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春秋の光と影  作者: 野沢直樹
第二章:呉の興隆
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死者を鞭打つ


 子期が身代わりとなってくれたことで、一行には若干の時間的余裕ができた。しかし、王である軫はこのとき激しく自己に対する怒りをあらわし、周囲を驚かせた。

「この私などのために、子期が犠牲になることなど耐えられぬ! 奮揚、後を追って連れ戻してくるのだ!」

 言われた奮揚は、その言葉は素晴らしいと感じた。軫は人としての正常な感覚を持っており、王権というものに自分を見失っていない。まだ若いが、好男子といえる人物だと思ったのである。

 しかし、その命令を実行することは、いまこの場ではできない。

「子期さまのご意志を無駄になさってはいけません。それに必ずしも子期さまが討たれると決まったわけでもありません。もし、あのお方が無事にご帰還なさったときは、王さまはできうる限り、感謝の気持ちを形になさればよいのです」

「もし彼が死んだときは?」

「壮大な墓標をお作りになり、毎日供え物を絶やさないようにすれば、それでよいのです」

「……私は、人によって生かされるばかりの存在だな。王というものは、自立した生き方もできないものだ」

 それを聞いた母親の嬴喜の目に涙が浮かんだ。紅花がその背中に手を添えると、嬴喜は彼女に抱きつき、嗚咽を漏らした。

「他人の善意に触れ、その力を借りるということは、人が生きていく上で大事なことです。それは市井の人々だけではなく、王さまにも言えることです」

 それはかつて、奮揚が紅花の口から聞いた言葉の繰り返しであった。いま、奮揚は窮地に立ち、その意味を心から理解したのである。

 


 偽って軫を称した子期が現れ、随の宮殿は騒然となった。この人物をどう扱うか……殺して呉に引き渡せばよいものか、それとも生かした状態でそれを行なえばよいのか、あるいは引き渡さずにこれを守り、呉に対抗するべきか。選択肢は数限りなくある。

「呉が本格的に攻勢をかけてきたらどうなる。楚は我々を支援などしてくれないぞ。殺すべきだ」

「いや、仮にも王という存在を我々が手にかけてしまえば、天下は我々を不忠な存在だとして、信用しなくなるに違いない。変節の国だと。いまこの危機を逃れるためだけに、新たに将来における不安の種を蒔く必要がどこにあろう。信用されない小国などは、大国に滅ぼされるしか道はないのだ」

 随の宮殿では、そのような論争が巻き起こった。このままでは(らち)があかないと判断した随公は、思い切って卜占によってことを決めることにした。

 亀の甲羅を焼き、その亀裂の形状によって、今後とるべき行動を決する。それを見ていた子期は、自分の運命が取るに足りないものによって左右されようとしていることに、落胆した。しかもそれは、自分自身の運命だけではない。楚という国自体の命運もかかっているというのに……。

 だが幸いにも、卜占の結果は王を呉に引き渡すことは不吉と出た。随の人々はこれを受け、長期的な自国の存続のため、いま現在の危機を自力で乗り越えることを選択したのだ。

 彼らは子期を呉に引き渡さず、その旨を呉軍に伝えたうえで、中立を宣言した。



「さて、長卿(孫武の字)。郢をどう攻める?」

 城璧を取り囲む呉軍の先頭には、伍子胥がいる。そしてその隣には孫武がいた。闔閭は彼らの後方で多くの兵に守られながら、鎮座している。彼らの目は、それぞれ違う色に燃えていた。復讐の色、自己顕示の色、侵略の色……。目的はそれぞれ異なる彼らではあったが、最終的に求めるものは同じである。

 楚地の完全併呑。郢を陥落させ、そこを拠点に諸地方を制圧する。江南地域一帯を支配すれば、その影響力は中原にまで波及する。

「兵は詐を以て立ち、利を以て動き、分合を以て変を為す者なり(兵以詐立、以利動、以分合爲變者也)、という。この意味がわかるか」

 孫武は自己の著作の中の一文を引用し、伍子胥に問いかけた。それをするだけの心の余裕があるということだろう。

「戦は、敵の裏をかくことによって成り立ち、利のあるところにしたがって行動し、軍は離散集合を繰り返すものだ……そういうことだろう?」

 伍子胥の返答は、的を得ていて正確なものであった。孫武は大きく頷き、説明を始める。

「我々は、国境付近の城邑をひとつひとつ潰し、楚の軍を分散させた。ここで大事なことは、彼らが再び集合する隙を与えてはいけないということだな」

「……つまり、戦に勝利するには離散集合を繰り返すことが必要だが、裏を返せば相手にそれをさせない、ということか。離散した敵を離散したままにする……なるほど」

「その通り。そこで我々がすべき心構えは、『その(はや)きこと風のごとく、その(しず)かなること林のごとく、侵掠(しんりゃく)すること火のごとく、動かざること山のごとく、知り難きこと陰のごとく、動くこと雷震のごとし(其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山、難知如陰、動如雷震)』ということだろう」

