友人
一
「兄上はあんな風に言いながら、誰かの助けを待っているのだ。しかし俺に言わせれば、自ら行動しようとしない者を助けたいと思う奴などいない。だが、俺は違うぞ。俺は生き残ることで、伍家の名誉を守り抜くのだ」
奮揚はいきりたつ伍員をなだめながら、伍尚の置かれた立場を彼に理解させようとする。
「彼は年長者である自らの立場を重んじて、自分を犠牲にしたのだ。彼が出頭を決めたのは、ただ単に父親の命を救いたいがためではない。弟である君を救うためなのだぞ。彼がひとりで行くことで、君は生き残ることができるのだ」
「俺が……生かされただと。この俺が……」
どうやら伍員は、自身の決断と行動にある程度の自負を持っていたらしく、兄に決断を先んじられたことに衝撃を受けていたようであった。
「君に、兄のような決断ができたと思うか」
奮揚は冷酷に問うた。
「……できなかった、と思う……」
伍員は唇を噛みながら、そう答えるのだった。
「うむ。兄上の思いを大事にして、今後を生きよ。……ところで、君のことを員と呼んで構わないか」
員というのは、いわゆる諱である。
「できれば子胥と呼んでいただきたい。俺のことを員と呼ぶのは、父と兄のみだ」
「子胥が字か。……では、伍子胥よ。私はこれから兄上と一緒に郢に赴こうと思う。彼がどのような最期を迎えるか、見届けるつもりだ。きっと君には危難が降りかかることと思うが……兄上がくれた命だ。たやすく失ってはならない。必ず生き延びるのだぞ」
奮揚は語りかけたが、員、すなわち子胥はその目を見ていなかった。彼は目を伏せ、無言でその場を立ち去ろうとする。
「どこへ行く」
奮揚の問いに、彼は言葉少なに返答をした。
「友へ会いに行く。心の整理をしたい」
「それもいいが、もうすぐ兄上が旅立ってしまうぞ。いいのか」
「別れを告げる勇気がない……だが、あなたの言うことはよくわかった。俺は絶対に生き残ると約束する」
そう言うと、子胥は振り向きもせずに立ち去っていった。
二
このとき伍子胥が友人のもとを訪れたのは、その友人が、はるばる申の地から伍家の危急を聞きつけて訪ねてきていたからである。
申とはもともと陳国にあった土地の名で、楚が荘王の時代にこの地を征服したときからその領土となっている。訪れた友人は、かつて祖先がこの地に封じられ、代々所領としていたことから氏を申といい、名を包胥といった。
この申包胥なる人物は、羋という王家と同じ姓をもつ貴族である。その彼が太傅の息子に過ぎない伍子胥と友人関係にあるということは、家格が重視された春秋の世においては、かなり開明的な人物であったことを示す。
この申包胥と伍子胥が二人並び立つと、ともに背が高いことに人々は驚く。もともと南方系の楚人は背が低い傾向があり、建物の梁に頭が届くほどの大男に巡り会うことは稀であるが、この二人は揃ってそのような人物なのであった。
しかし、その考え方はそれぞれ異なる。伍子胥が何ごとにも結論を導き出すために自分が行動を起こそうとするのに対し、申包胥は自分の求める結論が出るまでひたすら待つ手合いの男であった。
だが、これは単純に申包胥が伍子胥よりも忍耐強い性格であったと決めつける材料にはならない。申包胥は貴族であり、待ってさえいれば大抵のものを手に入れることができた。環境さえ異なれば、性格は変化するものなのである。
その二人が、このとき会うこととなった。場所は乾谿の北門の手前、川を前にした茶店の軒先であった。
「いい風だ」
伍家の危急を知りながら、その切迫した気持ちをいくらでも和らげようと申包胥は呟いた。初春の風が強い日差しを和らげるのと同じように、人の気持ちも言葉や心遣いによって和らげられるものであると、彼は信じていた。
「呑気なことを言うものだ。人の気も知らずに」
伍子胥はしかし、申包胥の気持ちを察しようとはしない。目の前の卓上にある茶器を取りあげて、それを一気に飲み干した。いまの彼の心には、それを味わうゆとりがなかった。
「兄貴が、親父のところに行くことになった」
茶器を口元に運んでいた申包胥の手が止まった。すでに事態は、彼が想定していたより深刻な段階に入っていたのである。
「そうか……」
申包胥は、このとき伍子胥にかけてやる言葉が見つからなかった。彼はゆっくり茶を口に含むと、時間をかけてそれを味わう仕草をした。
「兄貴は、俺には一緒に来るな、と言う。しかしこれは、父と兄の死を黙って受け入れろと言っているのも同然だ。しかも俺にはなぜ親父が捕われて我々兄弟が脅迫される事態に至ったのかが、皆目分からぬ。いったい、なにがどうなっているのやら……」
申包胥は苦悩する伍子胥を前にして、一瞬態度を決めかねる様子を見せたが、話し出した。
