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春秋の光と影  作者: 野沢直樹
第一章:楚の退廃
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兄弟

 一


 郢に至った奮揚は、事の次第を王に報告した結果、投獄されそうになった。しかし彼は罪を金銭で贖い、かつ自らの立場を平民と同じにすることで、その危機を免れた。

 鎧兜を脱ぎ捨て、帯剣もせずに街路をぶらつく彼であったが、もちろん何もすることがなかったわけではない。彼は宮殿を出入りする者たちと接触し、少しでも情報を得ようとした。そしてその情報のひとつに、太傅伍奢が投獄されている、というものを見つけたのである。

 太子の守り役である太傅が投獄されているということは、すなわち太子に通じる者が迫害を受けていることを意味する。事実関係を調査するには投獄されている伍奢に会うのが一番の近道だが、平民と成り下がったいまの奮揚の立場では、それは不可能であった。

 ――伍奢の家族に会って、話を聞くのがいいかもしれぬ。

 伍奢の家が城父の北、乾谿(かんけい)にあることを聞き及んだ奮揚は、そこに向かった。結局、彼は来た道をまた戻ったのである。


 道を人に尋ねながら乾谿の伍奢宅を訪れた奮揚は、その邸宅の質朴さに舌を巻く思いがした。中央の宮殿に勤める役人の住む家としては、その勢威を誇る華美な装飾が一切なく、外壁や門柱には色も塗られていない。白木のままなのである。しかもそれが貧相だということはなく、清潔さが保たれていた。これは伍奢の性格を示すよい例であった。なおかつ邸宅の主人である伍奢が不在の間もその状態が保たれているということは、現在の住人たちに彼の訓示がよく行き届いている証拠であろう……門の前に立った奮揚は、そのようなことを考えた。

「お尋ね申す……太傅伍奢どののご自宅は、こちらであろうか」

 その呼びかけに使用人が応じ、奮揚は客間へ通された。心地よく風が吹き抜ける作りとなっている部屋が彼の心を和ませ、長旅の疲れを癒したが、やがて目の前に現れた二人の青年の表情はともに厳しく、彼の心に緊張をもたらした。

「あなたも、我らに強要する輩なのか」

 二人のうち、背の低い方の男が唐突にそう聞いた。

「強要……なにを」

 奮揚はややとぼけた調子でそう答えた。もともと司馬であった男である。胆力には自信があり、多少の恫喝などには動じない心を持っていた。

「あなた方は、伍奢どののご子息か。どうやらお父上のことで危難が及んでいるとお見受けしたが、できれば詳しく聞かせてほしい」

 背の高い方の男がそれに対してなにか言おうとしたが、もうひとりの男がそれを制した。二人はともに伍奢の息子で、背の低い男の方が年長であるらしかった。

「その前に、あなたが何者であって、何の目的でここにいらしたかをお聞かせ願いたい」

 年長の男が、落ち着いた口調で聞いた。奮揚はそれに対して自らの身の上を要約して話した。

「私はもと城父の司馬の職にあって、かの城の守備隊長の役目を負っていた。名を奮揚と申す。……すでに知ってのことと思うが、城父の主は太子の建さまで、建さまはあなた方のお父上である伍奢どのが太傅として養育なさった御仁であらせられた」

「む……続きを伺おう」

 兄弟の目がそれぞれ光った。二人とも、興味を示したようであった。

「つい先日のことだ。郢の宮殿にいる王のもとより、私に太子を殺害せよという密命が下った」

「なんと! まさか君はそれを実行したのではあるまいな!」

 二人のうち、兄は驚愕のあまり腰を浮かし、弟は早合点して腰の剣に手をかけた。奮揚は、彼らそれぞれの反応に性格の違いを見出した。

 ――弟の方は、かなり気性の激しい男のようだ。兄はそれを御する役回りらしい。

 そう思ったが、深くそのことを考えている余裕はない。ともすれば彼は斬られてしまうかもしれなかった。

「いや。王命に背くことに躊躇して深く悩んだが、結局私は太子を逃がすことにした。……太子に謀反の意思があったとしたら殺害の理由としては理解できるが、私には特別そのようなものを太子の中に見つけることができなかったからだ。私は、太子に危急を告げたのちに、その館を襲撃した。殺害に失敗したふりをしたのだ」

