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忘却

作者: シロトネ

午前四時のコンビニは、だいたい同じ匂いがする。洗剤と、昨日売れ残った肉まんの皮と、床を拭いたばかりの水っぽいアルコール。

レジの人は眠そうで、でもわりと優しい。ホットスナックのケースだけがやけに元気で、ガラスの内側でオレンジ色が強気に光っている。入口を出て右、灰皿の横に青いポストが立っている。貼り紙にはマジックで「忘れたいことを回収します」。連絡先なし。雑。


最初に見たのは春で、そのときは「いたずらかな」と思った。

けど、信じたくないものほど、一度試してみたくなるのが人間だ。ぼくは、たぶん人並みに人間で、今朝は封筒を一枚買って、ボールペンで一行だけ書いた。


――「君と見た河川敷の朝焼け」。


差し込む口は拍子抜けするくらい軽い音で閉まった。中で紙が落ちる気配が腕に残る。

見上げると、空はまだグレー。鳥は寝坊中で、自販機だけが働いている。


家に帰って、押し入れの段ボールを開けたら、写真が一枚、消えていた。

三月のポラロイド。川が桃色に染まって、手前に影が二つ伸びている、はずのやつ。影は一つ分、短くなっていた。画面は平気そうな顔で、空白だけが増えている。

こういう仕組みらしい。世界からは痕跡が消える。でも胸のほうには、ざらつきだけ残る。消しゴムのカスが机の隙間に入り込む感じ。掃除しても、指先にだけくっついてくる。


夕方、古本屋の前で声をかけられた。

「ポスト、使ったでしょ」

声は低め。肩で切った髪、グレーのカーディガン。見覚えがあるような、ないような。ぼくが頷くと、彼女は「時間ある?」と言って、店の地下に続く細い階段を指さした。段差が微妙に合ってなくて、降りづらい。


「拾い屋をしてるの」

地下はコンクリートの匂い。除湿機がぶうっと鳴っている。テーブルの上に古い手帳が積まれていて、端がすこし波打っている。

「回収のとき、こぼれるのがあるの。風に飛ばされたり、濡れて滲んだり。私はそういうのを拾って、置いておく。持ち主が来たら返す。来なかったら、ここに寝かせておく」


「忘れたいのに、返すの?」

「立ちっぱなしの人がいるから」

彼女は少し笑う。「忘れたい」と「忘れたくない」の境目で、ずっと突っ立ってる人。足が痛くなるから、どこかに腰かけてもらったほうがいい。そういうイメージ。


笑い方に、既視感があった。目尻の寄り方、声の落とし方。思い出そうとすると霧が濃くなる種類の懐かしさ。

テーブルの隅に、白い封筒が一つ。ぼくの字だった。間違いない。書き出しの「君」の角度に癖がある。


「さっき拾った。多分、あなたの」

封はまだ閉じている。差し出す指が、紙の重さを知っている人のそれだった。

「開けるかどうか、決めるのはあなた」


ぼくは封を開けなかった。たぶん、開けたら全部終わる気がして。終わらせる準備が、今日のぼくには足りなかった。

かわりに、どうでもいい質問をした。「どうして、拾い屋なんて」


「たいした理由はないよ」

彼女は天井を見た。「誰かの“忘れたい”を机の上に並べていると、ちょっとだけ救われる人がいる。私自身も、そうだったから。……それに、拾わないと、風でほんとにどっか行っちゃうからね。ポスト、意外と口がゆるいの」


彼女の冗談に、ぼくも少し笑った。笑いながら、胸の内側で、去年の八月の曇り空が重たくなる音がした。

帰り際、彼女は「またおいで」と言って、階段の一番上の段差に気をつけるように教えてくれた。確かにそこだけ高い。誰かが余談で板を足したみたいに。


夜。部屋で封筒を胸ポケットに入れたり出したりして、結局、机の上に置いた。

携帯のメモを開くと、見覚えのない一行があった。

“八月十四日、屋上。”

