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春秋の光と影  作者: 野沢直樹
第三章:呉越相撃つ
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西施の毒

 一


「子胥に会うことにする」

 奮揚は、紅花を相手に今後の方針を示した。伯嚭の為人(ひととなり)を探るつもりでいた紅花は、この奮揚の発言にきょとんとした表情を示した。

「太宰嚭について探るのではなかったのですか」

 紅花の問いに奮揚は応じた。

「私と伍子胥は、ごく僅かではあるが旧交もある。彼の口から伯嚭がどのような人物であるかを聞いた方が早い。いずれは伯嚭に会うことになるかもしれないが、それにしてもあらかじめ伍子胥の口から予備知識を得ておいた方がいいだろう」

 紅花は不安そうな顔をした。

「実を言うと私は、少し伍子胥という人に会うことが怖いのです。お兄さまの古くからの友人だということは知っていますが、私自身はお会いしたことがないので……本当はどうなのですか?」

「外見は強面だし、性格も一本気であることは確かだ。しかし彼は、決して間違ったことを主張しているわけではない。私が思うに……子胥は自分の気持ちに正直な男なのだ。多くの者は、面倒くさがって間違ったことを正そうとしない。それがいけないことと知りながら……。彼は、妥協せずに正しさを追う。何も間違ったことはしていない」

「では、恐れることはないと?」

「自分が正しいことをしているという確信があるのならば、恐れる理由はないし、彼に害される理由もない」

 紅花は、その言葉を受けてやや安心したような表情を浮かべた。

「理由もなく相手を攻撃するような人ではないということはわかりました。ですが、自分の主義主張を押し通すためには戦うことを厭わない人であることには間違いはなさそうですね」

 奮揚は頷いた。

「それは確かにそうだ。しかし私には、それがはたして彼の美点なのか、それとも欠点なのかを断ずることができない。世の中に正しいことはひとつではないし、正しさは個人によって解釈が異なるものだ。彼は、親兄弟を王によって殺されたが、彼は復讐と称してそれ以上の人々を死に追いやっている」

「いずれにしても固定観念は捨ててお会いした方がよさそうですね」

 紅花はそう言うと、支度を始めた。彼女は、常に決断が早い。


 伍子胥は、奮揚のことを覚えていた。彼は両手で奮揚の手を力強く握ると、

「兄の最期の様子を聞かせてほしい」

 と、言いながら頭を下げた。奮揚は弱り果てた。

 奮揚は結局、伍奢や伍尚の死を見届けることができなかったのである。

「残念なことに、私は、君の父兄の最期に立ち会えなかった。なぜなら私はあのとき、かつての部下である子仲とともに、予定を変えて費無忌を襲うことにしたのだ。君には謝らなければならない」

「そうか……」

 伍子胥は、残念な表情を浮かべたものの、奮揚を責めようとはしなかった。そればかりか、

「子仲は、君と旧知の仲だったのだな。それでは謝らなければならないのは私の方だ。私は、彼を先の王に紹介した。その結果、彼は刺客となり、死んでしまった。素直ないい男であったのだが……」

 と、謝罪の言葉を口にしたのである。

 そこで奮揚と伍子胥は互いを許し合い、会話がはずんだ。そこで話題が奮揚の連れである紅花に及んだ。

「包胥の妹! 話には聞いていたが、お会いするのは初めてだ。こうして見ると、なるほどよく似ている。君の兄上とは、いろいろなことがあったが……すべて過去のことだ。できれば水に流してほしい」

 捉えようによっては、虫のいい話であった。伍子胥は、過去のわだかまりを捨てきれずに、国さえも敵に回した男なのである。それを自分の行為については忘れてほしいと言っているのであった。

「言いたいことはわかっている。だが、切に頼む」

 伍子胥は自分自身の厚顔さをわかって言っているようであった。

「…………」

 紅花は即答せずにいた。

「紅花……」

 奮揚の心配をよそに、紅花は押し黙ったままだった。

「私の行為や決断が楚を滅亡の淵に追いやったことは事実であるし、それによって君たちには著しく不利益がもたらされただろう。だが、わかってほしいことは……私は君たち個人に恨みがあるわけではない、ということだ。もちろん包胥にもだ」

