呉中に危機あり
一
越は呉の国内を荒らしまわったあと、闔閭が帰還した報を受けて撤退した。
その見事なばかりの潔さに闔閭は驚いたが、当然疑問は残る。いったい、なにを目的に彼らは呉に侵攻したのか。
「どう思う?」
闔閭は伍子胥に尋ねた。
「越王允常は、国を富ませ、兵を増強していると聞いています。おそらく彼らは、我が国と争いたいのだと……そしてゆくゆくは、この土地を我がものとしたいのでしょう。今回の出兵は、その意思表示だと思われます」
伍子胥は答えたが、それは推測の域を出ない返答であった。彼らの注視はこれまで常に楚と中原に向けられており、自分たちより南方にある国をまともな目で見たことなどなかったのである。
「越など、これまではただの蛮族の集団に過ぎないと思っていたが……都合よく余の不在時を狙って国内へ侵入するなどとは、戦略的にも情報の収集力にも優れていると言わねばなるまい。今後、その動きを監視せよ」
伍子胥は頭を下げ、了解の意を示した。これより先、彼は越の動向を探る役割を担うこととなる。
「越が撤退したからには、さしあたっての問題は、夫概だ。あの男め……。いま一歩で楚の領土が我がものとなろうとしていた矢先に、余計なことをしでかしてくれたものだ。孫先生、余は夫概をどう処理すべきか」
問われた孫武は、感情を消したまま答えた。
「征討するしかありません。ここは、彼が肉親であられることをお忘れになるべきでしょう。過去を遡って罪をなかったことにすることはできませんから、しでかした罪は、罰するしかありません」
常にないような冷酷な口ぶりである。伍子胥は孫武のその言葉に、彼の内なる心境の変化を感じ取った。しかし闔閭の手前では、その思いを口にすることができない。
「肉親の情など、奴に対して感じたこともない。余が王座を守り続けるにあたって、もっとも警戒すべき相手は、血を分けた肉親なのだ」
「では、攻撃して滅ぼしましょう。さもなければ呉国は分裂状態となり、それこそ越国につけいる隙を与えてしまいます」
かくて闔閭は夫概を攻撃し、彼が奪おうとした王座から追放した。夫概は抗戦を試みたものの、それが敵わないと見ると逃亡し、楚に亡命した。そして楚はそれを受け入れ、彼に堂谿の地を領地として与えたのである。
その後、夫概は氏を与えられた。つまり、この地の名を取って、堂谿氏と称したのである。
これは、楚が彼に与えた破格の待遇と言うべきであろう。楚は、呉国を混乱に陥れた彼の功績に報いたのである。
二
楚王軫は、未だ十五歳にも満たない。彼はその幼心に逃亡の日々の記憶を刻み込んだ。そのことが成長後に与える影響は、はかり知れない。
「母上。母上は包胥のもとへ行ってしまわれるのか」
嬴喜は、悩みに沈んだ表情とともに息子を見つめた。しかし、彼女の決意は揺るがない。彼女の悩みは、それをどう息子にわからせるか、そのことだけであった。
「王さま、私のこれまでの人生は……すべて自分を押し殺してきたものでした。私は、少し離れた場所に移るだけで、なにも王さまを見捨てるわけではありません。ただ、少し離れた場所に移る……たったそのことだけで私は女としての幸せを掴むことができるのです。どうか、わかってちょうだい」
「…………」
軫は、理解を示したのか、そうではないのか、返事をしなかった。母親の嬴喜は不安に駆られたが、かといって決断を覆す気はない。息子が認めなくても行動を起こすつもりであった。
「あなたがどう言おうと、私は包胥どののもとへ参ります。ですが、どうせ行くのであれば、皆に祝福されたいのです。王さまにいちばんわかってほしい……」
「誰も認めぬとは言っていません。どうか母上、お幸せに。それから、包胥をここに呼んでください」
嬴喜はその言葉を聞いて喜々とした表情を浮かべ、軽い足取りで包胥を呼びに走った。その無邪気さに軫は子供ながら驚いたのである。
