彼の愛車とゲロ子
つきあって二か月の彼とデート。
三十歳を過ぎた二人には、それほど緊張する要素もないのだが、私には彼に言えない秘密がある。
乗り物酔いが、ひどいのだ。
公園にある子供用のブランコでさえ、よゆうで酔える。
二分乗れば、その日いちにち私は打ち上げられたクラゲのように地面にへばりつくことになる。
そんな私が、彼の愛車に乗ることになった。
「カナちゃんと、ドライブすることが夢だったんだ」
大げさなと思うが、彼の瞳はキラキラと輝いている。
今さら中学生の時のあだ名が「ゲロ子」だったことなど言えない。
中学の修学旅行で、派手に吐きまくったのだ。
それが理由で高校の修学旅行はパスしたほどだ。
私の吐いたものを見て、つられて吐いた友達は、中学生のあいだ「ゲロツー」と呼ばれていた。
きっと私のことを恨んでいたにちがいない。
助手席に座りながらシートベルトをまわす。
その圧迫感ですら、私の内臓を押し付けて、私の恋を打ち砕くためのトラップに思える。
「だいじょうぶ?」
「あ、はい。だいじょうぶ……」
いつもと違うテンションに気づかない彼は、きっと今日のことを楽しみにしていたんだろう。
ピカピカに磨かれた彼の愛車は、内装までも美しく輝いている。
私が大好きなキャラクターの人形が、目の前でムダに首を振っている。
きっと喜ばせるために置いてくれたんだろうけど、今は逆効果だ。
これほど、このキャラクターを憎らしく思う日が来るなんて、予想もしていなかった。
「じゃあ、出すね」
出す……。
言葉のひとつひとつに過敏に反応する自分を押さえつけながら、遠くを眺める。
背もたれにもたれないように、ゆっくりリラックスして笑顔を絞り出す。
頭の中で「乗り物酔いにならないための方法」がグルグルとまわり、それがよけいに自分が「ゲロ子」なのだということを意識させていく。
「あのコンビニで、学生の時バイトしてたんだよ」
彼の陽気な声が憎らしい。
遠くを見てると酔わない方式を採用して、無理やり遠くを見ている私に目の前のコンビニを指さしてくるのだ。
「ああ……はい」
私の乾ききった声にも彼は気づかない。
いや、もしかしたら気づいてるけど、そっとしてくれてるのか?
もしかしたら、乗り物酔いを疑っているのかも?
車大好きで、愛車を心から愛している彼に、乗り物酔いする彼女は必要だろうか?
私は彼のことが好きだ。
つきあい始めて二か月だけど、四年も前から好きだった。
彼に告白されたとき、どれほどうれしかったか。
「あと、どのぐらいで着く?」
「一時間半ぐらいかな」
やっとしゃべった私に彼は渾身の笑顔で答えてくれた。
まだ、乗ってから十分だ。
あとこれの八倍ぐらい……ダメだ。
乗り物酔いの薬も飲んだ。
空腹がダメだというので、すこしだけちゃんと朝食も食べてきた。
あらゆる手段を使って、私はこの恋を守ろうとしたのだ。
そこから一時間、青ざめた女を隣に乗せた彼は、がんばったと思う。
それ以上に私はがんばったつもりだったけど、彼の小さなため息が聞こえたとき、私の中ですべてが終わったことを知った。
そして決壊が壊れた。
目の前で頭をゆらす人形をつかんだと同時に、私は吐いた。
世界はスローモーションになり、私はマーライオンになった。
シンガポールではなく、彼の愛車でだけど。
彼の美しい愛車も、人形も、今日のために選んだ服も、すべてが染まっていく。
私のゲロに。
遠くで「ゲロ子」と呼ぶ声が聞こえる。
そう、私は「ゲロ子」
恋愛なんてしてはいけない女。
「かなちゃん!」
彼の悲鳴を聞きながら、かたくなに前方を見つめながら、私は最後の一滴まで吐ききった。
涙がほほを伝う。
決してえずいたせいではなく、悲しいのだ。
彼の愛車を汚してしまい、彼の夢を汚してしまった。
私は罪深き女。
路肩に止めた車の横で、号泣する私の口元を彼が拭いてくれる。
これが最後のやさしさかと思うと、さらに涙と嗚咽がとまらない。
「今までありがとうございました」
私が泣きながらこんな「ゲロ女」からは解放しますと宣言すると、彼は笑いながら抱きしめてくれた。
私の胸元のゲロが服についたとき、一瞬表情が消えたが、その後はいつも通りの優しい顔だ。
「車に酔うなら言ってくれたらいいのに。そんなことでカナちゃんのこと嫌いにならないよ」
声にならない声で、彼の愛車と無残な助手席を指さすが、彼は微笑んだままだ。
私は彼を失うこともなく「ゲロ子」のままで、生きていても大丈夫らしい。
帰り道にもう一度吐いたけど、窓を開けながら彼は涼しい顔だ。
彼の心の大きさに、一生ついていこうと誓った。