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春秋の光と影  作者: 野沢直樹
第一章:楚の退廃
7/24

逃亡

 一


 費無忌暗殺に失敗した奮揚は西へ奔り、子仲は北へ逃れた。子仲は国境を越えて宋へ渡ろうとし、奮揚はできるだけ辺境の都市を目指した。彼らはそれぞれ首に懸賞金をかけられていたので、人目を避けざるを得なかった。不用意に街を訪れて知人を頼るわけにもいかなければ、人里を離れて山中に隠れることもそう長くはできない。山中では食料を確保することがある程度できるが、持ち運べる量には限界があるし、保存の方法もないのである。

 しかし彼らは両名とも、それをやり遂げた。子仲は夜間に国境を越えて楚領内を脱し、宋に入った。明け方に最初の街の城門の前に立ち、日の出とともにそれが開放されると、喜々として入城して人に尋ねた。

「楚から亡命した太子の建さまは、何処にいらっしゃるかご存じないか?」


 いっぽう奮揚は変装して楚の領内を移動しようとした。しかし手元に変装するための替えの衣服などはない。そこで彼がとった行動は、顔に大きな傷を付けるというものであった。左の額から眼の下にかけて真っ直ぐに自らの剣をあてると、思い切ってそれを下に引いた。

 血が噴き出し、激痛が彼を襲った。決して眼球まで傷つけたつもりはなかったのだが、視力を失ったかのような感覚に我ながら衝撃を受けた。彼はそれから五日間ほど左目を明けることができなかったにもかかわらず、養生することもしなかったので傷が化膿したが、そのことがさらに彼の人相を変えることになった。奮揚は、こうして変装に成功した。


 その間に伍奢と伍尚は非業の最期を迎えている。

 伍尚はこの期に及んで助命を乞うなどという無駄なことをせず、静かに運命を受け入れようとしたが、父親の伍奢は、次男の伍子胥が逃亡に成功したと知ると、

「楚国の君臣は皆等しく、これより戦いに苦しむことになる」

 と、予言めいたひと言を残したという。

 しかし、そのような事情を奮揚は知らない。彼がわかっていたのは、自分たちが宮廷で騒ぎを起こしたため、費無忌を激怒させたこと……そしてそのことが結果的に伍奢や伍尚の死期を早めてしまった、ということであった。

 ――私は、いったい何をしているのか。

 当初は、太子の窮乏の原因を突き止めようと、伍家を訪ねた。しかしそこで伍尚という男の潔さに感激すると、彼を救いたいと思って都まで同行した。さらに都ですべての元凶である佞臣の費無忌の姿を認め、これを殺そうとした。

 だが結局、そのすべてに失敗した。

 ――ただ単に、私が移り気な性格だということなのだろうか。……いや、そうではない。世の中には、悪や不条理が溢れ過ぎているということなのだ。それに違いない。

 奮揚は疼く顔の傷を抑えると、天を仰いだ。あたかも日の光が傷を治癒させてくれると思ったかのように、である。

 ――まったく、世の中に悪がはびこっているというのに、それを善が上回ったためしがいままであっただろうか。

 日の光を目一杯浴びても傷の疼きがいっこうに治まらないことに気付いた奮揚は、そのように自問した。その答えは、彼にはわかっている。

 伍尚という男は、素晴らしい人物であった。自己犠牲の精神と家族愛に満ちた男であり、危機に瀕して心を揺るがす素振りを見せない絶対的な善の男であった。

 にもかかわらず、彼は悪に敗れたのである。それは、日の光に傷を癒す力がないことによく似た事実のように思えた。

 ――要するに、善とは無害だということでしかないのだろうか。

 悪が社会を変えることはよくあるが、善がそれを行なうことは非常に稀である。つまり、人々が善行を積むことには辛く苦しい努力が必要で、悪行を積み重ねることは容易なのだ。しかも悪は善よりも人々に与える影響力が大きい。

 しかし、日の光の力によって草木が育まれ、それによって虫や獣は生命を得ることができる。さらに人はその影響を受けて生きているのだ。日の光を善に例えることができるのなら、それは人が生きるための基本的な力だとすることができよう。だから、善とは決して無害なだけのものではないのだ。

