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春秋の光と影  作者: 野沢直樹
第一章:楚の退廃
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刺客

 一


 奮揚は郢までの道のりを伍尚とともに歩んでいる。馬車に揺られている間、彼が考えることは、今後自分は何をすべきかということであった。

 当初は太子の行く末を案じ、その逃亡を手助けしたいと考えていたのだが、伍家の兄弟に出会ったことで、その方向性がいくぶん変わった。彼は、これまで国家権力というものをあまり意識したことがなかった。しかし、太子建や伍尚という社会的地位や名誉も保有する人物たちが、こうも簡単に排除される運命にあることを思うとその強大さを改めて感じざるを得ない。

 そしていま彼の心の底にあるのは、沸々とした怒りであった。それが国に対するものであり、王に対するものであることはもちろんである。しかしもっとも彼を怒らせたのは、理不尽な国や王の行為に対して、まったく反抗する術を持たない自分の不甲斐なさであった。彼は、現状を覆すためになにをどうすべきかわからない自分に怒っていたのである。

 いらいらとした気分を抑えきれない奮揚であったが、隣に座る伍尚の態度が常に泰然としているので、若干救われたような気持ちになることは事実であった。しかしいっぽうの自分は、当事者でもないというのにそわそわとして落ち着かない。彼は自己嫌悪に苛まれた。

 彼らの馬車を追いかけてきた伍家の家人が、追いついて緊急の知らせをもたらしたのは、奮揚が未だ今後の自分の行動を決めかねていたときであった。

「員が無事逃げたというのか。それはよかった。……しかし、楚の国にとっては不幸なことだろう」

 車上の伍尚はそう言って、苦笑いともいえるような複雑な笑みをこぼした。

「どういうことか」

 奮揚の問いに、伍尚は笑いながら答えた。

「弟を甘く見てはならぬ。奴は芯の弱い私などと違い、意思を通す心と、恥をこらえる忍耐力を持つ。不屈の男さ。弟はかつて剣術を習いに郢の城内にある道場の門を叩いたことがあったのだが、そこの師範が意地の悪い奴でな。技術を教えることをせずに、門下の生徒らをただひたすらに打ち負かすことしかしない男であった。義憤にかられた員は、自らの剣技に磨きをかけるばかりでなく、ひそかに生徒たちを修練し、ある日師範にひとりずつ勝負を挑ませたのだ。結果は全員が師範に勝利する形となり、現在の道場は当時の生徒のひとりが師範となっている」

「自らを修練するばかりでなく、人に技術を伝える能力もあるということか」

「そればかりではない。生徒の技量が確実に師範を上回ったと判断するまで、員は行動を起こさなかった。はやる心を抑えることもできる奴なのだ。それに比べて兄である私は、父とともに自分が死ねば、事態は一応の結着がつくと考えている。君は私のことを賞賛してくれたが、実をいうと私は安易な方法で妥協しようとしているのだ」

「……だが、君の決断が弟を動かす結果となる。君はそこまで見越して死を決断したのだろう?」

 伍尚は、それに対して微笑で返答をした。そして、

「君に頼みがある」

 と切り出すと、視線を奮揚の顔から進行方向に戻し深刻な面持ちで話した。

「私の死後、弟の力になってもらいたい。……弟とともに、我らの恨みをはらしてほしいのだ」

 このとき、伍尚は涙を流した。彼の心には、一面の花畑のように清らかさだけが広がっていると思っていたが、それは奮揚の思い違いであった。


 二


 郢の宮殿にたどり着くと、伍尚と付添人の奮揚はすぐさま引き離された。そこまでは予想していたことではあったが、門衛がいきなり伍尚に手枷をはめて牢獄に連行しようとしたことには、奮揚も驚いてしまった。

