罪人を将とす
一
包胥は、目の前の光景を惨状と捉えた。しかしその光景は、闔閭や伍子胥にとっては勝利の証である。敵将の首を掲げ、それを衆目に晒すということは、一方には口惜しく、もう一方には清々しい行為なのである。
しかし、殺された本人に思いを寄せる者はあまりない。このとき包胥は、鐘吾の城門に晒された属庸の首級を奪おうとして、あえて攻撃を仕掛けた。
呉軍の主力はすでに撤退し、城内には守備隊が残されているだけである。しかし包胥は、城を取り返そうとはせず、城門付近の敵兵を蹴散らすのみに留めた。属庸の首を奪還することだけを目標としたのである。
そしてそれに成功すると、鉾を収めて撤退した。
「危険を犯して、わざわざ首を確保したのはなぜだ」
奮揚の問いに、包胥は真剣な表情で答えた。
「こういうことこそ、私が追い求めている『道』なのだ。もちろん、この鐘吾には属庸以外に命を落とした者がいるだろう。できることならそのすべてを保護し、安全なところに葬ってやりたいが……いま私にできることはこれだけだ。生前の誇りや人格は無視され、切り落された首が晒されるなんて……あまりにひどい。奮揚どのは、そう思わないか」
「しかし、戦争とはそういうものだよ」
「だからこそ、否定したいのだ。無論、私も自分の力はわかっている。しょせんは蟷螂の斧を振りかざしているに過ぎない……だが、私はそれを振りかざし続ける男でありたいのだ」
奮揚は納得した。いかにも包胥らしいことである、と。
「奮揚どのに聞きたい。呉軍はこのまま楚の内部に侵攻するつもりだろうか」
包胥は聞いたが、その答えは明らかである。呉軍の主力は、すでに撤退していた。
「次にどこに現れるかを聞きたいのだろう。それは私にも、わからぬ。しかし明らかなことは、我々を翻弄することが、彼らの狙いであること。次に現れる場所を特定させず、我々の兵力を分散させることだ」
「だがそうとわかっていても、我々には国境付近の警戒を解くことができない。それらを見放して郢の防衛に集中すれば、国を守ること自体はできよう。しかしそれは人道上、許されぬことだ。我々が守るべきは、あくまで人であり、国という仕組みなどではない」
包胥は相手の意を知りながら、あえてそれに正面から付き合うというのである。奮揚はそれに理解を示したが、将来への不安を感じたことも事実であった。
「包胥どのの言うことはわかるが……長い目で見れば、国を守れなければ人々の暮らしも守れない。あえて言わせてもらうが、君の愛する嬴喜さまも守ることはできないぞ。彼女は……言うまでもないことだが、国の中心にいるのだ」
「わかっている。そのときのことも考えてある。人を救うものは人であるが、国を救うものも人だ。人の縁こそが、国を救う。……相手の意志が我々を奔命に疲れさすことにあったとしても、最後には撤兵させる手段が、私には残っているのだ」
包胥はそう言い、自信に満ちた表情を見せた。絶対に成功する確信がありそうな表情のように奮揚には見えたが、それがどのような手段なのかを、彼は知らない。
二
年が明けて間もなく、孫武は闔閭を説き伏せて再び楚に侵攻した。伍子胥ははやる気持ちを抑えながらも、孫武の戦略に付き合っている。
「楚国の内部、奥深くに侵入する日はいつになるのか。間違いなくその日は来るのだろうな?」
「いずれは来るさ。しかし、私がそう考える理由を、君に知らせるわけにはいかない。……これをもちうるに事を以てし、告ぐるに言を以てすることなかれ(犯之以事、勿告以言)、と言うだろう? 将たる者の仕事は、任務だけを知らせることだ。あまり仔細を語り過ぎると、人は得られる利益ばかりでなく、その危険をも知ることになる。人はそれによって尻込みし、その結果、命令が徹底しなくなるのだ」
「それは時と場合によるだろう。ましてそれは主に兵士に対して、将がとるべき態度だ。私には教えてくれてもいいだろう」
伍子胥は恨めしそうな顔をして、そのように言った。これは、すでに軍事の主導権が孫武の手にあることを認めたことを示している。
