忠節の臣
一
「郢が陥落したらしい。伍子胥は市中を荒し回ったあげく、ついには先王の墓をあばいたそうだ」
奮揚は、紅花に小声で伝えた。話の内容が強烈すぎて、とても嬴喜や軫に伝えられるものではなかったのである。
「それで……?」
紅花も言葉に詰まった。印象的な大きな目に憂慮の色が浮かぶ。奮揚は、その眼差しを受け止めながらも、つと視線を外した。
「伍子胥は墓の下から平王の死体を掘り起こし、それに三百回も鞭打ったという。このような話……とても王さまや太后さまに伝えることはできぬ」
紅花は頷きを返した。しかし、隠し通せるものではないことはふたりとも承知している。あるいは復讐が復讐を呼び、その心が呉に対しての攻勢を強める素因となることも考えられたが、それはふたりが求めているものとは違った。なぜなら、包胥が極めようとしている「道」に、それは明らかに反する姿であったからである。
「お兄さまはご無事かしら」
「消息は不明だ。だが、戦死したという情報もないことは確かだ。安心しろ、彼には最後の一手が残っている。それがどういうものかわからぬが……」
「この戦いは、最終的に楚が勝ちます。呉は……とりわけ伍子胥さまのなさった行為は、悪逆すぎました。楚の人々は、それに反感を抱き、呉の支配を受け入れぬでしょう。……私は、そう思います」
紅花の伏し目がちな表情が、事態の深刻さを物語っていた。終わりのない憎しみの連鎖を楚の人々は断ち切ることができるのか……断ち切ることができれば、最終的に勝利する。しかし断ち切ることができなければ、呉と楚はどちらかが滅びるまで戦い続けることになるだろう。そのようなことになったら、もはや最終的にどちらが勝つかなどということは、たいした問題ではない。そうなれば十中八九、両国とも滅ぶのである。連鎖を断ち切り、勝利を得るためには、固執した復讐の心を捨て去ることが必要なのである。
「呉を打ち破ろうと考えてはいけないと思うのです。できることなら呉軍の内情を探り、裏から工作するのがよいと……」
「私がそれをやろう。君には、太后さまと王さまのお世話を頼む。私が居ないとつらいこともあると思うが……」
奮揚は名残惜しさを感じたが、どう考えてもその役を担う人物は、自分以外にいない。残される形となる紅花を心配する気持ちを抑えきれなかった奮揚であったが、気丈に笑顔を見せようとする紅花に救われた思いをした。
「大丈夫です。どうか、心配なさらないで」
そう言いながら、にこりと微笑んだ紅花の姿は眩しく、眩かった。
「君のその言葉に甘えよう。私にとって君は、もっとも守らねばならぬ存在であると同時に、もっとも信頼すべき存在だ。今回は、信頼して任せることにするよ」
奮揚はそう紅花に伝えた。しかしその表情には、やや無理をした感があることを、紅花は見逃さなかった。
「私の心配をしてくださる前に、ご自分のこともお大事にしてくださいね」
そう言われた奮揚は、苦笑いを返すしかなかった。
その後、奮揚はひそかに随を脱出し、混乱を極める郢に潜入を果たした。
二
郢は燃えていた。燃えかすの間を歩くのは呉の兵ばかりで、楚の国人に行き当たることはなかった。彼らは四散したのであろうか。それともすべて死に尽くしたのか。財物は漁られ、美女たちは犯され、男たちは殺され、子供は奴隷とされ……尽きぬ悪意を想像すると、奮揚の心は砕け散りそうなほど痛んだ。
――いったい、人の心の奥底にどれほどの悪意が眠っているというのだ。
実際にその現場に居合わせたわけではないが、注意深く観察すると、燃える建物の影には遺体が転がり、風に舞う千切れた女の衣服があったことは確かである。
ここはほんの数日前、いや、ほんの数刻前までは、まさに地獄であったのだ。
廃墟の中を闊歩する呉兵たちの目に入らぬよう身を隠しながら、奮揚は郢の城内を彷徨った。その目的は、生き残りの楚人と接触し、なんらかの情報を得るためである。しかし、それは非常に難儀なことであった。なぜなら、彼らも呉兵たちの目に触れぬよう、隠れていたからである。
