魚腸剣の秘策
一
「呉が出兵したと?」
奮揚は、事態が風雲告げていることを実感した。呉との国境から遠く離れたこの申の地にも使者が往来し、包胥の屋敷の扉を激しく叩いた。
「急いで事態に対応せねばならぬ。応戦するのだ」
包胥は奮揚にそう告げると、そそくさと身支度を始めた。郢に急行し、軍を編成しようというのである。
「国民が皆、喪に服している間に攻撃を加えるとは、呉王はなかなかしたたかな戦略を立てたものだ。しかしその軍は強いかというと、実はそうでもないと私は見ている。越境して敵地奥深くに侵入し、包囲されもせずにその勢いを維持し得るほど強力な軍隊を、呉が持っているという話は聞いたことがない」
「では、迎撃は可能か」
奮揚は、血が沸き上がるような興奮を覚えた。生粋の軍人としての血。侵略者を撃退するという使命感。それらはいずれも五年前、心ならずも奮揚が失ったものであった。いま彼は、それらを再び手にする大きな機会を得た。
「私も行こう。行かせてくれ」
奮揚は、そう言うと道場の倉のなかから勝手に自分にあう鎧兜を選び、それを身に付けた。
包胥はそれを止めなかった。
「もともと彼は、勇者なのだ。それもただの勇者ではない……城父の司馬であった男なのだ。紅花、彼を止めてはならん。彼が持って生まれた能力を最大に発揮できる場は、戦場にある。まして彼の現在の立場は首に懸賞金をかけられたお尋ね者であり、そのためやむなくこの私に寄食している。彼の復権と自立のためには、戦場に立たせるしかないのだ」
紅花は立ちつくした。その目には涙が浮かんでいたが、彼女は決してそれを溢れさせようとしない。必死に自分を押しとどめようとしていた。
「お兄さまは、私を連れて行ってはくれないのですね。それは……足手まといだから? 私は待っているしかないのですか?」
「待つしかない」
包胥は声を震わせる妹に対して非情なひと言を残した。しかしその声には、妹への深い愛情が込められている。紅花はそれを察し、顔を両手で覆いながら、深く頷いた。
「準備ができた。出立しよう」
奮揚はそんな紅花の気持ちをよそに、慌ただしく旅立とうとする。しかし包胥はそれを優しく嗜めるのであった。
「妹に、ひとこと言ってやってくれ。このまま旅立ったのでは、彼女が不憫でならぬ」
そう言われた奮揚は、きょとんとした表情をした。我に帰って振り返ると、そこには潤んだ目で自分を見つめる紅花の姿がある。彼は、その深刻な状況を笑い飛ばした。
「君たちは兄妹そろって、まだ本当の私を知らないのだな! この私が戦地に散るかもしれない、と思っているのだろう。そんな可能性は百にひとつもないというのに!」
強がった言い方をして安心させようとした奮揚であったが、だからといって紅花の表情が変わることはなかった。途方に暮れた彼は、優しく言い添えることしかできなかった。
「……信用しろ。必ず、数日の間に戻る。君の兄上とともに」
「……はい」
紅花の返事は、それだけであった。だが彼女は、そのとき僅かながら、笑顔をみせた。
二
呉王僚は親征したわけではなく、自らは宮殿にいて事態の推移を見守っていた。弟二人に指揮を任せ、自身は安全な場所に身を隠していたわけだが、それには前回の戦いで勝利を得たという自信が根拠にある。
養蚕にかかわる桑畑の所有権をきっかけにした両国の争いの一件だ。
「あのとき、完全に楚を撃破しようと思えば、そうできたのだ。それを光のやつが変な弱気を起こしたから……」
しかしあのとき、公子光が進言するまま、僚は撤兵した。その当時の光の右将軍という立場を尊重し、現場の意見として従ったのである。
だが軍行動は勢いが大事だという意見もある。勝ちに乗ずる、という言葉もあるくらいだ。光は判断を誤り、自分はその誤った判断に従ってしまった、という思いが僚にはある。このため今回の作戦に、僚は光を選ばなかった。
さぞかし光はこの人事に不平を唱えるだろうと構えていた僚であったが、実際には光はなにも文句を言わなかった。このまま光が何も行動せず、今回の楚地侵略が成功すれば……自身の王位継承の権利に箔がつくというものだった。
光は、僚よりも自分の方が王位を継ぐに相応しい立場であると考えている……僚はそのことを知っていたのである。