 そう考えて、いくぶん気を楽にした奮揚であった。休息しようと木陰に入って座り込んだ彼の眼に、初夏の抜けるような青い空の色が飛び込んできた。

 ――空が高い……。

 雲ひとつなく晴れ渡った青空と陽光が彼を包んだ。いい気分に浸っている彼にとっては、それはまさしく、善の象徴であった。

 しかし奮揚は、そのまま気を失った。


 二


「…………」

 視界が明るくなったことを実感した奮揚であったが、しばらくの間はそれがどういうことかよくわからず、茫然としていた。果たしていままで自分は死んでいたのか、あるいは単に眠っていただけなのか……しかしこうして光を認識できているということは、いま現在の自分は生きているということだ。彼に自覚できたことは、そのことだけであった。

「……お目覚めですか」

 不意に声がかけられたような気がする。まだ頭の方がはっきり目覚めていないのだ。

「大丈夫ですか。痛みはもうありませんか」

 女の声であった。だんだんとはっきりしてきた意識が、その声の主を視界に収めようとした。

「君が、助けてくれたのか」

 次第に視界が明瞭になっていく中、奮揚にはその女がゆっくりと頷く姿が見えた。その姿に意識を集中すると、その女は自分よりも若いことが明らかになった。

「ですが本当のことを言うと、私は木陰に倒れていらっしゃるあなた様を見つけただけです。ここまで運んでくださったのは、私の兄です」

 彼女は、そう言いながら微笑んだようであった。そうすると実にいとおしく思える。それは体が傷ついたばかりでなく、心が弱っていたからかもしれなかった。

「いや、君が見つけてくれなければ、君の兄上が私を運んでくれることもなかっただろう。君が見つけてくれたからこそ、私は目覚めることができた。ありがとう、と言いたい。もちろん、君の兄上にも」

 そう言いながら、奮揚は横たわっていた姿勢から身を起こした。そうすると、未だ左眼のあたりが痛むことに気付かされた。

「まだ起きるのは早うございます。どうか、そのまま横になられたままで」

 彼女は奮揚の両肩に手を添え、楽な姿勢をとるよう促した。そうすると、彼女の眼が存外大きいことに気付かされる。しかもその瞳は澄んでいた。それだけに白目の部分が美しく際立っている。

「きれいな瞳だ」

 このとき奮揚は人に助けられ、素直な気持ちになっていたのだろう。心に浮かんだ女性の印象を、包み隠さず本人を前に口にしてしまった。彼女は顔を赤らめたが、奮揚の言葉に反感を抱いた様子はなかった。微笑んでいたのである。

「私は奮揚という。名を聞かせてくれないか」

「紅花です。申紅花(しんこうか)といいます」

「可愛らしい名だ。だが君の姿から受ける印象では、紅い花より白い花にちなんだ名のほうがふさわしいと思う。……すまない、気を悪くしないでくれ」

 なぜそのようなことを言ったのか、自分でもよくわからなかった奮揚であった。ましていまの彼は顔に深い傷を負い、とても醜い姿であるという自覚もある。目の前の女性が自分のことをどう見ているか、そのことを考えもせずに思いを口に出したことを恥じた。

「なぜ私が気を悪くするなんてお考えなのです? そんなことは仰らないでください。私は、あなた様にそう言ってもらえて嬉しいのです」

 紅花にそう言われた奮揚は、気分を良くした。しかし冷静になってよく考えてみると、自分が初対面の女性からこのようなことを言われる理由がないことに気付く。彼は、他人の評価はさておき、鏡に映る自分の姿が嫌いであった。

 鼻下の髭はいつも自分の理想とは違う形に生えていたし、眼はもう少しきりりとした印象を人に与えて欲しかった。背丈もとりたてて高い方ではなく、かつて自分が名乗った司馬という称号に比して、見劣りがすると感じていた。

 では、なぜこの紅花という女性は、あたかも自分に気があるような素振りを見せるのだろう。奮揚は推測を重ね、やがてひとつの結論を引き出した。

「君は、私が何者か知っているのだな?」

 紅花は頷いた。

「私の兄は、常に都の政情に目を光らせています。奮揚様が宮殿でしでかしたこと……それについても家人の報告によって私たちは詳しく知らされています。ですがご安心ください。私たちは味方です」

 奮揚は、目眩を覚えた。自分たちは充分に注意深く行動し、人目をはばかったつもりでいたが、それがすべて監視されていたとは……落胆せざるを得ない事実である、というべきだろう。

