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春秋の光と影  作者: 野沢直樹
第一章:楚の退廃
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愛憎


 申に戻った紅花は、奮揚を相手に茶飲み話をしている。二人の話題は主に秦の公女の件であり、その美貌や境遇、そして今後についてであった。

「あのお方は、未だお若い。対して楚王はすでに老齢だ。数年後には……」

 奮揚の言いたいことは、紅花にもわかる。ごく近い将来、嬴喜は夫を失い、未亡人となる……奮揚は、そのことを言っているのだ。

「そのときあのお方は、喜ぶのだろうか、それとも悲しむのだろうか」

 奮揚は考えた。確かにあのお方は、自身の境遇を嘆いておられた。しかし、王后であるからには少なからず特権が伴う。あえてそれを失うことを彼女は望むのだろうか、と。

「どんな人でも未来を想像するときは、明るく楽しく過ごす自分の姿を思い描くべきです。公女さまにとっては、過去は暗いものでしかありませんでしたから、なおさらそれを望むべきです」

 紅花は思わせぶりな口調でそう言った。奮揚がその表情を見るに、言外に含むところがあることは明らかだった。

「君の顔を見ていると、彼女の未来は明るいと断言しているかのようだ。その確信の理由はなんだ?」

 紅花は含み笑いをしながら、奮揚を見つめた。そして愛嬌のある口調で言う。

「あら、揚さまは気が付かなかったのかしら? あの二人は出会った瞬間から惹かれあっていましたよ」

 奮揚はきょとんとした。

「あの二人とは……ひとりは公女だとして……もうひとりは包胥どのか!」

「そうに決まっているではありませんか。兄が求める『道』は、悩んでいる者がいれば共に悩み、困っている人がいれば救おうとする……そして実際に困っている者は素直に救おうとする者を頼るべきだ、というものです。公女さまは、出会った瞬間に兄に救いを求める気持ちをぶつけ、兄の返答に満足そうに微笑みました。兄としては頼られることに喜びを感じたことでしょう。いっぽう公女さまにとって、兄は頼るべき人物に見えたのです」

「それはなぜだろう」

「人の内面の良し悪しは、外見にも現れるものです。底意地の悪い性格をした者が、人のよさそうな外見を持っていることは稀です。優しそうに見える男の人は、事実優しいのです」

 本当にそうだろうか……と奮揚は疑問を抱いたが、こと包胥に関して言えば、確かにそうである。包胥は妹の紅花と同じようにきりりとした眼差しが特徴的で、それが意思の強さを連想させる。が、それは自分への厳しさを人に訴えるものであり、自己を押し殺して人に優しくできる人物に特有の眼差しであった。

 公女の嬴喜は、それを一瞬のうちに見抜いたのだ。

「では、包胥どのはいずれ公女を……?」

「そういうこともあるかもしれません。ですが、その前に波乱があるかもしれませんね。このまま伍子胥さまが何も行動を起こさずに一生を終えることはないと思います。兄は、あの方となんらかの形で対決しなければならないのです。その際、揚さまは兄を助けてください」

「わかっている。しかし未来を想像することは楽しい……。このままいけば、我々は秦公の親戚になるわけだ。包胥どのと公女が結ばれれば……」

 奮揚はやや冗談めかしてそのように言った。紅花はこれを笑い飛ばした。

「ふふ……その前に私と揚さまが……本当に、そうなるといいですね!」



 子仲は伍子胥と相談した上で、名を変えた。これは彼らが再び楚の地に足を踏み入れることになったからであり、宮廷から追われる自分の身を案じてのことであった。

 彼がこのとき選んだ名は、「専諸」という。


「子胥どのは、名を変えないのですか」

 子仲、つまり専諸は尋ねた。彼に改名を勧めたのは伍子胥であったが、勧めた本人にその気持ちがない、というのはどういことか。子仲には、伍子胥の意図が読めなかった。

「私に関して言えば、あくまで伍子胥という男が楚に復讐することに意味があるのだ。伍奢の息子であり、伍尚の弟である伍子胥が楚を滅ぼした、そのことこそが重要なのだ」

 伍子胥は自分に言い聞かせるように子仲に話す。実名を晒しながら楚の道中を行くことは、当然ながら危険が伴う。伍子胥は、あえてその道を選びたい、と言っているのであった。

――片意地を張らなければ、もっと順調に事が運ぶというのに……。

 子仲は思ったが、伍子胥の気持ちもわからないではない。ここは理解して、共に茨の道を歩むことにした。


 しかし問題はまだある。

 太子建には妻子があり、鄭までの道のりを共にしていた。もともと彼に与えられる予定であった秦の公女を楚王が横取りしたため、哀れに思った楚王が替わりに宮女を与えて妻としたのである。その妻と、妻が生んだ男子のひとりが彼らと行動を共にしていたが、妻は鄭に残り、男子は後難を避けるために伍子胥が引き連れていた。この男子の名を勝という。