――母上が、恋する女の顔になっている。
軫は、そのことを微笑ましく思った。
やがて軫の前に現れた包胥は、うやうやしく頭を下げ、自らの行為を謝した。軫から母親を奪うつもりは決してないが、それでも無心ではいられない彼であった。
しかし軫は開口一番、包胥をを讃えた。
「包胥のこのたびの働きは、まさに国を救うものであった。余はまだこの通り幼く、以後も貴公の助けがなければ国を支えられない。よって貴公の働きに存分に報いたいと思う。今の領地の申に加えて封邑五千戸を賜るゆえ、より積極的に国政に関わってほしい。貴公は、大夫から卿となるのだ」
包胥は驚いた。しかし、彼はひと呼吸おいたあと、この軫の申し出を断ったのである。
「この楚地には、先祖代々の墓がありまして……私はそれを守ろうとしたに過ぎません」
だが、幼いが明晰な頭脳を持つ軫は、この返答を是としなかった。
「いや、貴公は分家したとはいえ、楚の王族と同じ羋姓を持つ身だ。つまり貴公の先祖とは楚の王家のことであり、その意味ではやはり貴公は国を守ったのだと言える。なぜなら、国を守るということは、すなわち王家の御霊やを守ることに他ならないからだ」
申包胥はその言葉に苦笑いをした。幼い軫の口から、実に大人びた言葉が飛び出したことに、一瞬返す言葉が見つからなかったのである。
「結果的に私の行動が国を救うことになったとして……封邑五千戸の件はありがたいお話ではございますが、辞退申し上げます。そのかわりと言ってはなんですが……」
「うん? なんだ」
「お母上を……太后さまを、この私にいただけますでしょうか」
包胥は若干言い淀みながら、思い切った形で自分の希望を言葉にした。
「封邑の件を断るというのならば、そういう形で貴公の功績に報いるのもいいかもしれない」
楚王軫は、そう言ってこれを認めた。
三
嬴喜を伴い、包胥は領地である申の地へ帰った。奮揚と紅花はそれに同行した。彼らがこの地を訪れるのは、四年ぶりのことである。久しぶりとなる帰郷に紅花は胸を躍らせた。
「見て!」
紅花は馬車の上で奮揚の袖を引き、左前方を指し示した。
「ああ、変わらないな。ここは、いつ訪れても美しい」
奮揚は顔をほころばせた。懐かしさと戻ってきた安堵感が相まって、彼の気持ちを優しさが包み込んだ。
奮揚は紅花の手を握ると、
「太后さまに、このことを教えておやり」
と言い添えた。
その言葉を聞いた御者が馬車を止めると、紅花は前方を行く嬴喜と包胥が乗る馬車に駆け寄り、
「見て見て!」
と、まるで少女のようにはしゃぎながら叫ぶのだった。
「まあ……」
紅花の指し示す方向に目をやった嬴喜は、思わず声をあげた。
そこには、川面に反射した日の光が、すべてを黄金色に照らし尽くす光景があった。
戦時であっても、美しい光は損なわれない。それは人の営みとは関係なく、常にそこにある。人はそれに、ときには無慈悲さを感じる一方で、またあるときには愛を感じるのである。
「ここは常に美しい場所だ」
包胥は優しく嬴喜に語りかけた。
「ここに来れば、心が洗われる。憎しみや怒りを忘れさせてくれる場所だ。ここにいる紅花も、ここで奮揚どのと愛を誓い合った」
「! いきなりなにを仰るの。お兄さまったら」
突然の話に、紅花は思わず顔を赤らめた。
「ふふ。……すまないな、紅花。しかし事実だろう」
からかわれた紅花は、恥ずかしくなって奮揚のいる馬車に走り去っていった。
嬴喜はそれを目で追いながら言う。
「紅花は、可愛いわね。それにここの景色も素晴らしいものです……。ここが気に入りました」
包胥はそれに答えて言った。
「確かにこの場所は美しい。だが、以前私が伍子胥とともに茶を飲んだ店から見える風景も、これに劣らず美しかった。高台にある茶店から見える渓谷の景色があまりにも美しかったため、あのとき交わした伍子胥との会話が……逆にそれとは対照的で、深く私の記憶に刻まれている」