*
「専諸よ」
公子光は専諸、すなわち子仲を呼んだ。
「君に引き受けてもらいたいことがある」
光の表情は真剣そのものであり、それが単なる用事を言いつけるものでないことは、子仲にはすぐにわかった。
「どのようなご用件でしょう」
子仲は進み出て、それに応じた。声を意識して低めたのは、それが余人には言えない話であることを彼なりに察知したからである。
「うむ……。近々……かなり近い将来に、宮中で王を招いた宴が催される。いや、この私が自ら催すつもりだ。そこで君にはある役目を果たしてもらいたい」
「…………」
光はあえて言葉を濁し、ことの重大性を強調している。子仲は内心の戸惑いを意識せざるを得なかった。
「具体的には、なにを……」
「……宴の席で、王には魚の料理を供しようと思っている。その魚料理を運ぶのが、君の役目だ」
「運ぶだけですか」
「いや」
「しつこいようですが……では、いったいなにを……」
「あらかじめ魚の腹の中に細工を施し、匕首を隠すようにしておく。君は王にその魚を供するふりをして……王を刺し殺すのだ」
「…………!」
光は、子仲に刺客となれ、と言っているのである。しかも今回は佞臣などという小物ではなく、王が相手なのだ。なまなかの心構えでは決断できることではなかった。
「私に王を殺せと……近いうちに……その機会はいつ訪れるのでしょうか」
「現在、王は公子二人を将軍として国外に派遣し、そのため王都は守りが薄くなっている。戦局はまだ具体的な動きが見られないが、いずれ呉に不利に働くと私は見込んでいるのだ。なぜかというと、他でもないこの私が戦地に派遣されていないからだ」
「呉は敗れると?」
「うむ。その決定的な結果が出る前が、宴を催す絶好の機会だ。将軍たちが敵地に孤立している状態となれば、いざ宮廷に異変が起きても救援に来ることはできない。また、完全に敗戦が決まってしまった状態になってからでは、祝宴など開きようもない。その時間的機微は、私が見極めるつもりだ」
光は成功の確信を持っていた。子仲の目には、彼の自信がありありと見てとれる。さらに光は、その自らの構想を誇るかのように、高らかに言い放った。
「名付けて、魚腸剣の秘策!」
引き受けるべきか、子仲は迷った。しかし彼には断るべき理由もなかった。宋からの亡命者の子孫として生まれた彼にとって、従うべきは時勢の流れであり、それにあえて背くことは自らの首を絞めることであった。つまり、自分を押し殺し、人の意志に沿って行動しさえすれば大過なく日々を過ごすことができる。そればかりか、時には賞賛を受けることさえあるのだ。それによって根なし草のような人生からは解放され、居場所を見つけることができるのである。
子仲自身、常日ごろそのようなことを考えていたわけではなかった。しかし、彼は無意識にそのような人生を歩んでいたのである。
結局彼は、引き受けることに決めた。
三
「呉が送り込んだ二人の将軍は、それぞれ名を蓋余と属庸といい、ともに呉王である僚の実弟にあたる人物たちだそうだ。信用が厚い人物たち見るべきだろうな」
申包胥は征旅の途上、奮揚に向けてそう語った。
「それぞれの指揮能力に関しては、いかがなものであろう」
「問題ない程度だと聞いている。彼らはそれぞれに一万程度の軍勢を率い、六(地名)を占拠しようとしている。現在の楚の防衛態勢では、それを防ぐことはできまい」
包胥は、極めて冷静な判断ができる男であった。彼は、現状を分析した結果、楚は六を失陥するだろう、と言うのである。彼は、往々にして世に存在する気持ちだけで領土を維持しようとする輩とは、やはりひと味違った。
「君の意見が聞きたい。武人として生きてきた君の経験と知恵がいまの私には必要なのだ」
しかしこと軍事に関する具体的な知識については、奮揚の方が包胥を上回っていた。聞かれた奮揚は、鼻下の髭を擦り始め、しばしの間熟考したが、やがて回答を示した。
「確かに現時点での我々楚の軍勢は二万に満たない。一万五千というところであろう。呉が兵力で上回り、なおかつ指揮官もそこそこの能力を持つということであれば、包胥どのの言う通り六の失陥も避けられないことだ。そこで考えたのだが……我々はあえて呉軍に六を制圧させるというのはどうだろうか」
