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春秋の光と影  作者: 野沢直樹
第一章:楚の退廃
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述懐

 一


 結局、子仲は太子と行動を共にすることになった。当初はそんなつもりはなかった子仲であったが、守るべき相手に剣を突きつけてまで行動を促した以上、自分だけ国境を越えずに引き返すわけにはいかなかったのである。

「呉に渡りましょうか」

「…………」

 太子建は返事をしなかった。彼はこのとき妻子のほか、側近の数名を引き連れていたが、誰もひと言も発しなかった。彼らを乗せた馬車の奏でる車輪の音が、空しく響く。

 子仲はその馬車の馭者(ぎょしゃ)台にいた。馭者は、馬車の行く先を決めねばならない。彼は迷ったあげく、馬車を北に向かわせた。

「どこへ向かうつもりだ」

 今度は太子が声をかけた。

「そうですね……睢陽(すいよう)にでも向かおうと思っています」

「睢陽……宋国に入るのか。大丈夫なのか。かつて楚と宋は敵国同士であったというが」

 子仲は急に話し出した太子の態度に驚きを禁じ得なかった。おそらく、太子は言いようもない不安に襲われているのだろう、と察した。

「それはもう昔の話です。以前の楚は、強国でした。その勢いは北上して中原諸国を脅かし、宋はそれを阻止する役目を負っていました。しかし、現在の我々にはそのような力はありません。また宋にも久しく名君が現れず、衰退しています。衰退している国同士に、対立はありませんよ」

 これを聞き、太子は目を丸くした。

「随分とはっきりものを言う奴だ。しかしお前はよくものを知っているようだ。……気に入ったぞ」

「私が楚と宋の抗争について人より詳しいのには、理由があります」

 子仲は馭者台の上で、やや神妙な面持ちを見せた。だが、後ろの客座にいる太子には、それが見えない。

「ほう。話してみよ」

「私の父は宋の出身でして、若いころに迫害を受けて楚に亡命したのだそうです。……私の姓名は子仲といいますが、子という姓は、宋では貴族のみに与えられるものなのです」

「宋の子氏といえば、殷の王家の末裔ともいわれている。お前はその血を継ぐというのか」

 太子の口調が若干改まった。だが、子仲はそれを無視するように、

「それは、今さらどうでもいいことです。私にとっては」

 と言いながら、馬に鞭を当てた。馬車はやや速度を上げ、客座を揺らした。

「私にとって重要なこととは、ある人が国を追われる場合、その人自身に落ち度がないことが多いという事実です。私の父がそうであり、太子様もそうです」

 その子仲の声は、車輪が地面を叩く大きな音によって、掻き消えそうなものであったが、太子建はどうにかそれを聞き分けた。

「車を止めよ。少し、休憩しよう」

 太子はやっと、話をする気になったようである。


 二


 太子は馬車を降り、子仲を誘って歩き始めた。わざわざ車を止めさせたのは、客座にいる他の者たちに聞かせたくない話をするためらしい。

「俺は、太子として……楚の次代を担う人物として期待されていた。父も……父王にも評価されていたのだ。こんな俺でもな」

 太子は自嘲的な表情とともに、そう言った。その口調は過去を懐かしんでいるようでもあり、現在の不遇に対する不満をぶつけるようなものでもあった。

「それが、現在では誅殺されようとしている。人の運命とは、これほど流転するものなのか」

 子仲は答えなかった。太子がそれを求めていないことは明らかだったからだ。

「俺には、実に優秀で、忠実な守り役がいた。その人は俺が生まれたとき、初めて抱き上げてくれた人で、まさに親代わりであった。しかしその一方で、俺は本当の父や母に一度も抱き上げられたことがなかった。太子という立場の悲しき定めだ」

「さぞや、寂しい少年時代であったことでしょう」

「いや、それを実感したことはない。俺のまわりには沢山の人たちが常にいた。実の親が目の前にいないことを不満に思ったことはない。なににもまして俺は守り役の伍奢(ごしゃ)に感謝している。彼は俺にまったく寂寥を感じさせなかった。俺は彼によって育てられ、彼から学び、彼と理想を共有するようになった」

「伍奢、ですか……聞かぬ名です」

 子仲は首を傾げてみせた。彼は国内の政情を注視し、その動きに神経を尖らせていた。それが、亡命者の子孫という生きにくい世界での彼の処世術だった。が、その彼でも知らぬ名だということは、伍奢という男は、非常に危険性が薄い人物であったというべきだろう。

「そうだろうさ。伍奢は、自分が俺の守り役だということに誇りを持っていた。決してそれ以上のことをして名を挙げようとしたり、その地位を踏み台にしてより高位な存在となろうとはしなかった。だから俺は彼を尊敬しているし、父王もそのことを評価しておられた。……が、伍奢の部下のひとりによこしまな野望を持つ者がいたのだ。伍奢も俺も、その者の内なる邪心に気付くことができなかった」