 この伍子胥の発言に対し、ようやく紅花は口を開いた。

「恨むのであれば、国を……楚を恨めということですか? 私の兄は、人なくして国は存在しない、とよく言います。国というものは、人の意志の集合体であるべきだと。ですが、実情は国はたったひとりの王の意志によって運営されていますね。ですから、あなたさまが平王に殺意を抱いたことを私の兄は否定しませんでした。ですが、兄はあなたさまが楚国をも滅ぼそうとしたことを必死になって阻止いたしました。それは国ではなく、そこにいる人々を守ろうとしたからです。伍子胥さまには、そのことをわかっていただきたいのです。それさえわかっていただければ、私も過去の話を蒸し返したりはいたしません」


 二


 伍子胥は、紅花の言葉に考える仕草をしてみせた。そして彼はひとつの結論を導き出した。それは、自分自身に向けた内省的な言葉であった。

「私は、結局楚を滅ぼすことができなかった。そればかりか楚の平王をこの手でうち殺すことも出来ずじまいだった。出来たことと言えば、その死体に鞭打ったことばかり……。なんら意味のないことだ。国を憎んだこの私がやり遂げたことは、まったく何もないと言っていいだろう。それに対して人を愛した包胥は、楚を救い、幾千幾万の人民を救った。我々の争いは、彼の勝利だと言えるだろう。私は、今後包胥の生き方を学びたいと思っている」

 ここに包胥の唱える「道」の信奉者が、またひとり誕生した。


「現在の呉は越に勝利し、勢力的には絶頂期にあると言っていいだろう。しかし、私としてはその絶頂期ゆえの慢心が気になるのだ。呉王は、越王の裏の意図を深く読み取ろうとせず、これを生かしている。あれは……私が見るに、この私と同じ復讐の鬼だ。残酷なようでも、可能なうちにその意図をくじかねばならない」

 奮揚は、これに尋ねた。

「なぜ、越王が復讐の鬼だと断じることができるのか」

 当然の質問であろう。しかし、ここで伍子胥は信じられない返答をした。

「あの人相だ。長頸烏喙(首が長く、口がくちばしのようにとがっている)の相を持つ人物は、一般に恨みがましい」

「たった、それだけの理由で……!」

 伍子胥としては、内なる疑惑を理由とするよりは、外見を理由にした方が、まだ説得力があると思ったのだろう。しかし、これは失敗に終わった。奮揚は信じられないとでも言いたそうな表情をし、紅花に至っては、その眼差しから自分に対しての軽蔑さえも感じられた。説明の必要を感じた伍子胥は、補足するように語を継いだ。

「越王勾践の現在は、厩舎の清掃係だ。これは奴隷に与えられる仕事だが、彼はそれに不平も漏らさず、毎日いそしんでいる。呉王や太宰嚭は、このことに感銘を受けているようだが、私に言わせれば、これこそが怪しい。……人が屈辱に耐えようとするのは、その先にそれを晴らす機会があるからなのだ。もし、その機会がないのであれば、人はすぐさま叛乱を起こす」

「…………」

「呉王や太宰嚭は越の重臣である文種や范蠡らにかどわかされて、その事実に気付いていない。つまり、越が美女や宝物を呉に送り届けるのは、敗者としての当然の行為だと考えているのだ。しかし、実際は違う。彼らは呉国を骨抜きにして、いずれは越王を釈放するように画策しているのだ。それは、現状を覆すためだ。残念ながらいまの呉国には、それをわかる奴がいない」

 越は、呉に比べて長期的な視野を持っていたと言うことができよう。越が呉王や太宰嚭に私的に贈り物をしているという事実は、奮揚にとっては初めて聞くことであった。私的な贈り物とは、「(まいない)」に他ならない。