「風のように早く軍を進め、林のように粛然と、火のように激しく、山のように泰然と構えろ、ということか。要するにこの場に至っては、即戦速攻ということだな。それを静かに、かつ激しく行なえということだろう」

 もはや伍子胥も孫武も、呉軍の勝利を疑うことはなかった。彼らは勝ちやすい状況を作り、それに乗じ続けてきたのである。今度の郢入城に際しても、その前提が崩れることはない。彼らは、勝つべくして勝つのだった。

「では、今度は私から君に質問しよう。この戦いの最終的な目標はなんだと考える? 軍を統率する立場としては、それによって行動の仕方を変えねばならない」

 孫武は問うたが、伍子胥はそれに対して微笑するのみで、答えようとしない。今さら答えずともわかるだろうと言わんばかりの態度であった。

「子胥どのの目標は、楚王の捕縛か。そうであろうな。だが、我々の王が目標とするところは、楚地の完全なる占領だ。これは同じようなことだと思えるかもしれないが、実はまったく違う」

 伍子胥は、目を見開いて聞き返した。

「どこが違うというのだ」

「占領したあとは、治めなければならぬ。そのために我が王は民心を得なければならない。もし子胥どのが楚王を虜にして要らぬ辱めを与えたとしたら……楚の人々は、呉を許さないだろう。占領の後、統治するために復讐はほどほどにした方がいい」

 忠告を与えた孫武であったが、それに対して伍子胥が返答することはなかった。孫武は伍子胥の心情を察し、それ以上追及しなかった。



「城門を破り、入城せよ!」

 呉王闔閭の力強い号令が下った。兵士たちが門を突き破り、なだれ込むように城内に進入する。また、城壁を乗り越えて内部へ入り込む部隊もあり、楚軍を対応に苦慮させた。

「なかなかによい指揮官がいると見える。城門周辺の守りだけに集中させないとは……」

 申包胥は、守備軍の将として郢城防備の指揮を執っていた。しかしその防備態勢はすでに崩壊寸前である。

 三万の呉軍に対し、もともと楚軍は二十万を擁していた。それが柏挙で十万を失い、続く五度の会戦で二万ずつ失うことになり、いま包胥の手元に残っている兵は、五千に満たない。この状況を言い表せば、戦う前に勝負はついている、ということになろう。そのことは、彼自身もわかっていたことであった。

 そこで包胥が自らに課した任務は、宮中の人物を城外に避難させ、財物を保護することであった。できれば城内に住む民衆をも保護したいと思っていた彼であったが、それはとても叶わぬことである。民衆の底力を信じるしかない、と思う彼であった。

 そしてもうひとつ、彼は自らに課した責務がある。


――伍子胥と対決せねばならない。

 包胥は、郢の宮殿にいる文官や宮女たちをすべて避難させ終えると、部隊も解散させ、すべて城外へ逃れるよう言い渡した。そしてひとり宮殿の前に立ちはだかり、伍子胥の到来を待った。



 呉軍はすでに無人同様と化した城内を突き進み、ついに宮殿に至った。しかし先頭を行く伍子胥の前に、たったひとりの男が、まるで門番のように立ちつくしている。伍子胥には、それが既知の男であることが、すぐにわかった。