「そのとき、伍子胥はなんと?」
「うん……彼はそのとき、『生まれ育ったこの楚をつぶす』と言った。今回私はそれがなされることを寸前で止めることができたわけだが……楚を捨てた彼が呉で幸福な人生を送れればよいが」
「伍子胥の幸せを……あなた様は願っているの?」
「不幸だから争いが起きるのだ。争いが起きぬためには、誰もが幸福であるべきだ。だから私は、ためらわずに伍子胥の幸福を願う」
もともと彼らは友人同士であった。敵味方に分かれたからといって、その関係が失われたわけではない。彼らは、お互いを憎み合ったことなどなかったのであった。
四
戦いに勝ったはずの呉の城中が燃えていた。その事実に闔閭も、伍子胥も衝撃を受けたことは確かである。だが、そのことにもっとも落胆したのは、孫武であっただろう。彼は、燃える呉中の町並みを目の当たりにして、涙を流したという。
――我々は、何のために戦うのだ。
彼は、自問を繰り返した。
――世界全体の平和を願うのであれば、戦わないに越したことはない。しかし、人というものは基本的に自分自身の幸福を追い求めるものだ。それが他者によって不当に妨害されていると思うからこそ、その相手と戦う。戦って、自分たちの幸福を得るために……。
――だが、戦いの後に残ったものは、ほとんどない。すべて燃えてしまった。幸福を得るために戦ったというのに、何もかもを失ってしまって、どうするというのだ。自らの身を削ってまで、他者からなにを奪い取ろうというのか。
――ああ、無駄なことだ。なにもかも無駄だ。そんな戦いに意味はない。
彼は、その後しばらく出仕しなくなった。邸宅に引き蘢り、誰とも顔を合わそうとしなくなったのである。
「どうしたというのだ」
孫武のもとを訪れた伍子胥は、何度もその言葉を口にした。玄関先で待たされる間、その言葉を叫び続け、ようやく中に通されたとき、最初に口にした言葉が、やはりそれだったのである。
「どうもしやしない」
ひたすら問い続けた質問の答えは、そのひと言でしかなかった。予想されたことではあったが、伍子胥はそれに落胆した。
「では、なぜ出仕しない。王さまは、苦慮されておるぞ。夫概に関しては楚に亡命したから事は片がついたが、越に対しては防御態勢を固めなければならないし、復讐の時期も定めなければならぬ。君の知恵が必要なのだ」
「復讐などして、なんになる。この間の楚国攻撃は、君の復讐であった。だがその結果は、ご覧の通り自らの土地を焼くことであった。次に攻撃するのは越国か? きっと王さまが復讐を望んでいるのだろう。だがそれをすれば、今度も呉の地は焼かれる。それをわかっていて言っているのか」
孫武は口から唾を飛ばしながら言い放った。その激しい勢いに、伍子胥は言葉に詰まった。
「……ひとたび戦いともなれば、誰だってそのような危険は覚悟の上だろう。
それとも君は、覚悟できないというのか」
「ああ、そうだ! そんな覚悟はできない!」
「なぜだ」
「なぜだと? この不毛さが君には理解できないというのか。越の国力が高まって、危険だと思うのなら、今のうちに使者を派遣して外交関係を築け。仲良くやっていけるよう努力しろ。お前たちはきっと……そんなことを言う私を笑うに違いない。子供のようなことを言っていないで現実的に考えろ、と。だが、平和を築く努力をせずに、戦ってばかりいるからこそ人々は苦しむのだ! 憎しみは憎しみを生み、復讐は結局終わるところを知らない! 不毛そのものではないか!」
孫武の発言の鋭さに、伍子胥はまったく反論することができなかった。彼はすごすごと退散するような形で孫武の屋敷を去り、自宅へと戻った。
五
思い悩んだ伍子胥は、竹簡に書をしたため、使者を通じてそれを申包胥に渡した。その内容は次のようであった。
