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春秋の光と影  作者: 野沢直樹
第二章:呉の興隆
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荒野の花


 奮揚は、郢城内の呉軍の駐屯地に潜入し、夫概に接触を図ろうと試みていた。

 そもそもの疑問は、なぜ王の弟という高貴な地位にある者が、まともな指揮権も与えられずにいるのか、ということである。しかも情報を得れば得るほど、その疑問は深まっていった。

 柏挙での最初の会戦の際、夫概はほぼ独断で嚢瓦率いる楚軍の中軍を急襲し、これに成功したのである。その成果によって呉軍はこの戦いに勝利し、ついには郢に入城するに至った。しかし奮揚が確かめた限りでは、夫概のその功績は、まったく報われていない。

 呉軍が郢に入城した後には、統制された軍行動とは別のところで貴人の屋敷を襲い、その財物と屋敷そのものを奪った。この行動はまったく個人的なものであり、処罰の対象となるものであったが……このとき夫概は罰せられもしなかった。

 その貴人の屋敷とは、もともと楚の令尹のものであった。それを接収した闔閭が自らの末子である子山に与えたものであったが、夫概はこれを攻撃したのである。しかしその悪行さえも無視とは……。


 これらのことを鑑みて、奮揚は断じた。

 ――夫概は、呉王闔閭の眼中にないどころか、王位を付け狙う者として敵視されている。闔閭は、あとで理由を並べ立てて、夫概を処断するつもりなのだ!


 このころになると、奮揚の耳にも闔閭が王を称したいきさつは明らかになっている。旧知の仲であった子仲を暗殺者として用い、先の王である僚を魚の腹の中に仕込んだ匕首で刺し殺したという手口。そこに至るには、闔閭の血を分けた者に対する不信が根本にあったのではないか。


 闔閭と僚は従兄弟(いとこ)の関係にあった。にもかかわらず、闔閭は僚を殺害している。そして弟である夫概への冷遇……。闔閭にとって親族は争うべき相手であり、もっとも信頼してはならない相手であったかのようである。

 奮揚はあえてそのことを確信するように思い込み、自らを行動に促した。

 夫概と接触して闔閭の思惑を説いてやることに成功すれば、あとはきっと思うようになるはずだと。



 夫概は鬱屈していた。自分の立場がまったくよくわからないということが、その原因である。

 当初、自軍を率いて従軍したい旨を王に告げたが、にべもなく断られた。しかも彼は、従軍することだけを許可されたのである。それは、ほとんど一兵卒に近い立場であった。

 現況を打開するためには、輝かしい功績を上げるしかないと考えた彼は、多少無理をして嚢瓦を急襲した。ただでさえ数が少ない部下の命を失いつつも、それに成功した彼を待っていたものは、無視される屈辱であった。


 ならばあえて悪事を働き、それに対して闔閭がどう反応するかを、楽しみに待った。

 だが再び彼を待っていたものは無視される屈辱。もともとさほど外見的な特徴もなく、目立つこともなかった夫概が明らかに価値のある行動をとったにも関わらず、それを認められないとは、存在自体が無価値であるとみなされているということだろう。


 このとき夫概は、明らかに闔閭に対して殺意を抱いていた。



 夫概のこのときの肩書きは、「隊長」というものでしかない。しかし、部下たちは、彼が王族のひとりであることを憚り、敬意をもって対するのが常であった。彼らは皆、自分たちの上官が不遇であることを嘆いていた。なぜなら、上官の栄達こそが、自分たちの地位向上につながるからである。

 奮揚は、そこを突いた。問題の夫概その人に直接訴えかけるのではなく、彼の部下を通して、その疑心暗鬼を強めたのである。


「お前たちの上官である夫概さまは、どうも王さまに睨まれているらしい」

 そういった噂を広め、それが夫概に伝わるよう、さらにひと押しした。

「この状況を打開するには、ひそかに軍を脱して呉国に帰り、王の不在を狙ってその地位を奪うしかない」

 あえて冗談めかしてそのような話をした。部下たちはそれを話の種にはしたが、誰も本気でそのことを考えようとはしない。

 が、ただひとりそれを真に受けた者が存在した。

 

 それが、夫概である。



「奮揚とやら。お前の言うことは本当か」

 奮揚はついに夫概との接触に成功した。あえて呼び出される形をとり、会見は自然な形で行なわれた。

「お前は、俺の部下ではないな。どこの誰の部隊に属する者だ?」


 問われた奮揚は表情を改め、

「まずは、お人払いをお願いいたします」

 と、深刻な口調で夫概に迫った。夫概はその様子に驚いたが、結局はその言葉に従った。おそらくこれは、彼自身が現状を打破するために、何ものにでもすがりたいと思っていた結果なのであろう。


