指令
一
楚の西側に位置する城父という都市の守備隊長である奮揚のもとに奇妙な指示がもたらされたのは、今上の王が即位してから五年めのことであった。
守備隊長の官名は「司馬」であったが、これは地方の城にあっては貴職であった。しかし、直接王から指示を受けるほどの地位ではない。通常であれば、中央からの指示はすべて城主を通じてもたらされるものなのである。
奮揚は、国都である郢からの使者が直々に自分のところにやってきたことに戸惑ったが、それ以上に不信感を抱いたのは、その指示の内容であった。
「城父公没有忠誠度。因此、殺了這(城父の主には忠誠が認められないため、これを殺すことを命ず)」
竹簡に記された文字には王の意思を形にしたような力があり、それを目にした司馬奮揚を激しく動揺させた。このとき、彼は傍らにいた部下の子仲に向かって尋ねた。おそらく、彼の心に浮かんだ不安がそうさせたのだろう。
「子仲よ。たしかうちの城主は太子であったはずだが……、私の記憶に間違いはないだろうか」
司馬奮揚は答えのわかりきった質問をした。
「間違いございません。わが城主は王様のご長子にございまして、かつ跡取りとしての地位を約束された方です」
「うむ。その通りだ。あの方は、この楚国の惣領だ。それがなぜこのような……。いったいあの父子の間になにがあったというのか。子仲、お前なにか聞いていないか」
「どうして、あなた様を差し置いて私のような者が」
確かに、子仲は何も聞かされていなかった。しかし考えられることはある。そもそも太子という地位にある者が、このような辺境の城主として派遣されてくること自体がおかしいことではある。しかも派遣されてきたのは、ほんの二か月ほど前のことだったのだ。このことを考えると、派遣された時にはすでに親子の間になんらかの問題があり、派遣自体が左遷の意味を含んでいたものであったと推測される。
「太子は……まだ若いが落ち着いたお方で、私としては好意をもってここにお迎えしたつもりだ。だが若干表情に影があることが気になっていたのだが、もしかしたら王様との間に長く深刻な問題を抱えていたのかもしれない」
奮揚は、鼻下の髭をこすりながらそう言った。それは、彼がなにかを決断する前に必ず行なう仕草であった。
「指示書の通りに、太子に死を賜るのですか」
子仲の発した質問は、やや性急なものであった。奮揚はしばらくの間、沈黙した。
「…………」
依然として彼は髭をこすることをやめない。しかし、ふいに腰の剣に手をやると、一気にそれを引き抜いてみせた。
「この剣で太子を……我が城主を斬ってみせるか。……まさかな。そんなことをしてどうなるというのだ」
奮揚は引き抜いた剣を日にかざし、それをしばらく眺めやると鞘に納めた。
「骨肉の争いに首を突っ込むとあとで面倒なことになる。そもそも確たる理由もなしに人を斬ることは、虫が好かぬ」
奮揚はため息まじりにそのようなことを言った。馬鹿馬鹿しい、と思ったのだろう。
「ですが、れっきとした王命でございます。これは、立派な理由ではないでしょうか」
子仲は、このとき王命に背くことに怯えを感じていたようであった。かといって奮揚の言うことがわからないということはない。太子という高貴な人物を誅するには、自分を納得させる確かな理由が必要であった。
「理由なら、もちろんあるだろうさ。隠された理由というやつがな。だが、太子を殺すということは、恐ろしく大それたことだ。たとえ王命であったとしても、その理由に万人が納得するような正当性がなければ、私は行動をためらう」
「では、どうするというのです。命令に背けば、貴方様は罰せられてしまいますぞ」
ここで司馬奮揚は、周囲に誰もいないのにも関わらず、小声で子仲に耳打ちした。
「……いちはやく太子のもとへ行き、危機が訪れていることをお教えしろ。そして、太子を国外に逃がせ。私は、その後で命令を実行することにする」
このとき、奮揚はすでに髭をこすることをやめていた。
二
江南から興った楚は、一時期実質的に黄河流域をも支配する覇者であったが、近年はその地位を失い、主に新興国である呉から圧迫を受けている。呉は楚と同じく江南にある国家であり、周王室の分家をその開祖としていた。これに対し、楚は純然な江南の民族によって構成された国家であったため、長らく黄河流域の中原諸国から蛮族扱いを受けてきた経緯がある。よって、呉は楚に対して民族的優位性を持ち、江南のみならず中原をも支配する正当性も所持している、と主張してきた。が、それが詭弁であることはいうまでもない。いくら開祖が周王室の分家に由来するといっても、その血を受け継いでいるのは王族だけの話であり、国民の大多数は楚と同じく江南の人種なのである。
が、楚の人々はそれを知っていながら、呉の勢力を慮って反論できずにいる。彼らは呉に対して国境を固め、その軍の侵入を阻む意図を示すことしか対抗策をとることが出来ずにいた。
子仲や上官である司馬奮揚が駐在する城父城も、そのための要衝であった。しかし防衛拠点であるはずの城郭は、内部から崩壊しようとしている。だが、彼や奮揚に出来ることは、とても少ない。
