算すくなきは勝たず
一
「やり過ぎだ。いくらなんでも愛する人の首を斬るなど……あまりにひどい。君は、人としての感覚をどこかに捨て去ってしまったのか」
伍子胥は、孫武を問いつめた。その口調には、落胆が窺える。
「君の口からそのようなことを聞かされるとは思っていなかったぞ。君こそ、復讐の鬼だろう。いまはおとなしくしているらしいが、その実は潜伏しているだけだと聞いている」
「いくら私でも、わけもなく人を殺したりはしない」
孫武は、その伍子胥の言葉に笑った。
「私だってわけもなく殺したのではない。呉王にわからせるためだ。よいか、王さまなんてものは、人の犠牲の上に立ちながら、そのことを意識もせずに生きていられる唯一の存在なのだ。人心を得る王は早いうちにそのことに気付くが、気付かない王はいつまでたっても人心を得ない。呉王は幸運だったよ。偶然にも、私にその機会を与えたのだからな」
「呉王のためだと言うのか。では君は、自身の行為が誤っていないと胸を張って言えるのか」
伍子胥は孫武の言い分の図々しさに呆れながら、諦めずに問うた。しかし、この言葉は意外にも孫武の胸を打ったようである。
「相手を屈服させるに戦わないことを最善としているこの私が……好き好んで人を殺めようと思うはずがないだろう。なにも私は、ふたりの寵姫を斬る過程を楽しんでいたわけではない。しかし、私があえてそうしたのは、軍事というものが……人に命じて危地に立たすということが、あのようなことであることを王に自覚してもらいたかったからだ。私は、実のところ仕官などしたくない。王が私のあのような行為に嫌悪を抱き、軍事そのものを放棄することを願っているのだ」
孫武は吐き捨てるようにそう言った。それは本心かもしれない。しかしもしそうであったなら、伍子胥の意図とは明らかに相反するものであった。
「私がそうさせない。君は、いずれ任官することになる。王が軍事を放棄したら、我々呉国の領土は必ずや楚に併呑される。私は、そんなことはさせないぞ」
そう言い残し、伍子胥は席を立った。孫武はその姿を目で追いながら呟く。
「ふん……人殺しめ」
その言葉は、伍子胥が近い将来、多くの楚人を殺すつもりであることを批判したものである。しかしそれは、自分自身を賤しめるものでもあった。
*
「飯がまずく感じる。ひどく味気ない」
闔閭は常に傍らに侍らせ、食事の際には給仕させていたふたりの寵姫がすでにこの世にいないことを嘆いた。
「あの孫武とかいうへぼ学者め……どうしてくれよう」
そう言いながらも、闔閭は孫武の行為の真意を読み取ろうとしていた。
この喪失感。……先に専諸という忠臣を失った闔閭であったが、そのときに抱いた感情とは、やや異なる。
大事なものを失ったことには変わりはなく、その違いを事細かに説明することは難しい。が、あえて言うならば、ふたりの寵姫を失った今回の出来事は、始終懐に温めていた宝物を、ある日突然なくしたような感覚であった。失うことを前提に大切にしていた専諸の場合と違い、その喪失感の深さは自分でもはかり知れない。
「この苦しみを乗り切れない者は、戦を仕掛けるべきではないというのか。だがしかし、必ず勝つと決まった戦いをすれば、何も失わずにすむ。あの男は、その方法を知っているというのか……」
闔閭はそれからひと月ほど悩み続け、孫武を再び宮殿に招いた。
二
包胥は奮揚と紅花を誘い、川に沿って散歩に興じた。
「しばらくの間、道場を引き払って郢に居を構えようと思う」
その際、奮揚は唐突に口にした。散歩に付き添っていたふたりは、驚いて顔を見合わせた。
「お兄さま、太后さまが心配でそのようなことを?」
紅花は尋ねたが、包胥はそれに微笑でしか答えようとしなかった。
「違うみたいね」
紅花は、傍らの奮揚に向けてそう言うと、肩をすくめる仕草をした。しかしこのとき、彼女はすでに本当の理由を察していたのである。
「呉軍が郢に侵攻してくる日が近づいている……そうお考えなのですね」
