臥薪
一
これに先立つこと十年前、ときは闔閭率いる呉軍が楚を破って帰還したときである。呉は楚を打ち破った勢いをもって、北の斉をもその支配下に治めようと目論んでいた。
斉は呉の、とりわけ孫武の軍事指揮能力を恐れ、公家の娘を人質として供出した。
可憐な娘であった。目が丸くて愛らしく、少女のような顔立ちが印象的な娘であった。
闔閭は、この娘を長子である太子波に娶らせた。
しかし斉の娘は未だ若く、なおかつ感情の抑制が利かない性格であったらしい。彼女は日夜故郷の斉を思って号泣し、そのため病気になった。いわゆる心の病である。
これを憐れんだ闔閭は、彼女のために呉中の北側に新たな門を建設し、これを「望斉門」と名付けた。
門は高層の楼閣になっており、上層の階に上がれば、文字通り斉国を望むことができたという。闔閭は、斉の娘をこの門の上階に登らせ、思う存分故郷への思いに浸らせた。
しかし、これは逆効果であった。彼女はより一層望郷の念を強くし、ついに死に至った。その寸前に彼女が闔閭に残した言葉がある。
「必ず私の死後は、虞山の嶺に葬って、斉を望ませてください」
闔閭はその通りにした。その死を悼む彼の心がそうさせたのである。
しかし、ことはそれで終わらなかった。彼女の死を闔閭以上に悼む者がいたのである。
太子波であった。
波は、彼女を心の底から愛していた。生前は彼女が故郷を思って泣く姿に激しく心を痛め、死後は彼女を失った悲しみのあまり、自ら泣いた。その結果、彼も病気になり、死に至った。
呉は世継ぎを思いもよらぬ形で失った。これにより、諸公子の中から新たな太子を選ぶ必要性に、闔閭は迫られることとなる。彼は、末子の公子子山をその位置に据えることを考えていたが、このとき積極的に運動したのが次子の夫差であった。
夫差は伍子胥のもとを訪れて言う。
「王は太子を立てようとしている。私でなければ、だれがまさに立つべきであろうか。この計はあなたにかかっている」
伍子胥は、自分自身も熱い男である。夫差が熱く自分自身を推す、その心に感じ入った。彼は闔閭に世継ぎの件を諮られると、答えて言った。
「夫差は信たるに人を愛するをもってし、節を守るに正しく、礼義にあつい。兄が死んで弟がそれに代わるのは、経の名文にあります」
と。それを受けた闔閭は、
「あれは愚かで不仁である。呉国を受け継いで統率できないのではないかと心配だ」
と反論したが、
「しかし、子胥がそう言うのであれば、その言葉に従おう」
と伍子胥の顔を立てる形で、これを了承した。
この時点で、呉の太子は夫差と定まった。
二
闔閭が右足に受けた傷は、大きく化膿していた。霊姑孚は受けた傷口が腐る毒を、その矢に塗り込めていたのである。闔閭は、傷の化膿から発する高熱にうなされた。
「夫差を呼んでくれ」
朦朧とする意識の中、闔閭は周囲に命じて太子夫差を呼び寄せると、傍らに跪かせた。自らは、横になったままである。
「夫差、夫差よ……」
闔閭は熱にうなされながら、夫差の名を呼び続けた。もはや彼にはその姿が見えないようであり、その姿は周囲に控えた伍子胥や孫武などの側近たちを愕然とさせた。
「ここにおります」
夫差は跪き、顔を伏せながら言った。その様子に伍子胥は小声で注意を与えた。
「太子様、お顔を上げて王さまのお姿を目に焼き付けておかなければなりませぬ。また、そのお声を耳に焼き付けて忘れぬようにしなければなりませぬ。おそらく、これが最後の機会となるでしょう」
その囁きに夫差は驚いて顔を上げた。彼は伍子胥の目を見据え、その真意を推し量ると、やがて視線を横たわる闔閭に向けた。
「王さま、夫差はここにおります」
闔閭はその夫差の言葉に直接には反応しなかった。どうやら、すでに意識は混濁しているようであった。
「夫差、夫差よ! ……汝、勾践が汝の父を殺したことを忘れるな」
闔閭はすでに自身が死したこととして話をしていた。これにより、闔閭の死は誰の目にも疑いのないものとなった。
「決して忘れませぬ」
夫差は力強く闔閭に向けて言い放った。しかし、その声が闔閭の耳に届いたかどうかは、定かではなかった。
その日の夜、闔閭は息を引き取った。
呉は南方の僻地にありながら、中原諸国を従える形で覇を唱えた。その功績は、闔閭によるところが大きい。その覇権の確立を、大きく伍子胥や孫武の能力に頼った事実があったとしても、結局彼らは闔閭の旗のもとに集結し、彼のためにその能力を発揮したのだ。
闔閭が権力を把握したきっかけは、専諸という死士を得たことである。専諸は、ひとりの男を王とし、その王を天下の覇者にした。そしてその覇者が絶命したことで、いま天下は大きく動こうとしている。これは、専諸の存在こそが天下を動かしたと言っても差し支えない事実であった。
専諸は、自らが携えた焼魚の腹の中に仕込んだ匕首によって闔閭を王とせしめた。この世の中の争乱が、そのほんの小さな匕首によってもたらされたという事実には、驚愕せざるを得ない。
三
呉王闔閭の死は、大きな衝撃として天下を駆け巡った。
「呉王が死んだ!」
奮揚が届けたその知らせに、包胥は腰を浮かせた。
「いったいどうして……病か?」
「病だって?」
包胥の言葉に、奮揚は思わず問い返した。
