葵 4
「疲れた。ねえ、少し休憩しようよ」
瑞葉は前を歩く健に向かって声をかけた。
「ねえってば」
「休憩ならついさっき取っただろう」
振り返りもせず言う健に、瑞葉はむっとした。
瑞葉は別に特別体力に自信がない訳ではないのだ。しかし、コンクリートで舗装された道しか歩いたことのない瑞葉にとって、歩き固めて均しただけの山道は道と呼べるものではなかった。さらに、今の瑞葉の格好は北野姫の館の人が着るものを着ていた。慣れない着物は動きづらいことといったらない。
「だって私は山道も旅も慣れていないんだもの」
「川上に行きたいと言ったのは瑞葉じゃないか。北野姫を説得するのは大変だったんだぞ」
「健だってそれで良いって言ったじゃない」
そっけない返事に、瑞葉は、相変わらず前を向いたままの健の後頭部を睨みつけた。しばらくそうしていたが、健にこれ以上この話題について返事をする気がなく、休憩を取る気もないらしいことが分かると、あきらめて別の話題を探した。会話をして気をまぎらわさないとやっていられないのだ。
「それにしても、北野姫とはまた気まずくなってしまったわ」
説得が大変だったという健の言葉で、瑞葉は館を出る前のことを思い出した。また愚痴かと思った健だったが、瑞葉の言葉を聞いて、何のことか分からないという顔をした。
「北野姫と?何かあったの?」
「あったわよ。健もさっき言っていたじゃないの。北野姫の占いとは違う方角へ行くことにしたから、姫が怒ってしまって大変だったって」
「それは覚えているよ。でも、それでどうして気まずくなるんだ?最終的には俺たちが北へ行くことを許可してくれたじゃないか」
今朝のできごとは健の中ではすでに解決していて、特に問題ではないのだった。しかし瑞葉にとっては事情が違う。ふたりで雷神の森へ行ってから、どうも北野姫に話しかけづらくなってしまった。もともと巫女然とした佇まいが彼女に近寄りがたくさせてはいたが、初めて会った夜などは今よりもう少し気安い雰囲気だったように思う。
「私、北野姫とは仲良くなれない気がする」
瑞葉は情けない声を出した。
「そうなの?」
対する健はどこまでものん気だ。
「でも、そうだな。それも仕方ないことなのかもしれないな」
「どういうこと?」
「北野姫は雷神の巫女だ。巫女の一族に生まれて、彼女の叔母も、そのまた叔母も巫女だったらしい」
「そうなんだ」
「うん。そんな一族に生まれた北野姫は、生まれた瞬間から巫女として育てられた。雷神のことだけを考えて今まで生きてきたんだよ。これはもう恋に近いんだろうね。自分が一番、雷神を慕っていると」
のんびりとした口調で健は続けた。
「だけど、瑞葉、君が現れた」
「え?」
「北野姫は雷神に会ったことがない。彼女が生まれるとうの昔に雷神はどこかへ隠れていまっていたから。でも彼女はどうしても自分の主に会いたかった。未来から俺を呼び出すほどに。主のいない巫女は一体どんな気持ちなのか、俺には分からないけれど」
それは、瑞葉にも分からない。けれど、健がなぜ北野姫に協力をしようと思ったのかは、なんとなく分かるような気がした。
「そこへ瑞葉が現れた、普通の者は入れない雷神の森に。そして雷神と会った。驚いたよ、俺たちがどんなに探しても見つからなかった雷神とあっさり会ってしまうんだから」
「ごめんなさい」
瑞葉は思わず謝った。
「気を使わせたならごめん。瑞葉が謝ることじゃないんだ。君のおかげで雷神を見つける希望が生まれたんだから。だけど、自分が雷神を見つけ出したいという北野姫の気持ちも分かってやってくれないかな」
その気持ちは瑞葉にも理解できた。健の言う通り、北野姫は恋をしているのだろう、主である雷神に。彼女のために自分ができることは、何が何でも雷神を見つけ出し、彼女のもとへと連れて行くことだと思った。
瑞葉は空を見上げた。山の木々の葉の隙間に青い空が見えた。
(できるかな、私に)
