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十三

 増水した川が、不気味なほど茶色く濁った水をゴウゴウ押し流している。雨足はいつの間にか弱まり、風のない空から音もたてずに霧雨が降っていた。あたりには薄もやが立ちこめ、レースのカーテンを引いたように白くかすんで見える。

 どれくらいそうしていたのか、わたしはひとりぼっちで橋のうえにいた。欄干にもたれ、眼下を濁流となって奔る渡良瀬川の水面をぼんやり見つめていた。観光名所にもなっている橋だけど、天気のせいかひと影はまばら。もちろんそばにだれかいたって、わたしの存在には気づかないだろうけど。

 どうしても気持ちの整理がつけられなかった。自分がもう死んでしまった人間だなんて、だれがそんなことすんなり受け入れられるものか。

 でもわたしが幽霊なら、退院してからみんなに無視されつづけた理由も分かる。ようするに気づいてもらえなかっただけ。そもそも、わたしは退院なんてしていないのかもしれない。そのまま病院のベッドで、十五年足らずの短い生涯を終えたのかも……。

 ポッ、と視界のはしに小さな火がともった。いつの間にかトムがとなりにならんで、たばこに火をつけていた。

「この橋って、むかしは自殺の名所だったらしいぜ」

 トムの吐き出したけむりが、コーヒーに流し込んだクリームみたいに白くうねった。

「ふうん」

「たしかにここから見おろす眺めはヤバいよな。気持ちを強く持っていないとスーって吸い込まれそうになる。でもおれは飛び降り自殺なんて勘弁してほしいね。そんな死にかたはご免だ。おれはもっと格好良く死にたいよ。たとえば、悪いヤツらとの激しい銃撃戦のはてに命を落とすとかさ」

「あんたメキシコ行って麻薬カルテルの構成員とでも渡り合ってきなよ。だいたいわたしを置いてさっさと逃げるようなチキンに、格好良い死にざまなんて無理だと思うけど」

「逃げたなんてひと聞きの悪い。おれはずっとジュリアのそばにいたぜ。おめーにその姿が見えなかっただけさ」

「あんたも……やっぱ幽霊なんだよね?」

 トムの目をのぞき込んで訊いてみた。でも答えはなかった。眠そうに目を細め、ため息と一緒にけむりを吐いただけ。

「もしかして、むかしあの用務員さんを助けた不良って、あんたのこと?」

「ばーか、違げえよ」

 たばこを指先でピンとはじく。ホタルみたいにちっこい光の尾を引きながら、吸いさしのたばこはゆるい放物線を描いて見えなくなった。

「そもそも、おれ幽霊じゃねーし」

「ウソばっか。生きてるひとにはわたしの姿が見えないんだよ」

「いやマジで幽霊とかじゃないから」

「じゃあなによ? 妖怪? 宇宙人? 超能力者?」

 そう詰め寄ると、トムはゆっくりわたしのほうを向いて言った。

「おめー、イマジナリーフレンドって知ってる?」

「なにそれ?」

「知らねえはずないんだけどなあ。なにせ、おれの知識はジュリアの知識でもある」

「どういうことよ?」

「おれは、おめーの心が作りだした想像上の友だちってこと」

「はあ?」

 言ってる意味がぜんぜん分かんない。からかっているのかと思い、トムを軽く睨みつけてやった。

「イマジナリーフレンドっていうのは、小さな子どもがひとり遊びをする過程で、無意識のうちに作り出してしまう想像上の話し相手のことだ。作った本人にはちゃんと実在してるように見えるし、声だって聞こえる。触れたときの感覚もたしかにある。でも実際には存在してねーから、他人にはその姿はいっさい見えないってわけ。あの用務員のおっさんだって、おれの存在にはまったく気づいてなかったはずだぜ」

 言われてみればたしかに、あのときトムはおじさんからいっさい話しかけられていなかった。

「イマジナリーフレンドとしてのおれが作られたのは、おめーが三歳のときだ。場所は、家の近くにあった公園。そこでおめーは、遊び相手のいない寂しさから、想像力で、そこには存在しないはずの架空の友だちを作りあげたんだ」

