無理やり離縁させられた王女は、元夫を探すため敵国に嫁ぐことにした
残酷な表現や、暴力・虐待をにおわせる描写があります。救いのあるラストであるつもりですが、ご留意の上でお読みください。
「お願いです! アンセル王子が今どこにいるのか教えてください!」
エルカは思わず、沈黙の禁を破り声を発していた。
今、目の前に立っているのは敵国の王であり、自分の新しい夫となる男だ。――そして妻であったはずの先代女王を手に掛け、数多にいた彼女の夫や愛妾たちまで処刑した冷酷な人間でもある。禁忌を破ってこんな質問をするなど、恐ろしい愚行とわかっていた。
焦燥とかすかな後悔の中で、エルカは男の返答を待った。眼前を覆うベールのせいで男の表情はおろか、伸ばした指の先すら見えなかったが、なぜか彼が笑ったような気がした。
「そんなに知りたいのなら教えて差し上げようか?」
「ご存じなのですか!?」
「あなたの『元夫』ならとうに死んでいる」
「……え?」
「彼は祖国に裏切られたあげく、女王とその愛人たちの手でなぶり者にされ、耐え難い苦痛と恥辱の中で、『元妻』が他の男と再婚したことを知り、絶望しながら死んでいった」
耳鳴りと共に、エルカの頭の中が真っ白になる。男が発する言葉の意味を全身が拒んでいた。
「――エルデリカ王女、あなたの裏切りによってアンセルは死んだのだ」
はっきりと憎しみを帯びた声を叩きつけられ、エルカは膝から崩れ落ちた。
エルカが最初の結婚をしたのは、わずか十四歳の時だった。夫は同齢の隣国の王子で、名をアンセルという。国と国との友好関係を築くための政略結婚であり、まだ子供同然の二人を世間は『ままごと夫婦』と言って笑ったが、自分たちにとってそんなことはどうでもよかった。
アンセルは祖国ムーダでは影の薄い第五王子で、エルカとの結婚話が持ち上がるまで神殿で育てられ、神官として暮らしていた。少し生真面目過ぎるきらいはあるものの、誠実で温厚な性格だった。
生まれてから一度も剣を握ったことがないというだけあって、結婚当初のアンセルは少女のように細身で、声変わりも終わっていなかった。
『頼りがいのない夫ですみません……』
アンセルは事あるごとに、真っ赤な顔で恥じ入るように言った。確かに彼は男らしさや力強さとは無縁だったが、エルカがそれを気にしたことはなかった。ムーダに嫁いだ当初、祖国を恋しがり泣くエルカの手を取り、アンセルは野の花が咲く場所を教えてくれた。幼くつたないが優しい夫に、エルカが恋をするのに時間はかからなかった。
アンセルと寄り添い過ごした時間は、陽だまりのような日々だった。しかしそれは、ほんの一年半で終わりを迎えることになる。嫁ぎ先であるムーダ王国はエルカの祖国を裏切り、敵国と同盟を結んでしまったのだ。エルカは離縁させられ、国に戻されることになった。
『何があっても私はアンセルの妻よ……絶対にあなたの元に戻るから……』
そう言って泣くエルカを、引き寄せて抱きしめる腕の力は思いがけず強く、アンセルが大人になりかけていたことを知った。だが自分たちの運命を変えるには、遥かに及ばないともわかっていた。
祖国に戻り失意に暮れるエルカは、『元夫』アンセルが敵国ゼクセの女王の元へ婿入りしたことを知らされた。それは離縁から、まだわずか三ヶ月後のことだった。
そしてさらに八年の月日が経った頃、エルカは再び人生の転機を迎えようとしていた。
アンセル王子との離縁後、祖国ロレイアで静かに暮らし続けていたエルカの元へ、驚くべき知らせが届けられた。即位したばかりのゼクセ王国の新王が、ロレイアとの和平を申し入れてきた。その条件として提示されたのが、王とエルカの結婚だ。
ゼクセの新王レガルドは、残虐非道な暴君として知られていた女王を打ち倒し、彼女を増長させてきた貴族たちを一掃することで、混迷していた国内を立て直した救国の英雄。――エルカが知ることは、その程度のおおざっぱな情報だけだ。
