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春秋の光と影  作者: 野沢直樹
第二章:呉の興隆
12/24

兵法家

 呉王を称し、新たに闔閭を名乗った光が、まず最初に行なったことは、亡き専諸、つまり子仲の願いに報いることであった。彼は楚地に残る子仲の母と息子に使者を送り、呉に招き入れた。そして封邑として堂邑(どうゆう)(現在の南京市の一部)を息子に与え、彼を上卿(じょうけい)として遇した。

 卿とは地方領主である大夫の中で首都の宮殿に招かれ、国政の一部を担った者の身分を示す。上卿とはさらにその中でも重職を与えられた者を指すが、この当時の子仲の息子は、未だ幼少であった。よってこれは親である子仲の功績によって与えられた名誉職である。

「王ともなれば、あらゆるものを人に授けることができる。だが、命を与えることだけはできない。専諸を生き返らせることができないことだけが、残念だ」

 それは真情であったに違いないだろう。彼はしばらくの間下野していた伍子胥を呼び寄せ、宮中の自分の隣の席に招き入れた。

「余の側近となれ。それ以外に専諸を推挙してくれた貴公に報いる方法を、余は知らぬ」

 闔閭は、伍子胥に破格とも言える待遇を示した。すなわち、宰相の地位である。伍子胥は、これを受けた。

 つまり、子仲は死してひとりの王と、ひとりの宰相を生み出したのである。


「専諸はいい男でありましたが、死んでしまいました。私は、近いうちにまた王様にいい男を紹介しようと思っています」

 伍子胥は任官の際、そのようなことを口にした。これに対し、闔閭は次のように返答する。

「貴公のことであるから、地位を得たらすぐに楚に復讐したいとでも言い出すのかと思っていたが」

 伍子胥は首を振った。

「その意志があることに偽りはございませんが、私としては万全の準備をしてそれに臨みたいと思うのです。潰す時に徹底的に潰すため……」

「なるほど、貴公が単なる激情の男でないことがよくわかった。ところでいい男とは、もうすでに目星がついておるのか」

「すでに。しかし、まだ正式に王様に推挙できる段階ではございません。ひどく、風変わりな男なのです」

「ほう……どんな男だ」

 聞かれた伍子胥は、珍しく言葉に詰まった。その男をひと言で表すことは、非常に難しいことだったのだろう。

「言うなれば……彼は学者です。しかし、いつも室内にこもって書を読みあさっているような手合いの者ではありません。彼は活動的でありますが、あるときには空ばかりを見つめていたり、またあるときには山ばかりを見つめています。その一方で、彼は人の心を見定めているのです」

 闔閭は理解に窮した。いったい伍子胥がなにを言っているのかが、わからなかったのである。

「何を研究している学者なのか?」

「……兵です。彼は軍事を学問として成立させようとしているのです」

 この時代……軍事の勝敗は、大きく天運に左右されるという考え方が浸透しており、そこに学問の入り込む余地はなかった。学者の範疇ではなく、卜占(ぼくせん)を行う者のそれであり、それを研究するということ自体が、おおいに当時の常識とは異なることであった。

「変人のやることだな。余に役立つ人物を推挙するつもりであれば、別の者を探したほうがいい。おそらく、その者は余にとって不必要であろう」

 闔閭はにべもない態度で伍子胥の言を封じた。しかし、伍子胥には諦めた様子はない。

「まあ、そう結論を急がずに。きっと、彼は大きく世を変える男です。また、彼は出自もしっかりしていて、斉の大夫である(でん)家を先祖に持っています」

「ふうむ……一応、名だけは聞いておこう。なんという?」

「孫長卿。長卿というのは字であり、(いみな)(本名のこと)を武といいます」


 伍子胥は、このとき聞かれたから答えたというような軽い口調で応じた。しかし闔閭にとって、軍事を研究する者の名が「武」であったということは、ただの偶然だとは思えない事実であった。


「孫武か……」



 蓋余と属庸は降伏した。戦場で孤立したうえに、宮殿で王である兄の僚が殺されたことを知ったからである。その判断は正しかったと言うべきであろう。楚は彼らを厚遇し、六から程近い(じょ)という地を与え、そこの領主としたのである。


