◇17 妹と問題
◇17 妹と問題
坂上と呼ばれた女学生がホームを去った後、淡井は俺に対して『ちょっとがっかり』とか『意味分からなかったんでしょ?』とか失礼なことだけ言って帰ってしまったため、結局二人の間でどのような理解が形成されていたのかは分からずじまいになってしまった。
大体、二人に何か特別な面識があったのなら最初から俺じゃなく淡井が説得に当たればよかったものを。それとも本当に言葉通り、淡井はいつでも自殺を阻止できる自信があり、俺がどういう行動を見せるのかを観察していたのだろうか。だとしたら少し悪趣味に過ぎる気がするが。
かなりもやもやとした気分を抱えたままだったが、俺は日課通りに病院に向かい妹のゆりへと会いに来ていた。
個室への道の途中、あからさまながん患者とすれ違う。先ほどの自殺未遂に感じた死のにおいとは別の方向性の、しかし共通点のある幻臭に、言葉にならない奇妙な感情を感じたが、俺は深く考えない事にしてゆりのもとへと急いだ。
最近は淡井に付き合って遅くなっていたが、今日は割とすぐに活動が終わったために比較的早い時間に妹の個室へとたどり着いた。せっかくなのでゆっくりと引き戸を引いてあわよくば驚かせることにする。
ゆるゆると引き戸を横に流していくと、部屋の中ではゆりがベッドの上で何やら分厚い本を読んでいた。周囲にも本やメモをとったA4の紙なんかが散らばっている。
今手にとって読んでるのは、真っ黄色い表紙にホモなんとかがどうとかいう文字が英語で書かれた物だ。……確か、あの色の本は全部数学系だったはずで、内容は俺が読んでもさっぱりわからない。
ゆりはかなりの集中力で読書を続けている。片手にはシャープペンシルを持ち、色素の薄い髪が重力に従って垂れているが特に気にしている様子もない。時折横に置いてあるA4の、数学の本を読んでいるのなら計算用紙なんだろう、計算用紙に何かを書きつけていた。
ベットに座るようにしているゆりは微妙に奥の方を向いていて、頑張ればバレずにに近づけそうだ。
「お兄ちゃん、早いね!」
……とか思った瞬間にばれてしまった。
「なんで分かった?」
「扉が開くと空気が動くからね」
なるほど、それでいつも近づくまでに気づかれてたのか。とはいえそれだとバレずに近づくのは無理そうではある。
「でも今日はやけに早いね、お兄ちゃん。淡井さんに振られた?」
「まぁ間違っては無いかもな」
「どういうこと?」
俺はいつも通りゆりの近くに椅子を置いて座った後、今日あった事を話した。飛び込み自殺しそうな人をまず俺が止めようとして失敗して、その後に淡井が何やらよくわからない会話をして説得に成功したらしいという流れを。但し淡井が話した事は正直俺には理解できていないのできちんと説明はできなかったかもしれないが。
話を聞き終えたゆりも、後半半分についてはあまり理解できていないようで、しかし一方で考えているそぶりは見せていた。頭を支えるようにして視界を狭めている。
「えっと、その人はなんて呼ばれてたの?」
訊ねられてまた相手の名前を提示していなかった事に気づく。
「あぁ、それなんだけど、坂上とか呼ばれてたのに柳田って呼ばれてうろたえてたな」
「―――柳田?」
「ん?ああ」
「なるほどねー。それは確かに淡井さんと関係あるよ。うん。お兄ちゃんは知らないの?」
何かを納得したようにゆりは頷く。
「柳田って名前は有名なのか?」
特に柳田なる人物で有名人を知らない俺はゆりに訊く。軽くため息をつきつつゆりは返した。
「無知は罪だよ、お兄ちゃん。柳田、と言えば淡井美羽と同時期に同世代の作家として一瞬有名になった小説家、柳田まりが浮かぶよ。代表作は『慟哭』で、この処女作はかなり売れたはず。最初の作品以外はそんなに売れてるわけじゃなかったと思うけど」