ゼクセとロレイアは、長年国境付近で小競り合いが続けてきた敵国同士だった。ごくわずかな同盟国を除き、ゼクセは百年以上も鎖国状態にある。隣国とはいえ入って来る情報は少なかった。
ゼクセ側からの申し出はエルカにとっても、宮廷の人々にとっても想定外だった。
ロレイアの王女というだけなら、未婚で結婚適齢期とされる親族の娘が他にもいる。しかし先方の書簡には、間違いなくエルカの本名と称号である『《第一の王女》エルデリカ』と記されていた。それはゼクセが要求してきた唯一の条件であり、絶対でもあった。
長年の戦争で疲弊していたロレイアにとって、出戻りの王女と引き換えにするには、あまりにも破格な条件だ。エルカとしても、ごくつぶし同然の身でありながら、独身を貫きたいという我がままを聞いてくれた、兄王や祖国のために断ることはできなかった。
そしてなによりも、ゼクセに赴けば、ずっと気がかりだった元夫アンセルの消息がわかるかもしれないという思惑があった。
今も彼が、自分への愛を失っていないとは信じている。アンセルの再婚は王子としての立場ゆえ、仕方なかったことなのだろう。同時に誠実なアンセルならば、名目上とはいえ妻となったゼクセ女王に尽くしていたはずだ。
女王が打ち倒された今、傍らにいたはずの彼が今も安寧の日々を送っている保証はない。だが彼は一国の王子でもある。助命されている可能性はまだあると踏んでいた。
そして今、王女としての責務を果たすため、自分もまた愛のない結婚にのぞもうとしている。アンセルともう一度結ばれることなどないと、エルカも本当はわかっていた。それでもただ一目、アンセルに会いたかった。もし彼がゼクセで幽閉や困窮の身にあれば、助けになれるかもしれない。彼の幸せを見届け、「心は永遠にあなただけのもの」と改めて誓う。それが叶えばもう十分だった。
祖国のためにという大義の裏に、振り切れない慕情を押し込め、エルカはゼクセ国王レガルドの元へ嫁ぐ決心をした。
――そして半年後、輿入れのためゼクセの王都へとやって来たエルカは、宮殿の中にある聖堂でレガルド王と向き合っていた。
昨日この地に到着したばかりだが、さっそく婚約の儀を迎えることになっていた。さらに三日後には正式な結婚式が挙げられる。形ばかりの手順を踏むための、情緒の欠片もない流れ作業のような日程だ。
ゼクセの婚約の儀は立会人もなく、聖堂の祈祷台で当人たちが書面にサインするだけの簡素なものだ。エルカは幾重にも薄布を重ねた、薄紫色のベールを頭から被っていた。霧の中にいるようで、近場にある物の影くらいしかわからなかった。
これは本来、婚約の儀に必要なものではない。ゼクセの慣習では、結婚の一週間前から新郎新婦は顔を合わすことも、言葉を交わすことも禁じられている。三日後には結婚式を挙げるため、レガルドとはすでに顔を合わせられない期間に入っていた。そのための処置だ。
当然レガルドの顔立ちまでは見えない。ただ人影から、広い肩回りでそれなりに上背があることはわかる。そして髪の色は金かプラチナだろうか、少なくとも濃い色でないことにエルカは落胆していた。
(バカみたい……わかっていたはずなのに)
ゼクセ王室は伝統的に一夫多妻制、もしくは一妻多夫制だ。レガルドは女王の王配の一人と聞いていた。つまりアンセルと同じ立場ということになる。ここに現れるの新王の正体が、実はアンセルならばと心のどこかで奇跡を望んでいた。
同時に理性では、そんなことは絶対に起こらないとわかっていた。レガルドは自らの手で女王を倒し、軍を率いて国を平定した武人肌の男だ。対してアンセルは殺生を厳禁とする神官の習いを守り、肉や魚は口にせず、羽虫一匹にすら情けをかける優しい少年だった。彼にそんな真似できるはずがない。