「それはつまり、六をわざと見捨てるということか」
「端的に言えばその通りだ。我々は六より内側に陣営を張り、あえて呉軍に六を占拠させる。ここで大事なことは、相手にそれ以上の西進を許さぬことだ。砦を築き、前面に堅陣を張る。相手も六という拠点を設けることに成功したことで、進軍速度が若干鈍るに違いない。そこで我々は軍を大きく二つに分ち、敵の後背をとればいい。彼らが呉へ帰還する道を閉ざす。つまり、退路を断つのだ」
「なるほど」
包胥は奮揚の提言に会心の表情を示した。そして六に至るまでの途上でさらに一万の兵を募り、作戦に若干の修正を与える形とした。
奮揚は新たに加わった一万の兵を率い、呉軍の後背を討つ別働隊の司令に命じられたのである。
*
楚軍は六の手前、英(地名)に大規模な陣を張り、呉軍を迎撃する形をみせた。しかしその陣形のせいで呉に国境内への侵入を許し、六の城壁は燃え上がった。いまは、それが崩れ落ちようとしている。それを目にした包胥は、心を痛めた。
――六がどのような事態に陥っても、心を揺るがせてはならぬ。いずれにしても彼らに与える土地だ。彼らを六に孤立させて降伏を促す。それが成ったら、六は彼らに与えてしまうのがよかろう。領主に任じ、彼らの手で復興させるのだ。
軍を分つ前に奮揚が包胥に残した言葉である。それが有効な手段だとわかっていても、中にいる住民のことを思えば落ち着かなくなる包胥であった。
「生粋の武人とは、ときに味方にも残酷になれるものだし、また、そうであらねばならぬ。奮揚どのは意志が強いな……しかしこのような経験は私にとっては、ちときつい。そう何度もできるものではない」
包胥は傍らにいた部下に向けてそう話すと、気を改めて全軍に突撃を命じた。形だけでも住民を解放する姿勢をみせるためであった。
そしてすでに六周辺を占拠していた呉軍が、この動きに反応した。
「楚軍が現れたぞ。前進だ!」
総指揮官の兄である蓋余は、全軍に指令した。これを受けて、呉軍は若干の守備兵を残し、全体的に楚軍に向けて進撃を開始した。
「統制はとれているが、伏兵がいることに気付いていない動きだ。兵士がすべて前しか見ていない。我々は、彼らが戦闘を開始した直後に、城壁の手前にいる守備兵たちを攻め、虜にする。そしてその後、素早く、呉軍を後背から討つのだ」
奮揚が引き連れていた約一万の兵は、ほぼ急造の兵であった。よく訓練もされてもおらず、弓や矛も初めて持ったという男ばかりである。それを率いようという自分に、彼は高揚感を覚えた。
――我ながら、よくやる……しかし成功させねばならぬのだ。
兵たちは震えてはいるが、逃げ出す者は皆無であった。指揮官としては、早いうちに処理を終え、彼らの緊張を解かねばならない。
「始まったぞ!」
後方に控えた物見役の兵が声をあげた。
その後、彼らの耳に楚・呉両軍のあげる閧の声が届き始めた。
「では行くぞ」
奮揚は静かな口調で指示を発すると、戦車に乗り込む。そして自ら先頭を駆けた。
一万の兵たちが、それに続く。
四
草地を駆け抜ける馬に引かれた戦車群に導かれ、歩兵たちは長柄の矛を持ち、我先にと走った。このようなとき、なかなか怖じ気づいて逃げ出そうとする者はいない。誰もが逃げるより戦う方が生き残る確率が高いと考えているからだ。
敵を倒して生き残る確率は五割。二人目の敵にも勝ち、生き残る確率はさらにその半分となる。それがさらに三人目、四人目と続くと確率は限りなく小さくなるわけだが、誰もがその極めて小さい確率に自らの命を賭けるのである。
逃げ出せば、途中で食料が無くなる恐れがあるばかりか、行き先もない。逃亡兵はどのような状況であろうとも許されず、見つかった場合には死罪となるからだ。また、一般の民衆もそれを許さないので、あえて匿ったりしないものである。つまり、彼らは戦って勝つしかなかった。