 彼らはこの勝の命をも守らねばならない。鄭や宋という小国での経験から言えることは、危険を避けるためには少しでも情勢の安定した地に身を寄せる必要がある、ということである。このため伍子胥は亡命先に呉を選んだ。

 しかし楚と呉の国境のあたりで、関所の役人に彼らは発見された。


 追っ手が迫る中、逃亡を続けた彼らの行く手を長江が遮った。

「岸辺に沿って走り続けるよりは、対岸に渡った方がいい。そうすれば追っ手も諦めるだろう」

 伍子胥はそう言うと、ひとりの漁夫に声をかけた。

「渡してやろう」

 漁夫は言葉少なにそう返事をすると、小舟を用意し、彼らを対岸に渡した。追っ手も来ず、彼らは危機を脱したのである。


 伍子胥は漁夫に礼をする必要があると考え、腰の剣を外して彼に示した。

「……この剣には百金の値がある。あなたに差し上げよう」

 しかし漁夫はそれを受け取ろうとしなかった。

「楚の法令では、伍子胥を見つけ出した者には、米五万石を賜り、さらには侯の爵位を与えられるのだ。その価値は百金の剣どころではない」

 そう言って、何も受け取らずに立ち去った。漁夫はその正体を知っていながら、彼らを無償で助けたのである。



 伍子胥と熊勝、そして専諸(子仲)は、危機を脱し呉への道を急いだ。しかしその途中で三人揃って流感にかかるなど、道中は困難を極めた。ときには物乞いをして空腹を満たしたこともあるくらいである。

 しかしどうにか彼らは呉に入国することに成功した。このとき彼らを迎えたのは公子(こう)という人物で、その立場は将軍である。当時の呉王である僚とは従兄弟いとこの関係にあり、光の方が年長であったにも関わらず、よく王に仕えている印象であった。その彼が、王に一行を紹介したのだった。

「君たちは、楚に追われてこの呉に入国したと聞くが、そのような時流に逆らう生き方は、可能なのだろうか?」

 公子光は初対面の際、そのようなことを彼らに聞いた。質問の真意は定かではなかったが、伍子胥は一団を代表して答えを示した。

「人の縁にうまくすがることができれば、可能かと存じます。現に我々は、ここまでの道中に何度も危機がありましたが、その度に人に救われて、いまこうして生き存えております」

 公子光はその答えに感慨深そうな溜息を漏らした。

「ふうむ。言い換えれば、いかに人を味方につけるかということだな。君たちには、楚に仇を討つという目的を持っていることと思うが、もちろん私としてはこうしてわが呉を頼ってこられた以上、それに協力してあげたいと思っている。ただ、私にも秘めた思いというものがあるのだ。それがなにかはいまここで話すことはできないが……」

「我々の入国に協力していただいた。必要なときは、ぜひ協力させていただきたい」

 伍子胥はためらいもなくそう言った。子仲にとって意外なことに、伍子胥は存外義理堅い男であった。

「そうか。その必要があるときは改めて依頼する。きっとだ」

 公子光はそう言って立ち去っていった。別れの際に見せた笑顔は、腹心の共を得た会心の笑みであった。

 公子光はひそかに現状を打破したいと思っている……子仲の目にも、伍子胥の目にもそれは明らかだった。ただそれが何かはまだ具体的にわからない。


 その後しばらくして、楚と呉の間に紛争が勃発した。きっかけは国境に跨がる桑畑の所有権についてである。養蚕で生計を立てる女たちの争いが、国同士の争いに発展したのだった。

 先に手を出したのは、楚の側である。しかしやがて迎え撃った側の呉の方が攻勢に転じ、結果鍾離(しょうり)という地と居巣(きょそう)という地を楚から奪い取ることとなった。このとき将軍として呉軍を指揮したのが、公子光である。

 伍子胥は帰還した公子光を讃え、その指揮能力を高く見積もった上で呉王僚に進言した。

「もう一度公子光を遣わせば、楚を撃破することが可能です」

 この伍子胥の言に呉王僚はその気になりかけた。しかし、伍子胥にとって意外なことに公子光自身がこれに反対したのである。

「伍子胥という男は、楚に親兄弟を殺されたものですから、仇を討ちたいという気持ちが先走っているのでしょう。その気持ちはわかりますが、いま楚を討ったとしても撃破できるとは言えません。時期尚早かと思われます」

