ぼすことだ……と、思う」
奮揚はやっとのことでそう答えた。せっかく紅花が揃えてくれた食事が、不味く感じる思いであった。
「その通りだ。さすがもと司馬というだけあって、よく人を見ている」
包胥は動じた様子も見せなかった。しかし、このとき彼は食うのをやめ、箸を置いた。
「伍子胥にとって親兄弟を殺した楚国を滅ぼすことは、いまや宿願といって差し支えないだろう。彼が国を憎むのは当然のことだ。だから私は実際に彼がその思いを口にしたとき、あえて止めなかった」
「では、包胥どのもやはり……楚は滅ぶべきだとお考えなのか」
奮揚は動揺を隠せない。彼は、腐敗した政治を正すつもりであった。そのために佞臣を暗殺するという武人として恥ずべき行為に手を染めようとし、それに失敗した後にも次の手を探しているつもりであった。彼の意志は、決してこれまで積み上げられてきた王朝の歴史を無に帰さしめるというものでは決してないのである。だが、包胥はそれをやろうとしているのであろうか。
「違う。私の望むところは、恒久的な平和だ。ここにいる妹や、君の幸福な人生だ」
奮揚は包胥の言うことが、よくわからなくなってきた。いったい彼の求める正しき「道」とはどのようなものなのか?
「私の考えるところは、こうだ。国にひどい仕打ちをされた伍子胥の気持ちはよくわかる。だから、彼には思いを遂げさせてやりたい。だが、彼には寸前のところで自重してもらいたいのだ。費無忌が悪人ならば懲らしめるのもよかろう。王が正しく政治を執り行わないのであれば、また懲らしめるのもよかろう。しかし、自分の不幸の仕返しをするために、まったく関係のない人々を巻き込んではならぬ。だから王は殺されても、国は守らなければならない」
包胥の意見は、ひどく大胆なものであった。奮揚は驚きを隠せない。
「包胥どのの言うことはわかるが……王あってこその国ではないのか」
「いや、そうではない。と、いうより、そうあるべきではないのだ」
包胥は理論を展開させようとしたが、そこで横やりが入った。昼の休憩時間が終わり、道場の門下生たちが午後の講義を受けに現れたのである。
「や、時間か。もう行かなくては。この話はまた次の機会に」
包胥はそう言って座を離れた。あとに残された奮揚の前には、まだ食事が残っている。
「どうぞお食べください。兄は食べながらお喋りするのが好きな人なので……奮揚さまにはご迷惑をおかけしてしまいましたね」
紅花は気を遣って奮揚に食事を勧めた。そこで奮揚は、あらためて焼魚を箸でつつこうとしたが、今度は紅花が話し始めた。
「兄の言いたいことは、国というものはあくまでそこで暮らす人々の幸福のために存在するものであって、決してそれを運営する人のためにあるものではない、ということです」
奮揚の箸は、再び止まることとなった。
「……どういうことだ?」
「国を運営する役目の人には、それ相応の責任が伴います。だから多少の役得があることは、認めるべきでしょう。ただ、その責任を果たそうとせずに役得だけを得ようとする人も、中にはいます。兄が、『王は殺されても』と言ったのには、そういう意味が込められているのでしょう」
「つまり……王は代替えが利く存在だと……君はそう言いたいのか」
紅花はこくりと頷いた。さすがに声を大にして返事をすることはできないのだろう。一見穏健的ではあるが、これは王の側から見れば、非常に危険な思想であったのだ。
「兄は、伍子胥さまが王を殺そうとしても止めないでしょう。ですが、それによって楚が滅亡することは必死に阻止するはずです。奮揚さま、どうか……兄の力になってやってください」
そう言い残して紅花は席を立った。奮揚は結局食事を食べきることができなかった。
――まったく、あの兄にしてこの妹あり、とはよくいったものだ。
奮揚は、ひとりで笑いを漏らした。
二
子仲の心の中には、伍子胥に対する負い目がある。鄭への道中でそれを晴らしたいと思った彼は、何度も謝ろうとしたが、伍子胥の態度は常に威圧的で、人を寄せ付けようとしないものであった。結果、子仲は伍子胥に話しかけることさえもできなかった。
「彼は、怒っているのでしょうか」
子仲は、太子に向かってやや子供じみた質問をしたが、太子はそれを笑って受け入れた。太子にも、心の余裕が出てきたということであろう。
「お前は、誠実な奴だな。彼が自分に対して怒っているのなら、どうにかして申し開きをしたいと思っているのだろう。……だが心配するな。彼はお前に対して怒っているのではない。言ってみれば、正義が通用しない世界を悲しんでいるのだ。怒りではなく、悲しみだ」