「君の兄上は、いったいぜんたいどういう人物なのだ?」

 紅花はその奮揚の問いに、笑みを浮かべた。その表情には、暗殺者を咎めるような態度は見受けられなかった。

「私の兄は、この地の大夫で、名を包胥といいます。この建物は地元の若者を鍛錬するための道場で、兄はここの師範も兼ねているのです」

 紅花は快活にそう述べた。その口調には、控えめながらも兄を尊敬する気持ちが見え隠れし、奮揚は好感を持った。自分はどうやら安心できる場所に匿われたらしい、と思えたのである。

 しかし「道場」という語には、思い当たる節があった。先日馬車の上で伍尚と交わした会話の中で、義憤にかられた伍子胥が道場を乗っ取り、それを友人に与えたという話が確かにあったのだ。

 伍家との関わりは、未だ断ち切れそうになかった。


 三


 しかし道場といわれても、このときの奮揚には、それがどういうものか想像することができなかった。紅花は「若者を鍛錬する場」と言った。伍尚は、その場で伍子胥が「剣術を習った」と言った。だとすると、道場とは体を鍛える場、なのであろう。

 奮揚は当初そう考えていたが、しばらく滞在するうちに、実はそうではないことに気付いた。道場とはいわば私塾のようなものであり、人生におけるあらゆる困難から解放されるための技術を会得する場で、師範とはそのために自らの経験と知恵を伝授するために存在する人物であった。

 紅花の兄の申包胥は、その師範であった。

「私は、この道場を生きるための知恵と技術を授ける場として開設している。決してこれを学問的に体系づけようとか、政治に生かそうとか考えているわけではない。ただ、ここを訪れた者たちすべてに幸せになってもらいたいだけなのだ」

 申包胥はようやく傷の癒えた奮揚を前にして、そう語った。その外見はひどく大人びていて、人生の酸いも甘いも知り尽くした感が見受けられる。弁舌でも人を説得する力がありそうなうえ、体力でも人を圧倒するような印象を、奮揚は受けた。

 しかし包胥は、穏やかな男であった。結果から言うと、人が生きるうえでの苦しみを知り尽くし、それに耐え抜く力があるからこそ発揮できる無限の優しさを持つ男であった。奮揚は彼との付き合いを深めていくほどに、その事実を知ることになった。

「私の道場では、人に無理な節制を要求しない。食うべき時には食い、戦うべき時には戦い、寝るべき時には寝る。私はこれらすべてを肯定する。しかし重要なのは、決してそうすべきときではない時に、それらの行為に及ばないという自制心を持つことだ。つまり、食うべきではない時には食わず、戦うべきではない時には戦わず、寝るべきではない時には寝ず、ということだ。しかし、これらは簡単なことのようでありながら、実行は非常に難しい」

「ふむ。なるほど」

「すなわち行動を起こすには、正確に機を見極める必要があり、すべての失敗はその見極めを誤ったことに要因がある。しかし、私はそれを否定しない。人が行動を起こさなければ、社会はなにも変わらず、改善もしない。失敗も時にはよかろうというのが、私の考えだ。私は、決して人の失敗を責めないつもりでいる」

 これは奮揚の行動にも当てはまることである。彼は子仲とともに費無忌を暗殺しようと宮殿を襲った。しかし相手が用意周到に対策を練っていたことに気付かず、目的を果たせなかった。だが包胥の言によれば、行動を起こしたことにこそ意味があり、失敗したこと自体は大きな問題ではない、ということのようであった。つまり、奮揚は行動の方法を誤った。あのとき彼が起こすべき方法は、費無忌の罪を公の場で明かすことであったのだ。

「機を見極めるのに有効な方法など、存在するのか? あるいはそれを可能にする技術があるのか」

 奮揚は包胥に尋ねた。答えがあるのであれば、ぜひ知りたいし、修練によってその技術を会得することができるのであれば、努力したい……そんな思いであった。

「いや、実際のところ有効な手段はない。多くの場合、人の幸福は忍耐によってもたらされるのだ。苦難を耐えぬき、その経験を他人に味わわせたくないという自制の心が、社会に平和をもたらす。私が求めている『道』とは、実にそれなのだ」

