取り引き
昔から思ってたが、大人は子供に対する敬意が足りてない。
子供が大人を想像出来ないのは仕方ないとして、大人はもう少し子供の頃のことを想えないものか。
幼い頃、極度に褒める大人に対して違和感を覚えたことがあった。
大人になってみて、子供とそう変わらないのを思い知るように、子供は思っている以上に大人だ。
その点の理解度が、俺は他人と違う。
──だから、読めた。
*
5月に入り、ようやく校長の件のほとぼりが冷め、日常が戻りつつあった。
そんな折、微笑ましく、しかし、諸悪の根源となるクラスの一大トピックが起こった。
ある男子生徒が女子生徒の落とした消しゴムを拾ってあげた。
それだけ。可愛い話。問題は──その両者。
翔と瑠衣。つまり人気者とニューヒロイン。
モテる男子とモテる女子の美しい交流、おおよその見方はそうだった。
そして、一部男子たちにはそれが面白くてしょうがなかった。
イライラが収まらない芽衣。
火種が燻っている。皆の予想は的中し、そのピリついた空気の濃度が増した。
──楠見やばいじゃん? 王子さま取られちゃうぞ!
火に油を注ぐお調子者の軽口で沸く教室。
怒りの矛先は、言った当人から一緒にいて笑っていた下位軍に向けられ、今度は下位同士での喧嘩に発展し、ことあるごとにクラスが荒れた。
オタクグループの仲川らはこう危惧する。
「うーん。最近ちょっと、まずいね」
仲川が頭を掻く。
「楠見の奴はいい気味だけどさ、いい加減おちょくんのも止めてほしいよな。俺もこないだくだらねえ喧嘩しちまった」
鎮西も参っている様子。
「僕も班の女子と揉めかけたけど、仕方なく折れてムダな掃除を引き受けた」
「要は楠見の八つ当たりだろ? 勘弁してほしいわ」
「思うに、このヒエラルキーは大きくバランスを変えるんじゃないかと」
「どういうこと?」
「現時点で松木くんも一ノ瀬さんも上位に位置してはいるが、その仲間に彼らのことを良く思ってない者が数人いる。まして一ノ瀬さんは来たばかりの他所者。楠見さんは確かにあの圧力で僕たちには好かれてないだろうが、その数人には支持されている節もある」
「するとそいつらが結託して松木や一ノ瀬のことをハブったりして──」
「何の話?」
その声に仲川と鎮西は驚き、慌てて話を止めた。
瑠衣がいきなり会話に入ってきたのだ。
「あ、ああ最近クラスが荒れてるよなって」
目をぱちくりさせどうにか平然を装う鎮西。
「ああ、ね。芽衣ちゃんがすっごく怒ってるみたいだけど……そんなに私のことが嫌いなのかな?」
「一ノ瀬さんのことが嫌いってより、妙に優しい松木くんに対する反発じゃないかな」
仲川が上手く応える。
「ふーん……翔くんってみんなに優しいし人気者だもんね。かっこつけても笑いも取るって感じで」
「そうそう、まあその感じが男的には気に入らなくて気取ってんじゃねーみたいにも思ったりするけど」
「そうなの? 難しいね。私も、翔くんのとはまた違うと思うけど、よく気取るなって煙たがられたりするの。でも別に気取ってなんかないし、それを羨ましいと思うんなら真似すればいいじゃんって思うんだけど」
仲川と鎮西は一瞬目を見合わせて、互いに内心思った。
──その真似が出来たら嫉妬しねえよ。
「ま、あの消しゴムを落とすテクニックは果奏ちゃんに伝授してもらったんだけどね。ほら、国語の小テストのいちばん静かなタイミングでさ。翔くんは斜め後ろでちょっと遠いでしょ? だから結構苦労したんだあ。なるほど、こうやって注目を集めるのか〜って感心しちゃったよね!」
「え」
今度ははっきりと顔を見合わせた。
「あ、ごめんね、急に話に割り込んじゃって。また何かあったら相談したりするかも」
「お、おう……」
サッと来て、サッと離れる瑠衣。また次のグループへ。
「情報収集……。おそらく僕ら底辺の人気を獲得しているんだろう」
言いながら仲川は、瑠衣の名を刻んだおまじないの消しゴムを、バレぬように急いで筆箱に仕舞った。
*
「おう! 言った通り給食は少なめにしたか?」
いつも通り誘われた放課後、藤島は平田の車に乗り込んだ。
車中には美味しそうな匂いが立ち込める。
「あ、ああ」
平田はやけに嬉しそうで、少し気味が悪かった。
「後ろを見てくれ。どうだ、ケンタッキーだ!」
後部座席には大きい袋が並んでいた。輝かしいカーネル・サンダース。
言われた通りに給食を減らしたせいで見るだけで涎が出てくる。
「これはその……?」
「藤島は色々頑張ってくれてるし、今日はパーティだ。まあ車で食うのもなんだし家でも来ないか」
行って大丈夫なものか。また脅されたりするんじゃ……?
不安は隠せないが、食欲にも勝てない。逃げようのない香ばしい油とスパイスの香り。
「これが言ってたご褒美……?」
「そうだぞ。ケンタッキーは好きだろ?」
「いや、まあ」
このご褒美は喜んで良いものか?