「……その悲しみを彼は、どうやって癒そうとしているのでしょう」
子仲としては、それが一番気になることである。復讐に一生を捧げるしかないとすれば、実に悲壮な人生ではないか。そんなことに心血を注ぐことより快楽を求めた方がはるかに有意義だろう……。
「彼にとっては、復讐を遂げることが快楽なのだ。それをわかってやることだ。しかもいま現在、彼は楚の宮廷に追われている身分だ。快楽を追い求める余裕はない。生き延びること自体が、難しいのだ」
太子は諭すような口調で言った。しかし、子仲はそれに反発を覚える。宮廷に追われているのは、彼も同じだったからだ。
「伍子胥にとって、快楽とは政治の腐敗した楚国を滅亡させることなのだ。その意図は、俺の意思と合致する」
太子は重ねて言った。半ば想像していたことではあったが、子仲としてはやりきれない。
「滅亡させたあと、その後は……? そのことについてどうお考えなのですか」
子仲は問うたが、太子の返答は曖昧なものだった。
「そのときは、そのときだ」
子仲の心の中を、不満と不信が渦巻いた。果たして太子は事態をどの程度真剣に考えているのだろうか、と。
先頭の車両にいる伍子胥が叫んだのは、そのときだった。
「城壁が見えたぞ! あの向こうは鄭国だ」
太子はその声に頬を緩めたが、その一方で子仲は前途の多難さを感じ始めていた。
鄭は周王室と同じ姫姓を持つ由緒正しき国家である。君主である鄭公の爵位は伯爵であったが、これに対して異姓である楚の君主は王を自称しているが、爵位は子爵であるに過ぎない。
しかし鄭は小国である。北は晋、南は楚に囲まれ、面従腹背を伝統的な政策としてきた国である。名目的には晋に服従する形をとりながら、楚の意向には決して逆らわない、そのような国であった。
よって、このとき亡命してきた建という人物の正体が楚の太子であるという事実は、鄭国内を大きく揺さぶった。
「厄介なことになった」
当時の鄭の君主である定公は、頭を抱えた。
「楚に睨まれることになる」
心配のあまり卒倒しそうな様子の定公を、宰相が励ました。
「構いません。丁重にもてなしましょう。その後、我が鄭国は小国なので充分に饗応できません、晋にでも行かれればより良い待遇を得られましょう、などと言って追い出せばよいのです。もっとも、当人たちもすでにそのつもりでしょうが」
「楚に対してはどう弁明する」
「捕らえようとしたら逃げられた、とでも言っておけばよいでしょう。いまの楚にはそれほど力はありませんから、対応はそれで充分です」
「そうか……」
定公はあからさまに安堵していた。それだけ宰相の言葉には重みがあるということであろう。彼は、実際のところ政治に関しては宰相に任せきりであった。
このときの鄭の宰相(正卿)は、名を子産という。世界最初の成文法を世に残した人物であった。
三
子産は続けて言う。
「太子建を匿うことで、いっときは楚から詰問されることになるでしょう。しかし、私の見積もりでは、彼らは必ず晋に赴くことになります。もし万が一、彼らがその気を示さなければ、我々がそうさせねばなりません」
定公はこれに対して疑問を呈した。
「彼らが晋に赴いたところで、我らの弁明の理由にはなるまい。果たして取り逃がした、というだけの理由付けをしたところで楚が納得するだろうか」
「晋が単に彼らに安住の地を授けるために受け入れるはずがありません。必ず晋は彼らを政略の道具にしようとするはずです。我々としては、それを阻止すれば良いのです」
子産はまるで未来が読み通せるかのような、確信に満ちた表情で答えた。
「任せるぞ」
定公は子産を信用し、それ以上口を挟まないことに決めた。
子仲は、このとき初めて伍子胥とまともな会話を交わした。混乱を極める宋を脱出し、危機を回避したのちの伍子胥は、落ち着いていた。
「鄭の国力では、楚に対抗できないな。長居は無用だ」
宮殿の中では、太子を歓待する催しが行われている。子仲と伍子胥は末席で祝賀の雰囲気を味わいながら、図々しくもそれを批評しているのだった。
「ですが、鄭では我らを歓迎してくれているようです。正直な話をすれば、居心地がいい。自分のために女たちが舞ったり、楽器を演奏したりする……このような経験はしたことがありません」
子仲は正直な感想を述べたが、伍子胥はそれを否定した。
「お前のためではなく、もちろん俺のためでもない。鄭は太子を歓待しているのだ。それがどういうことかわかるか?」