 ――なんということだ。我々には、釈明の場も与えられていない。これでは伍奢を救い出すなど、到底無理ではないか。

 表情に憤激の色が出た奮揚を、伍尚は目で制した。

 そしてそのまま連れ去られていった。


「お前は何者か」

 門衛に問われた奮揚は、怒気を抑えつつ答えた。

「伍尚どのの付添人だ。彼はどうなる」

 門衛はそれに対してつれない返答をした。

「処刑される」

「話も聞かずに、か。……しかし、それは彼も覚悟の上だ。受け入れるしかない。……処刑の際には立ち会わせてくれるのだろうな」

「遺言を聞く程度の猶予は与えられよう。確約はできぬが」

「では、それまで行動の自由を保証していただきたい。無論、怪しいことはせぬと約束する」

 そのような問答を門衛を相手にしていたときだった。見たことのある男の姿が奮揚の視界に入った。

「あれは……?」

 思わず声に出した奮揚であったが、門衛が怪訝そうな表情を浮かべたのを見て口を閉じた。

 ――子仲ではないか。あいつ、ここでなにを……。

 しかしその姿を確認した途端、彼は物陰に姿を消した。

「宮殿を見学したいが、外からならば異論もなかろう。失礼する」

 奮揚は門衛に言い放つと、返事を待たずに子仲を追った。


「子仲よ」

 奮揚は子仲の背後から小声で呼びかけた。あえてそうしたのは、子仲の動きがどことなく人目を憚っているように見えたからである。

「奮揚どの……。どうしてこのようなところにいらっしゃるのか」

 子仲は驚きを隠せない様子で振り返った。しかし彼はそれをどうにか押しとどめ、声を殺して奮揚に問うた。

「それは、私が聞きたいことだ。お前、ここで何をしようとしているのだ。太子を無事に国外にお連れすることは、できたのか」

「どうか、お声を低く」

 子仲は奮揚を手で制して、顔を近づけると事情を話し始めた。

「……太子は無事宋に亡命いたしました。その道中に私は、宮殿に巣食う佞臣を葬り去るよう、太子から命を受けたのです」

「葬り去る、だと? 佞臣を? 暗殺するのか」

 奮揚は苦々しい表情をした。この時代の軍人は礼を尊ぶので、奇襲や暗殺を好まない。もと城父の司馬であった身としては、認めたくない方法であった。それを察した子仲は言い添える。

「私も、決して本意ではありません。ですが太子から話を聞いた以上、やるしかないと決めた次第です。佞臣の名は費無忌。……とんでもない悪党です。殺すしかありません」

 暗殺という手法を嫌悪した奮揚であったが、確かに太子の命令だとすれば実行するしかないだろうと思い、受け入れることにした。だが、それは自分も子仲に協力するという意味ではない。

「太子は我々の城主であり、主君だ。……よって受けた命であれば、果たさねばならないだろう。しっかりやるがいい」

 子仲はきょとんとした。

「協力して頂けないので?」

「暗殺の手助けをせよと言うのか。生粋の武人たるこの私に」

「太子は、あなた様にとっても主君であられます。その主君が望んだことですよ」

「……しかし、私にもここですることはあるのだ。いま、ここの牢獄には太傅伍奢が捕われている。それを救おうと息子である伍尚が訪れたのだ。彼らの最期を、私は見届けなければならない」

「費無忌を殺すことによって、太傅伍奢の命を救うことができます」

「……そうなのか?」

 奮揚は、費無忌の悪辣さを子仲の口から知ることになった。


 三


「伍奢の息子が現れただと? 二人ともか」

 王の直臣である費無忌は左右に問うた。しかし、現れた息子が長男の伍尚だけであることを知ると、怒色をあらわにした。さらには弟の子胥を連行しようとした使者が、逆に子胥に脅されてあえなく退散したことを知って憤激した。

「二人揃わないことには、意味がない。あの者たちを生かしておくと、将来必ず国の憂いとなろう。子胥を発見して通報した者には多額の報奨金を与えることを定め、これを手配せよ。尚は奢とともに早急に殺せ。よいな」

 費無忌は部下の者にそう言い残し、自らは王のもとに赴いた。勝手に指示を出してはいるが、実際はすべてに王の裁可が必要なためである。

 王は費無忌を迎え、その言葉に酔った。王にとって費無忌の存在は、すでになくてはならないものとなっている。

「無忌。汝の言うことは常に理に適っている。だがこの度の件……父と兄を殺してしまえば、弟がここに現れる理由がなくなる。もうしばらく人質としておくのがよかろう」

 しかしこのとき、王は費無忌の献策を拒絶した。それは単にそう思ったからだけではなく、臣下の言うがままに動く王でありたくないという意地のようなものがあったからのようである。だが、費無忌は王のその思いを無視した。

「いくら脅迫しても、伍子胥がここに現れることはないでしょう。こうなっては彼らを人質にすることにこだわらず、国内に触れを出して捕らえることが最善です。そしてその上で殺す……。すでに太子が宋に逃れた以上、太子と伍子胥の結束は絶対に阻止しなければなりません」

 費無忌は言葉尻に力を込めて、そう話した。しかし王はそれに対して反問する。 

「汝はことを大げさに考え過ぎではないのか。いかに伍奢の息子がふたりとも英傑だとはいえ、すでにひとりを捕らえたのだ。もうひとりの……なんといったか……そう、伍子胥がいかに優れているといっても、ひとりで国を転覆させるほどの力はあるまい。太子の建に関しても、余はわざわざ誅殺を命ずる必要があったかどうか、疑問に思っているのだ」