「なんか胡散くさい話ね。三歳のわたしに、あんたみたいな不良を思い描けるとは思えないんですけど」

「イマジナリーフレンドがどんな姿で見えるかは、作った本人の精神年齢にもよる。当時のおれは、おめーのことをジュリアではなくこう呼んでいたぜ」

 トムが、ふにゃっと笑った。

「ふーちゃん」

 あっ。

 夏の公園。ぎらつく太陽。砂場のお城。

 とつぜん、昨夜見たあの夢の情景が次々と頭をかすめた。そして幼い声を思い出した。

 ――ふうちゃん。

 まさか。

「トムってのは、おめーが二歳の誕生日に買ってもらったネコのぬいぐるみだ。それがそのまんま、おれの名まえになった」

 ああ、思い出した。丸っこい顔のドデカぬいぐるみ。わたしがしっぽの毛をみんな毟っちゃうんで、手のとどかないタンスのうえにずっと飾られてたヤツだ。そうか、あのぬいぐるみがトムの正体だったんだ。

 かき氷にかけたシロップみたいに記憶がじわじわと心のなかへ染みてくる。胸が締めつけられ、なんだか妙に心細くなる。鼻の奥にツンと甘酸っぱい痛みがこみ上げ、いっそ泣いてしまいたいような不思議な衝動にかられる。

「イマジナリーフレンドは、作った本人に現実の友だちが出来ると、その役目を終えて消える運命にある。おれがジュリアと遊んだのも、せいぜい幼稚園にあがる年までだ」

「じゃあ、どういう風の吹きまわしでまた現われたわけ?」

「決まってるだろ。おめーがひとりで寂しそうにしてたから、可哀想に思って出てきてやったんだ」

「ふん」

 なんだか急にバカらしくなって、ふたたび川面へ視線を落とした。幽霊は水場を好むっていうけど、わたしはパスだな。水ってなんだか怖い。もし地縛霊になるなら、ファッションビルかテーマパークが良いや。そこで仲良さそうなカップルに取り憑いてデートの邪魔をしてやる。

 トムが二本目のたばこをくわえて言った。

「けど、もう安心して良いぜ。おめーはじきに、もとの生活を取り戻す」

「……え?」

「見ろよ、おれのからだ、だんだん透けてきてるでしょ? ジュリアはもう、おれを必要としなくなってるわけ」

「それ、どういうこと?」

 トムの横顔をのぞき込んだ。雨空をぼんやり見上げるその姿は、なんだかすごく寂しそうだった。それに影が妙にうすいことにも気づいた。彼という存在がしだいに現実味を失いかけている。まるでテレビの液晶画面を通してその姿を眺めているような気になってくる。

 ああ、やっぱりこのひとは実在しないんだ。

 そう思うと、不意に強烈な寂しさに襲われた。彼のシャツのそでをぎゅっとつかむ。ごわごわのコットンシャツは、しかしレースのハンカチよりもまだ頼りない手ごたえを伝えてきた。すでに、ぼんやりと輪郭を失いはじめたトムの顔が、ゆっくりとたばこのけむりを吐いた。

「用務員のおっさんも言ってたじゃん。本来きみがいるべき場所へ帰りなさいって」

 わたしの頭にポンと手を乗せた。

「おめーは、まだ死んだりしねえよ」

 トムが笑った。

 突然、光がはじけた。

 まぶしくて思わず目を閉じた。

「トムっ?」

 薄目を開けると、光りのなかをサラサラと砂のお城のようにくずれてゆくトムの姿があった。からだが形状を失い、細かい粒子となってこぼれ落ちてゆく。わたしは息を飲み、あわてて手ですくい取ろうとした。でもダメだった。トムだったものは、わたしの指のあいだをすり抜けて、砂時計の砂のようにまっすぐ足もとへ落ちていった。

 サラサラサラサラサラサラ

「ちょっと、なんでよ……どこ行くつもりよ……まだ、ここにいたらいいじゃん」

 怒りと悔しさで声が震えた。

 ひざからちからが抜けてその場にへたり込む。素足の部分がざらついた砂の感触を味わった。見ると、足もとまでびっしりと砂が積もっていた。

 頭上からワシャワシャと蝉の声が降ってくる。

 キィコ、キィコ、キィコ

 ブランコをこぐ音。

 走り回る子どもたちの笑い声。

 金属バットがボールをとらえる響き。

 いつの間にか、あの夢のなかで見慣れた公園の砂場に来ていた。

 目のまえに男の子の顔があった。Tシャツのど真ん中にプリントしたくなるような、まん丸い顔。そのこげ茶色の瞳が、じっとわたしを見ていた。

「さあ、ここからだっしゅつするよ。ふうちゃんのほったトンネルで」

 わたしはコクンとうなずき、目のまえにさし出された小さな手をぎゅっとつかんだ。



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