「実は君の家の窮状を耳にして、家人を使いに出して事情を探らせた。それによると太傅である君の父上を捕らえさせ、太子を国外に追いやらせたすべての原因は、費無忌というひとりの佞臣にある、とのことだ」
「なに」
「費無忌はもともと君の父上の部下であり、太子の守り役のひとりであったが、その任務のひとつとして太子の妃になる女性を迎えに秦国に赴いたのだそうだ。ところがこの女性がとびきり美しい人物であった。もともと上昇志向の強かった費無忌は、この女性を餌に王に取り入ろうとしたのだ。つまり太子の妃ではなく、独断で王の側室としてこの女性を秦から迎えることにしたのだ」
「それを、王は受け入れたのか」
「もともと息子の妻となるはずの女性を取りあげて自分の妻とすることへの良心の呵責はあっただろう。しかしその女性の美貌が、王の良識を吹っ飛ばした。王はその女性を側室として迎え入れ、費無忌はそれを功績とされた。彼はいま、太傅の部下などという小さな存在ではない。王の側近として、常にその座の横にいるのだ」
「…………」
「王は太子には宮女の中から適当な女子を替わりの妃として与え、事態を収めようとしたが、費無忌はこれに安心しなかった。順当に行けば今上の王がお亡くなりになったのちにそれを継ぐのは太子であるから、将来的には自分が罪を着せられ、殺されるだろうと恐れたのだ。費無忌はことあるごとに太子を貶める発言をし、その結果太子は城父へ送られることとなった」
「ふむ……」
「そこで今度は太子が城父において他国の諸侯と交流し、謀反の計画を練り上げているなどと嘘の報告をし、王の心を揺さぶった。王は太傅である君の父上を宮殿に呼びつけて尋問したが、太傅は清廉なお人柄であったので、すべて費無忌の讒言だと報告し、逆に王の蒙を啓く旨の発言をした。これが王の逆鱗に触れ、彼は拘留されるに至ったのだ」
「つまり、すべては我々伍家の人間や、太子に通じる者たちによって復讐されることを恐れた費無忌が仕組んだことだ、ということか」
「そうだ」
申包胥は再び茶器を口に運び、その中身を口に含んだ。今度は文字通り口を潤すための仕草であった。しかし伍子胥はその説明に納得した様子を見せない。包胥は不安を感じた。
「包胥よ。君の説明はだいたい事実を掴んでいるのだろうが……事情はよくわかった。だが、すべての責任がひとりの、その費無忌とかいう……佞臣に帰せられるという説には承服できかねんぞ。君は、王に罪はないというのか」
伍子胥の言葉に、申包胥は僅かに声を詰まらせながら答えた。
「私の家は、代々北面して王に仕える身分だ。その私が王の決断や行為に異を差し挟むことはできぬ。強いて言えば、王は費無忌によって騙されたに過ぎない。その罪を問うことはできないだろう」
あるいは申包胥としては、高ぶった伍子胥の気持ちを和らげる言葉をかけたつもりだったかもしれない。しかし代々楚の貴族として育った彼には、思考の限界があったのだろう。国に弄ばれる運命にある者の気持ちを本当に理解していたとはいえない言葉であった。
しかし、ここで伍子胥は激発などしなかった。気性が荒い彼ではあるが、友人を罵倒したりはしない分別が、彼の中には確かにあったのである。
だが、結果的にこの包胥の言葉が、その後の彼の行動を決めたのだった。
三
「包胥よ」
伍子胥はゆっくりと立ち上がり、陽光に身を晒しながら呼びかけた。目の前を流れる川の水面がきらきらと輝いていたが、彼はそれに癒された様子を少しも見せず、強く言い放った。
「佞臣が佞臣であることを見抜けぬ罪は、誰に帰せられると思う? お前の立場はわかるが、やはり俺は、罪は王に帰せられるべきだと思う。王の罪は、すなわち国の罪だ。だから俺はいつか……生まれ育ったこの楚をつぶす。滅ぼすのだ」
申包胥はその伍子胥の言を彼なりに受けとめた。包胥は、それを止めなかったのである。また彼は、伍子胥の考え方を否定せず、理解した意思さえも示した。
「お前がそのつもりであるならば、私は楚を続かせてみせよう。私とお前のどちらが正しいのか……それはわからぬ。だがお互いに懸命に生きよう。先に死んだ方が、負けだ」
「ああ……そうだな」
伍子胥はそう言って微笑んでみせた。二人はそれを機に別れ、それぞれ正反対の道を歩むことになった。しかし二人の悲壮な決断とは関係なく、川の流れはこの日の陽光を反射して輝き、初春の風を受けた木々は、爽やかな音を奏でていた。
その後屋敷に戻った伍子胥は、すでに兄の伍尚が郢に向けて旅立ったことを知ると、自らも身の回りの荷物をまとめ、旅支度をした。しかし、運悪くその折に郢からの使者を迎えることになる。彼は使者に向かって弓を引き絞り、狙いを定めた。使者は怯み、それ以上進めず、かくて伍子胥は逃亡に成功することになる。
しかし彼は、この時点から国賊となった。