「その者の名は?」

費無忌(ひぶき)太傅(たいふ)であった伍奢のもと部下で、当時少傅(しょうふ)であった。しかしいまは王のもとにあり、常に我々を陥れようと誑かしている。いわゆる佞臣(ねいしん)よ」

 費無忌という名には、聞き覚えがある子仲であった。しかし子仲の記憶には、その名は佞臣としてではなく、功臣として刻まれている。

 費無忌はとあるきっかけではるか西方の秦国に旅行し、その際に秦の公女が類い稀な美女であることを発見した。そして彼はその公女を楚に連れ帰ったところ、楚王はこれを喜んで側室に迎え入れたという。

 ひどく俗な功績ではあるが、費無忌はこれを機に王の側近となった。これが、子仲の持つ費無忌に関する記憶であり、楚の国内ではこれが一般的な事実として流布していた。

「子仲よ。お前は情報に通じているらしいが、情報は仕入れればそれでよいというわけではない。仕入れた情報を疑ってみることも必要なのだ。すなわち一般的にいわれている費無忌の功績に関しては事実ではない。費無忌はふらふらと旅行に行ったわけではなく、この俺の妻となる女性を迎えるために、秦に派遣されたのだ」

「と、いうと?」

「秦の公女は、もともと俺の妻となることが決まっていた。費無忌はそれを迎えに行ったに過ぎぬ!」

 太子は唾を吐き捨てるような勢いで、そのひと言を発した。だが、子仲は今ひとつ事情を理解できない。

「と、いうことは、費無忌は命令に従わなかったということですか」

 太子は子仲の言葉に苦笑いした。

「……確かにそうに違いないが、俺が言いたいことは、費無忌という男は上官の伍奢とあまりにも違う、ということだ。奴は、俺を踏み台にした。本来ならば俺の妻となるべき秦の公女が、実際に見てみるとあまりにも美しかったので、俺のではなく父王の妻とすれば、大きな恩賞が得られると踏んだのだ。そして自らの地位も向上させられると……俺の存在は、彼に無視されたのだ」

 太子はどちらかというと慎重な言い回しをする人であった。彼は現在、自らの命を狙われる事態に陥っているが、それでもあからさまに王を批判する言動を慎んでいる。しかしこと費無忌に関しては、批判することをためらわなかった。


 三


「しかし、その費無忌という男……こう言ってはなんですが、思い切った行動をとったものですね。のちのち自分の身に危険が及ぶことを考えていなかったのでしょうか」

 子仲は疑問を呈してみせた。それを機に、やや興奮気味であった太子の口調は、落ち着いたものとなっていった。

「当初は考えていなかっただろう。俺は甘く見られていたのさ。しかし、伍奢はこのことを見逃さなかった。伍奢は費無忌を呼びつけたうえで厳しく叱責し、自らの誤った行動を反省するよう促した。しかし、これが費無忌の心を逆に捩じ曲げてしまった。奴は、父王が計算どおりに秦の公女に心を奪われていることを確認すると、それを功績として王に直属の臣下にしていただくよう奏上した。そしてそれに成功すると、俺や伍奢のことをあしざまに王に告げたのだ。その結果として、俺は城父に左遷されたのだ。……いまに太子としての地位も剥奪されるに違いない。そして、その後に殺されるのだ」

 太子建は深いため息をついた。その様子には、運命を受け入れて、それに従うしかないという諦めの態度が見え隠れした。子仲には、それがもどかしくてたまらない。

「太子……」

「待て。俺はいまのいままで自分などは死んでも構わないと思ってきたが、大事なことを忘れていることに気付いたのだ。俺には、死ぬ前に為すべきことがある」

 子仲は緊張を感じ、居ずまいを正した。

「大事なこととは……? 私にできることがあれば、何なりとお申し付けください」

 太子は深く息を吸い込み、それを言葉とともに吐き出した。

「俺などは、どうなってもいい。しかし、俺を育ててくれた伍奢を見捨てるわけにはいかぬ」

「太傅伍奢の身に危険が迫っていると……」

「そうだ。子仲、伍奢の命と名誉を守るために、費無忌を亡き者にしろ。いますぐ郢に潜入し、奴を殺すのだ」


 太子の目は、激しく燃えていた。子仲は太子の思いを受け止め、すぐさま行動を開始した。

 ――ほかに、どうせよというのだ。

 殺人は、許されるべき行為ではない。だから、彼の心には当然ながら躊躇がある。しかしこのときの子仲には、ほかに選択肢がなかった。


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