「違うぞ、闔閭は討たれたのだ。呉は、越に敗れた!」
包胥は卒倒しそうになった。彼は、伍子胥に越に武威を示せばよいなどと伝えていた。しかしそれは具体的な戦力分析をした結果からではなく、厳しい言い方をすれば、ただの印象からでしかなかった。
「越がそれほどの強国となっていたとは、認識を改めなければならぬ」
その会話を見守っていた紅花は、純朴な感想を述べた。
「越国って……遥か南の国でしょう? いったいどういう人たちが住んでいるのかしら。言葉は通じるの?」
これは、当時の楚や黄河流域の中原諸国に住む人々にとって、当然の疑問であった。彼らにとっては、越はすなわち南蛮であり、未開の地であった。したがって、そこに人が住んでいることも、ほとんどの人が想像したことがないのである。
しかし、実際は違った。奮揚はその事実を彼らに伝えた。
「越の現在の王は勾践という。彼ら王家はもともと夏王朝の末裔だと称しているが、その真相はわからぬ。だが、王は確かに我々と同じ言葉を話す。そして王の周辺を固める重臣たち……大夫のひとりで主に内政を担当している文種という人物は、楚の出身だそうだ。またもうひとり、軍政を担当している范蠡もまた、楚の生まれだとのこと。越の宮殿には楚出身の者が多く集まり、そのため文化は楚に近いという。いずれにしても、先王の時代に多くの賢人が国外に流れた。彼らもまた、なんらかの事情で楚に居づらくなったのだろう」
包胥は溜息を漏らしながら呟いた。
「伍子胥と同じように、か……」
続けて紅花が漏らした感想が、さらに包胥のため息を誘う。
「すべての原因が、楚にあるとも言える状況ですね」
しかしそれは確認でしかない。原因はすでに確定しており、それを今さら変えることはできないのだ。ある事象が、次に起こる事象の原因となり、次に起こった事象が、さらに次に起こる事象の原因となる……人の社会とは、その連続によって営まれているのであって、それを遡って変えることはできない。彼らにできることは、その流れに乗りながら、次の事象にとって良き原因となる行動をとることであった。
「呉には新しい王が擁立されたのか?」
包胥は気を取り直して、奮揚に問うた。奮揚はそれに答える。
「新王は闔閭の次男で、名を夫差というらしい。どうやら伍子胥が熱心に推した人物らしいぞ」
「ふうむ……その人物が伍子胥のような男であるとすれば……呉はこのたびの屈辱を越に対して晴らそうとするであろうな。そして越はまたそれに復讐しようとする……はたしてどちらが生き残るか」
悩む包胥に、紅花が口を挟んだ。
「必ずしもどちらかが生き残ると決まっているわけでもないでしょう? 両方潰れることもあるのでは?」
「うむ。双方の争いがあまりにも激しくなると、そういうこともあるかもしれない。折りをみて、私は越王に拝謁してみたいと思う。それが何年後になるかわからないが。奮揚どの、君は呉越を渡り歩いて、その実際の状況を逐一私に報告してほしい。紅花も今度は一緒に行くがいい」
奮揚と紅花は、そろって旅支度を始めた。使命感に燃えた表情をあらわにする奮揚に対し、そのときの紅花の表情には、うきうきとした喜色が溢れていた。
四
「今さら言うのもなんだが、私は公子子山さまに王になっていただいた方が良かったと思う。なぜ君はあえて夫差さまを選んだのか」
孫武は疑問を呈してみせた。しかし、このとき伍子胥は表情に怒りの色を示した。
「今さら、というのであれば本当にそうだ。甚だ不遜なひと言だぞ。相手が君だからこそ黙っているが、もしこれが他の奴であったなら、私はためらわずに剣を抜いているはずだ」
「ああ、わかっている。だが、どうしても知りたいのだ。質問に答えてほしい」
伍子胥はその孫武の言葉にしばらく無言を貫いていたが、やがてぽつりぽつりと言葉を漏らし出した。
「夫差さまは、単純なお方だ」
「ああ。だから心配なのだ」
「胆力はある。しかし人の意見に左右されやすい」
「定見が無いように思える。それは私も感じることだ」
「もし夫差さまではなく、子山さまが王に選ばれたとしたら、一時は夫差さまがそれを受け入れたとしても、あとで必ず彼を焚き付ける者が現れるに違いない。そのとき夫差さまは、国の安定よりも自分の野心を優先させるだろう。あの方は、そういうお方だ」
「だからこそ、先に王位に就けたというのか」
「越との戦いは、今後しばらく続く。夫差さまは私を頼ってこられた。そういう事情があれば、もし彼が道を誤ろうとしても、制御は可能だ」
「どうかな」
孫武は、そう言い残してその場を去った。彼は伍子胥の意図を理解したが、だからといって、それに納得した様子はなかった。
「復讐の心を絶やしてはなりません。先王の遺言を胸に刻み込むようにご自分でも努力すべきです。安楽に身を委ねてはなりません。不屈の闘志こそが、決意を持続させます」
伍子胥は、夫差を相手にそのように説いた。夫差も即位当初の決意に燃えていたころである。彼は伍子胥の言葉に感じ入り、薪を貯蔵する小屋で起居することにした。
そしてその小屋に出入りする召使いに、毎回のように言わせた。
「夫差よ! 汝は越の国人が汝の父を殺したことを忘れたのか!」
と。
その様子に、伍子胥は満足した。