なによりアンセルの髪は濃く艶やかな栗色だった。ベール越しでもわかるほど、目の前の男の髪はもっと淡い色だ。
レガルドは顔も見えぬはずの花嫁を、しばらく凝視している様子だった。やがてその腕が動き、ペン先が紙の上を滑る音が響く。しばらくして目の前に置かれたペンの音に、エルカもすぐ手を伸ばした。後に引けないことはすでに決まっている。今更ためらう理由などない。
サインを終えたエルカは、この後どうしたものかと考える。これで婚約の儀は終わりのはずだ。しかし視界を塞がれたエルカは、自分の足でこの場を去ることもできない。
少し迷った後、エルカは貴人を見送る時の作法通り、膝を折り深々と礼を取った。先に王が退室すれば、それに気づいた侍女が迎えに来るだろうと考えたのだ。
「――今朝の王都はひどく冷える」
思いがけずかけられた、低く滑らかな声にエルカは硬直する。王と言葉を交わしてはならないと、お付きの者たちから散々注意されていた。まさかレガルドの方から声をかけてくるとは思わなかった。
(……そうか、禁じられているのは『言葉を交わすこと』だったわね)
レガルドが一方的に話しかけたのであれば、エルカが返答しない限り会話をしたことにはならないはず……屁理屈じみてはいるが。
エルカは姿勢を正し、レガルドに向かって無言のままうなずいて見せた。
「式の日まで息災で」
女王を殺した男。民を救うという大義があったとしても、彼は自分の妻を手にかけたのだ。レガルドのことを厳しく冷徹な人間と勝手に想像していた。しかし彼の声は思いのほか穏やかで、包み込むような度量を感じさせた。
エルカの中にある衝動が込み上げる。――彼ならば、エルカがここで話しかけても大目に見てくれるのではないかと。
(……待って、焦ってはだめ……)
エルカが最初にすべきことは、王からの信頼を得ることだ。それは和平のためにも、アンセルの情報を入手するためにも必要なことだった。レガルドはアンセルとおそらく面識があったはずだ。行方を知っている可能性は高い。
言葉を発しないエルカをしばらく見つめた後、王が身を翻す気配がした。あっ、と思った時には、急く心に耐え切れずエルカは叫んでいた。
「――お願いです! アンセル王子が今どこにいるのか教えてください!」
衣擦れの音で、レガルドがこちらへと再び向き直ったのがわかった。やがてレガルドがゆっくりと口を開いた。その内容はエルカの想像を越えるものだった。重くのしかかる憎悪と残酷な事実に耐え切れず、エルカは床の上に崩れ落ちていた。
※※※※※※※※※※
一方、レガルドは床で泣き崩れている、許嫁となったばかりの王女を冷ややかに見下ろしていた。元夫の身に起きた残酷な運命を知らず、自分一人安寧な場所で生きてきた王女は、レガルドが告げた言葉に打ちのめされ、静かにすすり泣いていた。
それはレガルドにとって待ち望んでいたはずの瞬間だった。しかし虚しさが込み上げるだけで、心は何一つ満たされない。
(どうして……いや、もうどうでもいい……)
レガルドはサインされたばかりの婚約証を破り捨て、このままエルカを国元に帰すつもりだった。
レガルドがこの場を立ち去ろうとしたとき、再び背後から声が上がった。
「裏切ってなどいないわ……」
振り向けば、うずくまったまま、だがベール越しにはっきりとエルカは顔を上げていた。
「それだけは何者に否定させない! 私はずっと……これからもアンセルを愛し続ける。あなたがこの国の王であろうと、夫になる人であってもそれだけは譲らないっ」
見えずとも、彼女の蜜色の瞳が強い光をたたえ、自分を捉えているのがわかった。
王女が負けん気の強く、腹芸など持ちえない人間であることをレガルドは知っていた。だから彼女の元夫は危なっかしい妻から目が離せなかった。同時にその不器用なほどの真っ直ぐさを、何よりも愛しく思っていた。
「私は再婚などしていないわ。ずっと独り身よ!」