――しかし、ひとり残さず殺し尽くすなど……いくら呉軍が強勢とはいえ、できるはずもない。
生き残りの者は、どこかにいるはずである。なぜなら、どんな凄惨な戦いでも、必ず生き残った者が存在し、その存在によって、その戦いの凄惨さが伝えられてきたからだ。伝わらない戦いというものは、奮揚の知る限り存在しない。
おそらく彼らは城壁を越え、山中に身を潜めているのだろうと考えた奮揚は、城内をくまなく観察したあと、城壁を越えて北側の山林を目指した。そこで楚軍の生き残り部隊と合流することになる。
彼らは皆、疲れた様子を見せていた。長らく続いた潜伏の日々が、彼らを憔悴させ、飢えさせていた。だが、奮揚には彼らを救う手段がない。
「早くこの状況を打開することだけが、君たちを救う唯一の方法だ。指揮官はどこだ。申包胥は、何処にいる?」
兵たちはそれぞれ泥に汚れた顔を見合わせ、示し合わせたように目配せをした。やがて彼らを代表する人物のひとりが口を開いた。
「申将軍は、ひとりで秦国にお向かいになられました」
これを聞き、奮揚は内心で驚愕した。
――秦国へ向かっただと……何を考えているのだ、包胥どのは。
「何を目的に彼は秦へ……?」
その代表の男は話した。
「太后さまが秦の公家のご出身であられることを頼りに、その協力をとりつけるおつもりなのです。なんでも現在の秦公と太后さまは異母兄妹の間柄にあるとか……。その秦公の情を動かし、世界は人の情で動くことを証明したいのだ、と申しておりました」
――なるほど、包胥どのならば言いそうな言葉だ。世界は人の情で動く、とは……。
「しかし、それが成功するまでには、かなりの時間がかかる。こちらはこちらで動かねばなるまい。この中に、呉軍の内情を知っている者はいないか。どんな些細なことでもいいのだ」
奮揚は聞いて回り、全員の反応を待った。その中のひとりが言う。
「呉王闔閭には弟がいるが、今回弟は軍の指揮権を与えられず、一兵卒としてこの戦いに参加している、とのことです。かつて呉に旅し、その内部をくまなく観察してきたという私の友人が、伝えてくれました。残念ながら、その友人はすでに死にましたが……」
「それだ。その呉王の弟にどうにかして接触しよう。彼を焚き付けて呉に帰らせ、王の不在を理由に政権を掌握させるのだ」
「呉で政権を転覆させるのですか」
「そうだ。多分失敗するだろうが、呉王闔閭が楚地から撤退する理由とはなるだろう。その弟なる人物には、失敗したときには楚へ亡命してくれれば厚遇すると約束すればいいだろう。その弟の名は?」
「夫概というそうです」
奮揚は、再び郢の城内に侵入した。鎧兜を身に付け、呉の兵士となりきったのである。
三
秦国は四方を山々に囲まれた盆地の中にある国で、西の彼方にある。江南の楚からは遠く、若干ながら言語も異なる。このため包胥の秦国訪問は、いろいろな意味で苦難の道であった。
それでもようやく宮殿の前まで辿り着いた包胥であったが、このとき彼は秦公によって、中へ入れてもらえなかった。
「追い返すがよい。楚と呉の争いに、我が国が何の関わりがあろう。それにそもそも楚は無道の国だ。かつて楚の平王は、我が姉君を太子の妻とするとしながら連れ去ったが、あろうことか自分の妻としたのだぞ。いくら姉君が美しいからといって……」
秦公はそう言いながら、側近に包胥を連れ去るよう、手振りで示した。
だが包胥は宮廷の衛士たちの制止も聞かず、庭先まで歩を進め、そこに座り込んだ。そして延々と自国の窮状と、秦の救いの手を求める依頼を繰り返すのである。
「やむを得ぬ。ただし放っておけ」
秦公は、包胥を相手にしないことにした。
一日目。包胥は膝を地に付け、ひたすらに救いの手を求める。
「我が楚と貴国とは、姻戚関係を結んだ義兄弟の間柄。かつて貴国の公女であった喜さまは、今や迫り来る呉軍の襲撃に怯え、宮殿を離れて国内を彷徨っているありさまでございます。どうか、あのお方の危急をお救いください。それが肉親の情けというものではないですか」