「うまくいった」

 六から戦勝報告をしに郢に至った包胥は、満足そうに呟いた。


「君のおかげだ」

 そう言われた奮揚は、頭を掻いている。

「蓋余と属庸の二人には、戦渦に荒れた六の地が与えられると思っていたのだが、思惑が外れてしまった。あらかじめこうなることがわかっていたなら、燃える水などを使って、あれほどに都市を燃やすことなどしなかったのに」


「私が、王さまと太后さまに進言したのだ。安心しろ、民衆というものは我々などよりよほど力があるのだ。彼らは、意欲的に戦渦に荒れた城市を復興させるだろう。しかしその領主にあの二人がいるとなれば、民衆の感情は恨みに偏ることになる。そうすれば再び争いが起き、結局六の復興はならない」

 包胥は、そのように説明した。

「包胥どのらしい、慈愛に満ちたやり方だ」


 奮揚は、言葉少なにそれに答えたが、それには賞賛の意味が込められている。単なる戦闘屋の自分とは、まったく考えが異なり、彼はもっと広い視野で世を見つめているのだ……そう思った奮揚であった。


「まあ、なににしても終わった……。申に帰ろう、奮揚どの」

 奮揚は、包胥の言葉に我に帰った。申では、紅花が自分を待ってくれている。

 早くその顔を見たいと思う奮揚であった。



 四月の終わり、紅花は奮揚の帰りを道場の玄関先に立って待っていた。その周辺には彼女が丹念に植えた花々が可憐に咲き誇っている。庭先に立つ大きな白木蓮(はくもくれん)が、大きな花を咲かせていた。その花びらが風に吹かれて散り出し、春の暖かな光の中に舞う蝶のようにひらめいている。奮揚の目にはそれだけで幻想的に映ったが、しかしそれらは紅花の美しさを引き立たせるものでしかなかった。


 いや、美しさというよりは、いとおしさか。あまりの美しさに見とれてしまうというよりも、いとおしさのあまり衝動的に抱きしめたいと感じさせる風景であった。


「揚さま!」

 紅花は奮揚の姿を認めると、嬉しそうに声をあげた。ときに男前でありながら、またあるときには可愛らしい……そのすべてがいとおしかった。

「どうも、私はお邪魔らしい。奮揚どの、妹の思いに応えてやってくれ」

 包胥はそう言うと、答えを聞かずに先に道場の中に入った。


 あとに残された奮揚は紅花の手を取ると、物も言わずに抱き寄せた。彼は、自らの感情に素直に従ったのであった。

「ご無事で……」

 奮揚の胸の中で、紅花は呟く。奮揚は、その声さえもいとおしく感じた。

「君は、私を二度も救ってくれた。費無忌に追われて行き倒れになったときと、今回の戦闘との、二度だ」

「そんな……私など今回は……待っていただけです。それしかできなかったのですから」

「生き延びて、君に再び会いたいという気持ちが、私を導き、楚を勝たせたのだ。こう考えると、国の命運も愛によって左右されると言うしかない。そうだろう、紅花よ」

「……はい」

 紅花は奮揚の胸に抱かれながら、若干肩を振るわせたようだった。奮揚の大げさな物言いに、くすっと笑ったのである。



「長卿どのは、自らの将来をどのように考えているのだ。軍事を学問として極め、その知識をもとにどこかの国へ仕官するつもりか。それともその知識をもって自ら軍を編成し、諸国を制圧して王を称するつもりなのか」

 伍子胥の問いに、孫長卿、すなわち孫武は首を振った。

「そのようなつもりはない。いずれもだ」


 伍子胥は、孫武のその態度にため息をつく。学者というものは、どうしてこうなのか。まったく、学問のための学問というものほど、世のために役立たないものはない。その学問をどのように実社会に反映させるかを考えないと、ただの自己満足に過ぎないだろう……伍子胥はそう考えた。


「君の十三編からなる書を読んだのだが……素晴らしいものだった。しかし世に広めなければ、せっかくの素晴らしい書物も意味を為さない。君は、仕官すべきだ。呉王のもとに」