通知は切られている。いつ書いたのかもわからない。

十四日は明日。屋上は、多分、学校の。

窓の外で風がカーテンを吸ったり吐いたりする。眠れない夜は、だいたいカーテンが働き者だ。


翌日、四階の非常階段を上がる。扉は思ったより軽く、開けた瞬間に白い光が肩に落ちた。

屋上には誰もいない。フェンスの向こうで、夏の雲が遅れて動いている。下のグラウンドから、歓声が一拍遅れて届く。

ぼくがフェンスに額をつけていると、「やあ」と背中から声がした。


振り向くと、昨日の彼女。風で髪が少しほどけて、肩に光の粉が乗っていた。

「ここで会う約束をしてたみたいだよ、私たち」


「ぼくと、君が?」

「去年」

彼女はうなずく。「正確に言うと、あなたの“誰か”と、私。あなたは来なかった。来られなかった、のかも。私は一時間くらい待って、帰った。帰り道で例のポストを見つけた。だから、拾い屋になった」


「ぼくが来られなかった理由は」

「知らないほうが助かることもある」

彼女はそう言って、ポケットから小さなキーホルダーを出した。透明な樹脂の中に、押し花が閉じ込められている。

「これ、あなたが落としたやつ。河川敷で。朝焼けの前の日」


ぼくは受け取らないで、影を見た。フェンスの影は思っていたより薄くて、踏んでも実感が少ない。

「君は、ぼくのことを知ってる?」

「拾い屋は、知っちゃいけないことをいっぱい拾う。私は慎重なつもりだけど……あなたの字はよく見た。笑い方は、一度だけ知ってる」


風が強くなって、会話の端が空に持っていかれる。言葉は残るのに、意味が少し遅れて胸に落ちてくる。

ぼくは、言った。「じゃあ、取引をしよう」


「取引?」

「ぼくは封筒を、しばらく開けない。代わりに、君が覚えてて。君が疲れたら、そのときはぼくに渡して。交代で持っていけば、どっちも潰れない気がする」


彼女は少し目を伏せて笑った。「ずるいね」

「ずるいよ」

「でも、悪くない。長く立ってると、膝にくるから」


彼女はキーホルダーをぼくの掌に置いた。透明の中で押し花が止まっている。

去年の自分がどんな顔でこれを選んだのか、想像してみる。想像は下手だ。すぐに誰かの横顔にすり替わる。それでも、指先の丸い部分にだけ、はっきりした感触が残る。


「八月十四日って、なんか境目っぽいよね」と彼女。

「どうして」

「夏をまだ信じてる最後の日。明日からは、誰かが先に秋だって言い出すから」


ぼくたちはしばらく黙って、フェンスにもたれた。

遠くで雷が鳴った(気がした)。雲が一段暗くなる。

「名前、聞いてもいい?」と彼女。

ぼくは少し考えて、「いらないと思う」と言った。

「名前をつけると、呼べるようになっちゃうから。呼べるのに、来ないのがいちばんこたえる」


「わかった」

彼女はほんのすこし、肩をぼくのほうに寄せた。寄せ方が慎重で、でも自然だった。

ぼくは封筒を胸ポケットにしまい、キーホルダーを指で回した。光が押し花に入って、押し花が光を返す。行ったり来たり。どっちが先かは、よくわからない。


チャイムが鳴った。階下で走る音が重なる。扉に手をかけると、金属が指に冷たい。

「行こうか」

「うん」

扉は軽く、音は小さい。小さい音は、記憶に残りにくい。だから、何度も開け閉めして、体で覚える。


階段を降りながら、ぼくは思った。

忘れたいことと忘れたくないことの境目に、椅子を置けばいい。そこに座って、呼吸を合わせる。立ちっぱなしよりは、まし。膝にもやさしい。

本当に疲れたら、その椅子ごと誰かに譲る。名前のないまま。呼ばないまま。けど、たぶんそれで十分だ。分かる人には、ちゃんと伝わる。


家に帰って、封筒は机じゃなくて、引き出しのいちばん上に入れた。開けやすい場所。開けない言い訳が減るように。

引き出しを閉めるとき、指先に紙の角が当たって、少しだけ痛かった。

こういう痛みは、わりと好きだ。生きてる実感、って言うと大げさだけど、まあ、そんな感じ。

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