「まあそう言うな」
孫武はそう言って、取りあおうとしない。しかし、伍子胥もそれ以上言おうとはしなかった。
彼らが目指す次の目標は、六であった。なぜそう定めたかは、間諜の活躍による。孫武は楚の国内の各所に間諜を送り込み、民衆に紛れさせた。その報告により、もっとも防備態勢の手薄なところから攻撃することにしたのである。
――彼れを知りて己を知れば、百戦してあやうからず、彼れを知らずして己を知れば一勝一敗する。彼れを知らず己を知らざれば、戦う毎に必ずあやうし。
(知彼知己、百戰不殆。不知彼而知己、一勝一負。不知彼、不知己、每戰必敗。)
……敵を知り、自分をわきまえて戦えば百戦しても危ういことはないが、自分をわきまえていても、敵を知らなければ勝敗は半々である。敵も自分も知らなければ、戦うたびに必ず敗れる。
これは、孫子十三編の「謀攻」にある一文である。孫武は、自軍と同様、あるいはそれ以上に敵を知ることを重要視した。そしてその方法も特徴的である。
――先に知る者は鬼神に取るべからず。事によるべからず、度に験すべからず。必ず人に取りて敵の情を知る者なり。
(先知者不可取於鬼神、不可象於事、不可驗於度、必取於人、知敵之情者也。)
……あらかじめ知ることは、鬼神や占いでできるものではなく、過去の出来事によって類推できるものでもない。また、自然界の出来事によってためしはかられるものでもない。必ず人に頼ってこそ、敵の状況が知れるのである。
孫武は戦いにおける原則として、それまで通例であった卜占を否定し、間諜を放つことを提言した。運気が満ちるなどという曖昧な理由付けを拒否し、人の力による確かな情報を信じたのである。
六はこれに先立つ戦いにより、荒廃していた。奮揚が燃える水によって呉を撃退したあと、未だ復興半ばだったのである。
「決まった。六を占拠したのち、そこを拠点として灊を攻め落とす」
楚の地理を熟知した伍子胥は、やはり間諜から得た情報をもとに、そのように決定を下した。彼らはこれを即座に攻め落として占拠したのち、再びためらいもなく撤兵したのである。
三
またも包胥は戦場に駆けつけることができなかった。
「どこか……軍を特定の地域に張り付いた方がいい。郢で大規模に軍隊を編制し、国境付近の各地に振り分けるのだ。呉軍の狙いは、我々を奔命に疲れさせることにあるような気がしてならない」
奮揚は、そう提言する。しかし、彼には一抹の不安があった。
――あるいは軍を分散させることこそ、呉の真の狙いなのではないか。
しかしたとえそうであっても、いまは代案が見つからない。楚は対処しているばかりで、常に仕掛けるのは呉の側であった。徐々に国土が狭まりつつある楚としては、能動的な行動をとらざるを得ない。
――逆に呉の領地に侵攻するか。それがいいかもしれない。しかし……包胥どのがそれをよしとするだろうか。
奮揚は包胥ならば必ず反対するだろう、と思いつつも、自らの思いを言葉にした。
「攻撃は最大の防御ともいう。思い切って呉領に攻め入ることができれば、ちょこざいな呉の行動を止めることが可能だ。もし君がそのことに戸惑うのなら、私から王さまや太后さまに献策しよう。構わないか」
この奮揚の言葉に、意外にも包胥は応じた。しかしそれは条件付きである。
「ああ、奮揚どのの言う通りにするしかない。我々は、呉に比べてあまりにも無策だ。過去に手に入れた勢力にあぐらをかき、それを平和に維持する努力を怠ってきた酬いが、いまになって現れてきているのだ。このままでは楚の国民たちが、国の無策のために次々と死ぬ羽目になる。人々のためにも、それを止めなければ……。しかし、そのためには逆襲があることも覚悟しておかねばならない。我々は郢の防備に回ろう」
包胥は、呉に攻め入るのは自分たちの役目ではない、と言うのである。では、誰にその役目を負わすのか、ということは当然な疑問であった。
「では誰にその役目が与えられるのか」
その奮揚の問いに、包胥は迷わず答えた。