 これまで伍子胥は何度となく孫武を説得してきたが、なかなか孫武は首を縦に振ろうとしない。そればかりか、呉王闔閭も孫武のひととなりに好感を抱かなかったようなのだ。

「世に名を残そうとは、思わないのか」

「書を残した。それで充分だ」

 しかしその書の内容は、ほぼ誰にも理解されていない。少なくとも理解しているのは、いまのところ伍子胥だけであった。


「理解されずともよいのだ。つまるところ、私が言いたいことは、戦争はしないに越したことはない、ということなのだから。王や、施政者には受け入れ難い主張だろう」

「誰にも読んでもらおうと思わない、というのか。ではなぜ書いたのか。誰のために? ただ自分の探究心を満たすためか?」

「そんなことはない!」


 孫武は急に感情をあらわにした。伍子胥は、彼の気持ちがわからず途方に暮れるばかりであった。

「いったい君は、なにをどうしたいのだ」

「…………」

 孫武はしばらくの間、口を噤んだ。言いたいことはあるが、それを言っても伍子胥には理解できまい、と思ったようである。

「君をわかってくれる者は、いまのところ私しかいない。その私に隠し事をしてどうなるというのだ。思っていることのすべてを話せ」

「……なら話してやろう。君が私の言うことを理解できるかどうかは別にして」

 孫武はようやく本音を口にした。

「私は、軍事を研究しながら、それを否定している。つまりは、その害を主張しているのだ。私が本当に言いたいことはそこにあって、どうしたら相手に勝てるか、いかにして戦略を立てるか、などということは、その枝葉に過ぎない。真に軍事の利害を知る者とは、戦わずして相手を屈服させることの重要さを知る者のことを言うのであって、戦って必ず勝つ能力を有する者のことではないのだ」


――百戰百勝、非善之善者也。不戰而屈人之兵、善之善者也。

(百戦して百勝することは、善の善なる者にあらざるなり。戦わずに人の兵を屈するは、善の善なる者なり)


 孫武は、このとき自身の書に記した内容を、初めて自分で解説した。

「子胥どの、君にわかるか? 要は政治が大事なのさ。人の心に寄り添った政治が」

 伍子胥は、言葉を失った。孫武は、戦争を研究していながら、その不必要性を主張しているのである。


「私の研究は、今の世に必要とされていない。仕官などしても無駄なことだ」



「ならば自分でそれを世に説くのだ。立派な説を持ちながら、隠者のように過ごして何になろう。君の現状は、陰でくどくどと愚痴を並べる若者のそれと変わらない。行動するのだ。君のその知識で、身を立てろ」

 伍子胥は、口酸っぱく孫武を説得した。そればかりでなく、孫武の意志を無視した形で、闔閭にしきりに推挙した。その回数は、実に七度に及ぶ。


「それほどまでに貴公が言うのであれば、一度会ってみて、その話を聞こう。連れてくるがいい」

 闔閭はさほど期待していない様子で、そう伍子胥に告げた。まあ、会ってみるだけなら構わない、とでも言いたそうな表情である。

 伍子胥は喜色をあらわにして、そのことを孫武に伝えた。だが、相変わらず孫武の態度は素っ気ない。


「どうしても王の御前に行けというのであれば、君の顔を立てて行くことにしよう。しかし、王には人に命じて戦わせることの厳しさを実感していただく。子胥どのにはどうか……口出しをせずにいただきたい」


 伍子胥は受け入れざるを得なかった。



 それでも闔閭は、あらかじめ渡されていた孫武の書物に残さず目を通してくれていたらしい。伍子胥は、柄にもなく安堵する気持ちを抑えきれなかった。

 しかし彼の書は、闔閭の心にそれほど訴えかける内容ではなかったらしい。孫武は、宮廷で質問ばかりされた。


「おぬしの著書十三編……残さず読み終えたが、余はどうも書物というものが苦手でな。できれば口頭で説明をしていただけると助かるのだが」


 孫武はそれに対して自分から説明しようとせず、王の下問を待った。

「何なりと、ご質問がございましたらお答えします」

 やや不遜な態度であったかもしれない。


「ではまず聞くが」

 闔閭はしかしそんな孫武の態度には構わず、話を続けた。手短に会見を終わらせようとしていたのであろう。伍子胥には、そう思えた。


「おぬしの書の第一編に、『兵とは詭道なり』とある。強くとも相手には弱く見せかけ、勇敢でも臆病だと見せかけ、また敵に近づくとも遠くにいると見せかける……とのことだが、結局はそれをどうやってやるのかがもっとも知りたい点だ。おぬしは具体的にこれをどう説明する?」