今すぐにでもオリジナルチキンにかぶりつきたい一心だが、これがその見合うご褒美と言えるのか。
真剣に考えれば考えるほどニンニクの馨しい香りが鼻をくすぐる。こんな安易な……しかし誘惑に勝てない。
「どうした、好きじゃなかったか? それならまあ……今日の夜食に回すか」
「いや食うけど。食うけどさ……これをご褒美というか、その、なんていうか」
「ん?」
「いやケンタッキーって。嬉しいけど、別に食おうと思えば自力で食えるだろ? そうじゃなくて、だから例えば、先生にしか出来ないような……テストの答えを教えてくれるとかそういう」
「ほう、確かにな。じゃあ……ケンタッキーは保留、と」
「いや、いやいやいや今日は食うけど。だって今日カレーだったのを我慢したのにさあ」
「食うんだろ」
「クリスピーもある?」
「もちろん」
今日は様子見か……。
「まあ近いうちテストするから。この次な、そういう黒い取引は」
微妙に意味を図りかねた。
「ふーん」
車は平田宅を目指し、二人はケンタッキーに胸を躍らせた。
藤島は不思議そうに、運転する平田の横顔をまじまじと見つめる。
「なんだ」
「片目しか見えてないんでしょ? よく運転できるなあって」
「すぐ慣れる」
「そういうもん?」
「ああ。それより最近クラス荒れてないか? 困るんだよなあ。しょっちゅう誰かしら喧嘩してるし」
「主に楠見が暴れてんだ」
「あいつか。いつも仕切ってるもんな。しっかしあの子は……なんでああ偉そうなんだ? 顔だって特別……」
「それさ、嘘か本当か知らないけどこんな噂聞いたことがあって。実は、楠見の叔母さんと校長が不倫してるって! いや実際のとこマジかどうか分かんないけど」
「だから周りが逆らえないって?」
「いやそうじゃね? 校長に贔屓されてるっていう」
「でもじゃあ死んでその楠見の盾は壊れたも同然じゃないのか?」
「だから当たり散らしてんじゃん? っていうかまさかだけど……」
「ああ?」
「先生が殺したんじゃないよね?」
長い間があった。
前を向いたまま黙っている。
うわ地雷を踏んだか? と思った次の瞬間、赤信号をギリギリで無視してアクセルを全開にした。
「なんだよ?!」
「これで手離したらやばいことになりそうだよな!」
「おい止めろって!」
平田は笑って、徐々に減速した。
なに考えてんだこいつは?
「殺そうと思ってたけど勝手に死んでくれた」
どこまで本気で言ってるのかよく分からなかった。
ただこの頭のおかしい奴と今後も付き合っていくのかと思うと酷くうんざりした。
弄びやがって。ムカつくんだよクソが。
こいつから離れる策を考えておかなければ──。
*
翌日。
登校時、校庭の陰で津田と真中が出くわした。
「おう、フトシ」
「あ? ああ、おはよ」
離れようと目を合わせず早歩きで逃げようとする。
「まだ続けてる?」
「バカ、もうやってねえよ」
「足洗ったのか」
「……なあ、お前といるとこ見られたくねえんだよ」
「お前の方が上手かったのにな」
「お前みたいになりたくないんだ。悪いけど」
「フトシって渾名だって俺がつけたのにな」
*
昼休み。
「お、津田じゃん。何してんの?」
「い、いや……別になんでも」
藤島がトイレを通りがかったところ、ひょいと津田が出てきたのだが、その様子が明らかにおかしかった。
「なんでもって、スマホ持ってんじゃん」
「あー……藤島だって持ってんだろ? 不良なんだから」
「いや、つかお前いま女子トイレから出てきたろ?」
「そ、そうか? 次、体育館だから早く行かないと」
「ちょっと借せよ」
「お、おい! 離せよあっ」
持っていたスマホを奪い取って画面をタップすると、トイレで撮ったと思しき画像が映し出された。
「お前これって」
「いいだろ別に」
「……え、何? どうやって撮ってんのこれ」
「あー……一番奥の個室はトイレの花子さんの件で誰も入らないのは知ってるだろ? そこで待機して隣の個室を狙って上からとか下からとか」
「うわーキモ……」
「……バラすのか?」
「いや……バラさねーけど──」
言いかけて藤島は妙案を思いついた。
「ちょっと俺の言うこと聞けよ」
「え?」
*
「おい一ノ瀬、落ちてたぞ。はい」
「ありがと」
「お前ってそんな感じなのに消しゴムはすっごい普通なんだな。もっとおしゃれなやつとかカワイイの使ってるかと思った」
えーと、こいつは……ああ、お調子者の藤島か。
拾ってくれたのはありがたいけど、これは、うーんと……。ああ、ね。そういうこと?
「でしょ?? 変かな?」
ちょっとおどけた風で返す。
「いやーギャップがあっていいんじゃね?」
「だってなんでもかんでもカワイイの持ってるのってわざとらしくない?」
「そう? でもさすがにそんな消しゴムいっぱいに名前を書くのは……いくらラベルで隠れてるっつったって」
「なに引いてんの?」
「だって恥ずくね?」
「だってまさか見られると思ってないもん」
「ってことは恥ずいんじゃん」
「まあね」
笑い合ってすぐ別れ、瑠衣は仲川を呼び出した。
「はいこれ」
唖然とする仲川。
「あ、ああ……な、何、この消しゴムは」
「何って、藤島功くんが拾ってくれた私の名前が書いてある仲川太一くんのおまじないの消しゴムだと思うんだけど、違った?」
意地悪な目でニコッと笑って仲川の反応を愉しんでみる。
「あ、何を根拠にそんなこ……えーと」
「じゃあこれ捨てちゃってもいいよね、バレちゃったらおまじないの効果ないし」
「ああ、持ち主がこ、困ると思うから、あ……」
「私のことが好きなのはよくわかったから、ちょっと手伝って欲しいんだけど。当然オッケーでしょ?」
瑠衣は有無を言わさず、小悪魔的感覚で仲川を強引に巻き込んだ。