楚王逃亡
一
「嚢瓦という男は、我々が思っていたより悪人であった。なんだあの男は」
奮揚は、愚痴をこぼすような口調で包胥に訴えた。暗に、指揮官として嚢瓦を選んだ彼の決断を批判しているのである。
「唐国や蔡国にずいぶんと迷惑をかけているらしいな。私腹を肥やしているとも聞く。伍子胥や伯嚭のような有益な人材を他国へ奪われた原因を作ったばかりでなく、倫理的な感覚も欠けているようだ。……だが、私はこうなることを予想していたよ」
驚くことに、包胥は自軍の敗北も想像していたと言うのである。奮揚は、包胥が正しい判断力を維持しているのかどうかがわからなくなった。
「あえて負けるための作戦を立てたというのか? それは……許されることなのか」
その奮揚の問いに、包胥はひと言で答えた。
「悪は、敵の中にのみ存在するとは限らない」
ああ、そうだった。包胥が社会に求めているのは人の善であって、それは国という枠組みにとらわれることのないものであった。もし彼が、国というものを前提に考えるのであれば……言い換えれば、楚の国民のひとりとして自分が為すべきことを考えたのであれば、自国の悪を除くために、あえて苦しい選択をしたということだ。
「君が出した答えは……呉との抗争をきっかけにして、国内の膿を出し切るということか。だとしたら、郢は戦渦に荒れることになるかもしれない」
奮揚は包胥の考えに賛意を抱きながらも、不安を抑えきることができず、そのように質問した。それに対して包胥は、理解を示した口調で応じた。
「もちろん私にも未来が見えるわけではない。だが奮揚どのの言う通り、郢は呉によって蹂躙されることになるだろう。そのときをどう耐えぬくか……。それが一番の課題だ」
包胥は、より良き社会を築くために、人々に苦難の道を歩ませようとしていた。それは、彼にとって苦渋の選択だったに違いない。
――彼は、呉と戦っているのではない。いまの悪意渦巻く人の社会を相手に、戦っているのだ。
奮揚は申包胥という人物を間近に見て、自分の小ささを痛感した。
二
それから四年の月日が流れた。この間の呉王闔閭の心中は、常に穏やかではなかった。彼は、楚地の完全なる併呑の時期を、今や遅しと待ち続けていたのである。
闔閭は、御前に伍子胥と孫武を召し出し、次のように問いかけた。
「前にその方らは、楚都である郢にはまだ攻め込まぬ方がいい、と主張していたが……そろそろどうであろう。未だ時期尚早だと考えるか」
伍子胥は答えた。その答えは明快である。
「時は来れり」
孫武は答えた。その答えは慎重であった。
「楚の将軍である嚢瓦は貪欲で有名な人物です。彼は駐屯している唐や蔡に対して多額の貢物を要求し、それをすべて自分のものとしているらしい。このため唐や蔡の人々は恨みに思っております。王さまが楚を征伐するおつもりなら、まずはこの二国を味方に引き入れなければなりません」
闔閭は、伍子胥の返答に心を揺さぶられ、すぐにでも軍を動かしたいと考えた。しかし戦略は軍事の要である。彼は結局孫武の言に従うことに決めた。
「おぬしがそれをすれば勝つと説くのであれば、余はその策に従う」
闔閭はすでに孫武の学説のとりこと化していた。彼の説得力には、伍子胥も舌を巻かずにはいられない。
伍子胥は、闔閭に孫武を推挙したことを誇りに思った。
*
「兄上」
決断した闔閭の前に、ひとりの男が進み出た。闔閭の弟、夫概である。
外見的には、とりたてて特徴のない男である。背は高からず低からず、目は大きからず小さからず、体は太からず細からず……能力的にも、これまで闔閭は弟に助けてもらったためしがない。先の王である僚を暗殺して王位を奪ったときも、彼を助けたのは専諸であり、弟は一切関知していなかった。
その弟である夫概が、このとき初めて自分の意志を示そうとしたのである。が、闔閭はこの弟のことが、まるで眼中になかった。少なくともそのときまでは。
「私も兵を率いて、従軍したいのです」
夫概は遠慮がちながらも、そう主張した。だが、それに対しての闔閭の反応は鈍い。
「お前が? なぜ」
いまさら、という気持ちであったのだろう。闔閭は、この夫概の希望をにべもなく拒否した。待機を言い渡したうえで、夫概の所有する軍勢五千人を、自らの所属としたのである。
夫概は当然の如く、これに不満を覚えた。邪険にするにもほどがある、と。しかしそれは、誰が見ても当然の沙汰であった。
三