 伍子胥が越に対してことさら嫌悪感を示すのは、実はこのことに理由があったようだ。


 三



 范蠡は太宰嚭に八名の着飾らせた美女を納めた。

「あなたが越国の罪をお許しになれば、またこれより美しい者を献上いたしましょう」

 この言葉を受けた伯嚭は、呉王夫差に進言するに至る。

「いにしえから、国を討つ者は、これを服従させるのみでした。いま、越はすでに我が呉国に服従しています。これ以上何を求めるのですか」

 伍子胥はこれに対して口酸っぱく反論した。

「なりません。呉は越にとって、仇敵の国です。呉があれば越はなく、越があれば呉はないのだ。これは変えることができません。……私はこう聞いております。陸人は陸に居り、水人は水に居ると。中原は陸人の国です。我々がこれを攻めて勝っても、その地に居ることはできません。越国は、我々と同じ水人の国です。我々がこれを攻めて勝てばその地に居ることができ、その舟に乗ることができます。この利は、失うべきではありません。君は必ずこれを滅ぼしなさい。この利を失えば、悔やんでもまた及ばないでしょう」

 夫差はしかし、この意見に耳を傾けることはなかった。すでに太宰嚭は、自身に送られていた八人の美女のうち、もっとも美しい者を夫差に献上していたのである。


 このとき、選ばれて夫差のもとに送られた女性の名を施夷光(しいこう)という。貧しい薪売りの家に生まれた、胸に持病を抱えた娘である。もともと、彼女の住んでいた村に「施」という姓を持つ家が二軒あり、彼女は村の西側に住んでいたため、多くの人々は彼女のことを「西施」と呼んだ。

 彼女は、谷川で洗濯をしているところを范蠡に見初められ、この役割を担うことになったという。その代償として貧しさが解消されたことは言うまでもない。

 范蠡はしかし、呉へ彼女を送ることを当初から意識していたわけではなかった。もともと彼女の美しさに心を奪われたのは、范蠡自身だったのである。彼が施夷光を呉へ送ったことは、苦渋の決断である。范蠡は、彼女の美貌によって国家の窮地を救おうとしたのであった。

 彼女は伯嚭を経由して、夫差のもとに送られるに至った。すでに夫差は西施の美貌の虜になっている。

「越にはそなた(・・・)のような美女が数多くいるのか。だとすれば軽々しく滅ぼすわけにはいかない」

 耳元でいやらしく語りかける夫差に対し、西施は精一杯の愛想を振りまきながら答えた。

「そんな、私など……貧しい薪売りの娘に過ぎません。もっと品のある女性が世の中には沢山いることでしょう。私は幼いころから父の仕事の手伝いをして山の中を歩き回っていたので……足が大きくて、太いのです。それが人の目に触れないように長い裾の服を着たりして……そんな女のどこがよいと仰られるのですか」

 西施の足が大根のようであったというのは、事実のようである。しかし、彼女にまつわる逸話として、川に足を浸して彼女が洗濯をしていると、魚たちがそれに見とれたかのように泳ぐのを忘れた、というものがある。絶世の美女に備わる人間臭さが、またその魅力になっているといったところであろう。

 呉王夫差もそう感じた。

「そういうところも含めて、余はそなたのことが好きだ」

 そう言われると、西施自身も悪い気がしなかったであろう。彼女は自分を愛してくれる者を、愛した。彼女は范蠡の意図とは関係なく、夫差を愛したのである。


 四


「王を惑わしているのは、あの西施という越の美女だ。王が囚われの身となりながらも越が存続している理由は、ひとえにあの娘の美貌のおかげだ。王は、彼女のふるさとを滅ぼしたくないという思いから、越に対する対処を甘くしている。しかし勾践を生かしておいては、必ずや呉は仕返しを受けるのだ」

 伍子胥は、吐き捨てるようにそう言った。紅花は、その言葉に疑問を抱いた。

「呉王を惑わすことは、彼女の意志なのでしょうか。その……その西施という女性は、意識して呉の政策を誤らせようと?」

 紅花は、はたしてひとりの女性にそのような行為が可能なのかどうか、考えているようであった。

「結果的にそのようになった、としか言いようがない。多少は范蠡の入れ知恵はあるだろうが、私の見る限り……西施は貧しい家に暮らした純朴な女性だ。だが、だからこそ危うい。呉王と西施との愛が本物であれば、なおさら問題は複雑になってくる」