 弟は奮揚の言を聞き、手を剣の柄から離した。兄は安心したように深い息を吐き、述べた。

「その咎を受けて、君は司馬の任を解かれて今に至っているわけだな。……太子のその後の消息は掴んでいるのか」

 兄の問いに対して、奮揚はやや答えづらそうな口調で応じた。

「事前に部下を通じて国外へ逃れるようにお伝えしていたのだが、現在も無事であるかどうかは確認がとれていない。……しかし、心配することはないだろう。私が送った部下は充分に信頼のおける者であり、判断力も優れている」

「無事でおられることを祈るしかない」

 兄は同意を促すように、弟を顧みながら言った。弟の表情には怒りの色が見え隠れしていたが、彼は何も言わなかった。

 奮揚は、ひとまず安心した。

「私は、なぜ太子が命を狙われることになったか疑問に思い、都の郢を訪れることにした。そうしたら、太傅であられるあなた方の父親の伍奢どのが、いま投獄の憂き目に遭っているという。これは明らかに太子謀殺の計画と根本が同じところにあるのだ。だから、私はあなた方のもとを訪ねることにした。いったい、何が起こっているのか。それを聞きたい」

「うむ……」

 兄は、伏し目がちに事情を話し始めた。


 二


「私の名は伍尚(ごしょう)。ここにいる弟は伍員(ごうん)という。伍家はいまから百年ほど前の荘王の時代に政務を執った伍挙(ごきょ)を開祖とし、その生き方を模範としているのだ」

 奮揚は記憶の底をかき回し、その「伍挙」という名を見つけ出した。

「……謀反によって国を荒らされた荘王が、復興の努力もせずに淫蕩にふけったことを諌めたことで有名な人物だ。伍挙は主君の荘王を批判して、彼のことを『鳴かぬ鳥・飛ばぬ鳥』と称した……そうだったな?」

「うむ。しかし荘王の淫蕩ぶりは擬態であり、彼は自ら愚者のふりをして家臣の人物を見定めていたのだ。荘王は三年ほど政治に興味を示さず、支配者としての責務を果たそうとしない態度をとり続けていたが、その後突如として悪臣の誅罰を開始する。そして楚は中原に進出し、覇者となることができたのだ。つまり、荘王は機会を待っていたのであり、淫蕩にふけっていたのは、その覇気と能力をあえて隠すためだった……いまでもひたすら機会を待つことを『鳴かず飛ばず』という。この語は、我らが祖父である伍挙が自らの命を顧みずに荘王に諫言した故事によって生まれたものなのだ」

 奮揚は聞きながら、やや退屈したような素振りをみせた。彼の聞きたいことは、そのようなことではなかった。

「君らの祖先は自慢に値する存在であることは間違いないだろう。だが、私がいま聞きたいことは、いまここで何が起こっているのかということだ」

 兄の伍尚は、まだ若さを感じさせる外見を持った男であったが、弟に比べると落ち着きがあり、冷静さを感じさせた。このときも彼は、奮揚の言葉に動じる気配も見せずに、話を続けた。

「もちろんそのことはわかっている。だが私の言いたいことは、父の伍奢は祖父の伍挙と同じように行動したはずなのだが、荘王と今上の王とでは、その受け止め方が違った、ということなのだ。つまり彼らは二人とも同じように忠心から王を諌めたが、祖父がそれを評価されたのに対し、父はそれを罪とされたのだ」

「実際はどうなのだ。その……伍奢どのがした諫言の内容に、罪とされるものがなにかあったのか」

「いや、まったく無い。父は、王が佞臣の言うことに惑わされて太子を追いやり、しかもこれを亡き者にしようと画策していたことを諌めたのだ。その内容はまったく正当なものであり、瑕疵は見当たらない。つまり王の目的は、最初から父を捕らえることそのものにあり、諫言の内容についてはどうでもよかったのだ。間もなく父は殺されてしまうだろう」