呉軍の進撃が続いた。楚の人々が誰も知らぬうちに、もともと従属国であったはずの唐や蔡が呉の側に靡いており、誰もがその事実に恐怖した。呉と楚は五度の会戦を経験し、そのすべてが呉の勝利に終わった。いま、呉軍は郢に近づいている。
「郢は危機を迎えようとしています。お逃げください」
包胥は嬴喜を前にして、言葉少なに状況を説明した。だがもちろん嬴喜は、言われるまま従おうとはしなかった。
「私と軫さまは、国に対して責任ある立場です。そのような立場にある者が、そそくさと逃げ出してよいものでしょうか」
嬴喜の表情には、やや怒りが込められている。それは珍しいことであった。包胥はそのことに驚きを隠せなかったが、しかし……彼女の言うことは正論のようであって、そうではない。
「王さまと、あなた様のお命が失われたとき、誰が国に対して責任を持つとおっしゃるのですか。しかも……そもそも国というものは、人の集合体です。たったひとりやふたりで責任を負えるようなものではございません。どうか……私の言うことをよくお聞きになり、お逃げくださるようご決断ください」
包胥の語り口に熱がこもり始めた。隣に控える奮揚は、彼がどう嬴喜を説得するかを注目した。不謹慎ながら、興味を持ったのである。
――包胥どのの唱える「道」の神髄を、太后さまが理解しうるか……。おそらく包胥どのにとっては、もっとも理解してもらいたい相手であるに違いない。なぜなら、このふたりは惹かれ合っているのだから……。
しかし、事態が深刻であることに変わりはなかった。奮揚はその思いを表情に出さず、ふたりの会話を見守った。
「……呉はもともと我が楚の従属国であった唐国と蔡国を従え、国境を侵しました。今回の出兵には呉王闔閭が親征していると聞き及んでおります。その軍勢を迎え撃った令尹嚢瓦は、柏挙の地で戦いに敗れ、鄭に逃れました。すでにその後、楚は五度も呉軍に敗れ、今に至っております。……伍子胥が来ます! あの、復讐に怒り狂った男が! すでに平王さまはお亡くなりになっておりますが、それで諦める彼ではない。彼は、平王さまへの復讐の代わりに、あなた方のお命を狙う。絶対に見つかってはなりません。彼に……復讐を遂げさせてはならないのです!」
包胥の言葉は脅迫めいていたが、随所に彼の心の中にある人間愛をうかがわせるものであった。彼は、伍子胥の手から嬴喜と、その息子の楚王軫を守ろうとするばかりでなく、敵である伍子胥その人をも救おうとしているのである。
それは、かつて彼が伍子胥と友人関係にあったからか、それとも人が悪に陥るさまを見たくないという気持ちからか……奮揚には、その双方のように思えた。だが、嬴喜は包胥の思いをわかっていながら、それに反発しようとした。
「あなた様は、どうするつもりなのです。仮に私たちが郢を脱出するとして、行動を共にしてくれるのですか」
それも重大な問題であることには違いない。王と太后のふたりだけに逃避行をさせるほど、危険なことはないのだ。道中で彼女らになにかがあったとしても、それを知る者がいなければ……誰かが彼女らの身を守らなければならない。
「残念ですが、私はこの国の大夫のひとりとして、呉と戦わなければなりません。同行することはできません……。代わりと言ってはなんですが、ここにいる奮揚が、その役を担います。どうか、彼を私だと思って信用してください」
奮揚は、突然の包胥の発言に驚いてしまった。武人たる彼に与えられた役目は、王族を守ることであって、戦場に立つことではなかったのである。
「包胥どの、役目が逆ではないのか。君にもしものことがあれば、太后さまはどうなる。もともと武人である私を差し置いて、武人ではない君が戦場に立つとは、いったいどういう料簡なのだ」
包胥の考えが理解できず、口調がしどろもどろになりかけた奮揚であった。しかし彼は、その後にひとつの考えに思い至る。
――包胥どのは、伍子胥と対決しようとしているのだ。自らの手で彼を救おうと……。
その考えを裏付けるように、申包胥は奮揚に向かって言い放った。
「以前、私と伍子胥はお互いの考えを打ち明け合ったことがあった。彼はそのとき、『楚を潰す』とはっきり言った。それに対して私は、『楚を生き存えさせる』と返したのだ。これは、私と伍子胥の対決なのだ。結着をつけなければならない」
四
「…………」
奮揚は返す言葉を見つけることができなかった。
だがしかし、彼にも胸に秘めた思いはある。かつて伍子胥の兄である伍尚に打ち明けられた言葉……「私の死後、弟の力になってもらいたい。我らの恨みを晴らしてほしいのだ」