「そうだ」
包胥はそう返事をすると、川を眺めながらため息をついた。光る川面が、その姿を照らした。
「この前の戦いで我々は蓋余と属庸のふたりを虜にしたが、彼らの話によれば、呉の宮廷に動きがあったらしい。呉王僚が暗殺されたそうだ」
「……暗殺!」
奮揚にとって、その語の放つ響きは、いまいましいものであった。かつてそのことに嫌悪感を抱きながらも実行したという事実が思い出されるばかりか、それに失敗したことへの自己嫌悪が重なり、言葉を聞いただけでも落ち着いていられない気持ちになる。
「宴会に招かれた呉王僚は、その場で刺殺されたそうだ。これに替わって呉王となった人物が、闔閭という。その闔閭が行人の官(宰相のこと)として選んだのが、伍子胥だそうだ」
「…………」
包胥の言葉に、奮揚は絶句した。ついにあの伍子胥が楚と敵対する立場となったことに対する衝撃が、その理由のひとつめである。ふたつめには、伍子胥が呉王僚の暗殺に絡んでいるとすれば、実際に手を下したのは彼と行動を共にしていた子仲に違いない、という想像が頭をよぎったのである。
「暗殺の実行犯は、その場で殺されたそうだ」
――ああ、子仲よ……お前はもうすでにこの世にはいないのだな。
そう考えると、奮揚は軽く目眩を覚えた。足元がふらつき、危うく川岸から転げ落ちそうになった。
「どうしたのですか」
紅花は奮揚の腕を抱え、支えた。そのひたむきさに溢れる眼に、奮揚は現実に引き戻された気がした。
「ああ……すまない。少し昔のことを思い出してしまった。……その殺された暗殺犯というのは、おそらく私とともに費無忌を襲撃した子仲のことだ。純粋で素直な、いい男であったのだが……その純粋さのあまり世の時勢に抗うことができなかったのだろう。奴は、この前もそうだったのだ」
紅花は奮揚の腕を放さず、その思いに共感を示した。
「可哀想な人ですね」
ああ、そうだ。子仲という男をひと言で言い表すなら、それ以外の言葉はない。二度も暗殺を謀った悪意に満ちた男などというものではなく、人の熱い意志に応えようとするあまり、自らの命の危険を顧みることができなかった男というべきなのだ。彼を道具として無惨に死なせた闔閭という人物を、私は許すことができようか? ……奮揚は、そう思った。
「その子仲という君の知る男が、暗殺を実行したという確証は得られていないが、まず間違いないだろう。その実行犯の男は、伍子胥が直接闔閭に推挙した人物だというから……子仲が伍子胥と行動を共にしていて、現在の生息がわからないというのであれば、彼が暗殺を実行したと見るのが自然だ」
ああ、私は伍子胥をも恨んでやる。闔閭と伍子胥は、必ずや私の手でこの世から葬り去ってやる。……奮揚はそう思いかけたが、紅花の視線がそれを思いとどまらせた。そのような考え方は、包胥と紅花の兄妹が唱える「道」とは明らかに異なるものだったからだ。
「いずれにしても」
包胥は言いながら振り返り、光る川面に背を向けた。
「いよいよ伍子胥との対決のときが迫っている。私は、それに備えなければならない。奮揚どの、君にも手伝っていただきたい」
「承知した」
「では紅花もともに郢へ。急ぎ、支度するのだ」
「はい……」
包胥はそう言うと先に道場に戻って行った。あとに残されたふたりは、腕を組みながら川面を眺めた。ふたりがこうしていられる日々は、残り僅かかもしれない。
三
孫武は闔閭の誘いを、迷いながらも受けた。しかし期待されているのは、彼の学説の枝葉の部分に過ぎない。もっとも学説の中心にある以下のことは無視された形となっている。
――兵者、國之大事、死生之地、存亡之道、不可不察也。
(兵とは国の大事である。死生の地、存亡の道、察せざるべからざるなり)
戦争とは国家の大事である。国民の死活に関わり、国家の存亡の分かれ道でもある。熟慮せずに安易な決断をしてはならない。
これは、孫武の著作の第一編、その冒頭に記された文である。つまり、これが彼のもっとも主張したい内容であると言ってもよかろう。