「おそれながら、王様は見通しが甘いと言わざるを得ません。世を動かすものは人の意思、国を動かすものは恨みの心でございます。王様は太子から秦の美女を奪い、これを後宮にお迎えなさりました。これは王室繁栄のための正しい行為でございまして、ひとかけらの瑕疵もございません。国の頂点に立つ王様より下位に立つ太子がより良きものを手に入れる権利など、ないからです。ですが美女を奪われた太子は必ずやこの一件を恨みに思っておりましょう。いわゆる逆恨みというやつです。……太傅の一族は、太子のそのような気持ちを焚き付けて、国土を焼き尽くす大火と為さしめる輩たちです。どうか、そのような事態になる前に、太傅の一族を抹殺して、太子を廃嫡なさいませ。さもなければ、彼らは楚国の憂いとなりましょう」

 本来太子に与えられるべき絶世の美女を、王に横取りさせたのは費無忌自身であった。その目的は王に取り入って自分が栄達するためであり、彼が王に長広舌を振るうのは、その後始末に過ぎない。彼は自身の栄達のために太子一派を犠牲にし、あるかどうかもわからないその仕返しを恐れているのであった。

 つまりは、保身のためである。しかし費無忌は、巧妙に自己の危機を国の危機に置き換え、それを周囲の者に悟られないよう腐心している。そして現在のところ、それに成功しているのであった。

「建を廃嫡するにあたって、余から汝に伝えるべきことがある」

 王は熱弁を振るう費無忌を遮り、含み笑いを浮かべながら言った。その様子は、どこか楽しそうである。

「汝が連れてきた秦の公女の腹に、生命が宿った。紛れもなく余の子だ。めでたく男子が生まれれば、余はその子を新たな太子にしたいと思っている」

「なんと! それは吉報でございます」

 この事実をもっとも吉報だと感じているのは、費無忌自身であった。彼にとってこれは、自己の安泰を確信した瞬間であった。しかしあからさまにそれを喜んではいけない。あくまで自分の喜びは、王室の未来永劫の繁栄に向けて発せられたものと人々に思わせる必要がある。

「このわたしが主宰し、祝賀の行事を執り行いましょう。さすれば、国がひとつになるよいきっかけとなります」

 費無忌は王に提案した。

「しかし生まれてくる子が男子だと決まったわけではない。急ぎ過ぎではないのか」

「国民の総意として、誕生する子が男子であることを願う行事にすればよいかと存じます。祈祷師や易者を招いて壮大な神事といたしましょう」

「なるほど。国の方向が次代の世継ぎを待つ方向に定まれば、建や太傅の居場所がなくなる。民の中にもあえて彼らの片棒を担ごうとする者は現れまい。汝の好きに振るまえ」

 こうして費無忌は、自身の地位を固めていった。


 四


「奴をどうやって殺す? 具体的な方法はあるのだろうな」

 奮揚はすでにその気になっている。しかも彼は、伍尚が処刑される前にそれを成し遂げたいとも思っていた。

 だが子仲の返答は、奮揚の期待していたものとは違った。

「機を見て遠方から弓で刺殺します。そのために、あの男がひとりになる時間を探っているのです」

 ひとりの佞臣を殺すためには、おそらくはそれが最善の方法かもしれない。が、その方法をとった場合、費無忌は、なぜ自分が殺されたか、また誰によって殺されたかを知らずに絶命することになる。これでは、単なる事故で死ぬこととなんら変わらない。

「手ぬるい。奴は、人の手で殺されるべきだ。そうでなければ、死ぬ直前に自身の行為を悔やませることができん」

「直接顔を合わせるというのですか? いったいどうやって」

「拝謁を申し込もう」

 奮揚は提案したが、どういう用件で拝謁すべきか、この時点で名案はなかった。二人はしばし城郭の中を歩き、市中の様子をうかがってみることにしたが、そこで街路に掲げられた布告を目にすることになる。

 その布告とは、王の側室が懐妊したため、近日中に祝賀が催される旨が記されたものであり、さらにその場で世継ぎとなる男児が生まれるよう、祈りの儀式も合わせて行なうため、祈祷師や易者を募っているものであった。