「先の王さまの一族の者に、その役を担ってもらう。彼らは、与えられた利益に対して、相応の責任を果たしていない」
「その辺りは、包胥どのに任そう」
このときの奮揚には、包胥の真意が読み取れなかった。しかし反対する理由があるわけでもない。素直にその言に従った。
四
「太后さま、お元気そうでなによりです」
包胥と奮揚は連れ立って参内し、太后である嬴喜を訪れた。
「そんな呼び方はよしてください。どうか喜と呼んで。……私は自分の名が嫌いですけど、あなた様に呼ばれるのであれば愛着がわきます」
嬴喜は静かにそう答えた。まだ、彼女は自分のおかれた立場に安住していない。包胥はそれを察し、同情する表情を浮かべたが、口に出した言葉は型通りのものであった。
「そんな……めっそうもございません。太后さま」
包胥は礼儀正しく、しかも意固地になったかのように述べた。
嬴喜の傍らに控えた紅花には、その様子が可笑しく感じた。
――お兄さまの魅力は、こういうところかしら。
堅物なようでいて、純朴な少年のようでもあり、それでいて大人なのである。誰もが甘えることのできる頼れる存在でありながら、どこか頼りない一部分がある……その人間くささが大きな魅力であることは、妹の紅花も感じるところであった。
「紅花の宮殿での態度に、落ち度はございませんか」
「いいえ。大変よくしてくれています。いまでは、この私の一番の話し相手ですよ。あなた様の話を彼女の口から聞くことが、いまの私の最大の楽しみなのです」
「それは……お恥ずかしい限りです。紅花、太后さまに妙な話をしてはいないだろうな」
包胥に問われた紅花は微笑とともに肩をすくめ、茶目っ気に溢れた様子で嬴喜と顔を見合わせた。嬴喜の楽しそうな態度から、ふたりの間のわだかまりない関係が見てとれる。包胥は安心して話を進めた。
「では、早速ではございますが……このたびここにいる奮揚と呉軍撃退のための作戦を練りましたので、御認可を得たいと思います。よろしいでしょうか」
「どんな作戦ですか。私には詳しくはわかりませんが、いたずらに対立を深めるようなものでしたら、拒否したいと思います。ですが、もしそれがここに住む人々の生活を守るためだとしたら、認めたいと思います」
すでに嬴喜は包胥の唱える「道」に感化されているようであった。奮揚は、そのことをわきまえながら説明を始めた。
「呉軍は我が楚の国境付近に断続的に出没し、我々はその度に軍を出動させなければならない事態となっております。いつどこに現れるかもしれない呉軍に備えるには国境線に沿って兵を並べるしかありませんが、それではこの郢の守りが薄くなってしまいます。もし国境の防衛線を突破されると、そこから一気に突入される恐れがあるのです」
「はい」
奮揚の説明に、嬴喜はあまりはっきりとした反応を示さなかった。彼女は、基本的に軍事を考えることを好まなかったようである。
「この状況をいち早く打開し、なおかつ最悪の想定を回避するために、我々の側から呉に攻撃を加えたいと思います。そこで呉軍にある程度の痛手を与えることができれば、我々は政治的にも主導権を得ることができます。無益な政争や戦争に民衆を巻き込むことも無くなりましょう」
「成功すれば、の話ですね。失敗したら、どうなるのです」
軍事に詳しくない者が、話だけを聞くと当然抱くであろう疑問である。それだけに、この嬴喜の質問は実に核心を突いている。奮揚は束の間、返答に窮した。
「……失敗すれば、我が国は領土を失い、そこを拠点とされて国都を攻撃されましょう。これまで国境近辺に限定されていた戦いが、中央にまで及ぶ可能性は、事実としてあります」
「それで、成功の可能性はどのくらいあるのです?」
嬴喜には奮揚を問いつめる意識は無いようだったが、質問には遠慮がない。奮揚はまたも返答に窮してしまった。
「成功の確率は、五分五分というところです」
奮揚に代わり、包胥が返答した。やはり奮揚は、嬴喜の扱いを包胥に任せることにした。