夜になった。包胥はその訴えを、まだやめない。
「あなた方があのお方の窮状を知りながら、見て見ぬ振りをなさるおつもりならば、天下はその無道を見逃しはしません。どうかあなた方のためにも、楚を救い、あのお方をお救いください」
秦公は捨てぜりふをはいた。
「姉君のことばかり言いおって……。どうせ助けてほしいのは自分であろう」
庭先の松明がすべて消された。包胥は、闇の中にひとり取り残された。
二日目。朝日が昇ると同時に、包胥の訴えは始まった。
「しつこい男め」
秦公は取りあおうとしなかった。だが、包胥の一方的な主張は続く。
「楚は確かに荘王の時代に覇権を握り、周王を相手に『鼎の軽重を問う』など、臣下であるにもかかわらず主君を軽んじる態度を示したことのある無道の国です。しかしだからといって国民のすべてが無道であるとは言えません。どうか秦公には、楚という国を救うのではなく、その地に住む無数の人々の命をお救いになられますよう、お願い申し上げます」
包胥の願いは、しかし秦公には届かない。
「姉君のことが通じないと知ったら、今度は民衆を救えと言ってきたか。建前ばかりの奴だ。自分のことはどうでもよいとでも言うのか」
夜になった。再び松明の火は早々に消され、包胥は闇夜にひとりとなった。
三日目。雨が降った。しかし包胥はずぶ濡れになりながらも、訴えをやめない。
「私の身が滅びようとも、楚に住む人々の命を救いたい。この思いをどうにかして秦公にお伝えしたいのです。どうか、会ってください。そのひきかえに私は斬り捨てられても構いません。ただ、その前にどうかお話だけでもさせてください」
秦公の側近は尋ねた。
「このままでよいのですか」
だが、秦公は庭先の包胥の姿を見ようとしなかった。
「知るものか」
夜になった。松明の火はまたも早々に消されたが、暗闇の中、気付くと包胥の膝元には一皿の食事が置かれていた。側近の中の誰かが見かねて置いてくれたのである。
四
包胥の訴えは翌日も続いた。ついに四日目である。
「秦公のご意志は、楚国の滅亡なのでありましょうか。かの地には、無辜の民衆がおります上に、あなた様にとって血を分けた姉君さえもおられますというのに。無道を重ねた国だからといって、その国に住む人々の危機を見過ごしたとあっては、あなた様ご自身の行為が無道の極みとなりましょう。多くの者を救い、天下に平和をもたらすことこそが、覇者への近道です。しかしいま、多くの者が苦しみ、天下に戦乱がもたらされようとしています。これを見過ごすことは、あなた様ご自身の覇者への道が閉ざされてしまいます」
秦公はため息をついた。
「今度はこのわしのことを槍玉に挙げおったか」
側近たちは、秦公が怒っているものと思った。
「どういたしましょう」
「いや、まだそのままにしておけ。この先が見たい」
夜になった。盆地の中にある秦の宮殿は、昼夜の寒暖差が激しい。前日の雨と相まって、包胥の体力はすでに限界にあった。彼は、その場に突っ伏したまま、気絶してしまった。
にもかかわらず、無情にも松明の火は早々に消された。
五日目。包胥は夜明け前に目を覚ました。日の出と同時に彼は口を開き、すでに掠れ始めた声で訴えを続けた。
「過去に人道にもとる行為をした君主が、長くその地位を保った例はございません。人というものは単に支配されるばかりでなく、そのような主君の行為を逐一見ているものなのです。しかし賢明な秦公は、未だそのような行為に及んでおりませぬ。ゆえに、このたびの一件は、あなた様が君主としての地位を永らえるか、そうでないかの分かれ道となります。どうか正しい選択をなさり、とこしえに名君としての地位をお保ちなさいますよう、お願い申し上げます」
「よく言葉が続くものだ。この先どこまで続くか……」
秦公は、この日になって初めて臣下に指示を与えた。包胥に温かい食事を与えたのである。
しかしその日も、夜になったら松明は消され、包胥には寝床も与えられなかった。