「これだ」

 奮揚は布告を目に留め、会心の笑みを浮かべながら叫んだ。祈祷師に扮して宮中に乗り込もうと言うのである。

「名案かもしれませぬ」

 子仲も、これに乗り気になった。

 二人は変装してにわか祈祷師となり、見事宮中へ入ることに成功したのであった。


 当然ながら、二人に八卦などの易に関する知識などなく、万物の陰陽についても説明することは不可能であった。よって、拝謁に成功したら即座に行動を起こさねばならない。二人とも懐に剣を隠し、万全の準備を整えたつもりでいたが、その顔に緊張の色を浮かべていた。

「ぬかるな」

 奮揚は傍らの子仲に向けて声をかけたが、それは震える自分を励ますためのものでもあった。子仲は黙って頷き、心を整えようとしていた。

 やがて二人の前に現れた男は、やや甲高い声をあげた。

「汝らか。祈祷師に応募したのは」

 声の主はまさしく費無忌であり、その口調は尊大であった。しかしその立ち姿は意外なほど小さく、しかも背中が曲がっていたため、緊張していた二人に威圧感を与えることはなかった。このため、奮揚は率先して会話を主導することができた。

「ぜひ我々をご採用なさいますよう、お願いしたいのです。そのために本番で行なう祈祷の一部を、この場で披露したいのですが、よろしいでしょうか」

 費無忌は応じた。

「どのような祈祷を行なうつもりなのか。火を焚いたり、水を撒いたりすることは宮中では禁ずる」

 奮揚はその問いによどみなく答えた。彼は内心の不安をおくびにも出さず、大胆に言い放った。

「生贄を用意します」

「ほう……」

 費無忌は興味をそそられた様子である。この時点で、彼は二人の悪意に気付いていなかった。

「人が天に願いを聞き入れていただくためには、それ相応の代償が必要で、我々はこれを生贄とか犠牲と称します。しかし多くの場合、けものの生き血を絞ってこれを献上するなどという安易な方法をとりがちなため、願いは成就しません。生贄や犠牲は、願いを叶えるための代償でございます。我々の捧げものが天の神々を満足させるものでなければ、求める結果は得られません」

「では、世の中が太子としての男子の誕生を願っているいま、我々は天に対してなにを捧げるべきか」

 奮揚はこのときにやりと笑った。そしてほんの一瞬、子仲に目配せしたと思うと、表情を改めて費無忌に告げた。

「無論、人の命にほかありません。しかもそれはどこの誰の命でもよいといったものではなく、人の世に大きな影響を与える人物の命が適当です。具体的に申せば……」

「具体的には……?」

 費無忌は奮揚の言葉に体を乗り出した。子仲はこの機を逃さなかった。

「費無忌、貴様の命だ!」

 子仲は懐から剣を抜き、躍りかかった。


 五


「くせ者だ!」

 費無忌は叫び、宮中の衛兵を呼んだ。しかしそれより早く、子仲の剣が彼の右腕を斬り落とした。

「…………!」

 費無忌は激痛のあまり、声も出せない。半分が無くなった右腕を体でかばい、うずくまるだけであった。

「ちっ……。一息に首をおとすつもりだったが、しくじったか」

 子仲の目は血走っている。普段は冷静な男であったが、この瞬間に限っては、興奮を隠せないようであった。

「冥界へ送ってやる」

 子仲は苦悶する費無忌に詰め寄り、大きく剣を振りかぶった。

 そのときである。

 費無忌がそれまで伏せていた顔を上げたかと思うと、激しい炎が巻き起こり、奮揚と子仲の周囲を取り囲んだ。

「どういうことだ! まるで妖術だ」

 奮揚は炎の生み出す熱気に苦しみながら、脱出の糸口を探った。

「おのれ! こうなったら刺し違えるまでだ!」

 子仲は炎を飛び越えて費無忌に斬りかかろうとしたが、その瞬間、さらに炎は勢いを増し、二人を焼き尽くそうとした。

 奮揚はなおも前進しようとする子仲を引き戻し、ほんの少しの炎の隙間から脱出した。

 炎は不思議なことに、その場所だけが燃え盛っていて、他の箇所に引火する様子を見せなかった。これは、費無忌が事前に作らせていた暗殺者から身を守る仕掛けだったのである。

「いつかお前らのような者が現れるかもしれぬ、とこのわしが考えないとでも思ったか! 残念だったな。腕を斬ったところで命までは落とせぬ。今度はお前らが恐怖におののく番だ!」