彼はこの言葉をずっと気にかけてきた。いままで忘れたことがなかったといっていいくらいである。しかし、彼のいまの立場は伍子胥とは正反対の位置であり、伍家の恨みを晴らすには、ほど遠い立場であった。伍尚の思いに応えたいという気持ちはあったが、その方策がみつからないというのが、彼の本心である。
包胥は、奮揚のその心の内を見透かしたように言葉を継いだ。
「伍子胥に復讐を果たさせてはならぬ。復讐はあらたな復讐を呼び、それは終わるところを知らないのだ。つまり伍子胥が復讐を果たせば、それが新たな恨みを生み出し、今度は伍子胥自身が復讐される。この憎しみの連鎖を、我々は止めなければならない。それが、伍子胥を救うことにもなるのだ」
包胥らしい意見であった。しかし、これは陣頭に包胥自身が立つことになる最大の理由とはなり得ない。奮揚は、その点を質した。
「紅花がいる。王さまや太后さまとともに、妹も守ってほしい。私が頼れるのは、君だけだ」
「道」の探求者として、大きな人間愛を建前としていた包胥が、はじめて個人的な感情を示した瞬間であった。それだけに奮揚は、その思いに応えなければならないことを実感した。
「……わかり申した」
*
秋が深まった十一月の末、呉軍は郢に肉迫した。奮揚は嬴喜と軫、そして紅花を連れて国都を脱出した。
「お兄さまは、戦いに勝つことができましょうか」
揺れる馬車の上で、次第に視界から遠ざかっていく郢の城壁を眺めながら、紅花は奮揚に問うた。
「まず、難しい。……呉軍の兵力は三万程度で我々に比べれば少ないが、非常に効果的だ。二十万の兵力を擁す楚軍を各地の防衛に分散させ、郢に残る軍勢は、五千に過ぎない。包胥どのがいくら頑張っても、太刀打ちできない数だ」
「では、兄上は……この戦いで死を覚悟しているというのですか?」
紅花は涙目でそう聞き返した。奮揚の言い様が、やや感情に欠けた冷たいものだと感じたのだろう。
「確かにそのつもりであることは間違いないだろうが……かつて包胥どのは、私に打ち明けたことがある。最後の最後、彼にはとるべき秘策がある、と。その内容までは話してくれなかったが……。そういう意味では勝算がないとは言えない。とにかくこうなった以上、彼を信じるしかない。ほかにどうしろと言うのだ」
彼らは郢の東北にある雲夢という地にある沼沢に向かった。そこで身を隠そうというのである。
呉軍が郢に入城したのは、その日の夕刻であった。彼らがそれに遭遇しなかったのは、幸運というほかない。
しかしそれは、すべて包胥の判断に基づいた行動であって、決して偶然のなせる業ではなかったのだ。
このとき逃避行に入ったのは、楚王軫と太后嬴喜のほか、軫の異母兄である子啓、同じく子西、また同じく子期の三名がいた。そして太后の世話役である紅花がいる。
彼らを守るのが、奮揚の役目であった。目立つ行動は避けねばならぬので、引き連れる軍勢は皆無であった。
奮揚の危機における判断力が、試されようとしている。
五
雲夢の沼沢に身を隠した彼らであったが、そこは野営するには危険な場所であった。
「篝火が見える」
紅花は、沼の対岸にまたたく光の明滅を、見逃さなかった。
「呉軍の追手かしら」
奮揚も目を凝らして、その様子をうかがった。
「いや……軍勢にしては篝火の数が少ないようだ。おそらく……あれは盗賊に違いない。見つかると厄介なことになる。すでに夕刻を過ぎているが、出立することにしよう」
「これから、ですか?」
すでに空が星々で埋め尽くされた時刻である。彼らには休息の時間も与えられない、というのか。
「呉から逃れたはいいものの、盗賊によって滅んだとなっては、後世の笑いの種だ」
奮揚はそう言うと、全員に出発の準備をさせた。
彼らが次に目指したのは、さらに東北の地である鄖であった。そこの大夫である鄖公が、彼らを出迎えることとなる。
「殺すべきだ」
鄖公の弟である懐は、報を聞くなり兄に主張した。たまたまあいさつをしにその場を訪れた奮揚は、驚愕といたたまれなさに戸惑った。
「何ゆえに、彼らを殺すべきだというのか」
幸いなことに、鄖公の態度は冷静である。奮揚は、救われた思いがした。
「かつて平王は、我らの父を殺した! 我らが平王の子を殺すのは、当たり前のことではないか!」
――ああ、憎しみの連鎖が、ここにもある! 平王が何を思って彼らの父を殺したかは知らぬが……包胥どのの言うことは、真実であった!