「いや、わかりません」
子仲は、実を言うと自分なりに感じるものはあったのだが、ここは伍子胥に説明させたいと思い、あえて愚者を演じた。
「鄭は、楚国内の政争に敗れた形の太子をとりこみ、晋の歓心を買おうとしているのだ。この国は、晋と楚という二つの強国に挟まれ、その微妙な政治的均衡の上に存続している。ところがいまは、この二国の間に休戦が結ばれ、形の上での戦いはない。そうすると、どうなるか」
「どうなるのです?」
「両者が仲良く鄭国を分割支配しようということになるかもしれない。鄭としては、当然それは避けたいだろう。鄭は自分たちの制御できる範囲で、二国を争わせたいのだ。私はそう思う」
「では、このまま我々が鄭に留まっていれば、彼らの政治的道具にされる、と?」
「鄭の正卿の子産は、頭の切れる男だという。いまは歓待の態度をとっているが、楚の目を気にして我々を殺すかもしれない」
「そうでしょうか」
「そうに違いないさ」
伍子胥はそう断言したが、子仲には疑問が残る。もし彼らが我々を殺すつもりであれば、最初から入国させねばよかっただけの話ではないか。世の中がそれほど悪意に満ちているとは信じたくない自分の甘い考えかもしれない。しかし伍子胥は自分と反対に、世の中のすべてが敵と考え過ぎているのだ。
ひとしきりそう考えると後の語が継げなくなった。卓上の料理に箸を延ばしたが、伍子胥の言葉を頭の中で反芻すると、それに毒が盛られているのではないかと、要らぬ心配をしてしまう。結局、子仲は食事を口にすることをできずにいた。
「失礼。楽しんでおられますか」
そのとき声をかけてきたのが、紛れもない正卿子産であった。
小男である。しかし髪をしっかりと纏め、そのうえにちょこんと冠を乗せた姿は、非常に清潔感があった。感じの良い、清廉な男のように子仲の目には映った。
「あまり食が進んでいないようですね」
子産は子仲の前にある皿を覗き込みながら、心配そうな表情で言った。傍らの伍子胥は、そんな子産の様子を注意深く観察しているようである。
「どうにも自分たちの置かれた状況を考えると、遠慮なしに箸を付けようという気になれません。失礼であったら、お許しください」
子仲は、気の荒い伍子胥が要らぬ口を挟む前に、当たり障りのない口調で子産に答えた。
「ご安心ください。毒は入っていませんよ。誓います」
柔らかい表情で子産は応じた。子仲と伍子胥の緊張を解こうとする意思が、そこに見え隠れしていた。子仲はそれを好意的に受け取ったが、伍子胥は油断せずになおも食事に手を付けようとしない。彼はそのかわりに、口を開いた。
「国を追われた逃亡者に過ぎぬ我々を、こうももてなすのはなぜだ。あなた方の意図が知りたい」
しかも伍子胥は直情的に子産に詰問した。だが、子産は動じない。彼は、緩やかな表情を変化させずに応じた。
「平和ですよ。我々の目的は、それに尽きます」
「しかし客観的にみて、我々の存在は鄭国の安全を脅かすものだ。あなた方には非常に迷惑だろう」
伍子胥の口調は穏やかではあったが、子産に本音を迫っていた。だが子産には相変わらず、たじろぐ様子はなかった。
「迷惑という言葉は適当ではないが、困惑していることは確かです。それは認めましょう。しかし、あなた方は困窮してこの鄭国を頼ってこられた。我々としては、それに応えたいという思いがあるのです。たしかに鄭は弱国ではありますが、それゆえに諸国間の問題を穏便に解決する技術に長けています。今後のことは、我々にお任せください」
子産は快活にそう答えた。子仲の目には、彼が嘘をついているようには映らなかった。
四
「つきましては」
子産は特有の柔和な表情で、伍子胥に向けて語り出した。子仲についてはもはや説得不要、と考えているのかもしれない。
「太子さまを含め、あなた方には晋国に赴かれることをお勧めします。なにぶん私どもの国は楚に近く、彼らからあらゆる干渉を受けやすい。あなた方が、故国である楚を捨てる決心をなさったのであれば、もうひとつの強国である晋に渡るのがもっとも安全な選択でしょう。そうなされば、私も口添えがしやすいというものです」
伍子胥は子産のその言葉に、ありがたくもないとでも言いたそうな表情で応じた。
「我々には決定権がない。太子に言ったらどうだ」
「確かにそうかもしれませんが、太子を導いているのは、あなた方お二人でしょう。中でも、子胥どのの意志は強そうだ。ひと目見ただけでわかります」