その言葉にレガルドの心がざわめく。
「だがエルデリカ王女は四年前に、恋人であった公爵子息に嫁いで……」
一瞬声を失ったエルカが、再び感情を爆発させた。
「それはエリーよ! 私の姪の方の《第一の王女》エルデリカだわ!」
いつだったか、ロレイアでは王族に授けられる名前が数種類に決まっていて、親族の中に同じ名前の者がたくさんいると聞いたことがあった。それゆえ普段は愛称で呼び分けているのだと。
エルカ王女は数年前に退位した先王の長女。そして彼女は現王である兄とは年齢が親子ほども違う。《第一の王女》の称号は王の最初の娘に与えられ、他家へ嫁ごうと終身変わらぬものだ。ならば現ロレイア王家には、《第一の王女》の称号を持つ女性が二人いてもおかしくはない。
――そう考え至り、レガルドは思わず口元を抑えていた。
「本当はわかってた……アンセルが生きてる可能性なんてほとんどないって。でも二度と生きて会えなくたって、私はずっとあの人だけの妻よ。わざと私を傷つけようとした、あなたなんかに心まで渡さない!」
衝撃の告白と、浅ましい感情をあばかれた羞恥に、レガルド声を失う。気づいた時には泣きじゃくるエルカに背を向け、その場を逃げるように立ち去っていた。
その後はどうやって自室へとたどり着いたのかもわからない。一人になったレガルドはよろめきながら寝台に腰かける。そして身を縮ませるように頭を抱えた。
――エルカは裏切ってなどいなかった。ずっと元夫を想い続け、独り身を貫いていたのだ。
(でもだめだ……もう遅い……)
彼女が愛した『アンセル』は、あの純粋で優しく無力な少年は、もうこの世のどこにも存在しない。それは確かな事実だった。
小国ムーダにとって、ゼクセとの同盟は従属とほぼ同義であり、その要求を退けることなどできなかった。
それは八年前のこと、ムーダ国の第五王子であったアンセルは、ゼクセ女王シャーネの要請により彼女の元へ送られた。当時アンセルは十六歳、エルカとの離婚からわずか三ヶ月後のことだった。心が引き裂かれるように辛かったが、祖国と民の行く末を思えば、アンセルに断るという選択肢はなかった。
妻となる女王シャーネは後宮の主でもあった。女王には正式な夫である王配の称号を持つ者だけでも十人以上、愛妾も含めれば百人近くの男たちが仕えていた。一国の王子とはいえ、アンセルはその一人に過ぎなかった。
アンセルには王子としての責任と義務があった。私情を押し殺し、新たな妻となった女王に誠心誠意仕えようと心に決め、後宮での初めての夜を迎えた。
女王の寝室に向かうと、そこで待っていたのは若い男たちと肌も露わに、楽し気に睦み合う女王の姿だった。シャーネはアンセルより三つか四つ年上。少女のような甘さを残した可憐な面立ちだったが、恍惚の表情は手練れの女のものだった。
目の前の光景が理解出ず立ち尽くすアンセルを見て、シャーネはおかしそうに笑いながら言った。
『お前は祖国に売られたのよ。わたくし、他の女から取り上げた物を愛でるのが大好きなの』と。
エルカとの離婚も、その傷が癒えぬ内の再婚も、すべてシャーネにより仕組まれたものだったのだとその時知った。
アンセルは王子として生まれたが、すでに四人の兄がいた。自分が祖国において、政治的価値の薄い存在であることは自覚していた。ロレイア王家との婚姻の話が持ち上がったとき、未婚の王子が自分だけだったので宮殿に呼び戻されたものの、本来なら神殿で生涯を終えていたはずだ。
それでも家族に肉親の情はあると信じていただけに、彼らの裏切りはアンセルに強い衝撃を与えた。
シャーネは愛妾の男たちに命じ、呆然としているアンセルを力づくで押さえつけると、彼らと共にその身を玩具のように弄んだ。
耐え切れぬ苦痛と恥辱に、意識を失いかけるたびに暴力で引き戻された。それまで陽のあたる場所しか知らなかった王子は、女王の高笑いが響く中、人間の本物の悪意というものを体と魂に叩き込まれた。