しかし、彼は将軍という身分で宮中に招聘された。その主張に拠らず、国は戦争をするという前提で彼を招いたのである。
「王さまは、私に戦略を練るという部分だけを期待していらっしゃるらしいが、そうである以上は、私が主張する戦争の決断をするうえでの前提の部分を王さまご自身に実行していただかねばなりません。如何」
宮中で孫武の質問を受けた呉王闔閭は、冷ややかな態度でそれに答えた。将軍として招聘することには決めたものの、寵姫をふたりも殺されたことを未だ彼は許してはいないらしかった。
「そのようなことはおぬしが考えることではない。戦争をするか、しないかは余が決めることだ。そのかわりいざ戦争になったら、軍の指揮は伍子胥とおぬしにすべて任そう。伍子胥は楚の出身であるから楚国の地勢や内情に詳しい。おぬしは戦略に優れている。それぞれ協力して我が軍を勝利に誘え」
――どうせ伍子胥が王を焚き付けているのだ。そうに違いない。
孫武はそのように考えた。楚を滅ぼしたくて仕方ない伍子胥が、ありとあらゆる方便を用いて、呉国を戦争へと導いているのだ、と。
――しかし、世の中に戦争が無くなれば、私のような人物は必要とされなくなるに違いない。戦争が存在するからこそ、戦争論を唱える必要が生まれ、戦術や戦略の重要性が必要となる。我ながら自分の存在が恨めしい……。
では断るべきか、と自問してみたが、その答えは「否」である。やはり自分は、書をしたためてそれで満足ということがなかった。自身の主張を人に知らせ、世に広めるためには、自分自身の立場の強化が必要であった。どこぞの誰だかわからぬ人物の書物など、誰も好き好んで読もうとはしないのである。主張を貫くには、実績を重ねなければならなかった。
「まずは将軍。伍子胥とともに楚の周辺国を制圧してみたまえ。それによって将軍の実際の能力を示していただこう」
孫武は無言で一礼し、その場を辞去した。闔閭はそれを咎めなかったが、不信の目でそれを見送る。お互いがお互いに相手に嫌悪感を抱いている証であった。
「もっと愛想よくできないのか」
伍子胥は、孫武を宮殿の前庭で呼び止め、嗜めた。少し前までは態度を嗜められるのは常に伍子胥の側であったが、孫武の出現以来、その役目は変化している。
「これから積み上げる実績の数々が、それを許すさ。なに、多少の愛想の悪さもいずれこの孫武を言い表す特徴となるだろうよ。さて……どこを攻め落とすつもりだ?」
伍子胥は、あらためて孫武の態度に呆れた。
四
「楚は内政の混乱が続き、以前の荘王の時代のような勢いはないが、それでも江南地域一帯に与える影響力は健在だ。江南には我々呉や越などの国々があるが、楚を上回る国力を持った国はひとつとしてない。このため、いまの我々には直接楚を攻撃しても打ち破る力はないとみた」
伍子胥は孫武を相手に、あえて順序立てて説明を始めた。何しろ相手は鬱屈しているとはいえ、学者なのである。論拠が成立していないと反論されるに違いなかった。
「うむ。私もそう思う。続けてくれ」
幸い孫武は同意を示してくれた。伍子胥は話を続ける。
「そこで考えたのだが、我々は楚の兵力をじわじわと分散させ、王都である郢の守備力を削がなければならない。楚には、陳や蔡、舒、黄、息、鐘吾などの従属国が数多く存在するが、これらの国々はそれぞれ弱小であるから攻めるには易しい。これらの国々をひとつひとつ潰していけば、楚は国境付近に兵を集中させることになる。当然、郢の守備は手薄になるはずだ」
「あたかも城の外濠を少しずつ埋めていくような戦略だ。迂遠なようであるが、強大な敵を相手に戦うには、綿密な計画が必要だ。短兵急に王都を急襲し、その勢いで国を乗っ取ろうとしないことは気に入ったぞ。子胥どのは私の書物をよく理解しているようだ」
「先ず勝つべからざるを為して、以て敵の勝つべきを待つ(先為不可勝、以待敵之可勝)、であろう?」