 傍に控えていた雑兵たちを下がらせると、夫概は改めて奮揚に尋ねた。

「お前は何者だ」

「私は、あなた方呉軍が血眼になって探している楚王軫さまに通じる者です。私は、その居場所を知っておりますし、あなた様がお求めになるならば、それをお教えします」

 奮揚のその言葉に、夫概は驚きを隠せずに身を乗り出す。

「俺に楚王の居場所を教えて、討たせてくれるというのか。そして呉軍内での地位を高めさせてくれようと……」

「いえ、申し訳ありませんが、そうではありません」


「では、やはり噂どおり俺のとるべき道は、呉国に舞い戻って自立することなのか。お前はそれを俺にやれと?」

「はい。無論後ろ盾として、楚王軫さまがいらっしゃいます。万が一、失敗されたとしても楚領内に逃れられれば、必ず保護いたします」


「楚王はそのことを承知なのか」

「私は、すべてを任されています。どうかご安心を」

 奮揚は精一杯の貫禄を見せ、そう断言した。夫概の心は、これによって動いた。


「ならば気付かれないうちに行動に移そう。ひそかに陣払いして呉に戻らねばならぬ!」

 夫概は部下を集め、指示を発した。彼らは皆、隊長の判断を狂気の沙汰と思い、同行をためらったが、最終的に楚の側の意を受けていることを確認すると、これに応じた。


 かくて夫概は闔閭不在の呉に舞い戻り、勝手に王を自称するに至る。闔閭はこのことに激怒したが、彼を悩ませる事態が、このときさらに発生したのである。



 秦軍の来襲は、呉軍の首脳部の誰にも予測できないことであった。

 なぜ秦が……という疑問を伍子胥や孫武が抱いたとしても不思議ではない。ましてや闔閭がそれを予測していたということは、あり得なかった。

 これは包胥が楚と秦を結ぶ一本の細い糸を頼りに、努力してようやく成立させた結果なのである。たったひとりの男の熱い思いが、国をも動かすということを、彼らが想像することは難しかった。

 しかし現実として、秦軍は目の前に迫ってきている。その数は、戦車五〇〇乗、一万の歩兵が(しょく)の地に出没し、さらに南下して郢を脅かした。


 将軍である孫武は、判断を迫られた。

「もはや、撤退すべきだ」

 孫武は伍子胥に対して言う。その言外には、なぜ戦いに勝ったのち、楚を治めることに尽力しなかったのかという批判がある。伍子胥は個人的な復仇にこだわり、闔閭は武力を見せつけるばかりで、旧楚の地に呉の旗のもとの平和をもたらすことをまるで考えていないかのようであった。

「君たちの戦略は、せっかく得た地を無駄に失うようなものでしかない。まともに統治をする気がないのなら、なんのためにこの地を得たというのか」

「私にそのようなことを言ってどうする。私はもともと、楚を滅ぼすためだけに呉にやってきた男だ。この地に住む人々を恐怖に陥れ、それによって積年の恨みを晴らす……私の望みは、それだけだ。そしてそれはあと一歩で果たされようとしている。なのになぜ撤退しなければならないのだ」

「いま呉王は王位を弟に奪われようとしているのだ。それに加えて秦軍の襲来。仮に秦の手からこの地を守り抜いたとして、呉国はどうなる。弟に奪われるだけだ。そんな戦いに何の意味があるというのだ。早く戻って王位を取り返さないことには、我々はすべてを失う!」


 伍子胥は、唇を噛んだ。結局は、満足することを知らない彼の心が、呉を窮地に追い込んだのである。彼は何も言い返せず、その後の軍行動について、孫武にすべてを委ねるに至った。


 しかし闔閭は伍子胥以上にかたくなであった。さじを投げかけた孫武を相手に彼は言うのである。

「夫概など、いつでも倒すことのできる相手だ。いまは秦を相手に戦いたい」

 孫武はため息をついた。

 ――夫概が呉を支配して善政を布けば、呉の国民たちは皆夫概に味方するかもしれないというのに。自分が支持基盤を失うことに危機感がまるでないのだ。

「そういう意識では……」

 孫武は諌めようとしたが、そのとき闔閭のもとに急使が訪れた。

 その者が言う。

「ただいま本国から伝達がございまして、それによると南方の越国が攻め入ってきた、とのことでございます」

「…………」

 闔閭は言葉を失った。自分の不在時に次々と自分の土地を奪おうとする者が現れることに戦慄し、同時に怒りをあらわにした。

「……越の王の名は、なんといったか。たしか……允常(いんじょう)……そう、允常だ。あの男め……」

「戻りましょう。それしかございませぬ」


 孫武が渋る闔閭を励ましたことにより、呉軍の楚地からの撤退が始まった。郢での戦乱はようやく一段落ついた形となったが、当然ながら楚の国民には何も残されなかった。強いて言えば、荒廃した土地だけが残されたと言っていいだろう。



 荒れ果てた郢の城内に、生き残った者たちが集結しつつあった。それらは次第に集団となり、やがては群衆と呼べる規模となっていった。


 いま、そのただ中を秦の戦車隊が進んでいく。その先頭には、隊長の子蒲(しほ)と副将の子虎(しこ)がいる。そして彼らに挟まれるようにして、この秦軍の郢入城の立役者となった申包胥がいた。


「包胥さま!」


 群衆は、口々に彼の名を讃えた。包胥はその声に答えて手を振り、笑顔を見せた。まさに人々は、彼らを解放軍として笑顔で迎えたのである。それは、人が荒れ果てた地に咲いた花を見つけたときに見せる笑顔であった。


「お兄さま……」

 紅花は、その包胥の姿を認めた。そして傍らにいる嬴喜に包胥の姿を指し示すと、

「太后さま、どうか私の兄上の功績を讃えてやってください。あなた様の愛で……」

 と涙を浮かべながら言ったのである。


 嬴喜はこの言葉を受けて包胥のもとに駆け寄り、戦車の台上に登ったかと思うと、激しく包胥に抱きついた。包胥がそれに応えて、優しく、しかも力強く彼女を抱きかかえると、人々はその姿に感動して彼らを祝福した。


 紅花もついに涙をこぼし、その様子を見守っていた。


「紅花……」

 その彼女に横から声をかけた者があった。

「揚さま!」

 涙に暮れていた紅花の目が嬉しさをたたえたものに変わった。奮揚と紅花は互いにひしと抱き合い、お互いの無事と、愛を誓い合った。


 その姿は、やはり荒れ果てた地に咲く一輪の花のようであった。


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