このとき伍子胥は苦笑いを浮かべた。彼の笑った顔を見たのは、子仲にとってこれが初めてのことであった。
「もちろん太子にもお伝えします。本当はこの鄭に留まっていただき、あなた方の身の安全を保障できたらいいのですが、その辺りはあなた方もおわかりでしょう。我が国は大国の狭間で揺れ動く運命にあります。言ってみれば、川の底の水草のようなもので、流れの勢いで、いつ根こそぎ抜けるかわからぬ立場なのです。そのような危険にあなた方を晒すわけには参りません」
そう言いながら子産は軽く会釈し、その場を立ち去った。
あとに残された子仲と伍子胥は、彼に対しての品評を交わした。
「おい子仲よ。あの子産とかいう男……どう思う?」
伍子胥の口調には、やや子産に対する不信感が含まれているようであった。
「感じの良い人だと思います。言っていることに嘘はないようにも思われますが。きっと誠実な人なのでしょう」
子仲は子産を擁護する形の返答をした。
「うむ。極めて好印象だ。しかし……だからこそ怪しい。きっと奴は、自分の国のことしか考えていない。あの誠実な態度は、それを繕った姿さ」
「そうでしょうか?」
伍子胥は容易に人を信じようとしない。彼のこれまでの人生における数々の苦難が、そうさせているのだろう……子仲はそう思うことにした。
そうでなければ説明できないことがある。彼は、少なからず耐え忍んでいた。もし彼が単に激情の人物であれば、あと先構わず郢の宮殿に乗り込み、費無忌を斬殺しようとしただろう。しかし実際にそのような行為に及んだのは自分の方である。これは、伍子胥よりも子仲の方が無鉄砲な、感情的に行動する傾向があることを意味する。と、すると彼は実は冷静な男であり、たったひとりの復讐の鬼ができることの限界を正確に判断しているのではなかろうか。
――彼は、仲間を欲しているのだ。
信頼できる仲間を。つまり彼は、生来人を疑ってかかるような性格を持っていたわけではなく、少なくとも人並みには人を信用したいと思っているのだ。いまは、その目が厳しくなっているだけだ……子仲は、そう思うことにした。
彼は伍子胥という人物を理解しようと努力していた。
定公は、戻ってきた子産に対して不安をあらわにしながら仔細を尋ねた。
「うまくいきそうか? 彼らは晋に行くことになりそうか?」
子産は、折り目正しく定公に挨拶しながら、はっきりとした口調でそれに答えた。
「先ほど、太子に直接伝えて参りました。それに先立ち、従者の者たちにも仔細を伝えて参った次第です」
「して、彼らの反応はどうなのだ」
「従者たちからは色よい反応は得られませんでしたが、太子は問題ありません。晋に赴くことをすでに心待ちにしております。間違いなく彼らは数日後に晋へ出発することとなるでしょう」
子産の表情には、肩の荷が降りたような安堵の色が見える。それを確認した定公は、やはり安堵した。
が、定公はなぜ自分がここで安堵するべきなのか、今ひとつわかっていなかった。
「これでよかったのか?」
子産は一から説明を始めた。
「我が鄭国は、北に晋、南に楚という二大国に挟まれております。この両国の間で我々が生き残る道は、両者の力関係を均等に保つこと、それに尽きます。つまり晋が強力になって楚が弱まれば、晋は迷いなく鄭を併合しようとします。楚はそれを阻止できません。逆に楚が強大になり、晋が弱まれば楚は鄭を併合しようとし、晋はそれを阻止できなくなります。……では現在の状況はどうでしょう。楚には久しく名君が現れず、国力が減退しております。このたびの太子追放の件もその一環と言えるでしょう。楚が弱まっているので相対的に晋の力が大きくなっている、いまはそのような状況です。ゆえに我々は、楚の味方をしなければなりません」
「しかしはたして彼らを晋に送り出すことが、楚を強めることになるのだろうか?」
「晋に行動を誤らせることで、晋を弱めることが可能になります。晋公は、彼らを放っておかないでしょう。きっと彼らを取り込もうとし、領土拡大の野望を示そうとします。我々としてはそれを察知し、阻止すればいい。そうすれば晋公の名声は貶められ、相対的に弱まった楚と力関係が同等となります」
「両者を弱めようというのか。それは名案だ。して、晋公は彼らに何をさせようとするのだろうか」
「それはいまにわかります。どうかご心配なさらずに、私にお任せを」
子産は含み笑いを見せながら定公の前を退出した。その表情には、依然として清廉さが溢れていた。小国を守ろうとする彼の気概のあらわれであろう。