伍子胥は微笑を浮かべながら、孫武の書物の一節を暗誦した。その微笑は、やや苦笑いに似たものであった。
「そうだ。まずは勝つ態勢を整え、敵が弱点をさらけ出すことを待たねばならぬ。周辺従属国を討ち取っていくことには賛成だ。しかし、あまりにも長引かせてはならない。兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久(巧遅)を賭ざるなり、ということだ。……これは、王にも伝えたことだが」
「一戦一戦を迅速に戦えば、問題なかろう」
彼らは最初の目標を、舒に定めた。
*
舒には領主として蓋余がいる。もとの呉王である僚の弟であり、交戦中に僚が国内で殺されたことによって失脚し、楚に降伏したという経緯がある。
このときの楚の対応もなかなかにしたたかだ。降伏した蓋余と、その弟の属庸をそれぞれ国境に近い舒と鐘吾の領主として封建し、諸侯としたのである。常に呉と対立状態が続いていたこの時期に、あえてこのふたりを国境付近に配置したことには、悪意の存在さえ感じさせる。そしてその防衛に割かれた人員は極端に少ない。
このとき申包胥は、奮揚や紅花を引き連れてようやく郢に移住したときだった。事態を予測して行動を起こした彼であったが、実情は彼の想像を上回る早さで展開していた。舒はすでに陥落していたのである。
「早い! なんという早さよ」
報告を受けた包胥は舌を巻いた。
「蓋余はどうした」
使者に向かい、包胥と奮揚は異口同音に尋ねる。使者は、思い出すのも恐ろしいというような表情を浮かべ、それに答えた。
「このたびの侵略には、呉王闔閭が自ら出征しております。しかしながら、その編成は三万程度の兵に過ぎません。しかし舒はそれよりも守備隊の人数が少なく、激しい城攻めに遭いました。蓋余さまはそこで降伏を申し出ましたが、呉王はそれを許しませんでした。蓋余さまは……火刑となったのです」
紅花はそれを聞き、思わず顔を覆った。奮揚は、声も出せない。
「生きたまま焼かれたというのか……闔閭という男は、よほど僚の一族をうらんでいるな。急ぎ、王さまと太后さまにご報告をしなければならない。出征の許可を取り付けるのだ」
包胥は立ち上がってそう言ったが、奮揚はそれによい反応を示さなかった。
「しかし……もう間に合わないかもしれない。蓋余が残虐な方法で殺されたとなると、次の呉軍の目標は鐘吾だ。僚のもうひとりの弟、属庸が狙われる」
紅花も同じ反応を示した。
「舒と鐘吾はほど近い位置にあると聞いています。郢から鐘吾に向かうよりも近くて、私たちがこれから向かったとしても間に合う距離ではありません」
しかし包胥はこのとき強情を張った。
「そんなことはわかっている。だが、我々は行かねばならぬ。見捨ててはならぬのだ。それに紅花……私たちがこれから向かうとお前は言ったが、私はお前を戦地に連れて行こうなどとは考えていない! お前の役目は、私に替わって太后さまを守ることだ!」
めずらしく怒声を放った包胥の態度に、紅花も奮揚も驚いた。
「お兄さま……すみません」
紅花は引き下がらざるを得なかった。それは、彼女が兄の唱える「道」を真の意味で理解していなかったことを痛感したからであった。
五
「こんなことになるのだったら、王を連れてくるのではなかった。楚にいらぬ警戒を与えてしまったではないか」
伍子胥を相手に、孫武は嘆いた。
「まったく呉王は、この私の言うことを理解していらっしゃらない。『その無備なるを攻め、その不意に出ず(攻其無備、出其不意)』と私は主張しているではないか。戦いにおいては、敵に油断させねばならぬのだ」
伍子胥は付き合いが長くなってきたせいか、最近ではこの孫武という男の言うことが、いちいち正しく思える。しかし、彼はあえて反証を示してみせた。
「以前に君が呉王に対してしたことを思えば、今回の件も同じようなことだとは言えまいか。敵将を火刑に処した、ということは、相手に恐怖心を抱かせることに効果的だ。君は寵姫ふたりを殺したことで、女たちに恐怖心を植え付け、その結果彼女たちを意のままに操ることができた。そうであろう」