「…………」

 奮揚には、とっさに返す言葉がなかった。しかし伍尚は勝手に話を進める。

「最初に君に会った時、私は『君も我々を強要する輩か』と尋ねた。というのも、近ごろ宮殿から次々と使者がこの家を訪れていてな……。彼らは我々に、父親の命が惜しければ、兄弟揃って宮殿に出頭せよと言うのだ」

 伍尚の表情は苦虫を噛み潰したようなものであった。奮揚には、その気持ちがわかる。

「行っては駄目だ。行けば、君たちも殺される」

「それはわかっている。しかし、行かないでどうやって父を救い出すことができよう? あるいはこの私が行って、そのかわりに父が釈放されるという確証があればいいが……。この状況では、私は父の身代わりになることもできない」

 伍尚はそう言って、自らの境遇を嘆いた。いっぽう奮揚は、まさか父親のことは諦めろとも言えず、いつものように髭をまさぐることしかできずにいた。


 両者の間に沈黙がしばらく続いたが、このとき弟の伍員が初めて口を開いた。

「なにを悩むことがあろう。襲えばいいのだ。出頭するとみせかけて襲撃すればいい。実力で父上を奪い返すのだ」


 三


「員よ、それは駄目だ。父上が守り通してきた伍家の生き様を汚してしまう」

 伍尚は弟の意見をにべもなく否定した。あたかも論評にも値しない、という態度であった。

「兄上、そのように頭から否定することもないではないか。このままだと我々は、敵の仕掛けた陥穽にはまるしかない。陥穽とは……汚い罠のようなものだ。だったらこちらも相手を騙してもいいだろう。そう考えるのは間違いなのか」

 伍員は明らかに不満そうな表情をした。それはそうであろう。奮揚が考える限り、伍員の提案は事態を解決する唯一の策であった。それを簡単に否定するとは、伍尚は頭が固い……奮揚はそう思った。

「明らかに間違いだ。父上が人生において大事にしてきたものは、なににもまして清廉さだ。いくら相手が汚い手を使って騙そうとしたからといって、自分もそのやり方に倣うことは絶対しないお方だ。だから我々が、いまお前がいうようなやり方で成功し、父上の命を救うことができたとしても……父上は決して喜ぶことはない。逆に、悲憤のあまり自らの命を絶つだろう」

 伍尚は淡々とした調子で、そのように語った。それは、彼が心を決めた証であるかのように奮揚には思えた。

 奮揚は聞いた。

「どうするか、お決めになったのか」

「うむ」

 伍尚は頷いた。

「どうするつもりだ。どうやって、父上を救い出すつもりなのか」

 伍員はたたみかけるように聞く。しかし、それに対しての伍尚の返答は非情なものであった。

「お救いすることは、残念ながらできぬ。父上は、助からん」

「…………」

 奮揚は何も言うことができなかった。

「……見殺しにするというのか!」

 伍員は喚いた。奮揚には、その気持ちがわかる。しかしここで伍尚が発した言葉は、大いに彼の心を揺さぶったのだった。

「もはや救われぬ命をあえて救うべく、私が父上のもとへ赴こう。ここは私だけが宮殿に赴いて、無駄だと知りながら父上の助命を請うことにする。当然父上のみならず、私も死ぬことになる……。しかし父上の命は失っても、その魂を救うという最低限のことはできるはずだ」

「…………」

「員、お前は来てはならぬ。お前がいると、騒動になってしまうからな。どこか他国へ逃れて、そこで栄達の道を探せ」

「…………」

 今度は伍員が言葉を失っていた。気性の激しい弟が、兄の言葉に衝撃を受けて、なにも反応できずにいた。それだけ伍尚の決意は、激しいものだった。

 いっぽう奮揚は伍尚の発言に大いに感動し、落涙しながら叫んだ。

「……君は、なんという清らかな心を持った男なんだ!」

 彼は、心から伍尚を讃えた。


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