1. ネフェリア、覚醒する
ネフェリアは急に目が覚めた思いで、瞬きを繰り返した。
一瞬、自分がどこにいるのか把握できず周りを見渡す。すぐに見覚えのある光景が視界に入ってきて、ホッとした。ネフェリアは、自身が通っている王立学校の廊下にいた。手には籠を提げている。
「……」
無言で視線を正面に戻すと、目の前には容姿の整った金髪に碧眼の青年が佇んでいる。
「ネフェリア。何度も言わせるな。僕は素人の作ったものは食べない」
青年は苛立たしげに顔にかかった髪を払いのける。妙に気取った仕草だった。形の整った眉を顰めてネフェリアを見下ろしている。
ネフェリアは今、自分がどこにいて何をしていたのか、すべてを思い出した。
それからネフェリアを蔑む貴族の青年を憮然として睨み返した。
(嘘つき)
ネフェリアは心の中で、青年――ネフェリアの婚約者であるセディアスを責めた。
セディアスが平民の可愛い女生徒から手作りの菓子を受け取り、さらに二人で密かに逢瀬を重ねていることを知っていた。
手に提げた籠の中には、ネフェリア手製のサンドイッチが入っている。セディアスに食べてもらおうと朝早くから起きて用意したものであった。
「わかりました。もう二度と作ってきません」
わざと丁寧な言葉を用いた。ネフェリアはきゅっと唇を引き結ぶ。
いつになく聞き分けのよい婚約者をセディアスは訝しんだが、それだけだった。
「……相変わらず可愛げのない」
去ろうとした背に、心無い言葉が投げかけられる。
ネフェリアは構うことなくその場をあとにした。
学校内の人気のない庭のベンチに座ったネフェリアは静かに涙を流し始めた。
婚約者に拒絶されたせいではない。
これから起こるかもしれない悲劇を、訪れるかもしれない未来を知ってしまったためであった。ハンカチを取り出して目元を押さえたが、とめどなく涙が溢れ出てくる。ハンカチはすっかり濡れてしまった。
今日、ネフェリアは昼食へ誘うために、学校の廊下で婚約者のセディアスを呼び止めた。セディアスとの仲は早くから冷え切っていたが、少しでも関係を良くしようとネフェリアは努めていた。セディアスがネフェリアの誘いを断ったそのとき。時間にすればほんの一瞬、刹那のあいだにネフェリアは白昼夢を見た。夢というには、それは実に生々しく真に迫っていて、痛みも怒りも恐怖も悲しみも存分に味わった。それが、これから本当に起きる出来事なのだと確信めいた思いを抱かせるには十分であった。
一通り涙を流して落ち着いた頃、膝の上に抱えた手提げ籠に両手を添えた。
(私ひとりで食べようかしら)
時間はちょうど昼時である。学校には食堂があるが、今さら行く気にはなれなかった。目元が腫れていてきっと酷い顔をしている。友人や、万が一にも、セディアスと鉢合わせすることは避けたかった。
予知夢の内容を改めて思い出す。未来のネフェリアは、悲惨な人生を送っていた。涼しい風がそよぎ、明るい木漏れ日が揺れる穏やかな庭とは対照的に、ネフェリアの気分は暗く沈み最悪だった。
「……冗談ではないわ」
絶対にあのような未来を実現させない。
ネフェリアはそう決意して両手に力を込めた。そのための努力は惜しまないつもりだった。傲慢で我儘で、よく癇癪を起こすと言われる性格も変えていかねばならない。ひとり考えを巡らせた。
しばらくのあいだ、静寂がネフェリアの周りを包んでいた。
「ご主人様」
ネフェリア以外、誰もいないはずの空間に突然声が響いて、ネフェリアはハッとした。声の出どころにすぐに見当がついて、視線を下に落とした。
地面に落ちたネフェリアの影から突然、人の腕が伸びる。
傍から見れば恐怖でしかない現象をネフェリアは驚くでもなく冷静に眺めた。
「ご主人様。いらないなら、それを俺にちょうだい」
影から伸びた手が、ネフェリアの抱えた籠を指し示した。
「……ベルゼ」
ネフェリアはわずかに怒りを滲ませながら声の主の名前を呼んだ。
「これが欲しいなら、そこから出てきなさい」
ジトリと影を睨み付ける。
「影の中で食べるなんて、はしたない真似は許さないわよ」
ほどなくして、影が蠢き始めた。そこから黒い塊が起き上がって人の形をとる。黒い霧が晴れて褐色の肌の青年が姿を現す。貧相な体を隠すように真っ黒なローブを纏っている。髪はぼさぼさで、地味な顔立ちの目の下には濃い隈ができている。
ベルゼは暗く淀んだ目を瞬かせた。
「俺に食わせるくらいなら、ネズミにでもやったほうがマシだ、とか言われると思った」
「……」
以前の私なら、そうしていたでしょうね。
自嘲の言葉を飲み込んで、ネフェリアは隣に座るようにベルゼを促した。
ベルゼが隣に腰を下ろしたところで、ネフェリアは籠からサンドイッチをひとつ取り出した。少しためらってから、上半身をベルゼの方へ向ける。
「はい。あーん」
ベルゼはネフェリアの顔と差し出されたサンドイッチを交互に見比べてから、不気味そうに顔を歪めた。
「なにか不満でも? さっき泣いている私を慰めなかった、薄情な下僕に手ずから食事をめぐんであげているのよ?」
「前に落ち込んでいるときに慰めようとしたら平手食らわせたくせに…」
「前は前。今は今よ」
「傲慢女」
「な……」
下僕の暴言に声を荒げそうになるのをこらえた。ネフェリア自身も勝手だという自覚がある。これから変わろうと決意した矢先に、暴力に訴えては台無しだ。怒りにまかせて力を込めたせいで、パンの形が崩れてしまった。形の歪んだそれを静かに籠の中に戻した。
こほん、とひとつ咳ばらいをしてどうぞ、と籠ごと差し出した。対するベルゼは、堂々と悪口を言ったはいいものの、今になって怯えながらネフェリアの顔色を窺っていた。恐る恐る籠を受け取る。その態度が余計に気に食わない。フン、とそっぽを向いた。
(所詮は卑しい貧民出よね)
以前はベルゼの粗野な言動や態度を矯正しようと奮闘したが、無駄に終わった。ただ唯一、ネフェリアへの敬称だけは定着させることができた。
ベルゼは籠を受け取ると礼も言わずに蓋を開けて、サンドイッチを取り出している。呆れて咎める気も起きない。ネフェリアは姿勢を戻してベンチに座り直した。