しかしもちろん負ける者は存在する。それは勝つ者と同数、あるいはそれ以上となる。その数が極端に大きくなるか、あるいは勝者よりは多くとも最小限度に留めることができるかは、現場の指揮官の判断によるところが大きい。敵の指揮官が情け容赦ない残虐な人物であれば、必要以上に兵は死ぬ。また、味方の指揮官が諦めの悪い人物であれば、やはり同様の結果となる。すなわち、指揮官の判断力の重要性は、敵・味方を問わない。兵たちは、味方の指揮官に能力と慈悲を求めるばかりでなく、敵方にもそれを求めるべきであった。
包胥は、軍事の能力はともかく、慈悲に溢れた男であった。そのやや劣った部分である軍事の知識や能力を補うべく、彼は奮揚の助力を得て、綿密な作戦を立てている。
敵の蓋余に関して言えば、軍事の能力は包胥より上と言うべきであろう。しかも敵将はもうひとり、属庸という人物がいるのである。蓋余と同じく、属庸も呉王僚の弟で、公子であるという事実を考えれば、蓋余と同程度に軍事にも明るいと見るべきであった。
ということは彼らを包囲したあとにも激戦が続くかどうかは、彼らが持つ能力よりも、性格の部分によるところが大きい。状況を判断して結果を受け入れるだけでなく、常日ごろより兵の命を尊重しているかどうか……相手が二人とも王族であることを考えると、もしかしたらそれは望めないかもしれなかった。
奮揚は、このため単に後方の守備兵を殲滅するという場面に、劇的な演出を施した。数で上回る奮揚率いる楚軍が呉軍の守備隊を殲滅させると、その後には付近の大地が燃え盛るという異常な現象が起きたのである。
「あの火……奮揚どのがあれを使ったか」
状況を確認した包胥は、混乱する呉軍に対する攻めの姿勢を強化し、一気に押した。後退した呉軍は、蓋余の指示のもと、六の城内に逃げ込むことになる。
かくして籠城戦が開始された。
城壁を囲み、合流を果たした包胥と奮揚の軍は、休む間もなく攻めたてる。もともと崩れかかっていた城壁に火がかけられ、見る見るうちに六の都市は丸裸にされていった。
「奮揚どのが用意した燃える水がこれほど効果的だとは。凄いものだな」
戦況がほぼ決した状態の中、包胥は奮揚に語りかけた。
「確かに。だが、残念ながらこれは私が戦場で得た知識ではない。かつて郢で費無忌を襲ったとき、我々は費無忌が用いた『燃える空気』によって撃退された。そこで私は『燃える水』の存在に気が付き、軍事に転用できたという次第なのだ。失敗の反省が福に転じたよい例だと言うべきだろう」
燃える水はいまや城内に流れ込み、徐々に内部の都市を焼こうとしていた。取り囲んでいる楚軍の兵たちの耳にも、城内の混乱にあえぐ声が届きつつある。
戦況は、決した。
「蓋余と属庸に降伏を勧告せよ」
包胥は意気揚々と部下に命じた。
五
「いま、このときを逃してはならぬ。実行せずに、何かを手に入れるることはできないのだ。もともとこの光こそが真の世継ぎなのだから、即位するのが当然だ。相手が誰であろうと、この光を廃位することなどできぬ」
公子光は時勢が自分に味方をしていることを確信し、実行の時期を定めた。
「王の僚を殺すべきはいまをおいて他にありません。その母は年老い、子は幼く、どちらも我々にとって脅威ではない。二人の弟も、楚に攻め入りながら孤立し、退路を断たれて帰還できない状態です。いま、呉は外敵である楚に弱らされ、内には気骨ある臣下がおりません。われらの行動を止め得る者は、存在しないでしょう」
子仲は公子光に応じた。その決意に従う、と言うのである。これに感動した公子光は、
「専諸よ。よくぞ言ってくれた」
と言いながら、額を地に擦り付けてまで自らの感謝の意を表明した。子仲はそれに恐縮した素振りを見せながらも、自らの心境を吐露してみせた。
「決意したからには、必ずや……私の命にかえてでも成功させてみせます。しかし、心残りなことがございます。私は、楚地に老いた母親を残してきております。成功の暁には、母を呉に呼びたいと思います」
「もちろんだとも。他には?」
「私には、息子がおります」
これは、子仲が他人に対して初めて明かす話であった。このとき子仲は未だ若く、二十代前半である。
「婚姻を結んでいたとは知らなかった。君の妻と、息子も楚地にいるのか」
公子光は聞いた。彼としては当然保護したいという気持ちである。
「妻は、もうこの世にはいません。死に別れたのです。妻の死が、もともと根なし草のような人生を歩んできた私を、さらに路頭に迷わせたのです」