 高笑いとともに費無忌が言うと、周囲から衛兵たちが襲いかかってきた。弓矢が乱れ飛び、剣の切っ先が頬をかすめる。二人は一目散に外へ駆け出した。

「追え!」

 城郭を張り巡らされた都市の中で、追走劇が始まった。二人はどうにかして城壁の外へ逃れようと、息を切らして走り回った。

「厩がある。あれを襲って、馬を得よう」

 奮揚はそう言うと、剣を抜いて周囲の人々が近寄らないように脅した。そして厩に辿り着くと、自ら手綱を持って、その一頭に騎乗した。

 この時代では、人が直接馬に跨がって乗ることはほとんどない。それを行うのは胡人であるとされ、野蛮さの象徴であった。馭者を伴う馬車を用いるのが通常であった。

 子仲も奮揚に倣って馬に騎乗した。彼らの姿は、郢の城内に住む人々にとって蛮人そのものに見えたことだろう。あるいは変人か。どちらにしても彼らがいまや罪人であることに変わりはなかった。民衆もそのことに気付き、口々に彼らをこき下ろした。浴びせられる罵詈雑言の類いに、子仲は傷ついた表情を見せた。

 奮揚はそれを見逃さず、

「動じるな。こうなったからには突き進むしかない。民どもを蹴散らして城外へ出るぞ!」

 と、励ました。

 彼らは馬を嘶かせ、勢いのままに突進させた。民衆は驚き恐れ、道をあけた。門衛たちの制止を振り切って城外に出ると、森の中に入り一時休息をとった。


「追手は撒けたでしょうか」

 子仲は息を切らしながらそう尋ねると、疲労のあまり木の根元に座り込んでしまった。

「おい、眠るなよ。油断していい状況ではない」

「わかっております」

 子仲はやや背筋を伸ばしたが、立ち上がろうとはしなかった。奮揚もそのことを責めず、自らも茂みに腰を下ろした。

「……首をかばった右腕しか斬ることができませんでした。申し訳ありません」

 子仲の言に奮揚は首を振った。

「急仕立ての青銅の鈍ら(なまくら)の剣では、仕方のないことだ。鉄製の剣だったら、費無忌の首も一刀両断にできただろうが……今さらそれを言っても仕方がない。それよりあの炎だ。私が城父の司馬であったころ、噂に聞いたことはあったのだが……燃える空気というやつだ。地中のごく限られた場所からしか噴出せず、扱いも難しいもので軍事に転用できずにいたのだが……奴がそれをすでに実用化していたとは気付かなかった」

 奮揚は唇を噛みながら悔やんだ。

「城を守るために使わず、自分を守るためだけに使ったという事実は、奴の悪辣な正体を示す証でしょう。開発するにはそれなりに費用もかかるというのに……このことだけでも、奴が国を私物化している論拠となります」

 子仲は、ごく真っ当なことを言った。しかし、彼らにはそれを主張する手段も、場所もすでにない。

「悔しいが、状況は圧倒的に不利だ。そこでこれからどうするか、だが……。このままいくと、我々は間違いなく首に懸賞金をかけられたお尋ね者となる。二人で一緒に行動して、同時に捕らえられることとなっては非常にまずい。ここからは別れて行動しよう。それぞれに逃れ、生き延びるのだ。費無忌を誅するのは、状況の改善を待つしかない」

 子仲はためらいつつも同意を示した。つまるところ、彼らのとるべき行動はそれしかなく、ほかにどうしようもなかったのである。

「お前は、宋に入って太子と合流するがいい。もともと宋人なのだから、なにかと都合がいいだろう」

 奮揚は言った。しかし彼は子仲の親が迫害されて宋を追われた事実の経緯までは知らない。知らぬがゆえの無責任な発言だったかもしれなかった。

「承知いたしました」

 しかし子仲はそれを受け入れた。彼にとって大事なことは、現在を生きることである。もはや楚ではまともに生きられない以上、少しでも可能性のある宋に奔るしか道は残されていないではないか。

「ですが、太子からの命令を果たせなかったことが残念です。太子はさぞ、悲しむでしょう」

 子仲は口惜しそうにそう呟いた。費無忌を討つことに意義を見出していた彼としての、心の底からの声であった。

「私だって、心残りはある。結局私は……伍尚の最期を見届けることなく逃亡する羽目になった。我々が暗殺に失敗したことで費無忌は腹を立て、彼ら親子の処刑を早めるかもしれない。おそらく、もうすでに殺されているだろう」

「それは……致し方ないことです」

「そうだな。悔やんでも始まらん。私は、姿を変えて放浪することにするよ。そしていつか、国を変革する同志を見つけたいと思う。そのときにまた会おう」

 そして二人はそれぞれに別の方向に歩み出した。蛮人と怪しまれぬよう馬を捨て去り、足で大地を踏みしめながら進んだ。


 彼らの行く先には、それぞれに世を揺るがす人物が待ち受けていた。


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