健に気付かれることなくひとり決意を新たにした瑞葉の耳に、再びのん気な声が聞こえた。
「とは言え、ふたりは女同士なんだから大丈夫だろう。仲良くなれるよ」
(女同士だから問題だと思うんだけれど)
やっぱり健は何もわかっていない、と瑞葉は思った。
一転して無言になった瑞葉を誤解して、健が休憩しようと提案したのはしばらくしてからだった。別に瑞葉はしゃべれないほど疲れ果てていた訳ではなく、ただ考え事をしていただけなのだが、敢えて誤解を解く必要もないと思い、そのままにしておいた。
健が少し周りの様子を見てくると言ったので、瑞葉はちょうど良さそうな石に腰掛けて健を待つことにした。
ひとりになると、急に辺りが静かになった。周りには背の高い木が鬱蒼と茂り、瑞葉を見下ろしている。山の空気は冷たくて、木や土の匂いを含んでいた。今いるのは普通の山にも関わらず、瑞葉は自分が神聖な場所にいるように感じた。
しばらくそうしていると、どこかで水が流れる音が聞こえた。瑞葉は音のする方へ行ってみることにした。
(健が戻って来たら私のことを探すかもしれない。でもそんなに遠くへ行かないから大丈夫。少し見に行くだけ)
茂った草をかき分けて行くと、突然拓けた場所に出た。そこには小さな泉があり、瑞葉が聞いた音はこの泉に瑞が流れる音のようだった。
瑞葉は泉へと近づいていくと、その淵に膝を付いた。水をすくおうと伸ばした手は、泉の水に触れることなく止まった。水面に映っているのが見慣れた自分の顔ではなく、知らない少女が映っていた。
振り向くと、いつの間にかすぐそばに水面に映っていた少女が立っていた。少女は瑞葉の顔へと手を伸ばすと、驚く瑞葉にはお構いなしに、鼻がくっつきそうな距離でこちらを見つめてきた。
少女は美しい娘だった。肩より上の位置で髪を切りそろえ、意志の強そうな瞳をしている。その瞳が幼い子供のようにも老成した老人のようにも見えるため、何とも奇妙な雰囲気を醸し出していた。
「こんにちは」
少女があまりに自分を見つめてくるのが居たたまれなくて、瑞葉は少女に声をかけた。が、しかしそれは見事に流され、少女は聞こえていないかのように黙ったまま動かなかった。
困り果てた瑞葉がここから逃れる方法をこっそり探し始めたとき、ふいに少女が首を横に傾げた。
「おまえは珍妙な顔をしているな」
突然の暴言に瑞葉は一瞬何を言われたのか分からなかった。ぽかんと口を開けて、外見から想像したのより低めの声だなあと、やや的外れな感想を浮かべた。
「私の顔と全然違う。なぜ?」
少女は心の底から不思議そうな顔をした。
「それは、私はあなたみたいに美人ではないですけど、初対面でいきなり失礼じゃないですか」
徐々に思考が状況に追い付いてきた瑞葉は、むっとした口調で返した。
まったく、今までの人生で出会った人の中で一番失礼な人物だ。だいたい、自分は少女ほどの美人ではないにしても、珍妙と言われるような顔ではないはずだ。ともだちからはかわいいと言われることもある。よくある女同士の友情の一環だとは分かっているが。
「まるで私と別の者だな」
瑞葉の言ったことなどまるで聞いていなさそうに少女は続けた。
「そうよ、あなたと私は違う人間だもの」
「そうか、やはりお前は人間か」
ここで初めて瑞葉は何かおかしいと気付いた。が、その何かが分かる前に少女がふと目をそらした。
「それもそうだ。こんな所にあれがいるはずはない」
そうつぶやくと、少女は瑞葉に興味をなくしたようにどこかへ歩いて行ってしまった。
ひとり残された瑞葉は、かなり時間が経ったことを思い出し、慌てて健の元へと戻った。
戻るとすでに健は帰っていた。勝手にどこかへ行ったことにさんざん小言をもらって、瑞葉はしっかり反省させられた。さっきの少女のことを言おうかと考えたが、
(最近おかしな人にばかり会うから、なんだかもう慣れてきちゃった)
と思ったので、別に隠すつもりは全くなかったのだが、結局少女のことを健に言うことはなかった。