「五分五分の確率で、わざわざ呉の領地に攻め込む必要があるのかしら。でもあなた様がそう言うのでしたら、確たる理由があるのでしょう。それで誰がその軍を指揮するのです? まさか、あなた様がそれを行なうというのではないでしょう?」
「ご安心ください。今回私と奮揚は、ここ郢の防衛に回ります。呉への侵攻は……そうですな、公子嚢瓦どのにでもお願いしようかと思っています」
「嚢瓦……令尹の、ですね。なぜあの方に……」
包胥は嬴喜のその質問に答え始めた。その返答は長く、内容も驚くべきものであった。
五
「嚢瓦は字を子常といい、かつて令尹であった公子貞の孫にあたる人物です。その先祖の威光で現在も令尹の座についているわけですが、前歴は輝かしいものとは言えません。かつて彼は費無忌の意を受けて、大夫郤宛を殺害しました。郤宛は正直者で、そのため人心を得ていた人物でしたので、彼の死は当時の国民に大きな衝撃を与えました。また、このとき彼の甥にあたる伯嚭が逃れて呉に亡命するという事件も発生したのです。その伯嚭が、一説によると呉軍の将としてこの楚を攻撃しているとのこと……」
「ちょっと待って、お兄さま」
紅花が話に割って入った。突然のことで、礼儀を失する行為であったが、それを咎める者は、この中にはいない。
「どこかで似た話を聞いたような……」
「まったくだ。費無忌は伍子胥ばかりでなく、同じ方法で伯嚭を呉に追いやっている。その実行役が、嚢瓦だというわけだ。いまや伍子胥と伯嚭は呉の将軍として楚を窮地に追い込もうとしており、楚の国民はそれを察して恐々とおののいている。情報に通じている者は、すべての責が費無忌にあることをすでに察しているのだ」
かつて費無忌によって楚に連れてこられた嬴喜にとって、無関係な話ではない。彼女は、心配そうに包胥の顔を覗き込んだ。
「それで、どうしようというのです?」
包胥は宣言するように言った。
「費無忌と嚢瓦には、罰を受けてもらいます。嚢瓦は宰相として費無忌を誅殺する。そして嚢瓦には、戦場で苦労してもらいましょう。あるいは死が彼を待っているかもしれませんが、そこで生き残るかどうかは、彼の才幹次第です」
「そのような者に国の命運を賭けてもよいものでしょうか」
嬴喜の問いに包胥は首を振って答えた。
「国の命運など、たいしたものではございません。大事なものは人の命であり、尊厳ですぞ。言い換えれば、それらとひきかえに国の命運を差し出してもいっこうに構わないと私は考えます。なぜなら、人が無ければ国は成り立たないからです」
「それをまた言い換えれば、人の命さえあれば、国は存続するということですか」
「おっしゃる通り」
包胥はこのとき微笑し、嬴喜もそれに応じた。
*
片腕の費無忌は刑場に連行され、首を刎ねられようとしていた。
「申し開きは許さぬ」
嚢瓦はそう言って費無忌の口を塞ぐよう周囲の者に命じた。費無忌の口から郤宛殺害の実行役が自分であることを、漏れることが無いように……すでに知っている者も多いが、改めて広める必要はまったくない。ただ、自分の立場を悪くするだけであった。
「構わぬ。やれ」
口を塞がれてもがく費無忌の首に、剣が当てられた。それが振るわれた瞬間も、彼がなにを言ったか、定かではなかった。
嚢瓦は費無忌の存在とともに、過去を抹殺したつもりでいた。
そして嚢瓦は令尹の任にありながら、将軍職を授かることになる。一見これは名誉なことであった。彼はこのことを佞臣費無忌を誅したことに対する褒美だと受け止めたのである。
図に乗った嚢瓦は、軍を引き連れて周辺国の唐や蔡に駐屯すると、安全を保障するといって賄を要求した。しかしそれらの情報は、呉の間諜によってすべて筒抜けとなっていたのである。
かくて嚢瓦は呉を攻めたが、伍子胥によってその進軍を阻止されるに至る。呉・楚両軍は豫章で遭遇し、会戦となった。その結果、楚軍はおおいに敗れ、撤兵を余儀なくされた。
呉は間諜から得られた情報をもとに、楚軍を待ち受けていたのである。
これによって、楚は東の領地である居巣を失うこととなった。