 こみ上げてくる懐かしさ。あの川に面した茶店での会話。


「包胥……」

 その呟きに頷き返すように、包胥は伍子胥の目を見据えた。

「包胥よ。そこでなにをしている。……死ぬつもりなのか」

 伍子胥はたまりかねて聞く。包胥が何を思っているのかがわからなかった。


「子胥。頼みがある。……この戦い、呉軍の勝利だ。それは認めよう……だが、あえて私と勝負してほしい。君と私の一対一でだ。聞き入れてくれるか?」

 伍子胥の後ろに控えていた孫武が、背中越しに囁く。

「無駄なことはやめておけ。まったく意味のない行為だ。戦略に何も寄与するところがない」

「…………」

 伍子胥は即答しなかった。


「子胥どの! 君が勝てばまだいいが、もし負けたらどうするつもりだ! 君はこれからの呉には必要な立場だぞ」

「わかっている。が、挑まれた以上は男として受けるべきだ。たとえそれが戦略上、なんら寄与するところがないにしても……。部下たちに手を出すなと伝えてくれ」


 仕方なく孫武は指示を出し、部隊を後方に下げた。いま、宮殿の前には包胥と子胥しかいない。

 伍子胥は前に進み出た。


「いいだろう、包胥よ。お前の望み、叶えてやる。だがその前に……聞くべきことがある。楚王はどこにいるのか」



 包胥は腰の剣を引き抜き、それに答えた。

「楚王はこの郢にはもういらっしゃらない、とだけ答えておこう。探し出すつもりなら、私を倒してからにするがいい」

「そうするしかないようだ」


 伍子胥も剣を構えた。

 やがてふたりは息を合わせたかのように、勢いよく剣を交えた。乾いた金属音が宮殿の前庭にこだまし、それを見守る孫武を始めとする呉軍の兵士たちの耳に響いた。


――始まった……。

 孫武は、戦略には通じていたものの、このような個人的武勇を発する場には立ち会ったためしも、また自らがその主役を演じたこともない。彼は、初めて戦場で緊張を感じた。


 包胥も子胥も大柄な男である。そのふたりが体を翻しながら、激しく剣を交えるのである。そして時おり言葉を交わすのであった。

「楚王の居場所を言え!」

「言わぬ!」

 などと、ふたりは叫び合うのである。


 ――このようなことは、まったく無意味だ。国同士の戦争だというのに……。

 孫武は腹立たしく思った。あるいは、ふたりの雄々しさに嫉妬したのかもしれない。しかし、彼がこれまで求めてきた戦争の主題は、戦わずして相手を屈服させることであった。


 このふたりは、それをまったく理解していない。それどころか、個人的武勇に美学さえ感じている……孫武は腹立たしさを感じたと同時に、自分の説を理解しようとしなかった伍子胥に落胆した。


 そのような孫武の思いをよそに、ふたりの戦いは延々と繰り広げられた。

「復讐は、諦めろ! お前に楚王を見つけることは不可能だ!」

 包胥は子胥を斬りつけながら叫んだ。彼は、伍子胥が復讐を果たす前に、殺すつもりであった。しかし子胥は、そう簡単に隙を見せない。反撃しながら、彼は叫び返した。


「お前の思う通りにはならない! もはや楚の命運は尽きたのだ」

 繰り出した剣が包胥の喉元をかすめた。包胥は身を翻してそれをかわし、返す一撃で伍子胥の腹部を突こうとする。


 そのときであった。

 後方から呉王闔閭自らが率いる部隊が宮殿に到着したのである。


「なにをしているのだ!」

 闔閭は部隊を前進させ、ふたりの決闘の場に乱入させた。


 包胥は自らに課した任務を果たせず、やむなくその場から逃亡した。



 ――もはや伍子胥の復讐は、止められない。

 孫武はふたりの個人的な対決に意義を感じなかった一方で、それを止めた闔閭にも不満を覚えた。なぜ、あの場で闔閭はこの孫武にひと言もなしに部隊を進めたのか、と。しかし仮に相談されたとしても、的確な返答はできなかっただろうとも思うのである。


 ――呉の将来にとっては、決してためになることではない。復讐なぞ……。

 その思いがそれ以降の孫武の活躍の場を狭めていった。彼は、その後積極的に軍の先頭に立つことをしなくなった。


 包胥は城外に脱出し、山中に身を潜めた。そのうえで先に避難させていた部隊の仲間と合流し、事態の推移を見守った。しかし彼はその後、身を切られる思いに苦しむことになる。城内を荒し回る旧友伍子胥の行動が、あまりにも常軌を逸しているものであったからだ。


 たがが外れたように復讐心をあらわにした伍子胥は、楚王を探しまわり、それがすでに逃亡していることを突き止めると、先の王である平王の墓をあばいた。


 そして地中深く埋められた棺を打ち壊し、中から平王の死骸を担ぎ上げたかと思うと、あろうことか、それに三百回も鞭打ったのである。


 包胥は山上からその様子を見て、心が張り裂けるほど憤った。そのような行為は、彼の求める「道」から、かけ離れたものであったのである。


 彼は急遽使者を派遣して、伍子胥に伝えた。


「お前の仇討ちのやり方は、あまりに酷い。いっときの人の強暴さが天に勝つことがあったとしても、天が定まればいずれそれは破られるのだ。お前はかりそめにも、かつては平王に仕えた身だ。その屍を辱めるとは、天の道から外れる行為だと言わねばならぬ。いずれ身を滅ぼすぞ」


 その言葉に、伍子胥も何かしら感じるところがあったようである。それとも長年の恨みを晴らし、もはや満足していたのかもしれない。彼は使者に向かって言った。

「申包胥に伝えよ……。日暮れて道遠し、という。復讐を心に決めていままで生きてきたが、待てども待てどもその機会はおとずれることがなかった。だからその機会はいましかないと思い、道理に従った行動ができなかった。倒行(とうこう)して逆施(げきし)するとはこのことだ、と」


 自嘲的な伍子胥の弁明であった。自らの行為に嫌悪を抱き、そのことが彼に冷静さを取り戻させた結果だったかもしれない。


 しかし彼は、それで自分を納得させたわけではなかった。この弁明は、友人である申包胥を思う心が、彼に言わせた偽りのものであった。


 伍子胥は失われた楚王軫の行方を突き止めようと、軍を四方へ展開させたのである。もはや楚の血統は、風前のともしびであった。


 申包胥は、これを確認すると国外に脱出した。

 彼に残された最後の一手が、打たれようとしている。

 


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