「君はもうすでに呉の人間だ。宋人でも楚人でもない。老母も息子もすべてこの光が、この呉地において面倒を見よう。君と私は運命を共にする。私と君は、一心同体なのだ」
――光之身、子之身也。
この光の身は、すなわち君の身……もし君の身になにかが起きれば、あとはすべてこの光が責任を持つ、という意である。これは、限りなく子仲の生命が危険であることを意味した。作戦の成否は、彼の命に関わらないところにかかっているのである。
つまり、首尾よく呉王僚を殺すということだけが光の求めている結果であり、子仲がその結果生き残るか、あるいは死ぬかは作戦自体には関係のないことであったのだ。
六
公子光は自宅の地下室に鎧武者を隠して、王に行幸を願い出た。自宅には酒宴の用意がすでにされてあった。
「光のやつが余を宴に……?」
呉王僚は、言いながらそれに赴くかどうか迷った。僚と光との間は、決して良好とは言えない。彼らはどちらも、自分自身を正統な世継ぎだと認識しているうえに、お互いにそのことを知っているのである。いままでそれが問題化しなかったのは、両者が存外謹み深く、表立って自分の意志を表明することがなかったからに過ぎない。
「王族同士の諍いがあることが楚に知れたら、それを原因につけ込まれることになろう。ただでさえ、このたびの出兵が失敗に終わりそうな状況だからな。行くしかあるまい」
僚は側近を相手にそのように話し、誘いを受けた。しかし僚は警戒心をあらわにし、宮殿から光の邸宅に至るまでの道に、自身の配下の兵士を並べ尽くした。また、光の家の門口や階段の両側にも自身の兵を配し、万全の警備体制を布いた。
宴は、そのような物々しい雰囲気の中、開催されることとなったのである。
兵士たちは皆長剣を携え、厳しい目つきで光を見据えていた。誰もが、なにか起きるとすれば光本人が行動を起こすものと考えていたのである。
「楚地への出征の機会があるとすれば、ぜひこの次は私に命じていただきたい。現在、戦地で孤立している公子蓋余と公子属庸のお二人を解放するとともに、領土を拡張してみせましょう。この私には、その秘策があるのです」
宴の場で、光は心にもないことを言って場を盛り上げようとする。僚はその様子を鼻で笑ったが、何も批判めいたことは口にしなかった。現在の楚地での戦況は呉に不利であり、それを導いたのは僚の判断であったことは明らかであったからだ。しらじらしい雰囲気が場に漂ったが、酒がその雰囲気を緩和させた。僚は酔い、光も酔った。しかし彼らは二人とも判断力を失ったわけではない。
「……酒に酔うと、どうも昔、戦場で受けた傷が痛むのです。ちと、足が痛むので少しばかり中座させていただきます」
光は酩酊気分を装った風でそう言うと、地下室に向かった。僚は、彼が足に膏薬でも塗るために中座したものと思ったようである。もう宴が催されてから小一時間が過ぎようとしていた。光が何かを企んでいたとしたら、もうすでに実行に及んでいるはずだ、と踏んだのである。
「専諸……」
地下室で呼びかけられた子仲は、それを命令だと受け止め、無言で光に頷き返した。彼の手には、焼魚が乗せられた皿がある。皿を膳に据えた子仲は、上階に赴いて、それを僚に奉ろうとした。
「おう、焼魚か……。美味そうだ」
僚は舌鼓をうち、食事に視線を注いだ。下を向いたのである。
専諸、すなわち子仲はその一瞬を逃さなかった。
魚の腹の中に隠された匕首に手を伸ばし、彼はそれで僚の喉元を突いた。
「ぐっ……」
僚は苦悶の声をほんの僅かに発したが、それ以上何もできない。彼は頸動脈を切られ、絶命した。
「刺客だ! 刺客がいるぞ!」
各所に配置された警備の兵士たちが一斉に子仲に向かって攻撃を始めた。子仲は手にしていた匕首でそれを受けようとしたが、反撃は叶わなかった。
子仲は、警備兵たちの長剣に体中を串刺しにされ、血まみれになりながら息絶えた。
宴の席に大混乱が起きたが、それを地下室から出動した兵たちが鎮圧し、呉王僚の側の者たちは、その場ですべて殺されるに至った。
そして光は宣言する。
「いま、このとき、この瞬間から、私が王だ。これ以降、私のことは光ではなく……闔閭と呼べ! 余は、呉王闔閭なり!」