 申包胥は、忍耐力に裏付けされた寛容さを人に求めた。そして自らもそれを持ち、それを広げることによって社会を大きく変革しようとした人物であった。

 このときの包胥は未だ何も成し遂げていなかったが、しかし奮揚は出会ってすぐにそのことに気付いた。

 ――心が大きい男だ。

 奮揚は伍尚に出会ったときと同様に、すっかり申包胥という人物に魅了されてしまった。あるいは、彼は感じやすい男だったのかもしれない。


 四


 子仲は宋国に入り、太子建の所在を求めて歩いた。時には人目を忍び、またある時には人に尋ねた。そのことが原因で、人々から疑惑の目で見られたこともしばしばあった。

 しかも結果は思うように得られなかった。人々の口は堅く、目は伏せられていた。誰も話してくれないうえに、視線を合わせようともしないのである。もしや、自分がかつてこの国に迫害された者の子孫であるということが見破られているのではないか……子仲の心は疑心に揺れた。

 しかし、そのようなことがあるはずもない。仮に見破っている者がいたとしても自分自身になんら罪はない。堂々としていればよいのだ。なぜかといえば、過去に迫害され、失われた名誉を回復しようなどという意識を、子仲は微塵も持っていなかったからだ。彼にとってそのようなことはもはやどうでもよく、宋国を恨んでなどいなかった。

 ――では、彼らのよそよそしさはなんだ。

 子仲は考えたが、それらしい答えは見出せない。俗に、田舎者はよそ者に対してなかなか心を開こうとしないというが、彼らの様子は決してそのような性質的なものではないように思えた。

 ――何かに心を奪われているのだ。

 そうに違いない。彼らは、私の相手をしている心の余裕がないのだ……子仲は、そう思った。

 実はこのとき、宋国内は内乱状態にあった。宋の政治的中枢である六卿(右師・左師・司馬・司徒・司城・司寇)は、当時過半を華氏と向氏によって占有されていた。この華・向の両有力氏族がときの主君である元公に背き、これがやや規模の大きい内乱を引き起こしたのである。さらに悪いことに、両家に家督問題が発生したことにより、主流を外れた人物たちが元公の側についたことで、対立は決定的になった。彼らは同族同士で相撃つ形となり、政情は混迷を極めたが、そこに呉や楚、あるいは晋などの周辺諸国による武力介入が連続し、宋は国の存続自体が危うくなったのである。

 子仲が宋を訪れたのは、実はそのような時期であった。人々の注視が他国からの亡命者に向かないのも無理はない。

 ――太子様は、混乱に巻き込まれていないだろうか。

 宋国内の事情を理解したときの子仲の思いが、これであった。彼は混乱を避けていち早く国外に逃れようとは、考えなかった。

 やがて睢陽(すいよう)の宮殿に至った子仲は、慌ただしく走る馬車の列に出会った。宮殿の内部から勢いを殺さずに城門へと向かうその先頭には、弓を構えた大男がいた。

「道を開けろ。さもなくば射るぞ!」

 男はそう叫んだが、にもかかわらず子仲は矢を射かけられた。子仲は身を翻してそれをかわしながら叫び返す。

「この国の動乱には関わりがない! 楚国の太子を探している!」

 それを言ったところで無駄だとは思ったが、意外にも馬車は止まった。しかし車上の男は激しい目つきで子仲を睨んでいる。それは、まるで人を殺せるほどの、刺すような視線であった。

「貴様、何者だ。なぜ太子を探している」

 大男の声は、子仲を威圧し、震え上がらせた。しかし子仲も負けてはいられない。声を振り絞って弁明した。

「我が名は子仲! 太子であられる建様より密命を帯びていたが、その復命に参ったのだ。太子はそこに居られるのか。居られるのなら、伝えてくれればきっとおわかりになる」

 すると大男は後方の馬車を指差した。

「太子様なら、二台めの馬車に乗っておられる。しかし話をするつもりなら急げ。我々は宋国を脱出するつもりなのだ。こんなところにいつまでも留まってはいられない」

 そう言われた子仲は、急いで二台めの馬車に駆け寄り、太子を呼び出した。

「乗れ、子仲。車上で話そう」

 太子は手招きして子仲を馬車に同乗させた。子仲にはそのときの太子の表情が、かなり憔悴しているように思えた。

「太子様、ご無事で……」

 そう言ってみたものの、はかばかしい返答は得られない。

 太子の顔は、明らかに青ざめていた。


 五


 子仲はしかし、太子建と行動を共にできたことにひとまず安堵した。慌ただしく乗り込んだ馬車の行く先はわからなかったが、そのようなことはひとまずおき、現在の幸運を喜ぶべきだと思った。

 だが気になることはある。

「先頭の車両にいる、背の高い男は何者ですか」

 当然のことながら、楚を脱出した際には不在の男であった。子仲は、その男の傲岸な態度に良い印象を持たなかったことは確かであったし、太子の命を守るため、できることなら他人に関わらせたくないという思いがあったのである。

「……あいつは、伍奢の息子だ。名を伍子胥という」

 子仲は、驚愕を隠せなかった。

 ――あの男が、伍子胥か!