ははぁ、だから面識があったのか。淡井も昔小説を書いてベストセラーになったりしてるわけだし。
「ね、それが分かると淡井さんと坂上さんとの間にどういう諒解がなされたか、分かるでしょ?」
ゆりに言われ、俺は少し考える。家庭内の不和と小説家という職業、それを結び付けた時に苦しめられる事と言えば…………。
俺は確認の為に、一つゆりに訊ねる。
「その『慟哭』とやらのあらすじは?」
ゆりはにやりと笑って応じる。
「端的に言って、家庭内暴力を理由に飛び降り自殺する姉妹のお話だよ」
ある程度予想通りの回答。簡単に思いつく理由は、とりあえずは次のようなものだろう。
「つまり、坂上は自分の小説のせいで家庭内が荒れたと考えて、その罪障感にも苦しんでるってことか?単純に家庭の混乱だけが原因だけじゃなくて。小学生くらいの人間が書いたとすれば、元から家庭は荒れてたんだろうけど、その内容を描いた小説が売れたりすれば、あまりいい想像はできないしな」
俺の回答に、ゆりは意外にもあからさまな不満の表情を見せた。
「やっぱり無知は罪だよ。この『慟哭』っていう小説が何故売れたのか知ってれば、もう少し違う見方ができるはずなのに。それに、もしも家庭内の不和と責任を理由に自殺するのなら、最初に言ったように弟さんの事を考えるだけで阻止できるはずでしょ」
「……確かに弟を置いて自殺するのは、仲が良ければおかしい気もするな。というか、売れた理由?」
大きな溜息のあと、ゆりはつづける。
「『慟哭』は、元々は書き手が小学生である事を隠してた作品で、でも事件をきっかけに売れるようになった。ちょっとはニュースとかにもなってたはずだよ」
「親に訴えられたとか?」
「あはは、そうじゃないよお兄ちゃん。……『慟哭』を模倣した自殺者が出たんだ」
「…………自殺」
「そ。『慟哭』って自殺に対して耽美的な内容なんだ。だからありえない話じゃなかったとは思うんだけど、それをきっかけに社会で議論の的になったり、事態の収束の為か作者は小学生である事をばらしたりとか、色々あったんだよ。それほど長続きはしなかった話題だけど」
自分の描いた作品を模倣して自殺されたら、ショックを受けてもおかしくはないだろう。というか小学生のころにそんなことされたらトラウマものだ。
「作品に影響を受けて死んだ人間に対しての罪の意識が、自殺へと駆り立てたってことか。ちなみに、淡井も同じ経験があるとか言ってたから、淡井の作品で自殺した人間もいたってことか?」
「淡井さんの方の作品も、自殺が取り扱われてるからね。ただ、本当に模倣して死んだ人がいるかどうかは分からない報道のされ方だったかな。元々売れてる分、手紙だけを作者に送る愉快犯も含めれば、模倣した人は坂上さんの作品よりも淡井さんの作品の方が多かったみたいだけどね。その辺を理由にして坂上さんの自殺を止めたんだと思うよ。淡井さんも同じ経験をしているから、って」
「なるほど……」
あの、傍から訊いている分にはさっぱりわからなかった会話も、適切な知識を前提にして紐解けばさほど難しい事を言っているわけではなかったということなのだろうか。というか伝聞を元にして理解できる妹さんの能力が羨ましい限りだ。
もしかしたらこの程度の理解を淡井は求めていたのかもしれない。いや、さらにありうるのは、坂上の事も同じ学校なわけだから知っていて、この程度のトラウマも坂上を見た瞬間に理解して、淡井と同じような手法は使えないにしても、きちんと自殺の原因を把握した上で自殺阻止をしてほしかった、とかいうことも十二分にありうる。
俺にはそんなことはできないが。
なんにせよ、一通りの理解を得た俺はかなり満足する事が出来た。
ただ、ゆりは一通りの話をし終えた後もどことなく不満の表情を残していた。
「何か不満?」
「……淡井さん、自分には何でもできるとか思ってるのかなぁ」
「どういうことだ?」