「……先の呉と楚との戦いにおいて、旧縁を忘れて君に苦しい思いをさせてしまったことには、申し訳なさを感じている。しかし、どうか許してほしい。親兄弟を楚によって殺された私には、結局復讐するしか道は残されていなかった。なぜなら、私がそのことを言葉にして国に訴えたところで、国がその罪を認めるはずがなく、私は泣き寝入りするしかなかったからだ。今、この世の中において、自分の主張を効果的に人々へ伝える手段としては、武しかない。
それはおそらく君も感じていることだろう。
君がどんなに人道的で、愛に満ちた行動をとったとしても、それは実際に君と接した人物にしか伝わらない。それに対して武は、不特定多数の人々に共通の恐怖を与え、より深刻な影響力を与えることができる。
だが、いま私は立ち止まらざるを得ない状況にさしかかっている。どうか、君に助言を賜りたいのだ。
私のいる呉国内に、非常に有能な男がいる。その男は、頭がよく、状況をよく観察し、深く掘り下げて物事を理解しようとする。彼はいま、その自分の能力を非常に持て余しているのだ。
彼はもともと、戦争の意義を追及しようとする学者だ。その論点はなぜ国は戦争をするのかということに留まらず、どうやって敵の意表をつくかなどの方法論にまで至り、その知識については私や君などが及ぶところではない。おそろしく、彼はこの点について造詣が深い。
その彼がいま、呉はもう戦うべきではないと言っている。平和のための外交努力をするべきだと。そう主張して、彼は宮殿に出仕しないでいるのだ。
しかし状況はそう簡単ではない。呉はすでに楚を攻撃し、楚の人々に復讐の種を蒔いてしまった。また、このところ越は呉を侵略しようとして国境付近に軍を配置させている。もはや、これらの国々とは話し合いの余地などない状態だ。
もちろんその原因が呉に、ひいては私自身にあることはわかっている。楚を戦乱に陥れたのも私ならば、戦争に明け暮れて国内に隙を作り、越につけ込まれる原因を作ったのも私であると言えるだろう。だからこのようなことを君に相談することは、実に厚顔無恥であるように思えてならない。どうか、許してくれたまえ。
私は、呉は戦いによって発展するとしか思えない。しかし彼は、それを否定するのだ。戦いを主導する能力は、彼にしかないというのに。私は、どうやって彼を説得すればよいのか。私が知っている限り、その答えを知っているのは、君だけだ。どうかこのことについて、教えてほしい。私は彼をどう動かせばよいのだろうか」
この書を受けた申包胥は、あろうことか笑いを漏らした。それは呉の窮乏を馬鹿にして笑ったのではない。友人である伍子胥が、いまだ自分の生き方を貫いていることに安心した笑いであった。
「伍子胥は、また戦おうとしている。飽きない男だ」
嬴喜は、これについて尋ねた。
「どう助言なさるつもりなのですか」
包胥はひとしきり考えたあと、答えを示した。
「その頭の良い男に向かって、次のように言え、と伍子胥に伝える。『呉の武力は楚を脅かし、楚の国民は呉の武威にみな平伏している。天下に呉による平和が訪れようとしているのだ。このうえは、越の国民にもそれを示すがよかろう』と」
嬴喜は驚いた。
「戦いを助長するようなことを言うのですか。よりによって、あなた様が」
「意外だろう。そうかもしれぬ。しかし、実際は伍子胥が書簡の中で述べた通りだ。私がやっていることは、実際に私と接した者にしか伝わらない。これに対して武力で相手を従わせるという手段は、実は効率的なのだ」
「武を用いて世に善政を布く、ということですか。呉にそれが可能なのですか」
「わからない。しかし、伍子胥にはそれを期待してもいいと思うのだ。きっと彼は、平王の死体を鞭打ったことを心から後悔しているよ。いにしえから、復讐を果たした人物は世に数多くいる。しかしその後、彼らの気分が爽快になったという事実を、私は聞いたことがないからな」