伍子胥にとってはあらかじめわかっていたことであったが、孫武はそれを明確に否定した。
「蓋余という男が、楚の国民に死ぬほど愛されていて、その死が誰にとっても悲しいというものであれば、効果は確かにあるだろう。だが、実際はそうではない。蓋余はもともと呉の人間であったし、楚の国民の多くは、彼のことを知らぬ。彼らはただ、自国の将が火刑に処されたことを知り、憤慨するだけだ。反発を生み、警戒される。防御を固めるだろう。とても『無備を攻める』ことにはならない」
「……その通りだな」
しかし闔閭は、また同じことをやるだろう。それは伍子胥にも、孫武にも止められないことであった。
*
「胸がすく思いだ」
闔閭がそう言うのには、理由がないわけではない。彼は忠実なる臣下、専諸を失っていた。客観的に見れば、その原因は闔閭自身にある。しかし闔閭本人にとっては、もともと正統な継承権のある自分を差し置いて王位に就いた僚にすべての原因が帰されるのであった。まったく、ひとつの事実は人によって捉え方がさまざまであると言わざるを得ない。
つまり僚の一族は、闔閭にとってことごとく滅ぼさねば気がすまぬ存在なのであった。しかしこれは、闔閭に同情的な見方をすれば、自分のせいで救われぬ死を迎えた専諸に対するせめてもの贖罪行為である、とも言えるかもしれない。
しかしたとえそうであったとしても、結果は自己満足の域を超えていなかった。蓋余や属庸にどんな残酷な刑を与えてみても、冥界の専諸が喜ぶことはなく、ましてや甦ることなどあり得なかったからである。
だが、そのことを知っていても、もはや立ち止まることはできない闔閭であった。
*
「楚には私の意図せぬ形で警戒心を持たせることになってしまったが、対応策がないことはない。素早く迅速に鐘吾を滅ぼし、その上で撤退するのだ。勝ち逃げを決め込む」
孫武の言に、伍子胥は同意を示した。こちらは三万の兵力しかない。相手に態勢を整えられたら、太刀打ちできないことになることは目に見えていた。
「急ぎ、襲おう。呉王はまたも残酷な刑を行なうだろうが、撤退に成功すれば問題が深刻になることはない。改めて戦略を練り直すことができる」
「うむ。そうだ。とにかく私は、勝つための戦いしかしない主義だ。ひとつでも負ける要素があれば、撤退する。このままでは、我々は鐘吾を滅ぼしたあと、負けるのだ」
そう言うと、孫武は兵に号令を発し、鐘吾へ進軍を開始した。
二日かけて舒から鐘吾に到達すると、その日の午後には、公子属庸を虜にした。そして例によって闔閭はこれを許さず、斬首に処した。
「貴公らふたりの将軍としての能力を、余は高く評価することにした。このうえは、この勢いを持って楚都の郢に侵攻したいと思うが、どうか?」
闔閭は気が大きくなっているのだろう。彼我の戦力差もわきまえずにそのような話をした。孫武は必死になってこれを止める。
「我が軍兵は、二度の城攻めを経験し、その前後にはるかな道を行軍しております。疲れた兵は使い物になりませぬ。いまはひとまず兵を帰還させ、休養させることが先決です」
伍子胥も口酸っぱく説得した。
「我々が寡兵でも戦って勝利を得たのは、相手が勝てる相手だったからに過ぎません。徹底的に楚を滅ぼすには、いま少し算段が必要です。ここにいる孫武も言っております。『算多きは勝ち、算すくなきは勝たず(多算勝,少算不勝)』と」
彼らふたりの説得に応じる形で、闔閭はようやく撤退を許可した。
無駄なことだと知りつつ、包胥と奮揚は軍を引き連れ、鐘吾までやってきた。しかしすでにそこには呉の旗がはためき、城門の前に掲げられた属庸の首が遠目に見えた。
彼らは、戦わずにして敗れたのである。これを返せば、呉は彼らと戦わずにして、彼らに勝利したのであった。まさに孫武の示した言葉の通りだったと言えよう。