「ではお答えします。相手を戦場で騙すことには、臨機応変の対応が必要ですが、綿密な計画を会議の段階でたてておくことが必要です。つまり、会議の段階で勝つことは難しいと判断したら、戦わない。勝算もなく戦場に立ち、そのうえ現場で臨機応変な対応を迫られたら、まったく勝ち目はございません。……とはいえ、戦争とは常に自分たちが仕掛けるものとは限らず、敵から攻められることによって否応なく開戦を迫られる場合も多々ございます。そのときこそ、詭道が役立つのです。相手よりも強く、勝算があれば、弱く見せかけることで敵を油断させることができましょう。逆に相手よりも弱く、勝ち目がない場合は、あえて強固に国境を防衛することで敵に警戒心を引き起こすことができます。それによって決定的な破局は避けられましょう」


 孫武はそのように答えた。伍子胥には、闔閭がいきなり難問を突きつけたように思えたのだが、孫武は常日ごろからそれについての解答を用意していたのであろう。彼の返答は、まったく滞りがなかった。

「ということは、おぬしは基本的に……自分たちから攻め入ってはならぬ、と言いたいのか」


 闔閭の質問に、孫武は再び明確に答えた。

「いいえ、そういうことではありませぬ。絶対に勝てる戦いしか、仕掛けてはならぬ、と言っているのです」

「ふうむ……」


「第二編で言及しておりますが、『兵を知るの将は、民の命を司り、国家の安危を決する』……なお、この場合の将とは、王という言葉に置き換えても差し支えございません。戦争には利害が生じます。民の命を危機に晒してまで戦争をするからには、必ず勝ち、それによって生じる利を得なければなりません。敗れれば害を被るばかりか、国家の存亡に関わります。それが王としての心構えでありましょう」


 そして彼はさらに付け加えた。

「また、たとえ勝ったとしても、長引く戦闘は百害あって一利なしです。戦争には、種々雑多の費用がかかります。勝利によって得られる利益が、かかった経費を下回れば、国家は間違いなく破綻します」


 闔閭は次第に不機嫌な表情を示し始めた。

「建前はわかった。しかし余が本当に知りたいことは、おぬしの言うその建前が、実践できることなのかどうかなのだ。そうだな……第七編にある『鳴りものや旗で、兵士たちの耳目を統一させる』……これについてはどうだ。古来から戦場では鳴りものや旗印は多用されてきた。にもかかわらず、戦争では勝つ者と敗れる者が存在する。おぬしの意見から推測するに、敗れる者はその使い方に誤りがあったということだろう。できればおぬしにその正しい使い方をご教示いただきたい」


「承知いたしました」

 驚くことに、孫武は快諾した。闔閭はそんな孫武に驚きながらも、追及をやめない。

「宮中の女どもを使って、試みてくれまいか」


「わかりました」

 傍らで見守る伍子胥は、言いようもない不安に襲われた。孫武はいま、自身が唱える「戦争の厳しさ」を証明しようとしているに違いなかった。



 宮中の百八十名の美女たちが庭へ連れてこられた。孫武はこれを仮想の兵士に見立て、二つの隊にわけた。そして特に闔閭の寵愛の深い二人をそれぞれの隊長に任じたうえで、全員に(ほこ)を持たせた。