アンセルにとってその晩の出来事は、地獄の始まりに過ぎなかった
絶対的暴君を前に、救いの手を差し伸べてくれる者などいなかった。シャーネがアンセルを愛でている時間は、他の者にとっての束の間の安息になる。
昨日まで女王の寵愛を受けていた男が、翌日には絞首台にぶら下がっていることなど、ゼクセの宮殿では日常茶飯事だった。誰もが気まぐれで残酷な女王に媚びへつらい、息を殺すように生きていた。
地獄が日常となれば、人の精神は驚くべき順応性を見せるもので、許しを乞うため人前で泣きわめくことにも、屈辱的な行為に従うことにも、やがてためらいはなくなった。
暴力と虐待の恐怖によりアンセルの髪の色はあせ、いつの間にか真っ白になっていた。シャーネは自分の手により変わっていくアンセルの姿をことのほか喜んだ。ゼクセ語で『不毛の凍土』を意味する名を与えられたのもその頃だった。
祖国に忠誠を誓った誇り高き王子を、清らかな道徳心と信仰心を抱く神官を、そして妻との間に深い愛情を育んだ夫を、『アンセル』という人間を作り上げてきた尊厳を、シャーネは一つ一つ丁寧に踏みにじり汚していった。
アンセルはいつの頃からか、飛び降りられる高所や、喉を突ける鋭利な物を無意識に目で追うようになっていた。それでも自害を実行しようとしなかったのは、エルカとの約束があったからだ。
いつか必ず再会すると、別れの時に二人で誓った。シャーネという闇に囚われても、エルカが灯した光はまだかすかな輝きを保っていた。――必ず愛する人の元へ戻る。その希望だけが、かろうじてアンセルを生者の世界に繋ぎ止めてくれた。
しかし思いもよらぬことは何度でもあるもので、後宮に入って一年後、アンセルはわずかな安息を得ることになる。――それがさらに続く大いなる地獄の入り口とは、そのときは知るはずもなかった。
シャーネが懐妊し女児を産んだ。十四歳で後宮の主となった女王にとって初めての子だった。そしてその赤子は鮮やかな碧色の瞳をしていた。
女王の後宮に仕える数多の男たちの中でも、同じ色の瞳を持つのはアンセルただ一人だった。最初は「まさか……」と否定したい思いに駆られたが、柔く小さな赤子を前にした瞬間、すべてが洗われるような気持ちになった。
人の悪意を煮詰めたような女と、汚物同然の自分から生まれ落ちたとは信じられない、無垢でか弱い存在。ゼクセで知った初めての『愛』は、アンセルに正気を取り戻させてくれた。
意外なことにシャーネは娘を可愛がっていた。しかしそれは、いかにも彼女らしい身勝手な愛し方だった。
シャーネは小さな王女が歩けるようになると、その身を着飾らせ、民衆に見せびらかすように連れ回すのを好んだ。王女は皮と宝石でできた固い靴を履かされ、せっかく仕立てたドレスが目立たないからと、真冬でもコートを着ることを禁止された。
まだ言葉もつたない娘は、母の期待に懸命に応えようとしたのか、足に血をにじませても寒さに震えても、涙一つ見せず言いつけに従った。王女の負担を軽くするよう懇願するアンセルの言い分など、もちろん通るはずはなかった。
王女は三歳を前にした冬、流行病に倒れた。熱を出す前に、飲まず食わずで夜通し母に連れ回されたせいで体力が落ちていたのだろう、王女の症状は重くあっという間に危篤状態になった。
アンセルはどうか娘のそばで看病をさせてほしいと、シャーネに願い出た。
『わたくしが意図しない傷が、所有物につくのは許せないの』
シャーネはそう冷笑し、アンセルの言葉を一蹴した。
王女の病気は感染すれば顔にあばたが残る病だった。アンセルが娘の元へ行くことも、当然自分が会いに行くこともシャーネは拒んだ。必死で足元に取りすがるアンセルをシャーネは『くどい!』と足蹴にし、兵士に命じて部屋に閉じ込めさせた。