奮揚の命を受けた子仲は、すぐさま城主である太子建のもとを訪れた。国都である郢の宮殿の意思が太子を陥れることにあることを伝え、その国外逃亡を促さねばならない。それで太子の命は救われるかもしれないが、その先のことを思うと、気が重くなる任務であった。
自分や上官の奮揚は、城主が逃亡した事実を中央に対してどう取り繕えばよいのか、そして国境防衛の責任をこの先誰が担うのか……などのことを考えれば、あるいは自分も太子とともに逃亡した方が賢明なのではないか、と考えてしまう。しかし考えても答えは見つからないことはわかっていた。時流に乗り、運命に身を任せて行動するしか、子仲に道は残されていなかった。
「城主様に会いたい。急用なのだ」
城の奥にある太子の居室を守る衛士たちを押しのけ、勢いよく部屋に入った。使命感に燃えていたとはいえ、このときの子仲の態度は、礼儀をわきまえぬものだったといえよう。
「……何ごとだ。もしや、呉軍の侵入を許したのではあるまいな」
太子建は荒々しく室内に入り込んだ子仲を見ようともせず、そのようにだけ言った。彼は、机に向かってなにか書き物をしていた。
「一刻も早く、お耳に入れたいことがございます」
太子建の字を書く手が止まった。彼は物憂げな態度で子仲の方に向き直り、
「呉軍のことではないのか?」
とだけ聞いた。その表情は暗く、目の下には隈ができていた。
「御身に危険が迫っています。太子様、急いで御出立のご準備を。さもなければ、殺されてしまいます」
子仲は単刀直入にそう告げたが、太子の反応は期待したほど激しくなかった。
「いずれ殺される運命であることはすでにわかっている。そうである以上、私は呉と戦って死にたかった。……しかし、そうではないというのか」
本来なら国の前途の象徴ともいうべき存在の太子が、このような悲壮な考え方をしてよいものか……子仲は不安に感じたが、それよりもなぜ太子がこのような思いに至ったか、そのことの方が重要だろう。しかし、それを探る時間的余裕は、このときの彼にはなかった。
「敵は、呉軍ではなく楚の宮殿にこそ存在します。そうである以上、国内に留まっていては、いつまでも危険におののきながら生きていかねばなりません。……外国に亡命なさるべきです」
太子は驚いた様子を見せなかった。どうやら太子は、なぜ自分が殺される運命にあるのか、それを知っているようであった。
「おめおめと逃げ出せというのか。そんなのは嫌だ。どうせ死なねばならないのなら、雄々しく死にたい。君はその私の希望を打ち壊そうとしている」
子仲は、あってはならぬことだと知りながらも、このとき城主である太子に対して腹を立てた。なんという懦弱な心。自身の死が誰かの意思であることに気付かず、あたかも運命であると決めつけている視野の狭さ。悲壮に死を迎えれば、人々はその姿に美しさを感じるかもしれないが、その裏で会心の笑みを漏らす者が必ずいるのである。太子は、そのことに気付いてなかった。
「どうしてそのように死を望むのですか。私は、太子様が殺されるべき理由を見つけることができません」
「理由だと……? それは父が……いや、王がそれを望んでいるからに決まっているではないか。私は、臣下としても子としても、それを拒むことができない」
「血の繋がりを尊重するのは大変結構なことです。ですが、考えてもみてください。今上の王の施政が乱れ、世に悪政がはびこり、民が不満を持つようになったとき、それを正すのは太子であるあなた様しかできないことなのです」
子仲は、声を励まして説得しようとしたが、太子は冷めた態度でそれを突っぱねるのであった。
「それほどの気概があるのであれば、お前自身が正せばよかろう」
子仲は太子の覇気のなさに、次第にいらいらとしてきた。
「私にできることであるならば、いくらでもいたしましょう。しかし残念なことに、私にはその資格がありません。なぜなら、私は王族の一員ではないからです」
「では、お前はいったいなにを、どうしたいのか」
太子建は、聞きながら子仲から視線を外し、もとの卓上の書類に向かった。そして再び筆をとろうとする。
子仲は興味を示そうとしない太子の態度に逆上し、ついに剣を抜いた。
「太子様、ご決断ください。さもなければ私が貴方様を斬ることになります。王様が貴方を殺したとすれば、国内には激しい混乱が起こりますが、私が貴方を斬ったとすれば、あとで私が逆賊として誅罰されるだけです。……私には、その覚悟があるのだ」
剣は太子の喉元に突きつけられていた。
「こんなことをして……あとで後悔することになるぞ」
「ご無礼をお許しください。ですが、どうしても太子様のお命をお守りしたいのです」
太子はついに席を立ち、子仲の指示によって宮殿をあとにした。
司馬奮揚が宮殿内に突入し、太子の部屋を急襲したとき、そこにはすでに誰の姿もなかった。
「子仲……よくぞやり遂げたものだ」
彼はそのひと言を思わず口にしたが、部下のひとりがそれを聞き逃さなかった。
「どういうことですか」
「いや。我々の意図はすでに察せられていたようだ。計画は失敗に終わった。私はいま、職を辞することでこの責任を取ろうと思う」
「これからどうするのです」
「郢に赴いて王様にことの次第を報告し、沙汰を待つさ」
こうして、奮揚と子仲はそれぞれに城父を去ることとなった。