 伍奢の息子であり、伍尚の弟。あの傲岸な態度は、父と兄がすでにこの世にいないことを知った反動かもしれぬ。子仲は思った。

 ――しかし、その責任の一端は、私にもあるのだ。

 そう思うと、彼と今後どう付き合うべきか途方に暮れた。子仲には、伍子胥の威圧的な態度を批判する資格がなかった。少なくとも彼自身は、そう感じたのである。

 悶々と考え込む子仲の態度にはお構いなしに、太子は力なく呟いた。

「俺たちは、これから(てい)国に向かう」

 太子は子仲の目を見ず、独り言のように言った。彼も自分のことで頭が一杯なのであった。子仲はそのことに同情し、ひとまず自分の問題は脇に寄せることにした。

「鄭は小国でございます。晋や斉などの大国間の利害関係のはざまにあって、政情が常に安定しない国ですから、長居はしない方が懸命でしょう」

「ああ、そのつもりだ。しかし、内乱がおきている宋国に滞在し続けるよりはましだ。そうではないか?」

「仰る通りでございます」

 まったく、運命とは思うようにならないものだと感じざるを得ない子仲であった。もし太子がただの市井の男に過ぎない存在であったなら、どこに住もうが誰からも気にかけられないというのに。そして今ごろは野良仕事をしながら、(ゆう)の純朴な娘と恋に落ち、()の仲間に祝福され、吉日を選んで祝言をあげていただろう。

 ――単にきらびやかな服を着て、馬車に乗ることができるだけの特権ではないか。

 哀れである、とさえ思った。そればかりの特権を得るかわりに、失われるものは生まれ育った土地への思いであったり、家族との絆であったり、命そのものであった。

「いっそのこと」

 子仲は話しづらそうな口調で切り出した。その様子には、彼自身にも自分の意見に確信が持てないことがありありと浮かんでいた。

「鄭国に入ったあと、ご身分を平民とされて日々の平凡な暮らしと向き合う、というのはどうでしょうか」

 太子建は、これを聞き苦笑いを浮かべた。子仲の意見に心を動かされたわけではなかったが、最低限それは太子の青ざめた表情を和ませる効果はあったらしい。つまり太子は、子仲の言葉を冗談と受け取ったのだ。

「子仲が俺のことを気遣ってそのようなことを言ってくれるのは嬉しい。しかし、俺にも意地がある。このまま逃げ隠れして一生を終えるような人生でよいものか。いつか、立場を逆転させて父を見返してやりたいのだ」

 ああ、これだ。人の世に争いが絶えない理由がここにあった。やられたらやりかえす、復讐があらたなる復讐を呼ぶ、その無限ともいえる憎しみの循環が人の世を苦しませている。しかも多くの人々は、そのことに気付かないのだ。

 太子は太傅伍奢の愛情を受けて育てられ、穏やかな性格を持つ人物であった。そのような彼にもかかわらず、復讐心を捨てきれぬとは……子仲は太子の前途に不安を感じた。


「ときに……」

 落ち着いてきた太子は、話題を転じようとした。

「費無忌の殺害は、果たせたのか?」

「いえ、実は……」

 子仲は口ごもった。費無忌を殺害することが正しいと信じて行動した彼だったが、いまではそのことが本当に正しかったのかどうかと自問することが多いのである。あるいは、失敗に終わって良かったのではないかと……。しかしそれを太子に話すことは、憚られた。

「申し訳ありません。あと一歩のところまで迫りましたが、奴の右腕を斬り落としたのが精一杯でした。太傅伍奢と伍尚の処刑も止められませんでした」

「そうか……」

 太子は、子仲の失敗を責めなかったが、それ以上この話題を深く掘り下げようとしなかった。

 馬車の列は睢陽の西の城門を出て、緑野を駆けた。その先頭にいる伍子胥の姿が、後方の子仲の目に時おり映る。子仲は思う。親兄弟を斬殺されたあの男は、人の世に巣食う復讐心の循環を断ち切ることができるのだろうか、と。


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