 伍子胥はこの発言を人づてに聞き、驚いた。彼はてっきり公子光が戦果を挙げることで名を挙げようとしているのだと思っていたが、実はそうではないことに気が付くに至った。

「子仲。いや、専諸よ。公子光の目的は奈辺にあると思う?」

 彼は子仲を呼び寄せ、相談した。子仲はしばらく考えていたが、やがて押し殺した声でひとつの解答を示した。

「現在の呉王である僚様は……呉の五代目の王です。僚様は四代目の息子であるのですが、これに対して公子光様は二代目の王の息子なのだそうです」

「ふむ」

「順当に行けば光様は今ごろ呉王の座を得ていたことでしょう。それがどうしたことか僚様にその座が転がり込んだ……彼が不満に思っていたとしても不思議ではない」

「……では彼はひそかに王座を狙っているというのか。それも穏当に順番を待つということではなく……」

「おそらく彼は、今上の王を自らの手で除いてその座を得ようと考えています。いまは、その機をうかがっているに違いありません。外征で戦果を得て名声をえることよりも、呉王の隙を見つけ、その座を奪うことの方が先決だと考えているのではないでしょうか」

「……そういうことか!」



 公子光は、鋭気を隠して機を狙っていた。そのことを悟った伍子胥は、子仲に策を提示する。

「子仲、お前に頼みがある。公子のもとに仕えてくれぬか」

 子仲は、突然のことで驚いた。仕えて、いったい何をせよというのか。

「今後の事態の展開次第では、重要な役回りを任されるかもしれん」

「……子胥どのは、今後どうされるのです」

「しばらく畑でも相手にするさ。天下が動くまで、そうするつもりだ」

 伍子胥は自分に何かを期待している……子仲はそう感じたが、それが何かはわからなかった。公子光の野心を利用して、彼は憎き楚に復讐しようとしているのか……。

――私は、その手助けをするべきなのだろうか。それは、人として正しい道なのか?

 子仲は疑問に感じたが、結局伍子胥の意向に沿う形をとった。亡命者の子孫という彼の立場が、流れに沿って生きる道を選択させたのである。


「これよりこの専諸を公子様の臣下として扱っていただきたい。彼は、……きっと公子様のお役に立つことになりましょう」

 伍子胥は、公子光にそのように子仲を紹介した。それを受けた公子は、無言ながらも満面の笑顔をみせたのである。それは、彼が明らかになにかを意図している証であった。このとき子仲の心には、公子が言外に「よし!」と言っている声が確かに聞こえたように思えたのであった。

 そして子仲は、しばらくの間、伍子胥と別れることとなった。伍子胥は太子建の息子である勝とともに、本当に畑を耕して暮らすこととなったのである。

 そして、時は流れていった。



「あれ以来、包胥どのは足しげく王妃さまのもとを訪れ、その話し相手をしているらしい。ひねもす王妃と談笑しては、そのご機嫌を取っているそうだ。彼はなにかを意図しているのだろうか?」

 奮揚は、ここのところ心配になってきている。というのも最近になって、あの伍子胥が呉に入国したという情報が彼の耳に入ったからであった。


 かつての伍尚の言葉が気にかかる。

 ――楚の国にとっては、不幸なことだろう。


 伍子胥は、復讐の鬼となって楚に攻め込んでくるのではないか。それも呉の尖兵として……。そのような不安を理由もなくはねのける気にはなれない奮揚であった。

 しかし、その情報は当然ながら包胥も得ている。にもかかわらず彼は呑気に宮殿に入り浸っては、類い稀な美人である王妃を相手に、でれでれとくだらない話ばかりしているのだ。

「少し前までは側室に過ぎなかったあのお方が、めでたく王妃となり仰せたことをお祝いしているのです。兄の優しさですよ」

 紅花は奮揚の心配をよそに、こともなげな口調でそう答える。奮揚はやきもきした。

「それは充分わかっているが、いま包胥どのがするべきことは王妃の話し相手をすることではないだろう。宮殿にいる者のすべてが頭を下げるほどの権勢を振るう包胥どのだ。もっと国の存続に危機感を持つべきではないのか。いまに伍子胥は呉軍を指揮して楚の領土を侵すぞ。きっと、いや、必ずだ」

 紅花はそれを否定することはせず、理解を示した。しかし、彼女の包胥に対する意見は奮揚とは異なる。

「だからこそ兄は王妃と、太子を守ろうとしているのです。来るべき国の危機に備え、王妃を不安から救い、太子を愛のある環境で育てあげようとしているのです」

「では、今上の王はどうなる。包胥どのは、王を見捨てて王妃と太子を守ろうとしているのか」

「王様のことは、すでに兄の眼中にはないと思います。佞臣に誑かされ、国に危機をもたらしたのは王様自身ですから……。兄はその後始末をすすんでやろうとしているのですよ。兄が志しているのは、そういうことなのです」