奮揚は、自らが殺されるかもしれないという立場を忘れ、そのような思いを巡らせた。しかし彼には、かつての平王の行為を、本人の代わりに謝罪しなければならない義務はない。平王と王軫は親子とはいえ、まったくの別人であるわけだし、その行為に王軫が関わっていたという事実もなかろう。
どうすべきか考えている最中に、鄖公が弟をなだめ始めた。
「無駄なことを言うものではない。子が親の罪をかぶるということは、あってはならないことだ。懐よ、お前の気持ちはわからないでもないが、お前が今上の王さまを手にかければ、今度はお前が誰かの恨みを買うことになる。そしてお前の息子が、お前の罪で殺されることになるのだ」
「…………」
「それでもよいのか」
「……だが、俺のやろうとしていることは、正当な行為だ!」
懐は、唾を飛ばしながら叫んだ。だが、鄖公は取りあわない。
「そう思うのは、当事者のお前だけだよ。もうひとりの当事者である私でさえ、それが正しいとは思わない。……もう下がれ」
言いつけて弟を下がらせた鄖公は、奮揚に向けて話しかけた。
「お見苦しいところを……申し訳なかった。弟にはあのように言ったものの、わしは気がかりでならぬ。あれは、自分の感情を抑えきれぬところが、いつもあって……。激情に駆られた弟が、抑えきれずに行動に及ぶかもしれぬ。わしも同行するゆえ、随に向かおう」
こういう経緯で、奮揚率いる一行は、鄖から随に向かうことになった。川をさかのぼる形で、彼らは西北に向かった。
しかしそのことが呉軍の知ることとなった。あるいは、鄖の国内に呉の間諜が忍んでいたのかもしれない。随城は、まもなく呉軍に包囲された。
呉の将軍は言う。
「周王室の子孫を、楚は残らず殺し尽くした。その恨みを晴らせ」
呉はもともと周王室の分家を始祖としており、そのため姓は姫姓である。これと同じく随も周王室から分かれた家系であり、同じく姫姓を持っていた。そのため羋という異姓の楚を共に討とう、という意味である。
弱小従属国として楚に追随してきた随の人々は、この言葉に影響された。彼らは王軫を殺すべく、その行方を突き止めようとし、捜索者が城内を闊歩するようになった。
奮揚の一行は進退極まった。
断続的な逃避行に育ちのよい嬴喜は疲れを隠せず、育ち盛りの年ごろであった王軫の体にも、痩せの傾向が窺える。奮揚は効果的な決断を下せずにいた。
「とにかくこのあたりで休息できるところを探さないと。もう体がもちません」
紅花は、焦燥した表情で奮揚に訴えかける。
「それに……揚さまも。とてもお疲れでしょう」
「私は大丈夫だ……たとえ疲れていても、君がそばにいてさえくれたら、癒されることは間違いない。大丈夫だ」
奮揚がそう言うと、紅花は頬を赤らめた。緊張の中にほんの僅かに和んだ時間が訪れた一瞬であった。
「私が行こう」
そのとき前に出たのが、王軫の異母兄のひとりで、もっとも年が軫と近い子期であった。
「私が王の身代わりとなって、随公の前に参上する。その隙に皆はここを脱出し、鄭国にでも逃れるが良かろう。……奮揚、止めるな。方法はこれしかない」
そう言うと、子期は場を離れ、一目散に駆け出していった。奮揚には、それを止める暇もなかった。