無力に打ちひしがれ、まんじりともせずに夜を明かしたアンセルは、早朝に王女が息を引き取ったことを知らされた。己を形作るものが、また一つ闇に飲まれた。
その日の晩、シャーネはアンセルを寝室に呼びつけた。以前は複数の男を同時に呼びつけることを好んでいたシャーネだが、その頃にはアンセル一人だけを召し出すことが増えていた。
娘の死を静かに悼ませてほしいと、足元に伏して許し乞うアンセルの髪をシャーネはつかみ上げ頬を張った。そしていつものように組み伏せて征服した。抵抗する気力も涙も、とっくに枯れ果てていた。
表情もなく、抜け殻のようにされるがままのアンセルに、さすがに興を削がれたのか、ふとシャーネは面白い遊びを思いついたように告げた。
『そういえば、間者の知らせで良いことを聞いたわ。ロレイアで慶事があったそうよ』
かつての妻の祖国の名にアンセルは動揺した。魂にまで屈辱を刻むため、肉体を支配しながら元妻の名を聞かせるのは、シャーネお気に入りの遊び方だ。だがその日は一層ひどく嫌な予感がした。
アンセルの反応に、気を良くしたシャーネはあざ笑うように告げた。
『エルデリカ王女が恋仲だった男と結婚したんですって! あの女はお前のことなんか、とぉーっくに忘れていたのよ!』
耳障りな笑い声と共に、ただ一つ残されていた最後の光が消えた。アンセルという存在が、完全に闇に飲まれた瞬間だった。
その後のことはあまり記憶がない。おぼろげに耳に残る獣のような咆哮が、自分の叫び声であったと気づいたのは、ずいぶん後のことだった。気づいた時には、花のような美貌の面影もない、顔を赤黒く膨れ上がらせた女の首を両手で絞め続けていた。
『――女王はもう死んでおります。手をお離してください』
アンセルの腕に手を掛けたのは、女王の近衛を務める将軍だった。鍛え上げられた肉体を好むシャーネの命令で、後宮の男たちは彼の下で訓練を受けさせられていた。
『あなた様だけが警戒心の強い女王と二人きりになれた。いつかやり遂げてくださると信じておりました』
将軍は他の夫や妾たちよりも一際厳しくアンセルに接していた。彼が自分に戦い方を教え込んだ理由が初めてわかった。
シャーネはアンセルを虫も殺せぬ男と高をくくっていた。祖国の王子として、愛する妻と共に平穏な一生を送っていれば、目覚めるはずもなかった狂獣を呼び覚ました女王は、皮肉にも己が餌食となったのだ。
『暴君を打ち取ったあなたを民は称えるでしょう。混迷するこの国には『英雄』とその物語が必要なのです。準備は整っております。どうか我らをお導きください』
将軍の言葉に、アンセルは場違いなほど晴れやかな笑みを浮かべ告げた。
『……地獄に堕ちろ』
無垢も愛も希望も、すべてを失った身に残されたのは恨みと怒りだけだった。
どんな目に合わされるか承知で自分を売った祖国も、女王におもねりこの身を苛んだ連中も、幼い姫を見殺しにした宮廷の者たちも、この期に及んで自分をまだ利用しようとする将軍たちも、そして誓いを破り他の男と幸せになったエルカも――全員自分と同じ地獄に堕ちればいい。
困惑する将軍と、無残な亡骸となった女王の前で、アンセルは狂ったように声を上げて笑い続けた。
翌日、アンセルは王城の広場に用意された絞首台の前で、等間隔に揺れる何十体もの影を眺めていた。
『そこまで言うなら恭順の証を示せ』
どうか玉座に、と改めて懇願する将軍にアンセルは命令を下した。恐るべき内容に将軍は反論することなくすぐに動いた。
兵たちに命じ、夜明け前に安眠を貪っていた女王の夫たちや妾たちを寝室から引きずり出すと、何が起きているのか理解も出来ぬ様子で混乱している彼らを外へ引き立てていった。ようやく事態に気づいた数名が、将軍と共に立つアンセルの足元にすがり許しを求めた。
『慈悲を乞うた私の言葉を、ただ一度でも聞き届けたことがあったか?』