六日目となった。食事を与えられたとはいうものの、包胥の頬は肉がそげ落ちたように痩け、伸び始めた無精髭と相まって、見るも悲惨な姿と成り果てていた。しかし彼は声を出すことをやめない。
「私の運命がここでこうして死に至るものであれば、それを受け入れましょう。しかし私は、最後まで自分のやるべきことをやり遂げてみせます。あなた様の心を動かし、それによって天下を救うというこの大役を、私はどうしても果たさねばならぬのだ。秦公、どうか楚の人々をお救いください。そしてあなた様の姉君を、お救いください。あの方は……ああ、あの方は、私がこの世でもっとも大事だと思っているお方なのです!」
包胥の痩せこけた頬に、目から溢れ出た涙が伝った。秦公はその様子に目を見はった。
「いま、あの者はなんと申した?」
秦公は周囲の者に問うた。
「公の姉君の喜さまのことを個人的に大事な方だと……そのように申したのだと思います」
近侍の者の返答が、これであった。秦公は考えざるを得ない。
「ふうむ……」
七日目。ついに包胥は朝日が昇っても起き上がることができなくなった。
「奴は、生きているのか。確かめて参れ」
指示を受けた臣下の者が倒れている包胥に駆け寄り、その身を棒でつついたところ、かすかだが反応があった。包胥は僅かに首を動かし、呻き声を発したのである。
「今日は、叫ばないのか」
臣下がおそるおそる尋ねたところ、包胥は目を閉じながらも起き上がり、かすれた声を発した。
「これが最後になるかもしれません……ですが、最期の日まで訴えることをやめないと誓った自分に対しても、嘘をつくことは許されません。私は信じています。……あなた様が楚の人々をお救いになることを……」
そう言い終えたあと、包胥は気絶した。
「生きているか」
秦公は宮殿の窓から叫び聞き、臣下が身振りで包胥がまだ生きている旨を伝えた。
「ならばよいが……不思議なものだ。最初のうちはうるさいだけだと思っていたが、いまではあの者の叫び声が聞こえないとなんだか寂しく感じる。可笑しいかな?」
秦公の周囲の者たちは、その言葉を聞き、主君の意が楚を救う方に傾いていることを知った。
「楚という国は、あの者自身が言う通り、無道であった。しかしかような忠節の士がいようとは……。国を絶やさぬようにしてやらねばなるまい。あの者が目を覚ましたらわしに伝えよ」
秦公はそう言い残し、席を立った。
「どちらへ……?」
臣下の問いに、彼は答えた。
「供出できる軍備の確認をする。いや、供は要らぬ」
五
夜半になって、包胥はようやく目を覚ました。しかし、目覚めた彼の目に真っ先に飛び込んできたものは、夜空ではなく室内の明かりであった。
「目が覚めたか」
やがてその場に現れた秦公は、包胥をいたわるような目とともに声をかけた。そして楚を救援し、人々を救う旨の約束をすると、その誓いを詩にして示した。
豈曰無衣、與子同袍。(どうして衣がないと言いながら、子と綿入れを同じくできようか)
王于興師、脩我戈矛、與子同仇。(王ここに軍を起こせば、我が戈や矛を収め、子と仇を同じくする)
豈曰無衣、與子同澤。(どうして衣がないと言いながら、子と裏地をおなじくできようか)
王于興師、脩我矛戟、與子偕作。(王ここに軍を起こせば、我が矛や戟を収め、子と共に成さん)
豈曰無衣、與子同裳。(どうして衣がないと言いながら、子と裳を同じくできようか)
王于興師、脩我甲兵、與子偕行。(王ここに軍を起こせば、我が甲兵を収め、子とともに行かん)
これは、秦に伝わる民謡の一部であった。伝統的に精悍な生活様式を持つ秦の人々が、勇を好み、自らの生死を軽んじる姿が表されている詩である。随所にある「子」という字は「義」に置き換えてもよい。つまり、義のためになら自分はすべてを供し、そのために戦うという意を表した詩なのである。
包胥はその秦公の意を読み取った。
「願いが叶った。秦公さまは、我々を助けてくださるのですか」
「戦車五百乗とそれを操る分の兵数を供出しよう」
包胥はひれ伏して感謝の意を示した。
これがその年の五月の末のことである。