 孫武は彼女たちに問いかける。

「お前たちは皆、自分の胸と左右の手、そして背中を知っているな?」

 女たちは口々に答えた。

「存じています!」


 かしましい女たちの声。物見台の上からその様子をうかがっていた闔閭は面白そうに笑みを浮かべた。


 だが孫武は真剣な表情を崩さない。

「私が前と言ったら、お前たちは自分たちの胸を見ろ。そして左と言ったら左手を、右と言ったら右手を見るのだ。後ろと言ったら、後ろを向け。わかったか?」

「わかりました!」

 女たちの黄色い声が庭全体に広がった。その陽気に溢れた空気の中、ひとり孫武は斧やまさかりなどの刑具を並べている。


――いったい、なにをするつもりだ。

 伍子胥は、この場で孫武が刑具を並べたことの意味を考えた。しかしこのとき闔閭の隣にいた伍子胥には、口出しすることができない。


 孫武は何度も繰り返し、先ほどの命令を女たちに伝えていた。

「よいか、これは軍律なのだ」

 最後に孫武はそう口にしたが、女たちの態度はまるで遊戯を楽しんでいるかのようで、緊張感がない。しかし孫武はそれを意に介さぬ様子で、軍令を発した。


 彼は太鼓を打ち鳴らし、

「右!」

 と叫んだ。


 このとき、女たちははじけるように笑った。経緯を知らない彼女たちにとって、これは軍隊ごっこに過ぎず、ひとり厳粛な顔をして真面目に取り組んでいる孫武の姿は、滑稽そのものであったのだ。


 王である闔閭も、この様子に笑った。その笑いは、失笑と言って差し支えない。

「くだらぬ」

 闔閭は、伍子胥に向かってそう漏らした。伍子胥は、それに反論できない。


――どうするのだ。孫武よ……。


 彼には、眼下の孫武が、女たちの態度に手を焼いているように見えた。しかし台上を見上げた孫武と一瞬目が合ったとき、その続きがあることを彼は確信した。

 まずいことになるかもしれない、と伍子胥は思ったが、やはり口出しはできない。こうなった上は、すべてを孫武に任せるしかなかった。


「取り決めが明白さを欠き、なおかつ軍律の説明が不充分であったとすれば、大将たる私の咎でございます」

 孫武の大きな声が響いた。そして彼は女たちに向き直り、またも命令を繰り返した。その様子を見た闔閭は、まだやるのか、とでも言いたそうな表情をした。


 再び孫武が打ち鳴らす太鼓の音が響いた。

「左!」

 しかし女たちは、またも笑った。


 このとき、孫武の目つきが厳しさを増した。

「取り決めが明白さを欠き、なおかつ軍律の説明が不充分であったとすれば、大将たる私の咎だ。しかしすでに軍律は明白である。にもかかわらず法に従わぬのは、役目を負っている者の罪であると言うしかない!」

 女たちのかしましい声が消え、庭に一瞬の静寂が訪れた。その静寂を、孫武は打ち破る。


「衛士! この二人の隊長の首を落とせ!」

 闔閭は思わず台の上で立ち上がった。


「よせ! おぬしが兵を用いる腕前はよくわかった。余は、そこの二人がおらぬと食事もろくに美味く感じないのだ。どうか殺すな。これは王命だぞ!」


 しかし孫武には受け入れる様子がない。伍子胥は、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。

「私はかりそめながら、すでに王命を受けて大将の任を受けております。古来から言うではないですか。『将たるものの軍にあれば、君命も受けざるものなり』と!」


 孫武は叫び、王の目の前でその寵姫二人の首を斧で切り落とした。

 彼が刑具を揃えておいたのは、事態がこうなることをあらかじめ知っていたからであったのだ。


 孫武は二人の美女の首を見せて回ったあと、次の位の者をあらためて隊長に任じた。

 そして何もなかったかのように、彼は命令を発した。太鼓を打ち鳴らし、右、左と次々に指示する。


 女たちは粛然としてそれに従った。もはや声を立てる者は、誰ひとりいなかった。


「兵は、整いました。王よ、下りてきてご覧願いましょう。いまや彼女らは、火の中にでも飛び込む!」

 孫武は闔閭にそう伝えたが、そのいいざまは闔閭の甚だしい不興を誘った。

「いや、将軍よ。どうか宿に帰って御休息いただこう。余はこれ以上見物したいと思わぬ」


 この言葉を受けた孫武は、あえてそれ以上闔閭を誘おうとはせず、ただひと言だけを残した。

「王さまは言を転がすばかりで、実際に行動するお力がないとお見受けした」

 

 孫武は去って行った。剛胆を謳われた伍子胥も、このときは生きた心地がせず、いたたまれずにその場を辞去した。


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