その問いに誰一人言葉を返せないまま、表情を絶望に染め、男たちは絞首台へと引きずられて行った。最終的に粛清の対象となったのは、後宮の人員の半分以上だった。忠実に任務を遂行したことを見届けると、将軍と兵士たちを前にアンセルは満足げうなずいた。
『いいだろう。貴公らの望み通り、私がこの国を奪ってやる』
軍部を従え、このゼクセ王国を掌握するのが、復讐への早道なのは明白だった。まずは女王を増長させてきた者たちを一掃し、ゼクセを我が物にする。いずれはムーダやロレイアにも侵攻するつもりだった。
いや、その前に和平交渉を餌にすれば、エルカを引きずり出せるかもしれない。新しい夫から彼女を引き離し、自分と同じ目に合わせてやれば、多少は溜飲が下がるだろうか。レガルドは暗い思惑に口の端を歪めて笑った。
かつてアンセル王子だった者の躯を苗床に、こうしてゼクセ王レガルドという男は誕生した。
※※※※※※※※※※
鮮やかな冬晴れの空が広がるその日、ゼクセ国王レガルドとロレイア王女エルデリカの結婚式が始まろうとしていた。多くの賓客が集まる中、これから新郎新婦は共に聖堂へと入場することになっていた。
驚愕の事実を知ってからの三日間、レガルドの感情は恐ろしくかき乱された。悩み苦しみ続け、そしてある結論を出したとき、心は凪のような静寂で満たされていた。
目の前にいる花嫁は数日前とは違い、今日は純白のベールとドレスを身に着けていた。待機の間にいた侍女や聖職者たちが一度退室し、聖堂へ入場するまでのわずかな時間、花嫁と二人きりになれた。
聖堂へと続く扉の前でレガルドは花嫁へと手を伸ばし、ゆっくりとベールの合わせに差し入れる。予想外の行動に、弾かれたように花嫁は身じろいだ。花嫁の顔をあらわにするのは、本来なら祈祷台の前にたどり着いたあとにすることだ。
目の前の光景に十年近く前の記憶が重なる。今と同じことを祖国の神殿でも行った。あの時、頭から被った垂れ布の中から現れたのは、好奇心に輝く瞳でこちらを見つめる、まだあどけなさを残した愛らしい少女だった。十四歳の少年だった自分は、あの一瞬で恋に落ちた。そして今、当時の面影を残したまま美しく成長したその人を前にしていた。
大きな蜜色の瞳が自分の姿を捉えた瞬間、さらに見開かれた。
「……ア、アン……セル……?」
わななく唇が声にならない声で、かつての名を呼んだ。
「――この国で娘が生まれたんだ。十七の時だった」
あまりにも多くのことがあった。エルカに何から話せばいいかのわからなかった。ふと自然に口をついて出たのは、あの憐れで無垢な存在のことだった。
「三歳を前に亡くなった。私はあの子を守ってあげることができなかった」
その言葉だけで察したことがあったのだろう。エルカの紅く塗られた唇が噛み締められ、蜜色の瞳が水面のように揺らいだ。
「それだけじゃない。とてもあなたには口にできない行為をたくさんしてきた。そして絶望に駆られた私は、妻であった女王をこの手でくびり殺し、その後も憎しみのままに多くの命を奪った」
簒奪した王座を名実共に我が物とするため、ゼクセ中を血で染め上げてきた。特に女王の縁者や彼女に与した者たちは、見せしめのために残虐に処刑した。結局のところ、他者の尊厳と命を弄んだシャーネと、あれほど憎んだ存在と同じ場所に自らの身を堕としたのだ。
「私はあなたまで同じ地獄に堕とそうと画策した。あなたが愛した善良で優しいだけの少年は、もうこの世のどこにも存在しない。今あなたの目の前にあるのは、かつてアンセルだった者の遺骸――人の悪意と欲望で醜く汚れた肉塊だ」
エルカの頬にゆっくりと右手を添えた。本来なら自分は彼女に触れることすら許されほど汚れている。だからこれが最後だ――そう心の中で言い訳しながら、ついに蜜色の瞳からあふれ出した涙を親指の先でぬぐった。