「ほら、お兄ちゃんが予知夢で見た事が起きたくだりでもそうだけど、『私に予想できない事は少ない』って言ってるんでしょ?実際に自殺阻止も有言実行で実現してて、過去を振り返っても疑いようもなく高能力なんだけど……」
「お前とか淡井とかは能力が高いんだから、そういう風に世の中に飽きるものある程度仕方ないんじゃないか?きちんと能力を使って人類の前進に貢献した方がいいとは思うが」
俺がそう言うと、ゆりは力強くゆっくりと首を振った。
「仕方なくなんかないよ。というかそもそも、能力が高いって言っても、人間なんだよ?ほら、例えば、私はこんな本も背伸びして読んでみたりしてるけど、全部を余すことなく理解なんてしてない。淡井さんだって、ここに置いてある数学、物理、生物、哲学なんかの専門書ですら、理解できてないはずだよ。もしかしたら全然知らないかもしれない。本になってる内容って、大よそ大学の学部生のレベルなのに。だから、飽きる理由を、高能力のせいにするっていうのは、とても傲慢なことだと、私は思うよ」
ゆりの発言は、どことなく自分自身にも言い聞かせているようにも聞こえた。ヘタに自分の見える範囲で自分の能力が高い状態だと井の中の蛙になってしまう危険性なんかは、俺よりもずっと深く現実的な問題として相手取ってきたからだろう。天才にも天才なりの苦悩があるのは、別におかしなことじゃない。
そんな俺の思考を見透かしたかのように、ゆりはからかってきた。
「お兄ちゃんも早くそういう苦しみを味わえるように頑張ってね?」
「そう言うのはお前の役目だろ?」
「む、そういう態度は私は好きじゃないな。お兄ちゃん、そういう無責任が、比較的能力が高いだけの人々を苦しめてるのは気づくべきだよ」
「俺はお前しか苦しめないからいいんだよ。他の人には言わないからな」
あからさまな不満を声に露わにして、
「ひどっ。そういうデリカシーを磨かないと人には好まれないよ、ぼっちなお兄ちゃん」
「いやお前のその発言の方がひどいだろ。確かに異性とかはいないけど」
「ひどくないよ?私もお兄ちゃんにしか言わないから」
「その言い分は通じない、……って言うと前の発言が微妙になるな……まぁそこは論理を超えた何かに頑張ってもらえばいいか」
反射的に反論しようとして微妙に言葉に詰まり、そんな発言をひねり出した。
「逃避の先として論理を超えた何かに頼りだしたら人間の底が見えるってものだよね」
「感情とか倫理とか色々有用なものはあるだろ?」
「そういうのは、積極的に認めなきゃ。お兄ちゃんみたいに都合のいい逃げ道として使うのは駄目だよ」
「そんなものかな?……まぁ分かったよ。軽い冗談だろ?」
俺がいつもの調子でそう言うと、ゆりも軽く笑った。が、そこには僅かに陰りのようなものも見えた。
ゆりは表情に混ぜた負の感情を隠す気はなかったようで、俺がその感情に気づいた事を認識した上で話し始めた。
「冗談だって解ってるけど、それでもやっぱり色々気をつけなきゃ。多分、淡井さんは特にデリケートだから、落とすならなおさらね?」
前半とのバランスを気にしたのか、発言の後半にわざとらしくふざけた発言が混じる。
「分かったよ。うん。あいつがそんなに危うい奴だとは、俺は到底思えないけどな」
俺の言葉に、ゆりは即座に返した。
「すぐに分かると思うよ。それなりに覚悟しておいて、危険を感じたら逃げられるようにね?」
「ゆり、お前まだあいつが俺に害を与えるかも、とか思ってるのか?よっぽどそんな事は無いと思うぞ」
「それでも、念の為だよ。念の為」
そう言ってゆりは話を打ち切り、普段のように他愛もない無駄話をする方向へと自然と方向転換していった。
いつも通り俺とゆりは適当すぎる会話のボールを適当に投げ合い、夕飯の後に研究室へと向かい眠りについた。
その日、予知夢は無かった。