 伍子胥の言葉に、紅花は表情を暗くした。

「可哀想なお方……。呉国の存続のために、子胥さまは彼女の愛を引き裂こうとしていらっしゃるのですね。彼女は呉王を堕落させる存在だとして。ですが、それは彼女には責任のないことです」

「裏に勾践や范蠡の意図がある限り、仕方がない」

 伍子胥は紅花に冷たく言い放った。それを見た奮揚は、二人の会話の間に割ってはいった。

「では、君は西施をどうするつもりだ。もしや、手を回して殺すつもりではないだろうな。そんなことをしたら、君自身の立場が危ういぞ。……状況を見守るのだ。西施の存在は、将来的には呉越友好の架け橋にもなるかもしれぬのだ」

「考えられぬ話だ。越の側に裏の意志があることは明らかだ。彼らは将来我らを屈服させようとしているからこそ、贈り物をして、屈辱にも耐えるのだ。あの西施の美貌を見ろ。君たちは実際に見たことがないから勝手なことを言う。彼女の美貌は、本来ならば越の至宝とも言えるほどなのだ。それを敵国に差し出すなど……裏の意志がなければあり得る話ではない。しかも残念なことは、それを見抜く者が、呉には私しかいないということなのだ」


 *


「王さま、少し外の空気が吸いたくて……宮殿の外に出かけてみたいのです」

 西施はよく夫差に対してそのような訴えかけをする。それは、単に気晴らしがしたいというわけではなく、彼女が抱えている胸の病気に原因があることだったらしい。外の新鮮な空気が、胸の痛みを和らげる効果があったのだろう。

 あるとき、夫差は彼女を連れて外遊した。その際に訪れたある里で、持病の発作を起こした西施は、苦痛に顔を歪めて胸を抑えながらうずくまった。里の者たちは、何ごとかと(いぶか)りながらも、目を離すことができなかったという。胸の痛みに苦しむ西施の姿は、見る者の同情を誘い、それでいて欲情させるものであった。男たちは、彼女のかよわさに性欲をそそられたのである。

 その里では、その後しばらくの間、女たちが彼女の真似をして苦しむふりをして男の気を惹こうとする行為が流行ったという。


「いつものことですから……大丈夫です。王さまがご心配なさる必要はございません」

 そのとき彼女は、その白い頬をほんの少しだけ紅く染めながら言った。夫差は、彼女の一生を最期まで保証しようと、このとき自分に誓ったのである。

「西施が喜ぶことならば、どのようなことでも……余は行なおう。彼女が悲しむことは、今後一切余は行なわぬ。越の国も滅ぼすには及ばぬ。王であった勾践は、いまや余の下僕だ。なんら危険はなかろう」


 宮殿に帰った夫差の言葉に伍子胥は舌打ちをした。それに反して伯嚭は指を鳴らしたという。今後の交渉の行方次第によっては、伯嚭のもとには越のあらゆる宝物が届けられることになるかもしれなかったのである。

 そして宮殿の地下では、勾践がこの事実を知って笑みを漏らした。それを伝えた范蠡の胸中はやや複雑であったが、その表情には笑みがあったという。


 *


「伍子胥の意見は正しいかもしれぬ。越はきっと、西施の美貌によって滅亡を免れようとしているのだろう。そしていつか反撃するための力を蓄えているのだ」

 奮揚の結論に、紅花は反論した。

「では、越が目的を達したら、彼女はどうなるのでしょう。目的を知った呉によって彼女が裁かれることを、越は見過ごすのでしょうか」

 奮揚は伏し目がちに、なおかつ紅花に申し訳なさそうな口調でこれに答えた。

「西施は越にとって道具にすぎなかった。包胥どのの言うような『道』がすべての人にとって有効とは限らぬよ。あり得ることだ」

「そんな……」

 紅花は落胆の表情を隠さなかった。奮揚は、その肩を優しく抱いた。


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