 奮揚はあらためて衝撃を覚えた。王は代替えが利く存在であるという認識を前提に、彼は国を維持しようとしている。はたしてその役目は包胥に与えられるべきものなのか。王自らがそれを行なわないというのに、権勢はあるといっても大夫に過ぎない包胥がそれをやる必要があるのか。

「君の言うことがすべて真実だとしたら、包胥どのこそが、実質的に国を束ねているといえるかもしれない。彼はこの国に住む人の心を繋ぎ止めようとしている! ……私もできうる限りの力添えをしたいものだ。だが具体的に何をすればよいものやら……」

「心の繋がりが、人を支えます。兄の傍にいて、その気持ちを裏切らないことです。それで充分です」

 紅花はにこやかにそう言った。その表情は柔らかく、それを見ていると何ごとも心配は要らないと感じさせるような優しさがあった。

「ではそうしよう。しかし、我ながら非力なものだ。何もしてやることができないとは……」

「いまは兄に任せておきましょう。ですがそのうち、奮揚さまの力が必要になるときが必ずきます。そのときまで心を穏やかに……」

 紅花は奮揚の手を握り、その肩に自らの頭を乗せた。そうすると、不安に駆られた奮揚の心は、穏やかになっていったのである。



 それから五年の月日が経った。呉王僚は、隣国の楚に侵攻する計画を着々とたてている。伍子胥は畑を耕しながら市井に潜伏し、復讐の時機をうかがっている。子仲は名を専諸と変え、公子光のもと、指令を待ち続けていた。

 楚では嬴喜の産んだ太子が軫と名付けられ、六歳となった。包胥はその後見人として、母子を心の面で支え続けている。奮揚と紅花はその包胥を心で支え、そして彼と彼女はお互いを心の面で支えあった。政治的緊張が続いた五年間であったが、幸いにもこの間にその緊張の糸が切れる事態は発生せず、人々の暮らしは、表面上平和であった。しかしその後、糸は突然切れたのである。


 この年、楚王は崩御した。突如心音を乱し、その太った体を悶絶させながら倒れた姿を、人々は茫然と眺めた。誰も王に何が起きたかを瞬時に理解できず、それがある種の急性の病気であることに思い至らなかった。

「呼吸が止まっております」

 侍従の報告を受け、片腕の費無忌は目を閉じながら言った。

「お亡くなりになったか。来るべきときが、いよいよ来た。……しかし慌てることはない。このときのために、わしは太子建を追放したのだ。新たな太子の軫さまは未だご幼少だが……構わぬ。王座に据えることとしよう」

 このとき死んだ楚王には「平王」と諡され、国を挙げての葬儀が催されることとなった。かくして、嬴喜は未亡人となり、同時に王太后となったのである。しかしこのとき、嬴喜は(よわい)二十五にも達していなかった。

 費無忌は、その嬴喜に向かって「新王になりかわって政治を見よ」と告げた。


「黙れ」

 このとき包胥は、そのひと言だけを費無忌に向けて放ったという。その言葉の裏には、どこまで彼女の人生を(もてあそ)べば気が済むのだ、という意が込められていた。


 しかし費無忌はこの発言に対し、激怒した。

「賢き平王の忠実な臣下であったこのわしに向かって、地方の大夫に過ぎない男が、なにを言う! 貴様の不遜な態度は懲罰されるべきものだ。覚悟せよ」

 費無忌は激情をそのままに、包胥を罵倒したが、彼も黙っていない。常にない挑発するような口調で、費無忌に対した。

「誰がこの私を懲罰すると言うのか。未だ幼い新王か。それとも嬴喜さまか。このお二方が揃って私を罰すると言うのであれば従おう。しかし、それ以外の者の指図を、私は受けぬ。ましてや貴様のような傾国の佞臣が言うことなど!」

 そう言うと後難を恐れる態度も見せず、場を立ち去った。当然のことながら、嬴喜は包胥を罰することを認めず、また、自らが先頭に立って国政を担うことも若齢を理由に拒否した。楚には宰相を意味する令尹(れいいん)がたてられ、摂政の役目を果たすことになる。これを受けて、相対的に費無忌の権力は減衰した形となった。


「まあ、そのうちにまた盛り返してみせるさ」

 費無忌は親しい者に向かって、そのように述べた。その言葉は、彼が国外に存在する危機に気付かず、内輪の権力闘争にうつつを抜かしている現れであった。その証拠に、費無忌はその後の危機に何も対応することができなかったのである。


 呉王僚は、楚の国葬のどさくさにつけ込み、自らの弟二人を将軍としてついに出兵したのである。呉楚間の本格的な抗争がついに始まった瞬間であった。



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