「私には王として事を始めてしまった責任がある。きっとこの先もろくな人生にはならないだろう。そんなものに、あなたを付き合わせるわけにはいかない。……最後まで決心がつかなくてすまなかった。どうかすぐにこの場から立ち去ってロレイアに帰るんだ。すべての責は私が負う」
心の整理をつけるまで時間はかかったが、エルカを元の平穏な世界に戻す決断ができた。この先も続く無様な人生の中で、それはきっとただ一つの誇りになるだろう。
ふいにエルカが視線を上げた。涙をたたえたまま光を放つ瞳に目を奪われる。それはどんな宝玉よりも強く美しい輝きだった。
「見くびらないで!」
闇をも打ち消す、苛烈な光に圧倒される。
「私は夫を取り戻しにここまで来たの! あなたが何を言ったって、私は絶対にアンセルのことを諦めないっ!」
「エルカ……」
「私はバカだわ。何も知らなかった……アンセルがそんな目にあっているなんて思いもせずに、能天気に暮らしていた……」
微笑んで、緩く首を振った。
「よかったんだよ、それで」
――この地獄に堕ちたのが、大切なあの人ではなく自分でよかった。
シャーネや男たちの欲望のはけ口として利用される最中、そう思いを馳せることだけが唯一の救いだった。
自分と離れ離れになろうと、悲しみに打ちひしがれたとしても、エルカならやがて輝く笑みを取り戻し、前を向いて生きていてくれるという確信は、死の誘惑にかられる夜を幾度も超えさせてくれた。……そんな大切なことすら、闇に飲まれた自分はずっと忘れていたのだ。
そして先日の、ただ一時の顔すら見ない再会の中で、エルカは自分の中に巣くっていた暗い復讐心をかき消してしまった。やはり彼女はあの頃とまるで変らぬ、影をも打ち消す真夏の太陽のような存在だった。きっと遠く離れた場所にあっても、彼女の光は自分を照らし続けるだろう。それだけでもう十分だった。
コツコツと、控えの間の扉をノックする音が響いた。エルカがさっとベールを元に戻す。入場の時間が来たことを告げ、聖職者が去って行った。
「……エルカ、もう行くんだ。時間がない」
エルカは黙したまま聖堂へと続く大扉に向き直ると、自分の腕を取って寄り添った。
「エルカ!」
「私はバカで身勝手だから、あなたがいくら『アンセルじゃない』と言い張ったって、これっぽっちも理解できないし、してあげる気もないの! だってそんなことを言って私を守ろうとするあなたは、あの頃と何も変わらないアンセルその人でしかないもの!」
強い意志を伝えるように、彼女の細い指先が食い込むほど力が込められた。エルカはベール越しに前を見据え、足を歩み出そうとしている。――自分と共に行く道を迷うことなく、ただ真っ直ぐに。
ぱたり、と水滴が床を鳴らした。
「……あ」
自分の頬を濡らす温いものが、とうに枯れ果てたと思っていた涙だとしばらく気づくことができなかった。
ゆっくりと大扉が開き始める。あわてて目元を拭うと、エルカと共に前を向いた。
「さあ、行きましょう」
ベールの向こうで、きっと勝気な笑みを浮かべているであろう妻に向かって、今度こそうなずいて見せた。
扉が開け放たれると、聖堂の中は天窓から降り注ぐ光にあふれていた。まるですべてを浄化するような清い光に目を細める。エルカと並び、ゆっくりと光の中へと足を踏み出した。
長い月日を超えて、アンセルはようやく自分の居るべき場所へと帰還した。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
少しでも気に入っていただけた方は、下部☆☆☆☆☆のタップをいただけるとうれしいです。ブックマークや感想、拍手も大変励みになりますので、どうぞよろしくお願いいたします。
2025年2月3日訂正、追記
長編小説『監禁公と囚われたい私の契約結婚』の連載を始めました。こちらもご覧いただければうれしいです。